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三国志の竹林七賢人について
こんにちは。 タイトル通りですが、三国志の竹林七賢人についてです。 この七人の名前とどんな人なのかをご存じの方、教えてください。 当方、三国志はさっぱりなのですが、ちょっと七賢人に興味あります。 よろしくお願いします。
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竹林七賢者とは、三国末期から西晋初期頃 清談をした七人のこと。 さて、清談とは、もともとは、人物を評する清議から始まってる。 その後、政治的言論に発達していったが、魏王朝が政治的発言に弾圧を加えていったことから、 哲学的言論に変わっていた。 主に老荘思想がテーマとなり、お互いに論理を発言しあい、勝負をしていた。 以下、人物については「正史・三国志」等により調べたこと。 山濤(さんとう) 字:巨源(きょげん) 生没年:205~283 晋の名士。選曹郎になったとき、自分のかわりに康を推挙したが、康は返書を出して拒絶している。 阮籍(げんせき) 字:嗣宗(しそう) 生没年:210~263 礼儀作法や風習風俗にこだわらない人物。 酒好きで、歩兵校尉の麾下に、酒造りの名人がいると聞くと、 酒を飲みたいだけに歩兵校尉の官になることを望んだ。 念願の校尉になると、思いのままに酒を飲んだ。 阮籍は、人の欠点を言うことがなかったので、自然と人々には慕われたらしい。 だが、礼儀作法のうるさい者たちには、目の敵にされた。 そのたび、司馬昭が彼をかばい続けたたという。 康(けいこう) 字:叔夜(しゅくや) 生没年:223~262 魏末期の詩人であり、思想家。 優れた才能をもち、自由闊達で高尚で性情の赴くままに行動し、評判を気にしなかったという。 特に呂安と親交を結び、鍛冶仕事を趣味とし、神仙に憧憬を抱いた。 その呂安が無実の罪をきせられて投獄されたとき、弁護を買って出たが、 康を恨む者の進言によって、呂安とともに司馬昭に殺された。 王戎(おうじゅう) 字:濬沖(しゅんちゅう) 生没年:234~305 幼い頃から、大人顔負けの聡明さを示し、恵帝の時代には司徒となった。 しかし、政務には関心がなくひたすら利殖に邁進し、そのケチぶりは有名であった。 劉伶(りゅうれい) 字:伯倫(はくりん) 生没年?~? 詳細不明 向秀(しょうゆう) 字:子期(しき) 生没年:227?~272 晋の名士。 康・呂安と特に親交を結んだ。老荘研究に力を注ぎ、「荘子」に注を施した。 康・呂安が処刑された後、二人の感懐を「思旧賦」という賦に詠んだ。 阮咸(げんかん) 字:仲容(ちゅうよう) 生没年:?~? 阮籍の兄の子。阮籍とふたりで「大小阮」と呼ばれた。 魏末、司馬氏の専権をふるっている間、自分の身を守るためか放縦な生活を送った。 音楽に精通し、琵琶を好んだ。
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- pangnya
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竹林七賢人は三国志とは関係なかったような気がしますが・・・。 中国の3世紀半頃に清談(せいだん)を論じた7人の賢者を指すようです。 阮籍、ショウ国、ケイ康、山濤、劉伶、阮咸、向秀の7人と言われています。 ちなみに、清談というのは、中国の魏晋時代に流行った哲学論のことです。 ※この7人が竹林に集まって、討論をしたとされていますが、実際の証拠は無いようです。
お礼
お礼が遅くなりまして申し訳ありません。 参考にさせていただきます。 ありがとうございました!
- Ren-Ks
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下記サイトで簡単な解説がされています。
お礼
お礼が遅くなりました。 お調べくださってありがとうございます。 参考にさせていただきますね!
お礼
大変細かく調べていただき、恐縮です。 とっても参考になりました。 何で調べてもここまで出てこなかったです。 本当にありがとうございました!