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我は有る。この事は動かし難い。(仕切りなおし)
前回質問。↓これと完全に同一趣旨です。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5606505.html 前回の質問では質疑応答が変態SMプレイ発表会みたいになってしまい、世の中には辱めてしかるべき団体さんがいるのだなと、学ぶのみでした。 改めて掲載します。 我は有る。この事は動かし難い。 仏教での宗教的な無の観念の内訳は、無いものは無いと明らかにする事。 無いものをそれ以上、探さない、求めない、実は有るのではないかと疑わない。 無いものとは煩悩である。 生きる行為が煩悩と離れきれなかった過去においては、我とはすなわち煩悩であり、したがって我は無いとも言いえたのかもしれない。 しかしこれは、はるか昔のインド社会に身を置いたお釈迦様の口癖でしかない。 実のところこのような無に確定なり悟りは、煩悩を滅却して強い生きる事の実感をもたらし、よって我はある事が動かしがたい状態になる。このような実感を備えた状態での我とはケンケンガクガクの論議がある自我ではない。我の所在を求めるとブラフマンに行きつく。ブラフマンとはインドの哲学の源流に現れる神の名である。生活日常に現代でも色濃く仏教文化の片鱗を残す日本社会では、仏教を突き抜けて我の所在をブラフマンに当てはめることで存在は揺るぎないものとなる。 そもそも無の悟りと言われる状態を、判りやすい現代哲学に翻訳すると、完全非思考と言う言葉が当てはまる。完全非思考をお釈迦様の無の口癖に当てはめると、彼は全てを信仰のままに生きたのであろうと推測できる。最も大切な「神」と言う言葉すらも非思考に預け、口にしなかった。その人間として理想的な信仰形態なり思考方法が仏である。 思索の完成度を上げてより簡潔に表現することと、この作文からさらに思索を進展させるためのご批評をお願いします。 宗教のくくりならばあまり聞いたことのない独創性もあると思いますが、宗教の内側からのご批評とは、私には考えもつかない要素なので歓迎します。 なお、私は責任と尊厳ある一個人を無下にはづかしめる趣味は持ち合わせておりません。SMプレイでなく人間の答えをお聞きしたいです。
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ご返答いただきまして、どうもありがとうございます。Hidocchiです。 > 無いものとは煩悩である。 「実態に現れる負の要素を、それのみによって本質ととらえたり、本質に内在する性質ととらえたりするならば、そこには煩悩に阻まれた感性の濁りがある。」 おそらく表現法だけが問題点で共通しているでしょう。 確かに、仰いますように、合致していると存じます。 > “無を認めない=煩悩”と理解している 私の思索では拒否する感情として感覚的に理解したのみの事柄ですね。 私の感覚では伝心してくる他者の心がけに煩悩に引きずり込まれるような事があります。それは確かに「無を認めない」でありますが「有るを認めない」でもあります。このどちらでもない状態は自らの信仰に目覚めていない状態でもあり、もっとわかりやすく(その人が)自らを誤解しているような状態です。 了解致しました。 > 我の所在を求めると(ヴェーダ聖典におけます)ブラフマン-アートマンに行きつく。 そう言う事なんですね。でも当時のインド社会と絡めたお釈迦様の信仰心の研究ならアートマンも登場しますが、私自身は「我」をブラフマンに当てはめた方が思考がまとまりやすいです。「我」は独我論的「我」で無く自然界と調和してこそ存在する。そんな感じです。 確かに、ブラフマン-アートマンの融合化(同一化)の観点から鑑みますと、ご質問者様のご意見も十分理解できます。 > 最後の御意見に関しては「無常」はそれほど重視しなくてもいいのではないかと考えました。過去の事柄が置き去りにされる苦痛を振りほどく処方箋として娑婆では機能しますが、「時わたり」というESPを引っぱり出している私には論理はそのようには展開できないんです。「時わたり」により確かな信仰心に目覚めた現在より過去を俯瞰して、過去の各現象に立ち会った「我」が我に非ず畜生のごときであったのを、心をもたらすかの如く転生させる。これが輪廻の解消で、観念世界「涅槃」の死の無い世界なのに死んだふりをした、オバケを正気にさせる特技です。このやり方で観念世界を遊泳する限りにおいては「無我」と「無常」はいらないんです。だから「有無を明白にさせる」これ以外の無の観想は私には無いんです。 そうでいらっしゃいますか。 少し論点がずれてしまうのですが、1つだけ、ご意見をお伺いしたく存じます。 「一切のものには我としてとらえられるものはないという考え方を徹底して自己について深め、目に見えるもの見えないものを含めて一切の縁起によって生かされてある現実を生きることを教えている。このような共々に生かされて生きているという自覚の中にこそ、他者に対する慈悲の働きがありうるとする。」 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E6%B3%95%E7%84%A1%E6%88%91 からの引用でございます) つまり、釈尊は、“慈悲”の実践家の側面もあったとも推察しております。これは愚見ではございますが、日々の生活のなかでの実践の役割もまた、重要と考えております。ご質問者様におかれましては、“観念”の他、この“実践”につきまして、どのように解されていらっしゃいますでしょうか。ご意見の程、賜れば幸甚に存じます。 駄文ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。
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- tumaritou1
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そもそも「我は有る。この事は動かし難い」と言う問いとは、自分が自分に仕掛けた問いです。言い換えるなら、あなた自身があなた自身に問いかけた問いと言えます。言い方を替えたなら、貴方が貴方の実存に逆に問いかけられています。 したがってこの答えは、あなた自身が自分で答えを見つける以外には無い問いと言えます。他人の答えは何にもならないという事になります。その答えを探すヒントだけを提供したいと思います、 貴方の疑問は、「心の矛盾」がその大元になっています。貴方が心で自問自答しているどちらも貴方という事になります。矛盾した考え、或いは解消できないほどの隔たりが両者の間には存在するはずです。 この疑問と一つになる時に、貴方はその疑問を根こそぎ氷解出来ます。「意識の根底から」その疑問が出ているはずです。自分の意識の底まで沈むことです。疑問を提出しているものがもう既に答えを用意しています。自分の出した問題に自分が答えるときに自分を知ったと言うことになります。 その時には、2,500年前の釈迦の気持ちが分かります。自分の頭の半分が仏で出来ていたと言う事が、です。その時は、禅の考案が解けるはずです。自我意識が降参した時に、もう一つの意識が顔を見せます。あくまでも自分の心の中を掘り下げる他には今言ったことは、成就できないと思います。もう一つ分かると思います。仏教は宗教ではなくて、究極の癒しの心理学と言った趣があったということ気が付くと思います。人間の生きる意味も分かると思うからです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 私はIDの一時停止をくらってしまった前科者なので今後はお礼も慎重に記したいと思います。 ありがとうございます。 それのみです。
こんばんは、Hidocchiです。 実を申しますと、自分でも明確なる回答は持っていないのですが、”対話”を通して、何らかのお役に立てればと思い、筆をとらせて頂きました。 > 仏教での宗教的な無の観念の内訳は、無いものは無いと明らかにする事。無いものをそれ以上、探さない、求めない、実は有るのではないかと疑わない。 意見を等しく致します。 > 無いものとは煩悩である。 愚見ではございますが、「実体性のあるものが、実は有るのではないか」、と探し求めることが煩悩と思うのですが、いかがでしょうか。 生きる行為が煩悩と離れきれなかった過去においては、我とはすなわち煩悩であり、したがって我は無いとも言いえたのかもしれない。 結論「我は無いとも言いえたのかもしれない」となりますと、既に“悟り”の境地に達してしまったような観がございます。primeape様におかれましては、既にその境地に達せられたかもしれません。ですが、“無を認めない=煩悩”と理解している愚生としましては、幾分疑問が残る言葉でございます。 実のところこのような無に確定なり悟りは、煩悩を滅却して強い生きる事の実感をもたらし、よって我はある事が動かしがたい状態になる。 > 我の所在を求めると(ヴェーダ聖典におけます)ブラフマン-アートマンに行きつく。 勝手ながら、加筆させていただきました。上記ご意見ですと、賛同致します。 > そもそも無の悟りと言われる状態を、判りやすい現代哲学に翻訳すると、完全非思考と言う言葉が当てはまる。完全非思考をお釈迦様の無の口癖に当てはめると、彼は全てを信仰のままに生きたのであろうと推測できる。最も大切な「神」と言う言葉すらも非思考に預け、口にしなかった。その人間として理想的な信仰形態なり思考方法が仏である。 基本的に、同意見でございます。 「我は有る。」-釈尊(仏教)におけます“存在論”について、愚見を述べたく存じます。 一般には、デカルトによる「我思う、故に、我あり」、つまり、かような文章を考えている(“思う”)モノは存在している。つまり、“思う”という行為が在る以上は、その“思う”行為者(我)も存在する。という一種の存在論も西洋哲学にはございました。つまり、仮想世界かどこにいるのかは不明ですが、現実世界といわれるこの世に、我は確かに存在しているということでございます。 一方、仏教の方でございますが、釈尊も我という存在自体は認めていると考えています。“無常”、“無我”なる言葉は仏教の根幹を成す言葉かと存じます。この“無常”という言葉におきましても、主体が存在するという前提の上に立っていると思われます。ただ、その主体なるものは絶えず変化し続け(無常)、“実体”なるもの・“本質”なるものは否定しているのかと考えています。 ご参考になれば、幸いでございます。
補足
ご回答ありがとうございます。 今回の作文は論理としてみると検証が足りないようですね。 >> 無いものとは煩悩である。 >愚見ではございますが、「実体性のあるものが、実は有るのではないか」、と探し求めることが煩悩と思うのですが、いかがでしょうか。 ここでの無いものとは煩悩であるとはかなり乱暴な言い回しなんです。 「実体性のあるものが、実は有るのではないか」 この言い回しを以下のように解釈すれば意見は同一です。 「実態に現れる負の要素を、それのみによって本質ととらえたり、本質に内在する性質ととらえたりするならば、そこには煩悩に阻まれた感性の濁りがある。」 おそらく表現法だけが問題点で共通しているでしょう。 >、“無を認めない=煩悩”と理解している 私の思索では拒否する感情として感覚的に理解したのみの事柄ですね。 私の感覚では伝心してくる他者の心がけに煩悩に引きずり込まれるような事があります。それは確かに「無を認めない」でありますが「有るを認めない」でもあります。このどちらでもない状態は自らの信仰に目覚めていない状態でもあり、もっとわかりやすく(その人が)自らを誤解しているような状態です。 > 我の所在を求めると(ヴェーダ聖典におけます)ブラフマン-アートマンに行きつく。 そう言う事なんですね。でも当時のインド社会と絡めたお釈迦様の信仰心の研究ならアートマンも登場しますが、私自身は「我」をブラフマンに当てはめた方が思考がまとまりやすいです。「我」は独我論的「我」で無く自然界と調和してこそ存在する。そんな感じです。 最後の御意見に関しては「無常」はそれほど重視しなくてもいいのではないかと考えました。過去の事柄が置き去りにされる苦痛を振りほどく処方箋として娑婆では機能しますが、「時わたり」というESPを引っぱり出している私には論理はそのようには展開できないんです。「時わたり」により確かな信仰心に目覚めた現在より過去を俯瞰して、過去の各現象に立ち会った「我」が我に非ず畜生のごときであったのを、心をもたらすかの如く転生させる。これが輪廻の解消で、観念世界「涅槃」の死の無い世界なのに死んだふりをした、オバケを正気にさせる特技です。このやり方で観念世界を遊泳する限りにおいては「無我」と「無常」はいらないんです。だから「有無を明白にさせる」これ以外の無の観想は私には無いんです。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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意味がよく分からないのですが わたしなりに交通整理してみます。というお応えをここにも張ります。 1. 神を立てる場合それは なぞであると言っておくと分かりやすいのではないでしょうか。 2. なぞをいろんなふうに表現することを人びとは行なってきた。 3. 見えるものでたとえて言う場合 太陽が多かったでしょうね。または 火でしょうか。その系譜に アマテラスオホミ神があります。神話では その子孫が 人間となってアマクダリしてきます。 4. 《我=アートマン》は 人間存在について言っているはずです。その《たましい》を言うとしてもです。宇宙のほうの霊魂は ブラフマンですから。 5. 《我=アートマンは無い》という説は ブラフマンと一体でもはや何ものからも影響を受けず独立して存在するという場合の《我》は無いと言うのだと思います。 6. 《我は有る》というのは そのように《何によっても影響を受けずひとり存在するもの》は無いと見ている《わたし》という存在は――限りあるものながら――有る。と言っているものと思われます。 7. 同じことで言いかえると 《諸法無我=すべての現象も存在も 自存する実体としての我は無い》と見ている人間つまりわたしは いま・ここにいる。というとき ブッダが言ったことは《無我》ではなく《非我》だという説です。 8. これらすべてなぞの何ものかのもとに そして人間としては非思考という状態のもとに 世界として起きていることだと知る存在は 人間でありわたしであり そこには自由があるらしい。そこには束縛はないとひとは思っている。非思考ということが 信教の自由を意味すると思われます。 9. 同時にこの自由をそのなぞの何者かからのめぐみとして受け取る人間は そこに心の明けもしくは伸びとして 良心をもつと思っているらしい。 10. そうして この信教・良心の自由から発して 一般に表現行為の自由を 人間は――けっきょく何の根拠もなく=つまり なぞとしての無根拠によって――公理として主張しうたっている。 11. この自由のもとに共生するものと思っている。 12. 自由のもとに共生するということは その自由に 答責性をともなうということを意味する。説明責任を最後まで果たさなければならない。
お礼
ありがとうございます。 考えをまとめやすくなります。
お礼
ご回答ありがとうございます。 喧嘩が過ぎてIDの一時停止がされていました。審査の合格できたので質問再開です。 誰か他者の信仰心を代弁することはできない。 このようにわきまえていますが、お釈迦様の生きた時代に思いをはせてみます。 当時インドは世界に中で文明先進地域だったでしょうが、安定した農耕を営むにあたって苦悩はあったと思います。 地を耕し命をはぐくむことは、自らが生きるために他者おも生かす事です。収穫は共同体の中で平等に分配され、翌年を種がまかれ命をはぐくむための共生が行われます。 ここまでの私の見解には現代ですら異論が挟まります。 他者の命を奪う事でしか命をつなぐことはできない。 このような異論に阻まれたなら、私はそのままほっときます。 慈悲は無しです。 それからこの私の農耕に関する見解は愛に基づく見解です。 全てを非思考に預け切った無の観想からはこのような生きるための知恵は生まれません。 お釈迦様がやりそうな事に思いをはせると、(バラモンかもしれませんが) はぐくんだ命を収奪するから輪廻に巻き込まれるのだ。 業ある故であり苦を甘受して生きるよりない。 バラモンはこんな脅しのみだったでしょうが、お釈迦様はそれを「そんなもんありゃしねー」と、無の観想でふっ飛ばしています。 おととしでしたか「そんなのかんけーねー」と裸踊りをしたお笑い芸人がいましたがふっ飛ばし方は似たようなもんです。 私はこのような場合「ほっとく」と言いましたが、そうすると非思考において時わたり発動です。 お釈迦様は「無」を語り慈悲でいさめました。 「ほっとく」と「いさめる」の共通項は唯一、(その)対象がある、要するに自ら以外への働きかけであると言う事です。 縁起が流れとして手に取るようにわかるとこのように働き掛けが関係性を維持修復するために図られます。これらは本来非思考です。
補足
時わたりに関して一度はっきりさせておきます。 輪廻の話よりです。 過去世、現世、来世、問われるのは生き様で無くあくまでも世です。 執着の多きものはあくまでも、過去生、現生、来生、を求めます。 そんなもんありません。ばかげた話です。 この場合現生すら幻となり、よって無の観想が必要になります。 幻の現生にさまよう者は、現実世界で生きている実感を味わうもので無く、観念上の娑婆世界で悪夢を見ながら徘徊する亡者です。 娑婆世界は幻です。 創始者自らがそんなもんありゃしねーと言っているじゃありませんか。 ここで話が戻り「世」を問う事について話しますが、いわゆる空観になじみ、縁起が忠実に判るようになると、実質的に時わたりが出来ます。 アラーヤ識の検証で記憶の持つ性質について、私はやったんですが、観念世界には未来の記憶すらも眠っており、それらの記憶は検索可能です。 これはポケモンマニアならではの説明で、私固有のESPと言う事になりますが、しっかりとした説明ができるようになりたいものです。