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わたしは賢人であり専門家である。
わたしは賢人であり専門家である。 魯鈍者を錯誤させるものは一体何か?
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- putoremaiosu777
- ベストアンサー率11% (2/17)
賢人なら、釈迦に説法だから、質問する必要がないのでは。
- ENERGAIA
- ベストアンサー率9% (5/53)
自分で言うなんて凄い自信ですね。 質問については解りません。魯鈍者とはなんでしょうか。 しかし、賢人であり、専門家であれば自ずと解ると思うんだけど?
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 質問趣旨は つぎのように読めばよろしいでしょうか? ★ わたしは魯鈍者であるが それなのに《賢人であり専門家である》と思うことがある。思っている。思い続けている。そしてそのことに気がつかない。これは一体どうしてか? ☆ (1) まづ《専門家である》ことは 一般的に分かるような基準があるはずです。 ですから その基準を知らずに自分は専門家であると言っているとするなら よほどのことなのでしょう。例外的な事態であって 個々に扱う必要があると考えます。(ここでは 扱いがたいでしょう)。 (2) 次に 《賢人と魯鈍者》とは 究極においては 大した差はありません。どんぐりの背比べです。 (2‐1) ですから 相対的なものなのだから 大目に見ればよいと考えて それほど不都合はないはずです。 (2‐2) ですから 先の者があとになり 後の者が先になると捉えるのも 一法かと考えます。 (2‐3) もしくは その魯鈍な本人の中で 賢人ぶった場合の表現内容にやがて近づけばよい こう思って精進すればよいのではないでしょうか?。 (3) あやまつならば われあり。《錯誤》は ひとのつねです。つねに前向きにその間(ま)の違いを埋めていけばよろしいというふうに 互いに認め合っていくというのは どうでしょうか? 甘いですか?
なんなんでしょうねえ。 こうやって時には反省の機会をいただくことで、お互いに進歩はあるだろうと信じます。 ありがとうございました。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
私も頂いた回答を、正しいものと存じてきましたが。 そういうのもあるんですが、そうでないものもあることが気付きました。 インターネットでもそうですし、出版した本でも、授業でも、新聞でも内容を見分けるのは難しい。 仕方のないことですね。 そうやって、人間の歴史が書かれてきたのでしょうか?
傲慢、驕り高ぶりです。
目の前の事に素直に向き合えない心の引っ掛かりとか、ふさぐもの、とでも言うのでしょうか。 あくまで自分の事を見て言うんですが、色々勝手な考えとか、妄想をするじゃないですか。 目の前の出来事を正直に受け止められないと。 何故目の前の事、ほんとのこと、うそつけないことを正直に受け止められないのか、そんな理由なんて、ほんとは無いっていうかね。錯覚って言うんですか。あると思っていると言うか。 そんなところですか。 個人的意見で申し訳ないですが。
- tumaritou1
- ベストアンサー率28% (260/913)
それは、思い込みだと思います。専門家になって、分かれば分るほど『分らないものの方が増えるはずです。』勉強が出来れば出来るほど『自分はバカ』と思うようになるからです。『自分は誰よりも出来る』と思っている内は、未だ出来ない人という事になります。
- Carbadoc
- ベストアンサー率19% (144/750)
人間の想像力だと思う。 自分の中に「賢人」や「専門家」のイメージがあり、「わたしは賢人であり専門家である」と聞いただけで、そのイメージに照らし合わせた「賢人で専門家」を勝手に作り上げてしまう。 「わたしは賢人であり専門家である」と聞き、何の賢人なのか、何の専門家なのか、また、それが、人として、社会として、どうなのよ?というところでストップが効く人は、少ないと思う。
- konoha_0224 ヤフー(@konoha0224)
- ベストアンサー率32% (271/842)
お幸せに・・・
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