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K・ポパーの形而上学批判の矛盾?

 K・ポパーはその著書「開かれた社会とその敵」でプラトンからハイデッガーにいたる形而上学/本質主義をファシズム/反ユダヤ主義の元凶のひとつでもある陰謀史観と同様の思考形態であるとして厳しく退け批判する一方、事実と当為の二元論を「信じる」とも書いています。  けだし、事実と当為(自然と倫理、科学と道徳、・・・であると・・・であるべき)の二元論(二分法)はそれ自体形而上学に属するはずで、先述の批判と明らかに矛盾していると思われるのです。  ポパーはなぜこのような思想を展開したのでしょうか?皆様のお考えをお聞かせ願います。

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回答No.1

> 事実と当為(自然と倫理、科学と道徳、・・・であると・・・であるべき)の二元論(二分法)はそれ自体形而上学に属するはず この意味がよくわかりません。どうして「事実命題から規範命題を導くことはできない」(これはそもそもヒュームの法則が元になっているのですが)という原則が「それ自体形而上学に属する」ことになるのですか? もしかしたら「事実」と「当為」を分けて考えるというように、ふたつのものを対立させる「二元論」自体が「形而上学」に属すると考えておられるのでしょうか? となると、エロスとタナトスを対置させたフロイトも、「実存は本質に先立つ」といったサルトルも、みんな「形而上学」というおかしなことになってしまいます。 確かに近代の哲学は機械論的自然観と人間精神の二元論を基調として進展していきました。ポパーは『開かれた社会とその敵』の中で、その「自然-精神」という二元論を批判するために、プラトンまでさかのぼっていきます。 けれども「二元論」という思考の方法そのものを否定しているわけではありません。むしろここではプラトンの「社会学」の方が「素朴一元論」であるとして批判にさらされています。 この第五章では、「事実」と「当為」という命題を、外部から(世界を俯瞰する視点から)考察するのではなく、現に社会に属し、規範や道徳が意識のすみずみにまですりこまれている「私」として、「規範」がどういったものであるかを考察し、「規範や決定あるいは政策のための提案などを述べた文を事実を述べた文から導くことは不可能である」(上巻 p.77)という結論を導かれていきます。そこからさらに、正義や指導者、「開かれた社会」といったものに考察は進んでいきます。 もしかしたら質問者さんは「信じる」という言葉に引っかかっていらっしゃるのかもしれません。 実際、「私は(…略…)自然の規則性を記述する言明と(…)規範の間の区別であり、これら二種のの法則はほとんど名前以外の何ものをも共有していないと信じる」(上巻 p.72)と言っているし、さらにこのことは二十五章の結論部でも「この事実と決定との二元論は根本的である、と私は信じている」と繰り返されていますが、この「信じる」というのは、「信仰」をもっている、という意味ではなく、 「合理主義とは基本的には、『私は間違っているかもしれない、そしてあなたが正しいのかもしれない。そして努力すれば、われわれはより真理に接近しえよう』ということを承認する態度である」(下巻 p.207-8) に対応しています。かの有名な「すべては批判に開かれている」というテーゼに立った上での「私は信じる」ということなのです。 あまり細かな言葉遣いにとらわれず、まずは大きく意味をとらえるようにして、つねに全体を貫いていく筋道を失わないように読んでいってください。

maskkazu
質問者

お礼

 事実と当為の区別をカント的な意味(自然の形而上学と道徳の形而上学)としてしか考えていなかった当方の不勉強でした。かつまたポパーの浩瀚なテクストの読み込みも甘かったとは・・・。  たいへん勉強になりました!