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水子供養につき私の考え正しいか?(少し長文)
当方実は今、自宅に安置したままであった母の遺骨をお墓を求め、やがては埋葬する事になるのですが、ある事が気になっています。 母の生前、私が熱心には聞き取っていなかったのですが、叔母によると、母は私を生んだあとに女の子を中絶した経験が有った様なのです。 もし生まれていたら私の妹となっていたはずです。 叔母は女の子であった事と日付(体外に出た日か?)のみ記録しておいてくれてました。 当然ながら名前も葬式も位牌も墓も何も無く、私は未婚の為よくわからないのですが、こういう場合何らかの形で病院で処理されたものと思うのです。 母は私を育てるに大変で、とりたてて何かの供養をしていたフシはありません。 水子供養をすべきかと思いましたが知識が無くネットで調べる程度しかできないのですが、どちらかというと水子供養を実施している側の見解ばかりヒットして迷っています。 調べた所ではこのしきたりは広まったのが実は割合最近(1970年代)の事にすぎない様です。 又、「供養をしないと霊障がある」というのは新興宗教で言われる事にすぎず、仏教上ではこういう伝統は実は無い様に感じられました。浄土真宗ではあきらかに執り行わないとしてる様ですし、他の宗派は執り行いはするけれどもそれは時代の精神的ニーズに答えてゆく(悪い場合は「営利」)意味合いの様に感じました。 自分は性悪な人間ですが多少可哀そうな気もしますし、霊障やたたりなど全く信じやしないタイプの人間ですが母や自分の事になると現金なもので多少は気にかかるもんじゃないですか。 「霊障を気にして行う事は水子を禍いのタネと解釈することになる」という仏教側の説は賛同できますので、やるとしたら通常の死者に対する様な供養を新興系でないお寺でしようかとは思いますが、それもせずにおこうと思ってます。 なぜなら「供養」というものが死んだ人間を幸福にしたり不幸にしたりで行うものではなく、死者はこの世の苦からの解放をえてすべからく平等に仏となり浄土へ往ってるのであって、「供養」というのは生きている者の心の整理や仏法を味わい優しい心を養う為に行うもの、というのが本当の仏教上の定義だと聞きかじった様な記憶があります。 どうせ亡き母の為の仏壇を用意するのでその上に妹をイメージできる小さな自分なりの勝手なモニュメントでも置いて、上記の日付の日や気が向いた時に自宅で自分ひとりで供養してやろうかと考えました。 現在のお寺運営などの立場などではなく、仏教の本筋からするとどうなるのか? 私のこういう考えで良いのか、 ぜひそれを知りたく思っております。 何卒宜しくお願いいたします。
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<はじめに> 私事ですが… ・私は、お仏壇の前で掌を合わせた後、父の額に向かって、「今日もありがとう」と心の中で謝意を表します。寝る前、電球を消す直前にも「今日もありがとう」と心の中で言って自室に向かいます。 親は、死んでも私を見守ってくれていると感じているからです。 「供養」と言う言葉はどこにも存在しません。 ・私にも、弟か妹か分かりませんが、いるようです。 それを認識してから、お盆の鐘撞き(私の地元の行事です)のとき、ご先祖様や父とかと同類(血縁があるけれど私より先に死んだ方)としてあつかっています。(「あつかう」という表現に違和感があるのですが、今は他の表現が出てきてくれません。) ただ、父とはすこし違うようです。感謝と言うより、「(私より)先に行ったなあ」的です。 ここにも「供養」という言葉は存在しません。 <「供養」について> ・父の命日に尼さんが月参りをしてくださっています。お経をあげ、また、お経以外の言葉も表されますが、その言葉の中に「(仏様をはじめとする方々に対する)供養」という表現が出てきます。「(コチラからソチラへ、)気持ちを込めて、(…し)奉る」的概念に思われます。だからではありませんが、当方も尼さんに対する「粗供養」と記した一封を準備しています。 私には、供養が自分に向かうものという認識はありません。 突飛的ですが…「無財七施」という言葉があります。禅宗の世界の言葉だと思います。お金は無い。でも、柔和な顔をあなたに施すことはできる。お金は無い。でも、良い言葉をあなたにかけてあげることはできる。…椅子をすすめることはできる。等です。 施すという言葉は「お布施」に、お供えという言葉は「供養」に。いずれも「相手」のために。感謝や尊敬や、その他諸々の気持ちを込めて。決して、「上から目線」ではなく。…と思っています。 <あなたへ> 美しい心をこれからも維持されることでしょう。真摯な態度でこれからも生きられることでしょう。 父が大好きだった言葉です。…「真実一路」 山本有三の小説のタイトルです。 真実諦めただひとり 真実一路の旅をゆく 真実一路の旅なれど 真実、鈴ふり、思い出す。 北原白秋 [巡礼] より 「私のこういう考えで良いのか(?)」 「あなたのその考えで良い!」(…将来、お考えが変われば…「やはり、その変わった後の考えで良い! 」でしょう)
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- yasu3794
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度々すみませんNO.3です。 決して恩着せがましくしているわけではありませんのでご了承を。 私はその筋で仕事をしている関係で持論を書かせていただきます。 宗教=信念・考え方だと思います。 (宗教的な考え方)という視点では日本に多くある仏教においても宗派ごとに若干の考え方の違いがありますし、世界に一番多いキリスト教の考え方も、もちろん他の宗教とは異なります。 全てではありませんが正月に【神社】に行って、お葬式は【仏教】で、結婚式は【キリスト教】で、なんて珍しくありません。 家には仏壇と神棚があって、困ったときには「神様・仏様」と言ったりします(私もそうですが・笑) 決して悪いわけではなく、これが日本の文化であり、考え方なのかもしれません。 結局それぞれの人が独自な考え方で貫いているのかもしれませんね。
お礼
ご了承だなんてとんでもありません。 そうですか。その筋のお仕事でしたか。 私も貴方様の様な柔らかい考えを適用したく思ってはいるんです。 結局つきつきめれば自分が知りたいのは、日本の風土で当たり前の様になってしまっている 「供養は死者の冥福の為に行っている」 というのが正しいのか、私が書いた様な 「死者はこの世の苦からの解放をえてすべからく平等に仏となり浄土へ往ってるのであって、「供養」というのは生きている者の心の整理や仏法を味わい優しい心を養う為に行うもの、というのが本当の仏教上の定義」 というのが正しいのか、という事に尽きるのです。 けして粗末な供養をしはしませんが「仏教=供養」と考えてる人が多く未だにそこからいろんな問題が起きてると思います。 仏教は歴史的にいろいろな影響を受けてきてしまってる為、その本体が見えにくくなってしまっていて、いろいろな声が聞かれて迷います。 お~~っと、何だか偉そうになりましたね。 本来はもっと俗っぽい質問のつもりが・・・ いづれにしろ大変有難うございました。
- yasu3794
- ベストアンサー率57% (4/7)
考え方、大正解だと思います。 「霊障を気にして行う事は水子を禍いのタネと解釈することになる」という仏教側の説・・・「供養」というのは生きている者の心の整理・・・とのお考えがあるように自分が気にしている[亡き方]を供養しているという感覚が一番大事だと思います。 一つのご供養が一つの良き出来事に結びつくという考え方が結局、先祖や家族を大切にする気持となり子孫繁栄に結びつく…。 なんだか、偉そうですみません。
お礼
大変有難うございました。 貴方様は憶測ですが自分に近い感覚の方だなあと、元気づけられた気がしました。 ただ、宗教的な考え方も知りたく思うのです。 もう少し待ってみます。 気にかけていただき幸せでした。
- sumiwaka
- ベストアンサー率22% (462/2090)
お母様のご逝去お悔やみ申し上げます。 素人で、仏教の本筋というのとはちょっと異なるかもしれませんが、我が家の仏壇で祀ってる方法です。我が家は真言宗です。 小さな水子の霊と彫った位牌を置いてます。仏壇のお位牌を置く場所の一番左端にです。 そして供養というか、毎日、お茶水をお供えする横に、小さな小さなコップにヤクルトなりジュースなり牛乳なりその日によって違うのですが、これは朝からお供えする父の気分次第です。 これは、うちのお寺のご住職がおっしゃることなのですが、人間生きてる上では、ずっと長い長い先祖がいて、その先祖様に守られて生きている、その先祖様の中には、不幸に流産した子もいれば中絶された子もいる、だから、その子供のために水子様の位牌を祀るのだと。 我が家は特別な供養は行ってませんが、年忌の時に水子様へもお経をあげてくださってます。 ご参考までに
お礼
ご親切にどうも有難うございました。 特別な供養はしてないとの事ですが、結構手厚いと自分は感じました。 不謹慎かもしれぬが自分はもう少し気分的にしそうです。 参考にさえて下さい。
- indoken
- ベストアンサー率37% (173/457)
きわめて まっとうな お考えのように 存じます。
お礼
そう感じて下さいましたか・・・ う~~ん。 どうも有難うございました。
お礼
読ませて戴きました。 私の為にこんなに丁寧に心がけて下さり有難い限りです! 読んで感じたのは貴方様は「自分の心」を見つめ言われたままではなく「仏教を自己を通して味わっている」そんな気が私にはしました。 さて、「手厚い供養をする事で死者がより安らかになる」という現在多いまるでキリスト教の様な解釈に対し自分は、死者はすでにひとしなみに安らっているのであって「生者が大事な人の死を思う事で仏法を味わい自分を養うひとつの機縁」、釈尊が供養をそれほど重視しなかったのに無視もしなかったのはここに真意があったのでは、というのがそもそもの疑問でした。 それに対し貴方は語源に遡り「僧侶への自然なる気持ちの発露」と教えて下いましたね。 ところで私が「供養は自分を養う」と書いたのは「意図的な自分の為」というより仏法の側からすれば実は「君は悟れぬかもしれぬが実は君の為になっているんだよ」の意味だったのです。ですから貴方が「供養は自分に向かうものという認識はありません。」と仰るのとそれほど隔たっていないと感じました。 貴方も「手厚い供養をする事で死者がより安らかになる」という考え方には同意していないのではないでしょうか。 有名な弓矢のたとえ(??)が有るくらいで釈尊はそもそも死後の世界にこだわる事を戒め、言及保留にしていたそうです。 釈尊以前のインドには無明の輪廻の世界とそこからの解脱の考えがあり、転生した世界で死者に解脱指導をする講師役の特殊の仏様を想定してたにすぎない様です。 この講師にがんばっていただく為に我々がお経をあげてもらっているんだ、の解釈も成り立ちはしますが釈尊個人の考えがはたしてそうであったかは疑いが残りますよね。 釈尊の説いた仏法というのは世界的にみればかなり独特のもので世界の主流は天国と地獄の対比の世界ですよね。 仏法に纏わりついていったのではないか、と私は思うのです。 私は平凡な一市民として自分の心の命じるままの対応をしてゆこうと、それしか思いつかんのです。 いづれにしましてもとにかく、貴方様の温かな気づかいに触れる事ができ、良い経験になりました。 本当に本当に有難うございました。