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なぜ秀吉は兵農分離政策を確定して農民と武士を分ける必要があったのでしょ

なぜ秀吉は兵農分離政策を確定して農民と武士を分ける必要があったのでしょうか? なにか利があったんですか?? 理由を教えてください!

みんなの回答

回答No.8

1.兵農分離とは、専属軍を創る発明であり、織田信長公の発明です。 以上でございます。。

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回答No.7

ごく簡単に言えば「中世」における"自力救済"を禁じて、全国統一政権での国内の平和を目指したのだとおもいます。(それを完成させたのが徳川政権ですが) そういう意味では通俗的な秀吉像は、肝心なところが抜け落ちて"出世"だけに関心が集まり、あまりよくない事だと思います。

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  • fumkum
  • ベストアンサー率66% (504/763)
回答No.6

兵農分離に関係する法令等は、太閤検地、刀狩令、人掃令(天正19年と文禄1年の2度)の3件が関連しますが、兵農分離が主目的ではなく、兵農分離は副次的なものと考えられています。特に、人掃令は朝鮮出兵に動員できる人数の確定と、年貢負担能力を明らかにすることが主目的で、結果的に兵農分離がすすみ、身分を固定させる身分統制令の働きを持つことになったとされています。 検地については戦国大名も実施しています。信長を含めて検地の形式は「指田」方式で、自己申告方式です。しかし、信長が収穫高を指出させ、その収穫高をもとに年貢高に定めたのに比べ、他の大名は年貢高のみを把握していたことと寺社の指出は原則させていないなどの違いはあります。自己申告なので申請する側が少なめに申告することもあり、例えば奈良の興福寺は信長時代の指出検地時と太閤検地時では1万石以上の違ったことで大問題になっています。 さて、太閤検地はこれらの方式ではなく、実際に土地を計測し、土地の等級を定め、土地の生産高を石高として把握し、それに基づいて課税するためのもので、それにより全国の生産高・年貢高を把握し、豊臣政権が統一政権としての権力基盤を確定すること。一つの土地に重層的、複雑な土地所有関係を整理し、中間搾取者であり、農民的な性格を持ち、農村を支配していた地侍から国人にいたる層に、農民となるか、侍身分に留まりかを迫ったこと。それらにより全国政権として動員力を把握すること。これらの目的があったと言われています。刀狩令については農民の武器を取り上げ、農民反乱を防ぎ、年貢の納入を確実にし、検地政策を補完する目的を持っているとされています。 これら一連の政策は、全国統一政権として、全国の生産高・年貢高を把握し、同時に動員力も把握し、権力基盤を確立することが主目的で、副次的な結果として、武士身分と農民身分が分離、固定化したと思います。そのため、天正19年と文禄1年の「人掃令」は以前は「身分統制令」と呼ばれていましたが、身分統制、兵農分離が主目的ではないと考えられるようになり、実態に即して人掃令と現在では呼ばれるようになっています。 つまり、兵農分離政策を確定して農民と武士を分けることを豊臣政権は主目的にしていないので、結果として全国の生産高・年貢高を把握し、同時に動員力も把握し、権力基盤を確立することとなったのではないでしょうか。 以上、参考まで。

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  • isa-98
  • ベストアンサー率23% (205/859)
回答No.5

大きな社会問題だったからです。 百姓の土地の名義が二重三重になっているのは当たり前で、 その上、地侍などの中間搾取者がいるのが普通でした。 当時は米1貫=1貫でしたから これを正しく知れば大名の国力が良く分かります。 しかし、枡は各国ごとにまちまちでした。 長曽我部の一領具足に見られるように、実際の貫高とまるで違う場合もありました。 これを京枡に統一し、見地尺を用いて1尺とします。 土地の名義を1人とします。 続いて、通行料を取る目的の関所を禁止します。(陸と海) ここまで来れば地侍の土地と収入源が断たれてしまうのが分かると思います。 検地奉行を惨殺するなどと言う事もありました。 逆らう者は死罪とし、検地は強行されたのです。 目的は多数あると思います。 各国の潜在兵力を下げる。 中間搾取を無くすと同時に治安を良くする。 一揆を減らす。 百姓に土地の権利を持たせる。 専業とし、生産性を高める。 流通を良くする。 普通の考えであれば 他国の一揆や治安の悪さなどは秀吉にはまるで無関係です。 今後は一切、戦をしてはならない!! これが人と違った所なのでしょう。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%A3%E7%84%A1%E4%BA%8B%E4%BB%A4

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  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (817/3048)
回答No.4

秀吉の時代になると、さかんに検地をしています。 検地を盛んにするということは、それすなわち厳しく年貢を取り立てることになります。 当然武装していれば一揆を起こして抵抗する可能性がありますので、力づくで武装解除させました。 武装解除を可能にしたのは兵農分離ですが、兵農分離するために武装解除をしたわけではありません。 それでは話が後先になってしまいます。 実際刀狩をしたあとの一時期は、浪人が集団化した山賊が増え治安が悪化しています。 そこまでしても、検地を推し進めるため武装解除したかったのです。 豊臣政権は、財政基盤の強固さが特徴です。 徳川政権がその後財政的にゆとりができるまで20~30年かかったのと対照的です。 雑兵とはいえ防衛線では物の足しにはなります。 それよりとにかく経済面を重視したのが、織豊政権の特徴といえますね。

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  • nene-k
  • ベストアンサー率42% (118/279)
回答No.3

最初に兵農を分離したのは織田信長ですね。 その理由は、先の回答者さんがおっしゃるように、農繁期に左右される事のない、いつでも戦える正規軍を持つ事で戦いを有利に進める事ができたからだと思います。 もちろん、半分農業をやってる人より、軍事専門の人材で軍隊を編成したほうが、明らかに強い軍になりますしね。 ただ、質問者さんのおっしゃるように、それを確かな物にしたのは秀吉ですね。 秀吉を見てわかるように、信長の時代は、農民でも足軽から武士に成りあがる事が可能でしたが、秀吉はそれも禁止にして、身分制度を確立しました。 もう、2度と、自分のような(百姓から天下人となるような)人間が現われないようにしたかったのではないでしょうか?

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  • eroero1919
  • ベストアンサー率27% (3007/11113)
回答No.2

兵隊が農民を兼ねていると(これを半農半兵といいます)、どっちが本業かというとそれは当然「農民」が本職で兵隊は「アルバイト」ということになります。 そうなると当然本職優先ですから、あくまで軍事行動は「農閑期に」ということになります。お互い半農半兵なら農業が忙しいときも暇なときも同じ頃ですからお互い様です。しかし、これだといわゆる長期の軍事作戦はとれないということになります。籠城作戦はそれなりに有効なんですね。いつまで経っても城を包囲しているわけにもいきませんから。北条氏の小田原城が難攻不落だったのもそのせいです。武田信玄の軍隊にしても、上杉謙信の軍隊にしても基本的に半農半兵だったので長期間小田原城を取り囲むことはできませんでした。 しかし、もしこっちがプロフェッショナルの軍隊つまり軍人(武士)によってのみ構成されている軍隊だったらどうでしょうか。相手が農繁期でもこっちは軍事行動ができるんですから軍事的にも俄然有利です。それに、長期間の作戦も可能です。 ですから戦国時代も後半になっていくと日本全国で兵農分離が進んでいくことになります。しかし、プロ軍隊はそう簡単にいきません。 なにより、「人」がいっぱいいないと農民と武士に分けられません。土佐とか、薩摩じゃそりゃいちいち分けられるほど人が余っているわけじゃないとなります。それに、プロ軍隊は報酬を貨幣に頼ることになるので貨幣経済つまり商業が盛んである必要もあるわけです。つまりぶっちゃけ都市部じゃないとプロ軍隊は作れないということです。だから、プロ軍隊を最も推し進めたのは名古屋の経済圏を持つ織田信長であり、秀吉はその政策を引き継いでいたわけです。 織田信長の頃は職業軍人(専門兵)というのはいってみれば「食い詰め浪人の集団」であり、とても弱い兵隊でした。だって、負ければ土地を失うリスクがある半農半兵なら必死で戦いますけど、プロ軍隊は金で雇われているだけだから負けそうなら逃げても失うものがありません。しかし、時代が下っていくと専門家としてのノウハウが樹立してきて本当の意味でのプロフェッショナル集団に近くなっていきます。 しかしヨーロッパのような軍事改革が樹立する前に、戦国時代は終わりました。戦争の時代が終わったので、武士たちは「失業」してしまいます。武器を持ち、その使い方も戦い方も精通している失業者が町に溢れるようになっていきます。 秀吉はそれに対して「刀狩」で彼らの武器を奪い、一方「朝鮮出兵」によって彼らの「雇用確保」をしようとします。けど最終的にそれには失敗しました。秀吉の方法だと永遠に領土を拡大しなきゃならないからです。 一方江戸幕府(家康)がとった手段はかなり彼らしくねちっこいです。彼らを集めさせて叛乱を起こさせ、それを潰すことで平定しようとしました。それが「島原の乱」です。島原の乱は表向きはキリシタンの叛乱ですが、しかし数多くの「失業武士」が集まっていました。幕府は彼らが島原に集まることをあえて放置しました。失業武士はもはやサラリーマン官僚になりつつあった職のある武士に比べると実戦経験が豊富なので幕府軍は散々苦戦します。しかし最終的に島原の乱は鎮圧され、もはや大規模な叛乱は起きなくなります。といっても、時代が落ち着くまでにはまだ「由井小雪の乱」が鎮圧されるまで待たなければならなかったんですが。 ちなみに同じことは明治維新でも起きています。明治維新で失業した武士たちが西郷隆盛を擁して西南戦争を起こします。明治政府はこれを苦戦の上鎮圧しますが、政府軍が兵力の逐次投入という愚を犯しても田原坂を死守したのは、熊本城が陥落すると日本全国の失業武士たちが同調して立ち上がる危険があったからです。

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  • harisu2
  • ベストアンサー率31% (103/331)
回答No.1

戦乱の時代には 農民は足軽兵として必要だから いつでも使えるように武器を保有させていた でも ある程度 戦乱が平定され 足軽としての需要がなくなると 農民に武器を保有させることが 反乱だったり一揆だったり 政治的には不安要素となったワケですよ その 農民から武器を取り上げる「刀狩」で 兵農分離が 確定したものと判断してます

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