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比較宗教学批判
比較宗教学批判 ¢宗教£という言葉も問題だけど他にどういえばいいかわからないから宗教ですけど、そもそも異なった宗教を比較可能と考えるのはおかしいのでは? 比較可能だと判断するから功利主義よろしく量と質って、相変わらずそれな気もするけど幸福にするとかしないとか効用論で判断したりあーもう経済学に社会学ってか近代思想に毒されてんですよ。たぶん。
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十年ばかし前、経済学科の学部生をしておりました。 していたと言うにはおこがましい、中退生でもありますが。 で、学部でどの科目が一番印象深く、興味深く、未だ色々と思うのは比較宗教学の講義です。 ちょっと変わり者の、緑色の(苦笑)神道の先生でした。ご本人も神主で。 宗教と言うものの成立?の経緯や、発祥地の地理的環境が教義や信仰に与える影響。 死が存在する以上、そしてそれを認知できる知能が人間にある以上、「信仰心が無い」は、あり得ない?事。 >幸福にするとかしないとか効用論で判断 これは無かったですけれど。 あーー、私が行けなかった時期の講義でやったのかなあ。。。汗 でも、あまりそういう風に、簡単に何かを比較する人ではなかったし、 効用論がもし、あるにしても、そこにたどり着くまでに考えねばならない事柄が山積みです。 ひとつひとつ考えていくと、効用論などどうでも良くなってしまうように思います。 以降は私のなんとなーーくの考えですが、 もしかしてもしかして、神道とか多神教を認めていないと、比較宗教は難しいようにも思います。 たぶんにたぶん、、、全ての宗教は多神教にも思えますが。 一神教を名乗っていても。 効用論は、たぶんに無理があると思えます。 発祥地とは異なる地理条件の土地で、同一の教義が同様の信仰を得るとは思えませんので。 でも、効用論は無理だからと言って、比較宗教そのものが無理、とは思えません。 宗教であるから、比較する人の思想や信仰の影響はたぶんに受けるでしょうし、それらを完全に廃する事は不可能とも思いますが、 出来る限り冷静に、普遍的に、一般的に、、、と言う視点を追い求めつつ考える事、そのものに意味があるように考えております。 効用論と言う視点は、質問者様のおっしゃるように、近代思想?に多分に毒されているでしょう。 でも、比較が不可能とは思いません。 比較すべき点はそれこそ、八百万にありますから。
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- kurinal
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、とくに経済学は罪深いと思う(笑) ・・・て、「仮説」までを否定するのは、どうかとも思う
お礼
仮説といえば嘘がまかり通る世の中でござい
お礼
神道は新興宗教ばかりの気がします。バイト先も母方の親戚も神道は。 神社神道の講義は学習院じゃないと無理なんですかね