• 締切済み

在家の身で、悟りをひらくことは、できますか。また、自力で、悟りをひらい

在家の身で、悟りをひらくことは、できますか。また、自力で、悟りをひらいた聖者は、現在おられますか。

みんなの回答

  • nontro_08
  • ベストアンサー率19% (33/173)
回答No.10

創価学会の者です。 日蓮大聖人は仰せです。 「此の世の中の男女僧尼は嫌うべからず法華経を持たせ給う人は一切衆生のしう(主)とこそ仏は御らん候らめ」(四条金吾殿女房御返事) 「僧も俗も尼も女も(法華経の)一句をも人にかたらん人は如来の使と見えたり」(椎地四郎殿御書) 「聖人の唱えさせ給う題目の功徳と我れ等が唱へ申す題目の功徳と何程の多少候べきやと云云、更に勝劣あるべからず候、其の故は愚者の持ちたる金も智者の持ちたる金も・愚者の然せる火も智者の然せる火も其の差別なきなり」(松野殿御返事) 僧侶であろうと在家(俗)であろうと、法華経(南無妙法蓮華経)の実践の功徳には、何ら変わりがないとの仰せです。だいたい僧侶だから偉いし、特別な力があるというものではありません。すべての僧侶がそうだとは言いませんが、なかには、僧侶の特権や貯め込んだ金のために堕落して、在家以上に信心のない者もいます。 信心においては、僧も俗もありません。ただ、その熱心さが問われるのです。少なくとも、日蓮仏法においては、僧俗平等です。 法華経(南無妙法蓮華経)を真面目に実践する人は、在家であろうと悟りをひらく、すなわち成仏の境地に至ることができるのです。そういう意味では、在家集団である創価学会の会員は、池田名誉会長をはじめ、全会員(一部の不真面目な者は除きますが)が悟りをひらいた聖者であると言うことができます。

すると、全ての回答が全文表示されます。
  • mathammy
  • ベストアンサー率30% (336/1097)
回答No.9

在家って普通に生活しているって事ですよね。 悟りって何でしょうか?

すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.8

自分では、悟りを開いたつもりになっている者ですが、『聖者』になる事は出来ませんでした。つまらない男がつまらないままで生きているというだけのものです。ですが『心の裏側が分かるという事になります』 その裏側から書いてみたいと思います。人間は大抵の人は『自分は自分が分かっている』と思っています。是は大いなる誤りといえます。何故なら、科学的に証明されている事実から云うならばこうなるからです。 自分の事は『自我意識』という風に認識していると思いますが、アメリカの在る機関が調査をしたものに出会った事がありますが、それによると、人間が起きている間に自我意識で行動する時間は20パーセントを切っているということです。 残りの80パーセント以上は『自我意識』は関与していないというデータです。人間は自我意識で行動していて、自我意識で全てが出来ていると、思う事は『大いなる誤り』という事です。今言ったことが体で分かる事が『悟り』です。 人間の体には『心が二つ在る』という意味です。それは左右の脳です。左脳に一人の人格が存在しています。是は自我意識です。処が意識でき難くなっていますが、右脳にも一つの人格が存在しています。これは、アメリカの脳生理学者のスペリー博士の『分離脳』に付いての研究成果の一つです。もう約30年も前になされた研究です。 テンカン治療の一環として左右の脳を繋いでいる脳梁を切断するということが一般的に行われていた時代の事です。左右の脳が分離された人達を、いろいろな実験をしたその研究成果のことです。 その二つの人格は『全く別な人格で、又その機能が違っている』という報告が成されています。ご自分でも学んでみて下さい。 簡単に言うならば自我意識は左脳に存在する『自我意識』という事になります。その機能は、物事を論理的に割り切ってゆく機能という事になります。その特徴が『言葉』という事になります。言葉は限られた事しか伝える事は出来ません。そうして限界が在ります。すなわち自我意識の機能は『有限』という機能しか付いていない、という事になります。自我意識には、どう逆立ちしても『有限の壁は越えられない』という限界が在るという意味になります。 右脳の機能は如何かというと、割り切れないものが理解できるという機能です、空間や無限や、感情や、感動や、もっと言うなら自分の体と心を自由に変えるという機能が付いています。目の前の事実を『言葉ではない情報で』自我意識に伝えています。 右脳の意識は『封印された形で』心の中に閉じ込められています。閉じ込められているという言い方は、適切では有りません。本当を云うならば、『自我意識』とは交代制となっています。自我意識が働いている時には『引っ込んでいる』という形です。或いは自我意識が出ていないときには働いているということになります。 言葉で言うならば『無意識界や潜在意識界』を働かせているという事になります。起きている人間の体や心を80パーセント以上働かせているということです。この事を、自我意識が自分が判っていると思っている事は『大いなる誤り』という風に書いた訳です。 人間の障害は自我意識しか認識できていない事による場合が多いと言う事です。精神疾患は自我意識が意識をしていて『無意識の働きに』出番を譲らない事から起きている現象です。無意識の意識が『出番を要求している事が』自我意識の心が、罪悪感や、漠然とした不安という形で心に圧迫を加えられたと勘違いをしている現象です。 神経症は症状は違っていますが、同じ事になっています。自我意識には出来ない事を『出来ると思って』やるように試みている現象です。機能が違っているのですから『自我意識のみでは』不可能という事になります。この事が分からない事によって、精神疾患や神経症が『完治』ではなくて、寛快止まりになっています。 自律神経失調症や、難事性の病態に付いても云えます。自我意識には交感神経や、副交感神経や、ホルモンの働きを調節したり、腸の働きを正常に保つということは出来ません。この出来ない方の脳の機能で、しようとすることから、『治り難い』という現象になっています。 在家の身で、悟りをひらくことは、できますか。という事ですのでお答えします。出来るのか出来ないのかという事は。本人の問題ですから、答えかねます、というしか有りません。 只『悟りを開く』と言うことを説明してみますので、自分で学んで下さい。或いは良い師匠様から学ぶという事も、有りかと思います。悟りを開く条件があります、それは『心に悩みや、苦悩や、行き難い想いや、罪悪感や、漠然とした不安』が存在している人がその条件を持っていると言う事になります。 生死の問題が解決する事が『悟りを開いた』結果となっています。先に書いたものの全てが、『心の矛盾』の産物です。二つの心に矛盾や戒律や、極端な言い方をするなら、心の分裂というものまでも含まれます。この矛盾や、対立や、分裂を『自我意識』は苦しみとして感じています。 意識をしている間中『苦しい』という気持ちになっています。この世界が『精神疾患』です。『一切皆苦』という世界となってしまいます。此処を超えないともう一つの意識には『出会い難い』かも知れません。 自我意識は有限で出来ています。右脳の意識は『永遠』で出来ています。自我意識は有限の世界で自分の肉体や『我』が無くなってゆく事に不安や恐怖を感じます。ですがこの恐怖は右脳の意識からの『助け舟』です。この事が分かり難いために、人間は苦しむ事になります。 とうとう自我意識には『どうする事も出来ない』と心から諦めます。是が『大死一番』という事になります。自我意識はとうとう全てをあきらめるということになります。全てを諦めた時に、もう一つの意識が『永遠の命として』自我意識に手を差し伸べます。是が救いの手となっています。 今までの苦しみとは、その救いの手を遮っていただけと知ります。救いを、苦しみとして、勘違いをして受け取っていた事が分かります。今度は救いの手を、受け入れる事が出来ます。 今までは『死』を受け入れられない事で『恐怖』として感じています。今度は素直な気持ちで受け入れられます。受け入れられる事から、不安が安心に変わります。是が生死の問題が解決した瞬間です。 他の言い方をするなら、意識が在るのか無いのか、或いは意識的なのか、無意識的なのか、完全な『無』の中から心が自我意識と無意識が別れる瞬間が在ります。交代制なのに、交代する間際の事ですが、二つの意識が共に在る瞬間の事です。そこで二つの意識が出合うという事になります。その瞬間が『見性』自分自身を知るという事になります。 今までの苦しみからの完全解放という事になります。受け入れられない事を恐怖と感じています。処が自分の中には既に受け入れている者が存在していました。この存在と手を携えて行くようになります、その者とはもう二度と矛盾や対立を起こさなくなるという意味です。二つの人格の間にいつでも会話出来るシステムが構築されます。 言い方を替えるなら『脳細胞の回路構成が出来た』という事になります。この経験以後『心に矛盾がなくなります』この心境をお釈迦様は、涅槃、と言っています。キリスト者の場合に『神に会って和解した』という表現になります。どちらにしても同じ現象の事です。人間を働かせ居ているその人間の命の働きに出会うと言う意味になると思います

noname#108179
質問者

お礼

ありがとうございました

すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#137229
noname#137229
回答No.7

質問者さんの環境はどの様なものなのでしょう。 いわゆる在家・・ そして、師匠はいる・・のでしょうか。 あるいは、全く師匠などいない?状態なのでしょうか? それらによっても、回答の程度が変わる様に思うのですが。 質問者さんが悟りを求めている・・ あるいは単なる興味??での質問なのでしょうか? などなど。

noname#108179
質問者

お礼

ありがとうございました

noname#108179
質問者

補足

在家の身で、師事しておりません。私は人としての究極の目標は、悟りを得ることだと思います。

すると、全ての回答が全文表示されます。
  • jinseiwalk
  • ベストアンサー率23% (372/1603)
回答No.6

悟りはもう検定試験があります。 明は暗 暗は明   昼は夜 夜は昼 太いは細い 細いは太い 生は死  死は生  など100問強 これらはほんの一部ですが、きちんと説明できなければ合格ではありません。 悟りたいとは覚りを知らない人の憧れでもあるのですが、仏法と宗教の違いもわからない現代人ですから、いきなり悟りについて勉強するより、普通に使う言葉の点検から悟りもありますのでそれを勉強してください。 例えば 身体障害者 命 正義 ウソ 処女 正直 忠義 霊 礼儀 根性 点検 お金 貧乏 金(きん) 黒 人情 親孝行  女らしさ 男らしさ 悪口 などです。 身近な人とこれらの意味が同じか話し合ってみてください。それが悟りにつながります。セミナーで知ることもできます。

noname#108179
質問者

お礼

禅問答のようなものでしょうか… 回答ありがとうございました。

すると、全ての回答が全文表示されます。
  • o-sai
  • ベストアンサー率19% (199/1001)
回答No.5

在家でも出家でも、仏陀以降に悟りを開いた人物はいません。 仏陀の悟りとは、今で言うところの「食物連鎖の法則」です。 科学的考察方法が全く無かった時代に得た真実なので凄いことですが、 現代では小学生も知ってます。 これからの悟りであれば、理論物理学が一番近いように感じます。 精進して研究を続ければ悟れるかもしれません。 仏陀後継を自称する各宗派など、頼るべきではありません。 ですがそもそも、悟ったと自覚できなければ悟りは存在しません。 悟った人を悟って無い人が評価できないのだから、 理論的には「誰も悟れない」か「誰でも悟れる」か、というパラドックスです。 現代宗教なんてそんなレベルなんですよ。

noname#108179
質問者

お礼

ありがとうございました

すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.4

ネットに常時接続してもう閲覧しまくってください 我論の基盤を固めるまでなら~情報量からして 秘境なんぞ篭るよりはるかに有益て気がします 瞑想はアレ外界を断つためじゃなくて多量思考による ビジー状態を避けるため他アプリを停止してる姿です 考えまくるための情報集めから始めるべきかと

noname#108179
質問者

お礼

ありがとうございました

すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#136007
noname#136007
回答No.3

在家の身で、悟りを開くことができます。 (自分で、瞑想をするといいでしょう。) 具体的には、鈴木大拙氏などが、そうでしょう。 http://www.jinseimondainokaiketsu.com/ の方も、悟りを得たような、ことを言っています。 色々、質問されたら、いかがでしょうか?  

noname#108179
質問者

お礼

ありがとうございました

すると、全ての回答が全文表示されます。
  • Joemary
  • ベストアンサー率45% (11/24)
回答No.2

仏教の観点で厳密にいえば、できません。 そもそも俗世に「こだわり」があって、出家ができないと いうこと自体が悟りから遠ざけているのではないでしょうか? しかし出家できる人ばかりで当然ないので、 釈尊は出家者と在家とでは異なる戒を示すことにより 仏教の間口を広げているのです。 在家には在家の仏教との関わり方がありますし、 私自身はそれで満足しています。

noname#108179
質問者

お礼

ありがとうございました

すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.1

故人ですが中村天風の 「盛大な人生」 「成功の実現」 をお勧めします。 何を持って悟りをひらくは人によって違うかも。

noname#108179
質問者

お礼

ありがとうございました

すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A