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仏教
私は仏教に興味があり信仰を深めたいと思っていますが、どういう宗派の教えを受けたら良いかわからず困っています。 私は人との関わりあいや妄想・欲望からくる苦しみ、仕事の上の苦しみ等々で色々苦しい思いをする中で、仏教的なものに興味を持ち始めました。 般若心経や十句観音経、ご真言(不動明王、地蔵菩薩、観音菩薩)等は本やCD、インターネット、寺社参拝等で覚えて日常的によく唱えています。特に般若心経をありがたく感じています。また、お遍路や坐禅にも興味を持ち始めた今日この頃です。 今後、もっと仏教の正しい知識を勉強し、信心を深めていきたいとは思うのですが、世の中見渡すと怪しい宗教ばかりに感じます。 また、伝統的な宗派を装っていても、金ばかり要求する様な寺もある気がします。そもそも「お守りを買ったら救われる」的なご利益信仰そのものがばからしい気がします。 以下のような宗派はありますでしょうか。教えてください。 ・伝統的な仏教の宗派(新興系は絶対嫌)のひとつ。 ・宗派の教えというよりは、仏教(釈迦)の教えそのものを客観的に教 えてくれる宗派。 →例えば「不動明王を信じれば救われる」だけではなくて、実在した人間である釈迦が説いた哲学が仏教であるはずなのに、恐らく実在しなかったであろう不動明王をご本尊にする理由を教えてくれる。 ・しつこく勧誘してこない。(来る者はこばまず、去る者は追わず。) ・あまりお金をかけずにできる(年2~3万円位) ・お金をかけたければかけられる。 ・信者や檀家となって入信しなくても、請えば教えてくれる。 ・寄付や機関紙の購読、集会への参加を強要されない。 ・教えを受けるからと言って、勧誘活動は絶対絶対にしたくない。 勝手なことばかり申しますが、ご回答宜しくお願い致します。
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在家信者で教えを説く資格も無いまま、僭越ながら幾度も説法じみたアドバイスを差し上げた事をご容赦下さい。 また、心に不安や迷いを与えてしまったとしたならば、重ねてお詫び申し上げます。 私のいままでの信仰の体験や遍歴をお話するすべもありませんが、最後に、あなたにとって有益と思われる事をお話させていただきます。 仏のご加護とは(お導きとは) 自分では知らず知らずのうちに頂いているものです。 後になって、気がついて、ありがたいと思う事がほとんどです。 気がつかずにいる事の方が或いは多いかもしれません。 日常の生活では、そんな感じなのです。 特殊な場合もあります。 急を要する大切な事や人生の大事といった事です。 お金で解決のつかない、どうにもならないといった事などです。 私も若い時に、そういった事を救って頂いた経験があって、信心が深まってきたのです。 地獄で仏という言葉がありますが確かに本当です。 仏様の慈悲心(大悲)に素直に感謝しながら、だいぶ安らかに生きていけるようにもなりました。 お不動様は破邪顕正の強さだけではなく、その怖いお顔の底には、万石の涙を含んだ熾烈な慈悲の心があるとも言われています。 絶対の慈悲心、絶対の優しさです。 そんな大きな心に少しでも近づいてください。 最後に 仏教や密教について分からない事がありましたら 織田隆弘という人の本を読んでみてください。 私を救ってくれた人の書いた本です。 以上です。
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もう一つだけ答えを追加させていただきます。 貴殿が成田山にお参りし、また毎日お不動様のご真言を唱えていらっしゃる、 でも、お不動様が現れて下さらないとの事ですが もし、現れたならば、それは非常に危険です。 現れないでいいのです。 たとえどんな人でも、素直な心でお参りに来る人をお不動様は見守って 下さっているはずです。 もうすでに、あなたはお不動様のご加護を受けていると思います。 機縁が熟すれば、必ずお不動様のご慈悲を感得する時が来るものと信じます。 小さな信心の積み重ねが、きっと実を結ぶ時がきます。 お不動様への信仰は間違いないです。 安心して下さい。
お答えを追加させていただきます。 「空想の仏様」について 大乗の諸仏の実在性については一般論ではフィクションとされています また、それらの仏を信仰している事は、盲信或いは狂信と見なされる傾向にあります。 では何故今日まで、それらの信仰が続いてきたのでしょうか? それは確かな実証があったからです。 それも確かな哲理に裏づけられたものです。 大乗仏教は密教と共に伝えられてきました。 表面的に大乗の教えをみれば全てフィクションにすぎません。 しかし密教の真言の法によりそれらは確かなものとして証されてきました。 大乗の教えをフィクションと言っても、真言の法をフィクションと言える人はいないのです。 でもこの100%体験の世界は余りにも一般化しずらいのです。 たとえば 般若心経は瞑想の体験の描写ですが、最後に真言がでてきます。 解説無しの真言の説法です。 人の言葉でもなく、概念でもない、体験によってでしか知る事のできない高次元の仏の言葉です。 この真言にいままでの教えの全てを納めてありますよ、と言っているのです。 般若心経に真言の部分がなかったとしたら、もう完璧にフィクションとしてしか扱われてこなかったと思います。 それ程にまで真言とは仏教の中で重いものなのです。 大乗の諸仏の実在性も然りで、やれ空想だの、でっち上げだの、狂信だのと騒ぐのは自由だと思いますが、 確かな導師について真言の法を修すれば明らかになる事と思います。 ただし、護摩行において炎の中に仏様が現れたとか、炎が意のままになるとか言う、行者さんや阿闍梨さんは絶対にダメです。
お礼
お言葉から察するにあなたは真言宗の信徒の方でしょうか。 実は私は近くに成田山新勝寺があり、よく参拝しに行っています。 毎年恒例の初詣は家族で成田山へ行き、家内安全ご祈祷をしていただいています。 以下は、私の勝手なイメージです。 大乗仏教の中でも真言宗はよりキリスト教的な教えのような気がしております。言葉では説明のつかない絶対的な信仰の対象を自分の外の世界に持つのが真言宗というイメージです。 成田山新勝寺では不動明王ご真言を唱えることで諸願成就されるといっておりますし・・・。外界ではなく自分の内側に目を向けるという禅宗とは反対側の宗派のイメージです。 確かな知識をなしに言います。バラモン教やジャイナ教がそういう(絶対的な信仰の対象をもつ)性格の宗教であって、それらと結びついて生まれたのが、真言密教なのかなぁ・・、とイメージしています。 私も現に不動明王ご真言を毎日唱えていますが、信じる気持ちが足りないのかもしれませんが、お不動様は現れてくれません・・・。 無理矢理にでも仏の教えへ導いて欲しいのですが、剣も縄も炎さえも夢の中にも現れません・・・。 私は否定して言うのではなくて、100%体験の世界と言うものを一度でも体験できればきっと信じますし、むしろ体験したくて(もできないのですが。)ご真言をとなえているのだと思います。 ですから、あなたが体験をされているというのはとてもうらやましいです。 それでは、ありがとうございました。
- magga
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<<上座部系の仏教には興味はあるのですが、日本では主流で無い事から、中々踏み込めずにいます。釈迦の教えを知りたいといっておきながら、とても変な話ですが・・・。>> 人気が有る無いではなく、論理的に道徳的に実証的に己が理性をもって精査した後に納得がいったものを柔軟に積み重ねていけばいいと思いますよ。解らないところは解らないと保留しながら。 <<実際には大乗仏教の宗派の中で自分に合ったモノを探す事から信仰をスタートするとは思いますが、きっと上座部仏教を学ぶ事が一番釈迦に近づく道なんだろうなとも思います。>> 信仰自体は信じ仰ぐもの。そこには「これこそ正しい、他は間違っている」という心がずるく入り込みやすいものです。 そこに陥ってしまえばブッダがしてはならないと言った思考法に陥りますし、現実社会で生活するうえでも問題が出てくるかもしれません。「私こそ正しい、他は全部間違っている」ですからねw 「自分が何かの見解に執着していないか、反証を受け入れない感情がないか、解らないのにもかかわらず事実としたり知っていると言う態度でいないか」を、よくよく注意なさってください。 個人的にはゴータマ(ブッダ・お釈迦様)尊師が説いたものは、信仰とは逆の反宗教的なものだと感じています。 常に時代の最先端で厳密に科学的な手法を持って心について語っています。 勉強を始める前に「仏法」の正見の項目だけでも読んでおくと、邪見に入らないためのお守りになると思いますよ。 <<テーラワーダ仏教が釈迦の教えを実践している、哲学的・科学的な仏教なのだろうなと改めて感じましたし、頂いた回答は私の仏教理解の助けになると思っています。すぐにテーラワーダ仏教の会員になる事はないかもしれませんが、講演会などに行ける機会があれば、参加してみるかもしれません。>> 仏陀の教えを学ぶのに、宗教・宗派・会員・非会員は関係ないですからね。素直に出てくる疑問・質問・反論何でも受け入れるのが仏教(大元の)の特色と思います。 ブッダが「悟りました」といった瞬間から、オープンチャレンジを受け付けているとw 他の宗教宗派にはなかなかない特色ですよね。 <<自分の知っている小さな知識の中での話しですが、私は釈迦の教えは科学的なものだと感じています。釈迦の教えは科学的な事実と人間の心の苦しみの原因とを結びつけているから説得力があるのだと思います。諸行無常・諸法無我などは、現在の科学者でもイエスキリストでもきっと「なるほど」とうなずくのではと感じます。>> 私もそう思います。 <<そこを行くと弥勒仏が56億年後に現れるとか、10万億土の彼方に阿弥陀如来がいるとか、どう考えても科学的ではない教えが含まれている事が大乗仏教に対する自分の疑念です。>> 先の話は 「かも知れないし、そうでないかもしれない」ですね。 確かめようが無いものは保留が科学的な姿勢ですよね。 <<サンガ出版の「仏法」等の書籍は是非一読してみます。丁寧な回答を頂いたこと、御礼申し上げます。>> ポッドキャストでスマナサーラ長老の講演や質疑応答などが無料で聞けるものが、結構な量ありますから、そちらもオススメしておきますね。通勤途中などに聞く機会は多いと思います。ぜひw 貴方の悩み苦しみがなくなりますように。 生きとし生けるものが幸せでありますように。 では、失礼いたします。
お礼
手短ですみせん・・・。 私はあなたの回答内容が、誰をも否定しないし、自分の考えが一番だとも言わない、何ものにもとらわれない意見をお持ちだと感じますし、さすが現代日本において、上座部仏教を勉強された方だと素直に感じます。 「自分が何かの見解に執着していないか、反証を受け入れない感情がないか、解らないのにもかかわらず事実としたり知っていると言う態度でいないか」を、よくよく注意なさってください。 ↑このお言葉には脱帽です。私はこういう態度を持っています。 私は自分の生真面目さが私の苦しみの根本原因のひとつであると思っています。生真面目とは物事に執着することから発生するのではないかと思っています・・・。 それでは。
- QES
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>>新興系は絶対嫌 >>釈迦の教えそのものを客観的に教えてくれる宗派 質問からすると、あなたが知りたいのは、28歳で出家して、35歳でブッダとなり、80歳までの人生を人の悩みを救うために布教した人間釈迦の悟りと数々の教えの中身かと思います。 一方、日本に入ってきている仏教のすべてが、釈迦の死後数百年後にインド哲学と結びついて起こった大乗仏教で、当時にすれば新興宗教といえるものです。 大日如来を始めとする如来、観世音菩薩を始めとする菩薩、不動明王を始めとする明王、弁財天を始めとする天の存在も大乗仏教が作り上げた架空の存在です。 般若心経をご存知ならおわかりと思いますが、般若心経では釈迦の教えを「空」の論理で持って全否定しています。 例えば、釈迦は「苦」に関する4つの心理として四聖諦(苦集滅道)を説いていますが、般若心経では無苦集滅道と釈迦の教え四聖諦は無いとしています。 このため日本の既存の宗派仏教を学ぶ限りでは、あなたの疑問を払拭し、知りたいものにたどり着くのは困難かと思います。 客観的に宗教学、仏教学を学ぶことをお勧めします。
お礼
ご回答ありがとうございます。 私の悩みに一筆頂いたご親切心に感謝申し上げます。 私はあなたの回答を読んで嬉しくてありがたいと素直に感じています。 釈迦の教えそのものを勉強したいという私は、仏教学を客観的に知るべく勉強するのが良いといわれる回答には納得ですし、そういった勉強を進めるには上座部系の講和を聞いたりするのも手段のひとつかと思います。 とにかく私は霊的なものや空想の仏を前面に出されると受け入れがたいのであって、人間釈迦の説いた哲学を勉強して、それを実生活に活かしていき、苦しみを軽減して人生の幸福感を高めたいと思っているのだと思います。 以下は私の勝手なるイメージで聞き苦しいかもしれません・・・。 般若心経は釈迦の教えをそのものを否定しているというよりは、釈迦の教えを忠実に実行することだけにとらわれてしまって形骸化し、出家者だけの自己満足に陥ってしまっていた(当時の)小乗仏教を全否定しているのではないかなぁ、、、と個人的には思っています。 諸行無常といいますように、釈迦の教えをどう実践していくかという行為そのものも、時代とともに変化していくはずだと、一部の出家者だけが人里はなれて釈迦の教えを忠実に守っているだけではいけないのだと・・・。 また、無苦集滅道とは、四諦を全否定しているのではなくて、「六波羅蜜を修して、悟りの彼岸に至れば、四諦の苦しみも無くなる」という ことを般若心経は教えているのではないかと感じています。 勝手で危険なイメージかもしれませんが、玄奘が凝縮した般若心経の中には、玄奘なりにきちんと釈迦の教えを反映しているのではないかと思いますし、般若経を凝縮した玄奘は、逆に「般若心経こそが釈迦の教えを集約したもの」だと思っていたのではないかと私は想像しています。 空想の仏である観自在菩薩から始まるのは、現代人よりももっともっと無知であり、受け入れ能力の低かった(であろう)当時の民衆を救う為に、そういう形をとった方が受け入れやすかったからではないかとイメージしています。 このような印象から、般若心経をありがたく感じているのですが、きちんとした勉強をしてその裏づけをもっているわけではないです。 長々とすみません。私の印象(イメージ)は間違いだらけだと思いますが、お気づきの点あればご教示くだされば幸いです。 ご回答に御礼申し上げます。
- Y Y(@yy8yy8az)
- ベストアンサー率17% (89/501)
釈尊の再来かと思われるようなお方が、明治から大正にかけてこの日本に現れ、活動されました。山崎弁栄(やまざきべんねい)というお方です。「弁栄聖者」で検索してみてください。「弁栄」は「べんえい」と入力します。 また私は、小学生レベルの内容ですが、ブログに宗教観のようなものを書いています。「心の世界、良心」で検索すると出てきます。こちらは恥ずかしいので、気が向いたらでけっこうです。 弁栄上人の歌をいくつか紹介しておきます。 佛(ほとけ)にも神にもなると聞くからは吾(われ)は聖(ひじり)にならまほしけれ(十二歳のとき) 出家の日 たらちねよわが恩愛(おんない)のつなときて奇(く)しき法海(ほうかい)わたらせよかし(二十一歳) 出家行道(しゅっけぎょうどう) すてがたき家を出ててぞまなびなむこのうへもなき高き御法(みのり)を(二十一歳) 南(な)にしをはゞ無(む)かしひじりの阿(あ)とこひし弥(み)ちを陀(た)づねて佛(ふ)かくいらまし(二十一歳)
お礼
ご回答ありがとうございました。 早速「弁栄聖者」「心の世界、良心」で検索し、少しですが閲覧してみました。正直、弁栄聖者のことは知りませんでしたが、そのような偉大な方が今の世に居たら良いのにと思います。 ご紹介いただいた弁栄聖者やブログの方は、少しづつ見てみます。 ご親切に感謝いたします。 ありがとうございました。
私は観音様の信心を授かった者です。 信仰は一対一の世界です。 間には何も入らない。 仏の徳を身に備えた人は稀ですがいつの世にもいます。 苦しみには慈悲の救いを 迷いには智慧の救いを与えてくれます。 素直な心で求めれば必ず仏縁が授かります。 人それぞれの仏縁があると思います。 私は真言宗の阿闍梨さんにご縁を頂き観音様の信心を授かりました。 信心を求めるにあたって一つだけご注意したい事があります。 如来の大悲を説かない教えや人は全てダメだという事です。 ご自分の全てを見守って下さる仏様が必ずいらっしゃいます。 伝統的な神仏に対して現在、何らかの信心を持っておいででしたら 祈願をすれば必ず導師と信仰仏を授かります。 大悲の二文字だけは忘れないでください。 合掌
お礼
ご回答ありがとうございます。 私はまだまだ仏教の初心者で、恐らく「興味がある」といった程度の段階だと思います。 ・「仏様に救って頂きたい」 ・「救ってくれる仏様に出会いたい」 というよりは ・「自分の心に内在する苦しみの原因を把握したい。」 ・「そこに仏教の教えを活かしたい。」 のように思っているのだと思います。 まだまだ仏教初心者の考えなのだと思いますが、不動明王や地蔵菩薩などの伝統的な仏様を信仰する気持ちがある一方で、「実在した人間ではない空想の仏様」という気持ちもあり、素直に信仰できない自分も内在しています。 ですので、信心を授かるとはどういう現象なのかが理解できていないのが残念です。 ただ、最終的に苦から脱却する為には、あなたの様に素直に仏様を信じる気持ちが必要なのでしょうね。 ご回答ありがとうございました。
- rurubonpp
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何も特定の宗教団体や宗派に入る必要ないのではないでしょうか。いまのままで十分でしょう。もっと信仰を深めるために、もっと仏教の勉強をしたいのであれば、宗旨宗派とは関係のない大学の仏教学科へ行けば良いと思います。 本当に正しい仏教を信仰していれば、自分自身の境涯というか霊性も向上して、本当の神仏の方から語りかけて来ます。それが本当の信仰だと私は思います。 どんなに信仰しても、勉強しても、お釈迦様が目標として指し示したものが得られなければ何もならないですね。 宗教団体にお金を使うお金があるのなら、仏教書を買って読んだり、一切経を買って読む方が有益であると思います。 不動明王様は、確かに歴史上実在の方ではありません。後世において仏教に取り入れられたもので、想像上の仏様です。しかし、まったくいないのか?と言うと霊的世界にはちゃんといるんですね。こうなって来ると、もう言葉では説明つきません。だから、修行して悟るしかないわけです。眼に見えるものだけがすべてではないということです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 確かに特定の宗派に所属する必要はないかもしれませんね。 「仏教の信仰を深める=特定の宗派に所属する」という固定観念をとりさって考えると違う道が見えるのかもしれません。 私は商学部卒なのですが、今思えば、仏教学部へ行っておけばよかったと思うこともあります。 あと大分先ですが、定年退職後に仏教学部を受験してみようかと思うこともあります。 きっと私は、(1)本で知識を得る+(2)知識のある方から直接お話を聞く+(3)坐禅の様な修行を体験する→これらを実生活に活かす・・・を望んでいるのだと思います。 (2)と(3)を経験する為に、どこかの宗派に所属する必要があると思っていたのだと思います。 しかし、不動明王が霊的な世界にはちゃんといるというのは、飲み込めないのです。そういう霊的なものを全く信じないわけではないのですが、どうしても科学的な根拠が欲しいと思ってしまいます。 それは仕事の中での人との関わり合い(怨憎会苦)や、妄想・欲望などで「苦しい苦しい」と思って生きている中。 諸行無常・諸法無我・一切皆苦 自灯明・法灯明 四苦・八苦 因縁(十二縁起) 等々、科学的な事実と人の心の苦しみが結びついた教え(と私は感じた)に魅かれて仏教に興味を持ち始めたからだと思います。 例えばですが、もし「不動明王は、釈迦が悟りを開いた時、心の中の悪い心を克服した時の心を擬人化したモノで、実在はしないが、教えそのものは真実だ」(←実際には違うのでしょうが)などというストーリーがあれば、信じられるのですが、霊的なものを前面に出されると素直に信用できないのです・・・。 言葉では説明のつかない世界を言葉にしようとする事が誤りなのかもしれませんね・・・。 ご回答いただきありがとうございました。
- abc2008
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仏教は元々、一人の祖師、つまり、釈迦が説いたものなのに八万法蔵と言われるくらいの膨大な経教がありますが、これには当然のごとく理由があり、それは、本来、釈迦が覚知した真理をそのまま、その当時の人々に説こうと試みたのですが、その人々の理解度、受け入れ能力等がかなり低くて、いきなりその真理を説いても到底受け入れがたく、チンプンカンプンで無意味なものとなってしまうことが分かったので、あたかも大人が子供にものを教えるように、様々な例えや方便を用いて理解し易いように縦横無尽に説いていったのです。それで、数多くの経教となってしまったのです。 ですから、不動明王にしろ阿弥陀仏にしろ、大日如来、地蔵、観音、薬王、文殊菩薩等々、それらは説こうとした真理に包含される様々な力用を人々の心の中に描き易いように擬人化して説いた、一つの方便だったのです。 つまり、華厳、阿含、真言、阿弥陀、般若等の経教はすべて真理を説くまでの仮に説いた教え、いわゆる方便権(ごん=仮の)教というものなのです。 では、釈迦の本意である真理を説いたものは何かと言えば、説法50年の最終部分に当る法華経なのです。結局、40年近く方便権教を説いてきて人々の理解度も高まり、機が塾したので真意である法華経を説いて、今までの方便権教はすべて捨てさせたのです。これはちょうど、建物を建てる時の足場と建物の関係に似ていて、建物が現われれば足場は不要となるようなものです。建物を建てるためには確かに足場は必要だったかも知れませんが、そのあと残ってしまえばかえって邪魔になりますからね。 しかしながら、残念なことに方便権教は残ってしまい、時代や国によって、それらは一人歩きで広まってしまい、現在に到っているというのが実情です。 ですから、仏教を学ばれるのなら、宗派等に捉われることなく釈迦の真意極説である法華経を勉強されれば良いかと思われます。 ちなみに法華経に説かれていることを簡単に言えば、我々は誰もが本来、仏性(ぶっしょう)という卓越した生命力(それは、いかなる事態に直面しようとも何事も悠々と乗り切っていけるという希望と勇気に満ちたすばらしい力)を兼ね備えているのですが、ほとんどの人はそのことに気付かず、いわゆる宝の持ち腐れ状態のままでいるので、そのことを示し、気付かせ、その力をその生活、人生に役立たせるための方途等を説き明かしているのです。 つまり、釈迦が説こうとした本来の仏教というものは、何かの仏、菩薩等に頼る他力本願的、受動的な弱々しいものではなく、元々自分が持つすばらしい生命力を発動させて、その人生を力強く、豊かで楽観的な姿勢を堅持できる自力本願の能動的なもので、まさに希望と勇気に満ちた実践哲学だったのです。 以上
お礼
回答ありがとうございます。 専門の方の貴重なご回答大変ありがたく感じております。 内容的にも法華経を一心に勉強する事を柱とされており、浮気心の無い一筋なご意見に好感しています。 実は私の母親は日蓮宗の信者でして、法華経を毎朝・毎晩拝んでおりました。私も小学生迄は母と一緒に法華経を読みました。(当然意味はわかりませんでした。) これは本当の事ですが、具体的にどう言う事かは言えませんが、小学生の頃心にとても悪い考えが思い浮かんでいて私はそれに苦しんでいました。法華経を読むようになったのは、「その悪い心が消えます様に」と日蓮上人に毎晩法華経を読んで祈ったのです。その効果かどうかは定かではありませんが、1年、2年と法華経を拝むうちに悪い考えは消えました。 子供心に純粋に祈り続けた気持ちが、日蓮上人に通じたのかもしれません。(今は法華経の冒頭「あんじょーにーきー、ごーしゃーりーほつ位迄)を多少覚えている位ですが・・・。) その様なことがあった事もあり、法華経と日蓮上人への信仰心は自分の中で比較的受け入れやすいものかと思っています。 また、実在した人間である日蓮上人がご本尊であり、釈迦の正しい教えを法華経に据えて教えているところにも他の大乗仏教より科学的な宗派ではないかと感じてます。 ただ、矛盾するのですが、法華経を勉強したい気持ちや受け入れやすいものかもしれないと思う気持ちがある一方で、働き盛りで家族(小さな子供2人と妻)を抱えて時間的な制約もある中、いきなり入るには内容的に難しい様な気もしています。 それと、法華経を学ぶ一部の熱心な団体への印象が自分の中で個人的な印象があまり良くない事と、法華経の排他的な性格に躊躇している面もあり、踏み込めないでいます。 今は先ず、般若心経の262文字を実生活の中で実感出来る様になりたいと思っています。恐らく私は法華経を学べる段階に達していない(受け入れ能力が足りない)のだと思います。 ご親切に回答を頂きました事御礼申し上げます。 ありがとうございました。
- magga
- ベストアンサー率15% (56/359)
<<以下のような宗派はありますでしょうか。教えてください。>> No.1の方が言っていた上座仏教またはパーリ語の仏典を学んでいる人々をオススメします。 <<・伝統的な仏教の宗派(新興系は絶対嫌)のひとつ。>> パーリ語の仏典は、もっとも初期に説かれたものと定評がある仏典です。 <<・宗派の教えというよりは、仏教(釈迦)の教えそのものを客観的に教 えてくれる宗派。>> それを中心にテーラワーダ(上座)仏教でスマナサーラ長老を中心に書籍や講演会・冥想会が行なわれています。客観的に科学的に反証(疑問質問反論)を受け入れる姿勢で論理的に理性的に行なわれていると感じますよ。 <<・しつこく勧誘してこない。(来る者はこばまず、去る者は追わず。)>> そもそも信仰よりも己が理性による確信を勧めるものですからねw <<・あまりお金をかけずにできる(年2~3万円位)・お金をかけたければかけられる。>> 講演会・冥想会もほとんど喜捨ですよ。布施自体自分の意思で喜捨しないと後悔・ケチなどで自分が汚れてしまいますからね。 <<・信者や檀家となって入信しなくても、請えば教えてくれる。>> 会員(毎月機関紙が届くだけですがw)になろうがなるまいが関係ないですね。仏教自体開かれたオープンチャレンジ的なものですから。 補足:教えてくれたお礼としての布施は逆に失礼とされているようです。ブッダもそのような布施は受け取らなかったとところどころに書いてありますしねw <<・寄付や機関紙の購読、集会への参加を強要されない。・教えを受けるからと言って、勧誘活動は絶対絶対にしたくない。>> 基本やりたいと思い立った方々のボランティアによって活動がなされていますから、強要は無いと思います。 僕自身何年も会員(毎月機関紙が届くだけw)になりませんでしたがとくに何もありませんでした。 相手を無理やりどうにかしようと言うこと自体、ブッダがなしてはならないと言った「私は正しいほかは間違っている」というものを根底とする煩悩汚れのなせる技でしょうからねw スマナサーラ長老の書籍やサンガ出版の「仏法」をオススメしておきます。 お役に立てば幸いです。
お礼
回答ありがとうございました。 上座部系の仏教には興味はあるのですが、日本では主流で無い事から、中々踏み込めずにいます。 釈迦の教えを知りたいといっておきながら、とても変な話ですが・・・。 実際には大乗仏教の宗派の中で自分に合ったモノを探す事から信仰をスタートするとは思いますが、きっと上座部仏教を学ぶ事が一番釈迦に近づく道なんだろうなとも思います。 回答を読み、テーラワーダ仏教が釈迦の教えを実践している、哲学的・科学的な仏教なのだろうなと改めて感じましたし、頂いた回答は私の仏教理解の助けになると思っています。 すぐにテーラワーダ仏教の会員になる事はないかもしれませんが、講演会などに行ける機会があれば、参加してみるかもしれません。 自分の知っている小さな知識の中での話しですが、私は釈迦の教えは科学的なものだと感じています。釈迦の教えは科学的な事実と人間の心の苦しみの原因とを結びつけているから説得力があるのだと思います。 諸行無常・諸法無我などは、現在の科学者でもイエスキリストでもきっと「なるほど」とうなずくのではと感じます。 そこを行くと弥勒仏が56億年後に現れるとか、10万億土の彼方に阿弥陀如来がいるとか、どう考えても科学的ではない教えが含まれている事が大乗仏教に対する自分の疑念です。 サンガ出版の「仏法」等の書籍は是非一読してみます。 丁寧な回答を頂いたこと、御礼申し上げます。
- Samantabha
- ベストアンサー率61% (560/916)
こうった種類の質問が出れば、たぶん上座部系の仏教を勧める回答がつくと思います。 上座部系の仏教は、歴史的にいっても、現状を見ても、日本では主流ではありませんが、お釈迦さまの教えを直接説いているという自負を持っていらっしゃいますし、事実、日本の大乗仏教に比べればお釈迦さまの時代の教えを実践しているのだと思います。 私はそちらの方面に詳しくないので、伝統的な日本仏教(大乗仏教)の中から、「禅宗」をお勧めしたいと思います。 禅宗は、ご存じのように坐禅を組んで、自己を見つめる教えです。自己の中にある仏性を見極めていく(欲望や苦しみの原因を知って、欲や苦しみのない自己に目覚めていく)ことを目的にしています。 現在日本に存在する他の伝統的宗派に比べて、お釈迦さまの教えに近いのではと感じています。 とはいえ、どの宗派でも結局は同じなのですが。 どのような道を辿っても、結局は「悟り」へ向かうのが仏教の究極です。富士山に登るのに、歩いて登ろうが、途中まで車で登ろうが、ヘリコプターを使って頂上に降り立とうが、どういう方法を取っても、富士山の山頂に到達すれば同じことなのだと思います。「富士山の頂上とは何か」さえ分かっていればいいのだと思います。 と、話が逸れましたが、 禅宗には大きく分けて臨済宗と曹洞宗の2派があって、どちらも本山などで坐禅体験ができます。 乞えば教えを説いてくれますし、寄附を募ることもありません(坐禅会の会費などはありますが)。檀家になる必要もありません。その性格からいって、完璧に「来る者は拒まず、去る者は追わず」です。 ただ、本山ではなく末寺の中には、小さい寺院であるがゆえに実入りが少なく、少しでもお金を稼がねばならないという、本来あってはならない「欲」を持っている寺も、残念ながら存在します。 ですから、できれば本山クラスの寺院で、まずは坐禅体験などをなさってみては如何でしょう。 下に曹洞宗と臨済宗の公式ページのURLを貼り付けておきます。 曹洞宗↓ http://www.sotozen-net.or.jp/ 臨済宗↓ http://www.rinnou.net/ それと、臨済宗系の禅文化研究所が発行している書物は、専門書も多いのですが、一般向けの法話(山田無文老師のものなど)の本がかなりあって、比較的分かりやすくて入門書としては読みやすいのではないかと思います。 禅文化研究所 ↓ http://www.zenbunka.or.jp/index.htm なんだか禅宗の回し者のようになってしまいましたが、特にどこかの宗派に属している者ではありません(^^ゞ。 それでは、長々と失礼しました。
お礼
早速の回答ありがとうございました。 そして御礼が遅くなってしまってすみません。 様々な観点からの客観的なご意見をお聞きし、とてもありがたく思っております。 自分の希望が上座部系の仏教に近いのではと何となく感じていたのですが、仰られる通り日本では主流ではないので、信仰を始めた時の周囲の理解度が心配でした。 例えば、会社で「何か宗教やってるの?(こういう言い方は信仰の無い人がよく言うと思います。)」と聞かれた時に、「うちは実家が○○宗だから、自分もその教えを信じてはいるよ。」と言えば、日本人として自然な事と思われると思うのです。 人からどう思われることなく信仰を静かに深めて行きたいのです。 自分がどう思われるかというよりは、家族がどう見られるかを気にしてしまっている様な気がします。 その点上座部仏教の場合は大乗仏教よりも、少し特別な見られ方をするという印象です。 釈迦の教えを知りたいと言っておきながら、それを一番教えている上座部仏教に対する周囲の理解を気にするなんて身勝手なモノですね・・・。 また、私は郊外に住んでいるのですが、上座部仏教にはお寺の様な信仰を深められる場所が色々な場所に無い事も難点です。まだ小さな子供がいる家庭を持っていますので、休日とは言え家族を置いてはそうそう遠出はできませんので・・・。 今思えば、私は日本の文化に溶け込んでいる大乗仏教の宗派で、より上座部的な宗派を知る機会があればと思っているのだと思います。 禅宗には実は興味を持っていましたので、URLを良く見てみます。 禅の体験は是非してみたいと思います。 禅文化研究所の本も一読してみたいと思います。 ありがとうございました。
お礼
あなたの仰った以下のことを数日考えました。 ”もうすでに、あなたはお不動様のご加護を受けていると思います。” ”機縁が熟すれば、必ずお不動様のご慈悲を感得する時が来るものと信じます。” 笑ってしまうかもしれませんが、あなたの回答から見えた私なりの考えを聞いてください。 そもそも、釈迦の説いた真理を悟る事など常人には出来ないと言う前提の下に、お不動様なり観音様という大乗の諸仏(空想の仏様)の力を借りて、釈迦の悟った真理のほんの一部の世界に常人が辿り着くことが出来る。それは確かに釈迦の悟った境地の一部であり、それによって確かにこの世で生きる力を授かる事が出来るのだと。 それはどういうことかと言うと、 ・・・自分があらゆる自然界の偶然やつながりや犠牲・愛情の中で生かされている存在であると言う事に気が付き・実感し・謙虚になり・感謝の心が自然に込みあがる状態(物事に執着しない状態)になるという事。 その様な考え方が、日常生活の中で自然に実践できる様になるには長年の信心の積み重ねあっての事であり、最初は空想の仏様であったお不動様なり観音様も、いつか自分の心の中には確かなものとして存在する様になるのだと。 そして、その小さな信心に導いて下さる仏様がその人にとっての仏縁なのだと・・・。 あなたはそういう事を仰られたのでしょうか。 だとすれば、私は不動尊信仰を深めるのが良いかと思います。 成田山を参拝していた事によってあなたのご意見と出会い、上記の様な気付きがあったからであり、これもお不動様のご加護かもしれません。 あなたには何度もご回答を頂いておりますが、最後にもう一度ご回答を頂けると幸いです。
補足
あなたの回答ではなく、私の御礼への補足です。ここでの質問のやりとりで、以下の様な考えが心に浮かんでは消えています。言葉に残さないと消えそうなのでここに書きます。その様な思い込みは、絶対間違いだとか危険だとか、何かのコメントをどなたかから頂けたらとの期待もあります・・・。 私の苦の根本原因は「生真面目」である事だと思えて来ました。 生真面目とは、間違う事を恐れ、嫌われる事を恐れ、非難される事を恐れ、称賛される事を恐れ、幸福になる事を恐れ、不幸になる事を恐れている・・・結局事物の変化を恐れている事に他ならない。変化を恐れているから苦しいのである。もう二十何年も私はその考えにとらわれて苦しんでいるのだと。 また、生真面目とは自分の力の及ばない余計な事を心配する事、その様は世間や世界の大きな力に任せればいい、考えて肩に力を入れても自分に出来る事は何もない。自分にできる事は目の前の事をやることだけ。 失敗すればいい、非難される時も称賛される時も別にこだわらなければいい、一切の事物は全て変化すればいいし、消える人間関係なら消滅すればいい、生まれないなら待てばいい、生まれたら享受すればいい、幸せな瞬間ならそれを遠慮なく味わえばいい。不幸になるのが天命ならその不幸を精一杯いきれば良い。