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日露戦争の要点まとめ
- 日露戦争での不凍港の重要性や、凍港の様子を確認できるサイトについて教えてください。
- 日露戦争の最初の衝突やきっかけについて教えてください。
- バルチック艦隊が到着までにかかる時間と、日本が事前に察知していたかについて教えてください。
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1 不凍港について 厳密には海が凍る、ではなく流氷などによって凍ったような状態です。歴史の本で知る限りは、海氷による不能化した港圏だけのようです。 厳密には問題がありますが、下URL画像が想像しやすい事例でしょう。 http://www.mapple.net/photos/H0000094203.htm 2 初期衝突 実は日露戦争については、宣戦布告もないので、”戦争観”によってその範囲が異なります。一般的には宣戦布告以後の衝突を戦争の初期状態と考える基準になりますので 比較的精査された資料のサイトだけ紹介しておきます http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai2/kindai-nitiro4.html 3 バルチック艦隊の早期警戒 上記サイトの下URLを参照されることをお奨めします http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai2/kindai-nitiro6.html なお、”事前に予見していた”という歴史観は支配的ではありませんが、ロシア側の増派発表などから来るのは分かっていましたし、イギリスの協力体制によってほぼ無力化されたと評価する歴史観も多いようです。 ちなみに、私は、バルチック艦隊が優秀だと思っていませんので、イギリスの後方かく乱による無力化が日本海海戦の80%勝因だと思っています。 4 バルチック艦隊の派遣時期 おおよそ戦争当初は派遣を見込んでいません。バルチック艦隊は領海内の海を想定している。 艦隊編成は対応策的なものであって、艦隊に含まれた艦船は完全に外洋戦闘を規格外¥していない
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- eroero1919
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後半部分についてですが、日本海軍が(というより日本政府全体がですが)何より恐れていたのがバルチック艦隊でした。というのも、ロシアのウラジオストック艦隊の軍艦が日本近海にしばしば出没し日本の商船に通商破壊戦を行いこれにかなりの被害を受けていた上、旅順艦隊封鎖への対応で日本海軍はウラジオ艦隊になす術がなくやられっぱなしでかなり頭を痛めていました。 もしここにバルチック艦隊が合流したら文字通り日本はお手上げでした。 バルチック艦隊は文字通りバルト海のロシアが誇る主力艦隊で、延々と大西洋を渡りインド洋を横切りウラジオストックを目指していました。日本海軍としては、長期航海で疲れ果てたところを捕捉して決戦を強要しないといけませんでした。 そのため日本政府はありとあらゆる手を打ちます。まず、当時は日英同盟でしたのでイギリス関係の港などの施設は一切使わせませんでした。当時イギリスは世界の海を支配していたのでこれはロシア艦隊にとっては非常にキツいものでした。また、ひょっとしたらイギリスが日本側に立って戦争に参戦してくるかもしれません。そうなれば、バルチック艦隊は本国から遠く離れたところで孤立し、しかも当時世界最強のイギリス艦隊とも戦わなければならないという大変な精神的プレッシャーをバルチック艦隊の将兵に強いました。 そのせいで、バルチック艦隊は北海でイギリスの漁船を日本軍の水雷艇と見間違えて撃沈してしまいました。そのためロシアは莫大な慰謝料をイギリス政府に支払わされたのですが、これは当のバルチック艦隊の将兵にも大変なストレスだったことが容易に想像できます。 また港に立ち寄れなかったバルチック艦隊は当時親ロシアだったフランス領インドシナ、つまりベトナム沖でようやく石炭の補充が行えました。しかしこの頃には各艦の船体にはかなりフジツボがついており、速力に影響を与えていました。長い洋上生活、しかも北育ちのロシア人にインド洋の暑さはかなりこたえたことでしょう。このとき、既にかなりバルチック艦隊の水兵の士気は下がっていたようです。 一方、当時日本海軍は最新の科学テクノロジーを惜しげもなく投入します。まず当時非常に高価だった無線機を購入して哨戒艦に乗せました。そのうちの一隻が後にバルチック艦隊を発見して報告をしたのです。 また当時の日本が取り入れた最新の科学テクノロジーが他ならぬ「天気予報」です。日本国内はもちろん、上海や台湾などの中国各地に観測員を派遣し気象データを集めて天気予報を行いました。その結果があの「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」につながるのです(しかもその天気予報は正確に気象を予測しました。当時の技術を考えると予報官の能力は極めて優秀だったというべきでしょう)。
- at9_am
- ベストアンサー率40% (1540/3760)
> 1 不凍港がポイントにでてきますが、港が凍るってことが私には想像できません 多分、この写真が一番分かりやすいかな? http://plaza.rakuten.co.jp/kipsy/diary/200602010000/ この雪原、全部下は海です。 > 2 最初の衝突って何処でどのように始まったのですか?真珠湾攻撃的な出来事とかあるんですか? 1904年の旅順攻撃です。 > 実は日露戦争については、宣戦布告もない これは結構見られる誤解なのですが、期限がない(つまり即時発効の)最後通牒が2日前になされています(宣戦布告の代わり)から、先制攻撃ではありません。国際法上、最後通牒の日から戦争が開始されたと解されます。 また、宣戦布告もなされています(旅順攻撃後ですが)。 http://www.jacar.go.jp/nichiro/frame1.htm > 3 バルチック艦隊は何カ月もかかってやってくるわけなんですよね?これは日本は事前に察知していたのですか? 完全に察知していました。 7か月ほどですが、まずトルコが親日的であったので黒海からの出口でバレています。その後、スエズ運河は通れないのでアフリカを回りますが、フランスから石炭を買う際にもバレていますし、香港近くでもバレています。 最終的には、すぐ近くから電報まで打たれています。 > 4 バルチック艦隊は戦争が始まってから出発したのですか? 2月に開戦し、出港は10月ですから、始まってから半年以上たってからです。
- k16399638
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港が凍るのはまだいいのですが、そこにいる艦隊を運用するために、砕氷船などの余計な負担がかかるのです。日露戦争のときはなんとかなったのですが、それも警報のあとで軍艦が発進しまるで12時間、というのは困ります。 仁川で、千代田とワリヤーグが開戦ギリギリまでにらみあって、千代田が味方艦隊と合流することに成功し、仁川海戦で日本は勝利し、なによりもたいせつな陸軍部隊の揚陸をスムースにする道を開きました。 戦争がはじまってから編成され、第二太平洋艦隊として、極東に発進しています。本来は、旅順に引きこもっている、わりと新しい戦艦部隊と合流して、日本側をコテンパンにするつせりでした。だから、旅順にこもっている艦隊をバルチック艦隊が来る前にしずめようと、日本陸軍は多大な努力をはらったわけです。
- yuki-fuyu
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歴史を自ら学ぼうとする意欲は認めますが、 日露戦争は検索すれば情報がたくさん出てきます。 まずは検索してみてください。 日露戦争Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E6%88%A6%E4%BA%89 日露戦争特別展 http://www.jacar.go.jp/nichiro/frame1.htm 満州とロシア(凍結港の写真があります) http://www.d1.dion.ne.jp/~kalinka/china/yomoyama/history/russia.htm 個人的な意見で質問の内容とは話が違ってしまいますが、 日本の歴史教育は近代が年度末となり、 まともな教育が行われているとは思えません。 時間を見つけて自ら歴史を学ぶということはいい事だと思います。
1.参照URLにあるサイトをご覧ください。 「2」以下は、図書館で日露戦争に触れた本の一読をお勧めします(なお、個人的には、児島襄著「日露戦争」を勧めますが、ご質問程度であれば、日露戦争に触れた大概の本に書かれていると思います)が、一応の回答を記入します。 2.仁川沖海戦と、旅順港のロシア艦隊への奇襲が最初の武力衝突のようですね。ちなみにハーグ陸戦条約(1912年)の前ですので、真珠湾攻撃とは別に考えるべき出来事です。 3.いつ察知したかは不明ですが、同艦隊は欧州航行中にも事故を起こしていますので、新聞記事等でも情報入手は可能だったでしょう。 4.戦争開始後です。バルチック艦隊出航の約2ヶ月前に黄海海戦が行われています。