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報身仏の解釈
報身仏の解釈について皆さんの考えをお聞かせ下さい。 仏教を学ぶ上で、これをクリアーしないと一つ上の段階へ行けないようにも感じています。 ご承知の通り、盲信による救済は遠い過去の話です。 また、今までに示されてきた一般的な概念による説明では、決定的とも言い難いように感じています。 どなたか、納得できる解釈を示してくださる方はいらっしゃいませんか。 もし、報身仏の存在が下り坂の教えの中にのみ有る、のだとしたら 信心はいずれにせよ、仏教を学ぶ上ではその解釈は不必要とも取れます。 大乗の諸仏の実在性に触れる事なく、大乗の教えを学ぶ道はあるのでしょうか。 浄土系の教えに関わっておられる方には、厳しい質問と受け取られる向きが有る事も承知いたしております。 また、上座部系の視点から見れば、大乗に対する格好の批判の論点でもありましょう。 そこから生じるところの非難の応酬では無い、有益で確かな解釈といったものはないのでしょうか。 それらの点についてもご教示を賜りますようお願いいたします。
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- Y Y(@yy8yy8az)
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難しい問題なので、私自身の考えを私自身の言葉で述べることは出来ませんが、目下勉強中のあるお坊さんの文章を紹介したく思います。 「心の世界 如来三身」とグーグル検索してみてください。 yosiro-desuというのが見つかったらそこで“報身仏”についての文章を見ることができます。 私は理解しているわけではありませんが、文章全体から受ける印象が真実を述べているようで、それで参考にしてみて欲しく思うのです。 絶対的神と、その存在を伝えた人間釈尊やキリストの間にあって、人々が擬人化するところの“神”という位置づけなのでしょうか。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
仏の実像が掴めていないようですね。 仏の実像は巨大な霊的意識体でしかないのですね。それを観る者が頭で解釈しているだけなのでその人の背丈に合った仏にしか見えないだけなのですね。 上座部、浄土などはそのような認識程度ということですね。 霊界の秘儀を学ぼうとすれば仏は毘盧遮那仏に観えるし、救済を求める者には阿弥陀如来に観える、またその一部が極まれに地上で肉体を持てば仏陀(釈迦如来:釈尊など)とよばれるだけですね。 普通の人は釈迦如来の本来の実像を観ないで混乱してますね。全ての生き物は仏の巨大な霊体のごく一部で造られ個性化した存在ですから、悟りを目指すということは仏を目指すことに他ならないだけなんですね。釈尊は仏自身の一部ですから衆生に仏の子供であることを忘れないように実践して見せただけですね。 教学的には巨大な霊的意識体の名前を「釈迦大如来」と呼びその知的側面を「毘盧遮那仏」、またその救済側面を「阿弥陀如来」と呼んでますね。 でもこれらも方便でしかないのですね。本当は巨大な太陽のような光りの玉「無量光、無量寿」が正しいお姿の表現ですね。 だから、無量光・釈迦大如来に向かう法門はどこからでも良いということなのです。まあ悟りを求めるというのが釈迦大如来に向かう近道というぐらいでしょうか。でもどちらの法門も学ばないと本来の釈迦大如来には近づけないことも実際はありますね。
お礼
ご教授ありがとうございます。 mmkyさんのご意見を向下門の説法と受け取らせていただきました。 失礼ながら、密教系に属する解釈であり、下り坂においての感想を込めたものといった感じで拝見させていただきました。 できましたら子供に言い聞かせるように、やさしく教えていただけると有り難かったのですが・・・私もまだ子供ですので・・・。 ご参考にさせていただきます。
お礼
ありがとうございます。 早速、教えていただいた文章を拝見させていただきました。 確かに立派な解釈と思われます。 法身については深いところまで簡潔に言い表しておられると思います。 しかしながら、報身については美辞麗句が多く、その実体なるものについての直接の解釈については、残念ながら触れる事ができませんでした。 私は誰にでも分かりやすい形で示してくださるものがあれば、と思っています。 僭越ながら私の考えを簡単にお話します、誰か訂正していただければとも思います。 仏の真理的な面を法身・・・真理的な仏を法身仏 仏の縁起的な面を報身・・・縁起的な仏を報身仏 仏の現象的な面を応身・・・現象的な仏を応身仏 問題は二番目の報身仏の解釈 縁起によって成ったという仏の実在性 現象的特質を現す縁起の働きと、その結果的な仏のとの関係性 また、信仰面においての解釈授与の不足 以上を課題と考えています。 法身の境地に至れば、自ずと報身の境地をも悟ることができると思われるのですが それだけでは、あまりにも敬虔な信者に対して気の毒のようにも思われます。 分かり易く、確かで新しい解釈はないものでしょうか。 こうした事柄を皆さんと共に考えて行きたいと思っています。 ありがとうございました。