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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:仏弟子とは生きながらに畜生道に落ちた人々を指しているのではないか。)
仏弟子とは生きながらに畜生道に落ちた人々を指しているのではないか。
このQ&Aのポイント
- 仏弟子とは生きながらに畜生道に落ちた人々を指しているのではないか。
- お釈迦様の生きた時代とは、農耕が勃興し文明が開花しつつある時代です。その時代に置いて生きる事すなわち耕す事とは、来年のために種を残すこと。すなわち、自らが生きるために自然界と共生する事です。無を離れ愛の感想を述べましょう。
- 地を耕し命をはぐくむことは、自らが生きるために他者おも生かす事です。収穫は共同体の中で平等に分配され、翌年を種がまかれ命をはぐくむための共生が行われます。
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質問者が選んだベストアンサー
僕なりに思ったことを書いてみますね^^ 中部経典21「ノコギリのたとえ」にて 極悪人に手足を切られても怒らないようにしなくてはならない 機嫌を悪くしたり、怒ることは仏弟子としてふさわしくない 日々怒りの制御・慈しみの育成に励まねば仏弟子とはいえない。 ととれる、箇所があると思います。 この実践にはヴィパッサナー(観)修習が付き添っていくものと思います。 不放逸の一つでもいいと言うこともあった気もします^^ 当時のバラモンの定義を、こういうことをバラモンと言うのだと示したものと思われるものの一つに 「慈経」もありますね。 常にいつくしみの心でいること、→悟りまで語るものですね^^ これもヴィパッサナーが付き添うものと思います。 なので僕もありのままにみる(ヴィパッサナー)修習なくして、 仏弟子にふさわしくなることは出来ないとおもいます。 ほんとの意味での出家は、怒りがなくなる不還果からと思ってます。 比丘も在家もそこを目指してこそ・・・ なんて思ってます。 怒りを制御しない・慈しみを育まない・気付きを育まない人は 仏弟子・仏教徒とはいえないように思います。 ちょっと気になったのはたとえ話でしょうかw お笑いのつもりでもなく(←これ重要^^)、裸で踊るお笑芸人(ボケ)は悟っていない生命でしょう。 お釈迦様はどちらかと言うとその本人無意識のボケに「何でやねん!~やろ!」 と突っ込むツッコミだと思いますw