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無理解は無理解のままに(11ぴきのねこ)
- 11ぴきのねこシリーズの中で、11ぴきのねことへんなねこ、11ぴきのねことあほうどりの話が特に気になる。この絵本では、ねこたちの無理解と共感の欠如が描かれている。
- 絵本の中での無理解と共感の欠如が、現実の生活でも時々遭遇する感情と重なる。しかし、その中には思い合いながらも分かり合えない暖かさが存在する。
- 11ぴきのねこたちの無理解な態度がなぜ可愛らしく感じられるのか、それを解明する鍵がこの絵本にあるのではないかと思う。
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こんにちはー。 先の投稿は別にして、この本図書館で読んでみました。 UFOの話の方です。 で、感想です。 暖かくかわいらしいと思うのは、僕は猫が自己肯定できてるからだと感じました。 この猫たちには、理解も共感もないですが、別になくてもいいと思います。 理解しなくても共感しなくても、なんというか、受容というか、分かってるというか、 それがあれば、あとはやりたい放題していいんだなーと思います。 暖かいのは、いわゆる愛ですよねー。 愛は、言換えると言葉で表現すると、なんにもないことだし、この童話の話にぴったり当てはまる概念だと思います。 無でもいいと思いますが。 わかり合えなくても思い合えるーー この童話の場合、みんなにたような性格の猫ばかり、のような気がするので、 理解や共感を意識的にしなくても、お互い相手と自分を了解できてます。納得、あるいは受容です。 でも人間の場合、その性格と環境の幅は、この猫とは比較にならない多様性があります。 その多様性ゆえ、ものすごく複雑な文化も創り上げていますが、それ故相互の了解は、ずっと難しいです。 相互に相手を、あるいは自分を了解できないときに、理解や共感で乗り越えよう、とする努力も猫の場合とは比較にならないやろうなーと思います。 多分、理解や共感が本質だ、という誤解があるのではないかしら? それらは、手段だと思いますー。本質ではないので、状況次第ではなくてもいい、という物ではないでしょうか?
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- sheep67
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こんにちはー。 おこり地蔵は、人間にとって何が大切かを示唆する話だと思います。 だから、おこり地蔵と、この猫ちゃんの話は、何が大事かを指し示す、という意味で同じものを表現してる、と、しばらく考えて思いました。 当初は、質問者さんの言われるとおりと思ったですが。 そのあと、その瞬間を、時間の流れを無視して、無理に現状だけを、薄い意味での今の瞬間だけを切り取るなら(=把握のみに頼る)、ネガティブにしか取れないと感じました。 なぜなら、希望はパンドラの箱と同じで、時間の矢の先にあるから、かしら? なのであとは認知の問題だと思います。 2つの話が指し示すのは、目に見えない物こそ大事、という青い鳥や、サンデクジュペリの言ってることと通じますし、 そんな目に見えない何かを正気で認めるかどうか?みたいな。 信仰にもつながりますが、信じることの大切さかなーと。 ただ、猫の話は、信じることには焦点の当たってない表現だし、 おこり地蔵のほうは、そこに焦点の当たる表現方法ですが。 まあでも、世の中理屈じゃないんだーと思うのは、理屈大好きな僕には辛いですが・・ そんな論理でも可視的な物でもないものを、明確に認知してるかどうか、という自覚的な話しじゃないでしょうか? あと、下の方の返事で書かれてた純粋、というのは、別に子供だけの言葉とは思わないんですが・・大人でも純粋な人はいるんじゃないかなー。身近にいる訳じゃないけど。 無理解と共感の欠如は、今の瞬間を把握で切り取って、空間認識的に捉えると(いわゆる現状、という風な)、そう見ると、そりゃーダメと思いますが、 流れ、傾向、つまり、時間軸に沿って変化していく、ということを中心にして読むと、2つともいい話だなーと思います。 どっちにしても、極限の話ですが。 別の言い方ー猫の無理解っぷり、というのは、把握による今の瞬間の馬鹿さ加減。 暖かくかわいらしい、というのは、多分、感情の、あるいは人間の内面の流動性から来る物と思います。時間軸に沿った、変化と傾向です。 人の現状今の状態でなく、その人が、いい方へ向かう傾向ベクトルがあるか、あきらめて悪い方へ向かうベクトルを持っているか?という視点で見ると、 お地蔵さんの前で死んだ女の子は、明らかにいい方へ向かうベクトルを持っているし(お地蔵さんも)、猫の話は、読んでないので分からないけど同じじゃないかしら。 この2人は、お地蔵さんも女の子も、周りのネガティブに引きずられず、信じるものを信じてます。 (周りの戦争や死体や、そういうものに心を持って行かれてない、という価値観の問題で、お地蔵さんはおそらく仏法を、女の子はお母さんを信じています。信じるから、気持ちや理性を状況に奪われないという仕組みで、信じる、という強い集中下においては、他のことは目に入らないです。常識を見るか、信じる現実を見るか?みたいな・) そういう、上っ面でなくいい方向へ向かいたいという傾向性時間変化は、見えないものを信じることで可能になると思います。というか、いわゆる現実を見る限り、悲観は当然だと思うし、 可能性を信じる限り、楽観は当然だと思います。 (例えば、猫や赤ちゃんは、絶対的に信じるものがありますしー) でもこの辺りが僕も割り切れてないところで・・・微妙。。 この2つが論理的に乖離するのは、「信じる」と言うことが、決して論理的に表現説明できないから、と思います。 それは理屈抜きを意味しますし、無条件を意味しますし、論理すら排除します。とどのつまり・・でも、 でも感性や直観の極限を、何とかして形に表せるなら、もしかして可能ではないか、と僕は思ってます。 それはもちろん、論理や理性の否定ではなく、その前提条件の仕組みです。 追加ー 胸が温かくなるというのは、情緒的、感情の仕組みです。 感情とは、変化を象徴として人の脳が把握している物、と思います。 つまり、感情とは、時間経過に伴って変化する状況の変化の解釈の、具現化だと想像します。 質問者さんは、猫の心情の、物語のストーリー内での、時間経過に伴う猫の気持ちに、一時的には、ちゃちゃ入れてやろうからかってやろう、という傾向があっても、長い目で見て=長い周期とスパンで見て、悪くならないでおこう、良いところから離れないでおこう、という傾向性を感性で読み取って、暖かくなったんだと思います。 長い目、とは、永遠であり、それは、今一瞬にもなりますよねー。 把握と感情は、全く等価値な人の内面だと思いますし、どちらが欠けてもまずいと思います。 無理解と共感の欠如は、やはり、この2つのうちの、どちらかだけが優先して重要だ、本質だ、と感じる人の直観に由来する、と思います。 2つは、感性と把握は、全く平等だ、というのは、めっちゃいつも言いたいことです。 夏目漱石さんが、情に棹させば流され、知に棹させば角が立つ、と言うように、どちらかだけに棹さすなんて考えられないと思います。 時には思考優先、時には感性優先、でもその実体は、両方を自由に使い分ける、というそういう状態を、まあ・目標ですねー。 自分で言ってて口幅ったいけどまあ・・・理屈と言うことで。
お礼
回答ありがとうございます。 思うままに書いたら長くなりました。。汗 補足欄にて。
補足
お久しぶりです、、、になりますでしょうか。 回答頂きありがとうございます。 私事ですが、勝手な事情から疲労と空腹でふらふらですので、あまり真剣に私の一字一句にこだわらず、御読み頂けると幸いです。 >何が大事かを指し示す、という意味で同じものを表現してる、 あ、私の感想はちょっと違います。 「おこりじぞう」は明確な思想?思考?があって、それを伝えたいと思っています。 でも、「11ぴきのねこ」は真逆に感じます。 無思想、無思考、と言う感じ。 無批判とも言えます。 多くの人は、意識的にも無意識的にも、周囲を見回す時に、自身の思想/思考/経験等から生じる、批判?のフィルターを通して物事を見ます。 ちょっと強めの言葉で言えば、偏見とか独断とか、って言葉になるかと。 そして、物事を思考する為に、結局は「世界を切り取り」ます。 「切り取った世界を閉じる」事で、人は対象物の思考と批判?を可能にしています。 「11ぴきのねこ」では、世界は世界のまま。 見えた範囲、見た範囲、見たもの、見えたもの、やって来たもの、落ちていたもの、思った事、、、、 あーーーーでも、絵本である以上、何かしら「切り取って」いる、とも言える。 んーーでも、そうじゃない。 何て言えば良いかな。。。。 ねこの話は、信じるも信じないもない、と感じます。 生きるも死ぬもそのまーーんま。 あほうどりを食べたい、とねこたちが思う事が、あほうどりの命に関わる事だなんて、一言だって書かれていないし、思う必要も無さそうな。。。 人が動植物の命を奪って食して、命を繋いでいる事。 この事に罪悪感を問いたくなるのが人間ですが、だからと言って、食べずに生きる事が出来る訳じゃない。 他者の命を奪って自らの命にする事の正誤や罪悪なんて、実は存在しない?と思わされるのです。 sheep67様のおっしゃる「時間軸」。 これかなあ。 万物流転、国破れて山河在り、ハードボイルド???。。。。 何一つとして、こうしようとか、変えてみようとか、視点がどうこうとか、、、「コントロール」と言う物が見当たらない感じです。 無意志?の視線が、こんなにも暖かく感じてしまうのは、きっと私が自分をコントロールしようとし過ぎるから、かもしれません。 その結果としての、疲労であり、故障であり、病です、きっと。 無意志で世界を受け入れて、世界はともかく、自分が崩壊しないのか? 崩壊しないならば、私はそうして生きて行きたいです。
- kigurumi
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あ、、違った。 ヒルベルはお医者さんの先生の養子になりたかったのに、連れていかれそうになって暴れた。 それをお医者さんは「いつもの発作だ」と誤解したわけです。 ここで腰をかがめて、ヒルベルの話を聞いてあげたら、誤解は解けたわけです。 そのあと薬漬けになってベッドで植物人間のように横たわっているヒルベルを想像してしまう。 カッコーの巣の上でって映画もそうです。 結局、問題を起こし続けるマクマーフィーは精神病ではないが、社会・集団にとっては危険人物だと判断され、前頭葉を切り取られて人形になってしまった。 その他の患者は、処分を免れているだけ。 電気ショックなどをもって治療と称して体罰を与えることで、従順な人に変えようとしている病院側のやり方に、マクマーフィーは立ち向かったわけですが、手術されてしまって敗北。 病院側は決して悪人じゃないわけですが、、、 患者が問題を起こさないでいてくれれば、成果が上がっていると自分たちのやり方の正しさを確認できて、<自分たちは>満足なわけで。 で、結局 植物人間になってしまった処分されたマクマーフィーを見て、彼を助けるために殺して精神病院から抜け出し社会に出たone。 薬で凶暴性が抑えられていたoneをマクマーフィーが覚醒させてしまったわけで、これもまた怖いわけで、、、、 難しい問題なわけです。
- kigurumi
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子供向けの童話は、勧善懲悪もののほかに、大人の常識とは逆転したストーリーのものもあります。 特に逆転の内容は大人たちに癒しを与えたりするので、最近童話ブームになっているのだと思えます。 逆転の内容。 例えば、あんぱんまんよりバイキンマンの方が子供たちに人気がある。 ヤッターマンよりヤッターマンの敵側の方が人気がある。 やっつけられる側なのに、何故もこう子供たちに好かれるのか? あんぱんまん=大人、バイキンマン=自分 の構図。 11ぴきのねこは歯医者の待ち時間で読んだことがある気がするが、ほとんど内容は覚えていないので、、、 >11ぴきのねこたちの、見事なまでの無理解っぷりが、何故こんなに暖かく可愛らしいと思えるのか? ふーん 無理解ぶりが暖かく感じる? 天然さんが人々から愛されるのと一緒かも。 無理解ぶりがイタイものもあります。 <ヒルベルという子がいた>という童話。 孤児で施設にいるヒルベル。 困った子供で、大人たちは手を焼きますが、園長先生だったかな?その人だけは寛容さを持って接していたんです。 ヒルベルのやることは、他の人達には理解されません。 手の焼ける問題児だって思ったわけです。 ヒルベルは他の先生のように自分を叱りつけない園長先生が大好き。 大きな問題をまた起こすわけですが、ヒルベルは園長先生が施設の子を自分の子としてひきとっていると知り、自分も養子としてひきとって欲しいと思ったんです。 だけど、問題を起こしたとき、園長先生は「処置なし」って言ったんです。 ・・・・・・・ 今まで、ヒルベルの目線になるように腰をかがめるような接し方をしていた園長先生が、かがむのをやめて、立ち上がって大人の視点からヒルベルを見下ろし「処置なし」って判決を下したわけです。 偽善者。 こういう偽善者の方がタチ悪い。 というかイタイ。 「そうじゃないのに そうじゃないのに そうじゃないのに。ああ ヒルベル ヒルベル ヒルベル」と読者はなすすべもなく泣くしかないわけです。 「かつてここにヒルベルという子がいた」という出だしから始まっています。 「前はいたがもう今はいない」ってことです。 処分されたので いない ってことです。 無理解ぶりが痛すぎる童話です。 ヒルベルが処分され平和が戻りった施設で、ふっと誰かの頭にヒルベルが思い出されて振り返るが、友達に呼ばれて「まってー」って言って、前にいる仲間に合流する風景を想像した。 うわーーーーーん! 読み終わったあとしばらく泣き続けました。 11ぴきのねこはそんなひねった作品じゃなくて、小さい小魚でも群れをなせば大魚も倒せるんだぞーってことを言っているんじゃないかと。 大魚 つまりヒルベルを倒す。 倒すんじゃなくて、、、ねぇ・・・
お礼
あ!素敵に貴重な方が来てくださって嬉しいな。 回答ありがとうございます。 そうは言ってもきぐるみ様の回答は、私にはどう読めばよいのか?どう読んでほしいのか?がうまく掴めないのです。 きっと、好きに読んで!ってお考えなのでしょうけれど。。。 余談ですが、 私は自分のズレを物心付く頃には意識していたのかな、 いつも「相手の期待」に添って動いて来ました。 その期待はどう読むか?となると、本から引っ張ってきたり、道徳や倫理から引っ張ってきたり、、、まあ、両親の小言から主に構築して来ました。 だから、家族に赤ん坊がやって来るまで、ずっと「子ども」が怖かった。 だって、子どもって何にも期待などして来ないから。 相手の期待が読めないと、私は行動の取りようが無かったのです。 子どもはありのまま、と言うか、見せられたように、と言うか、 良くも悪くもそのまんま、世界を見ているように思います。 子ども本人の感受性に照らし合わせてもいるのでしょうか。。。 >ふーん 無理解ぶりが暖かく感じる? 無理解に出会った時、私はとてつもなく否定的な感情に捕まってしまう事が多いです。 その所為で、視野が窮屈偏屈。世界の見方まで変えてしまうように思います。 でも、「11ぴきのねこ」では、無理解の後先で、世界の見え方が何も変化しない。 まるで、無理解など有ったのか?無かったのか?すら忘れてしまうような、変化の無さ、なのです。 その様子が、私の経験と照らし合わせて相対的に「暖かい」と感じたのです。 私の経験が冷たすぎる(自分で冷たくしている)だけとも思います。 もしも、あほうどりがねこたちに食べられちゃっても、この絵本は淡々と何も変わらず描写を続けそうな、そんな感じです。 距離のとり方が絶妙、と言うか。 世界の眺め方がどうしようもなく寛容で柔軟で、自然体、と言うか。 >11ぴきのねこはそんなひねった作品じゃなくて、 ひねりは皆無、と思えます。 まるっきり「そのまんま」「見えたまんま」。 私も、そのまんまで世界を見ていたい。 無理解も全て、そのまんまで、自分の認識で世界を狭めたり冷たくしたりしないで、ちゃんと感じていたい、と思います。 そのコツ?が、この絵本の適当さ?に見えた気がしたのですが。 あ、、、もしかして、コツは「適当さ」なのかしら。。。。
読んでないので何とも言えませんが、純粋だからじゃないですかね。 いわゆる大人と言うのは、まわりの事ばっかり考えて、自分の意志を押し殺すこともしばしばあります。 しかし、自分の望むままに生きたいのではないでしょうか。 特に、子供っぽい単純な願いほど純粋で強いものですので、 それを美しいと感じるのかもしれません。
お礼
早々に、ありがとうございます。 >純粋だからじゃないですかね。 子供向けだから、と言う視点は省いてお願いしたいです。 あつかましいお願いですが。 純粋で強い、はそうかもしれませんが、 では、自分の丸焼きを想像されて舌なめずりされているアホウドリにとっては、純粋やら強いやら、言っていられません。 でも、両者は思いっきり互いの思惑を外れているのに、ちゃんと共存しています。 絵本を例にしていますけれど、現実社会のさまざまな関係は、実は「互いの思惑を外れているのに成り立っている」ではないでしょうか。 あ、美しいとは思いません。 ただ、「暖かい」と思ったのです。 ねこたちとアホウドリ、あるいは水玉猫の「結局は何も起こらなかった関係」を、美しいとは思いません。 ありがとうございました。
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お礼
>多分、理解や共感が本質だ、という誤解があるのではないかしら? >それらは、手段だと思いますー。 本質ではないのは何となく分かるのですが、では「何の為の手段?」としばし悩みました。 先に上の回答への返信を投稿した後に戻ってみたら、何となく、 「関係を滑らかにする為の手段」かな、と思いました。 若しくは、関係を潤滑にした事での「生き易く生きる為の手段」かな、と。 ありがとうございました。