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豊臣秀吉は収かく高や土地の良し悪しを記録することで、、有力な農民を武士
豊臣秀吉は収かく高や土地の良し悪しを記録することで、、有力な農民を武士にしようとしたのでしょうか?
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>豊臣秀吉は収かく高や土地の良し悪しを記録することで、 太閤検地の事? >有力な農民を武士にしようとしたのでしょうか? 違います 元々農民出の人間は足軽にはなりますが、武士としては体が弱く、戦力としては弱小の部類です。 兵農分離をした織田家がいい例です。 織田信長の父親『織田信秀』の時代小豆坂の戦いなど見ても尾張兵は屈強で知られた三河兵と互角に戦うことがかできました。 しかし、信長の時代農民を武士に取り立てたたので織田兵は近隣でも非常に弱小となりました。 姉川の戦いなどみても同数の兵では、まず負けます。 明智城後詰なんて武田軍(山県昌景)の部隊に対し3倍以上の兵力で負けてます。 鉄砲にいる攻撃で有名な長篠の戦いも織田信長・徳川家康連合軍3万8000と武田勝頼軍1万5000の戦いです。 一応信長の勝利で終わってますが、戦に対する死傷者は同数です。(それだけ織田が弱いんです) 織田信長が軍事的に少数で戦ったのは桶狭間など奇襲戦のみ、それも生涯で3回しかありません。信長は尾張兵の弱小振りを知ってるので必ず倍以上の兵数をもって戦いを挑んでいます。 補足しますと秀吉の部隊は他の柴田、滝川などの部隊に比べ特に農民の比率が高いのです。ですので秀吉は非常に戦に弱かったのです。 秀吉が得意としたのは大規模部隊にいる城攻めで、野戦に関しては非常に弱いものです。 実際、家康と戦った小牧・長久手の戦いでも負けてます (戦闘で勝利したのは堀の部隊だけです。堀、自身戦上手で知られてますが、堀は元々、信長馬周り(親衛隊)ですので、多くの頑強な武士の部隊で構成されれています) ではなぜ『兵農分離』をしたか? ・農民から武士にして、農民と分けることにより大規模な兵員を動員が可能 ・田植え・稲刈りなどの時期でも軍事行動が可能 ・素早い軍事行動が可能 の利点があるからです。 ですので有力な農民を武士というのはありえません
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- rikukoro2
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直、秀吉も自分の部隊はどの近隣の部隊よりも弱小というのは分かってます。 最初の軍功で有名な ・金ヶ崎の退き口 →は撤退戦 ・小谷城の戦い →城攻め です。 秀吉が方面軍指令として戦った播磨での戦いも基本は城攻めで、敵が野戦を仕掛けた場合は撤退してます。 上月城防衛戦など、敵の毛利軍(吉川元春)が来た時は、そのまま撤退し、城主である尼子、山中鹿之助は敵に首をとられてます。 逆に三木城を攻めるときは、農民の利をいかして三木上を長さ数キロに渡る土塁で囲みました。つまり秀吉は配下の兵を武士ではなく、農民として扱い、戦に勝利してるのです。 他にも鳥取城の飢え殺し・高松城の水攻めなど、大規模工事にいる城攻めが秀吉の得意分野です。 ※無論 秀吉は野戦もありますが、その場合敵が一向宗とか、相手が同じ農民に限定されることが多いです。 このように秀吉自身が農民の弱さを知っています。そんな秀吉だからこそ、後半は縁故による政策で自分の周りに武士を集めようとしてます。 ですので『有力な農民を武士』というのはありえないと思うのです