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般若智における不異から即へ(感性による照合の深まり)
般若智は無分別智とか直感智とか言われますが その実際の内容は、感性による対象の把握と照合の働きだと思われます。 不異とは、ほぼ同じ 即とは、完全に同じ(完全に等しい、互いにそのもの) これらはいずれも、感性による照合の深さ(レベル)に準じた判断の結果なのではないでしょうか。 即という言葉は、完全に等しいという照合の結果(状態)を表すに相応しい言語として、これもまた照合により選択されたものなのでしょう。 (即)=即 感性による対象の直接の把握と照合なしには、即、はあり得ないものだとするならば その対象である二つのものは、いずれも実存的なものか、または概念的なものである可能性があります。 色と空はどちらも実存的である可能性があります。 諸法(即)空相は、前者の照合を基とした、より大きな概念的なもの同士の照合なのかもしれません。 般若(即)呪といった事においても上記の事柄を基に考察を進められるものと思っています。 阿即空という体験に入れば、これらの疑問も全て氷解してしまうのかもしれませんが、その前に試行錯誤を含めた考察をしておく事も必要かもしれないと思っています。 どなたか、ご教授願えれば幸いです。 よろしくお願い致します。
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- sheep67
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すいません、自分で書いていてなんですが、 話の内容が僕の悪い癖で、四方八方に飛び散りすぎた気もするので、 適当に剪定してやってください。 いらん話は切り取ってもらえれば・・ずいぶん質問の趣旨と違うことも書いてしまった気がするので。
- sheep67
- ベストアンサー率28% (36/128)
つづきで・・ 僕はご教授なんてくちではないんですが、感想文のつもりで書きます。 概念は、実存の一面的把握じゃないでしょうか?時間的変化は概念の考慮にないみたいだし。 今現在から見た所の、把握と感性の順でいうと、把握を優先にした(感性を無視してるわけじゃないけど)物が、概念じゃないかと思うんですが。 把握より感性優先なら、心情表現や感情表現になると思います。 「即」というのは、概念上完全性だと思ってます。 完全性なので、本来すべてのはず。tansllさんも、完全なる実存の把握、と書かれてますね・・同じ意見かも。 実のところあまり、密教や禅系の、つまり、他力本願でない仏教は詳しくないので、勉強中です。 僕自身全く違う切り口からここに来てます。 >認識や表現は全て概念面に留まる これはまったく、言う表現する言葉があれば苦労しないですよねー本当。苦労します。 ただその意味では、即も、やはり概念だし、 ほんとの完全性は、認識と、感覚と、経験が、3つが同時に起って欲しいという感じがします。即が起るには、この3つが揃うことじゃないかなと・・。たぶんですが。 即そのものについては、僕は物理が好きなので、等価、という言葉を使ったりします。つまり、物とエネルギーが、見かけ全く違うものなのに実は本質は同じだ、という風な意味合いです。僕の中で、即に近い言葉は、等価ですねー。同じ価値、というニュアンスです。 概念以上、概念より深い世界状態は、これもずーっと考えてますが・・むずい・・ 他の概念を持ってくると、言霊の世界かなー。人の本音むき出しの世界、というイメージがあります。 上に行くのも、下に行くのも、最終的にこの本音の自分が決定しますし。 呪と言霊は、ほとんど同じ、と言うと言い過ぎかも知れないけど、かなり親戚筋の近い概念だと思うんですが。 お書きになってる作用と、感性は、別物ですか? 作用の世界、というのはなんかいい表現だなーと思いました。 実存と言われる本質と、 そこからの作用である、呪や直観 空。 さらにそこから生まれる認識や感性、現実、と、おおざっぱすぎますが僕はそんな風に見えますが。階層的に。 作用=空、つまり、作用即空、なんでしょうか・・ 人の本音が、呪や言霊で驚くほど左右されるのは分かりますが、作用とは言葉ですかねー・・。聖書でも最初に言葉ありきですし。そもそも言葉がないと、認識が成り立たないですしー。 言葉がない場合、人が本質を見失うことはありえない、と思うんですが・。言葉は、それ自体の自己矛盾によって消える(空)のが本質じゃないかと想像・・。だから、阿即空というのは、理屈上はそうと思うんですが。 まだまだ厳密さに欠けまくっていて、どうもこれは・・ 僕自身、実感と論理の乖離がまだあって、それは論理に厳密さをかくからだ、と思って、もっと曖昧なところをなくしたい、と願ってます。 内容が慢然となってしまいました。まとまりないですが。
お礼
有難うございます。 作用、という事を軽々しく言ってしまいましたが 本当のところは私にも分からず、あくまで試論の段階です。 呪というものについて、今の段階での考察をお話します。 呪とは狭義においては真言を指すものと思われます。 広義においての解釈では 言葉の力、または力のある言葉、それも唱える事を意味します。 ここで言う力とは、何らかの作用を及ぼす働きです。 ある言葉を繰り返し唱える事により、現象に作用し変化をもたらすという働きです。 こうした呪(マントラ・真言)を唱える行いは仏教以前から存在し、俗願の成就に用いられていたと言われています。 いわゆる雑密といわれるものでしょう。 これが仏教に取り入れられた事は、保守的な上座部からみれば堕落であり、また危険な思想の展開としか見えなかった事でしょう。 しかし、この呪というものの本質的な面に新しい解釈を下し、取り入れて体系化されたのが純密といわれるものです。 般若心経に見られる呪は、般若智に導くものとして書かれているように思います。 呪の働きの深まりが、同時に直感的な智慧(感性的な智慧)を生む事を示しているのではないでしょうか。 そして、この智慧の世界において明らかとなるのが、即という現象と真理との同時性なのでしょう。 そこにおいては、単に同時であるだけではなく、能動的な作用の面も明らかになるものなのかもしれません。 この辺のところは、実修なくしては語れない部分であると思っています。 呪である真言の解釈は、空海の般若心経秘鍵に見られる一文が最もたるものとして有名です。 空海は、真理の働きかけが現象に作用を及ぼす事を、加持という言葉で表現しています。 呪である真言の働きにより、深い智慧の世界に参入し、真理から現象に作用をもたらす事も説かれています・・・ このぐらいにしましょう。 これ以上は、私のような生悟りの者に言える事では無いように思います。 ご参考になさってください。
- tumaritou1
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素人ですが、参加させて下さい。この認識方法は、心自体の機能の違いから大変に分かり難いと思います。思考方法の違いという事です。感性にしても、分別にしても、人間の自我意識は言葉で考えています。そうして学んで来て、思考方法が分別で思考しています。 処が分別をしない思考方法が求められています。分別を捨て去った後の思考方法のことです。言い方を替えたなら「言葉を使わない」思考方法という事になります。仏教の根本は「一切皆苦」です。言い方を替えたなら、深刻な悩みと言う事です。「意識の根底まで降りていって、もう言葉が無くなって、意識が在るか、はたまた無意識なのか、その奥にまで下りてゆく事」の中にあります。 意識が無くなったところから、又意識が芽生え始める時の事です。その時に、自分の心は「自我意識」と「無意識の意識」が瞬間的に同時に存在する場合があります。その事が「自分自身を知る」つまり見性した、という事になります。 その二つの意識の出会いが「悟り」という事になります。自我意識は左脳に在る分別脳です。割り切れることが専門の機能の脳です。割り切れる事を「有限」と言う名前にしています。有限を担当している脳という事になります。機能的に永遠は理解できないと言う事になります。 無意識の意識(仏性)は自我意識と交代制になっています。見性した瞬間に、お前は誰かと聞く必要が無かった事が分かります。知っていた存在という事になります。仏性は右脳の意識です。分別はしません、分別出来ないように出来ています。言葉も持っていません。言葉も分別も持っていません。割り切れない存在です。割り切れないことは無限と呼んでいます。言い方を替えたなら「永遠」と言う方が合っています。 この出会いによって分別が無分別に飲み込まれてしまいます。この言葉が「生死の問題が解決する」という事になります。矛盾が矛盾したままで矛盾しなくなる、と言う意味になります。是が即非の論理です。般若智です。 悩みと言う観点からした場合は、意識の根底で、躓いて苦しんでいる自我意識に永遠と言う概念で、助けようとします。今までの苦しさはその手を振り払おうとしていた事によって受けていた苦しみと分かります。今度はその手を振り払いません。意識の根底からの救いを受け止めます。 今までの何処から来ているのか分からない苦しさ「一切皆苦」の原因が取り除かれます。心の矛盾が解消します。体が軽くなります。全身から力が抜け落ちます。「一切皆苦」と言う事で全身に力が入っていたからです。それ以後は心に矛盾は生まれません。それが涅槃という事になります、「限り無い心の静けさ」或いは「絶対の安心」と言う意味です。 有限と永遠の対立が心の矛盾の正体です。有限の壁は自我意識が降りたときに、壁などは無かったと分かります。壁とは分別で勝手に作り出した妄想と分かります。元々壁などは在りませんでした。分別心が成長して壁を作っています。分別心とは言い方を替えたなら「好き嫌いを言うところの、思考方法」という事になります。 好きと嫌いを言わなかったら「道」にはいることは簡単です。簡単ですが、「好きと嫌い」を言わないではいられません。言葉が無かったら、もっと簡単になります。
お礼
>・・・大変に分かり難い・・・ 全くその通りです。 五感と意識による認識とその表現であれば、分かり易いのです。 ですが、私は敢えて自己流の解釈を試みました。 誰も書かない解釈をして、皆さんに問いてみたい気持ちもありました。 教えを請いたいという気持ちもありました。 それは、般若心経に触れてから、もう40年くらい経ってしまい、そろそろ結論を出しておくべき時期が来たように思えたからです。 回答者様の貴重なご意見も参考にさせていただきます。 有難うございました。
- sheep67
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下の方への返事を見て思ったのですが、 不異は、確かに状況判断かなーと思います。今の目の前のを認識して、違いがないというのが不異だと思います。 即は、つまり逆に、それは状況判断だけではない、と思いました。 即という言葉には、ある種の完全性、時間も空間も現実も皆含まれている、と感じます。 空間を切り取るような状況把握に加えて、 時間による変化も足さないとと思うし、 感性や関係性とは、全く時間経過による「変化」が本質だと思ってます。感性や心は、時の流れがないと存在しないし。 空間的な把握、時間的感覚、そして意識、という3要素が大事と思うのですが、3つの要素の一致が必要と思います。 そうであれば、不異は、空間的要素だけかな?と見えます。 でも、即は、今ここでこの瞬間に意識がある、という意味に取りますし、それは3要素の一致だと想像します、経験はしてないですけど・・ 感性と把握の一致を意識することが即なら、2つの物は、実存的と概念的の両方の性質を兼ね備えた物で、それはつまり実存的のみでも概念的のみでもないと思うし、 (実存=現実的な物、概念=空間認識的なものとしてます、加えて感性的な物でもあると思ってます) もしどちらか一方だけが色や空だったら、考えとしておかしなことにならないでしょうか? いえ、たぶんですが・・ 僕も考え途中です。変なとこあれば、またお書きください。
お礼
有難うございます。 実存と概念の違いについてですが 概念とは対象と言語との照合において選択され、規定されたものではないでしょうか つまり実存を表するものであって、実存そのものでは無いという感じがいたします。 実存とは何でしょうか 即、が実存かもしれません 即という照合の確定は、同時に完全なる実存の把握かもしれないのです。 多根源の法は一つで生じも滅しもしない・・・ という言葉があります。 この一つというものが空という実存(究極の実在)なのかもしれません。 色即是空の別な言い方だと思われます。 ここまで来ると、空というものの大凡の察しがつくと思われます。 一言でいえば、法身そのものでしょう。 現象に対して空という表現を取らざるを得なかったのではないでしょうか。 無我であるとか、縁起であるが故に空性であるとか、実体が無い事だとか・・・ これらの認識や表現は全て概念面に留まる感じがいたします。 心経の終りに、呪を説いたのは概念以上の世界を明確に示したものと受け止めるべきなのかもしれません。 それは、「作用」の世界に踏み込む事を意味しています。 作用の世界を示す必要が何故あったのかという事を考えなければいけないと思います。 そこまで行かなくてはいけないよ・・・という事なのかもしれませんね。 感性による照合の世界から、作用の世界を暗示して心経は終わっています。 智慧によって単に知るだけでは終わらない、現象と空の作用面に至ってこそ、完璧な即の世界が展けるのかもしれません。 以上、拙い考察を申し上げました。 ご批判、ご教授などありましたら遠慮なくお願いいたします。
- kurinal
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・・・だから、 「ほぼ同じ」≒「完全に同じ」であっても、 「ほぼ同じ」≠「完全に同じ」なんですよね。 「それ以上は無い」で、いいんじゃないですか。
お礼
了解いたしました。 心経は翻訳されたものですが、取り敢えずは正確に表現されたものであると信じて考察を進める事にいたします。 有難うございました。
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
「ほぼ同じ」≒「完全に同じ」、ではあっても 「ほぼ同じ」≠「完全に同じ」、でしょうか?
お礼
拙い解釈にご返事下さり有難うございます。 言葉のあや、と言ってしまえばそれまでの事なのですが・・・ 不異はそのまま訳せば、異ならず 即はまさに即でしょう。 即という言葉には二つの意味があると思います 全くそのまま、という意味と 速やかに、という意味です。 不異と即には、同じという共通の意味がありますが 不異には、全くと速やかという点が欠けているように思えるのです。 特に速やかというところは、瞬間のうちに見ても、一瞬の時間のずれも無い、時間的にも全く同質のものを有するものであるという解釈ができるのではないでしょうか。 不異という言葉には時間性が感じられないのです。 問題点は、即という言葉を強調するためにのみ不異という言葉を用いたのかどうかです。 表現上の手法なのか、それとも、違った状態を指しているのかどうかです。 私は不異から即という認識に至った、深まったように思えるのですが、いかがでしょうか・・・ 観自在という言葉から推し量ってみれば、そのように思えてならないのですが・・・ 不異は概念同士の照合、即は直接の照合と考えるのは行き過ぎでしょうか・・・ 速やかに、という点は直接の照合の証のようにも思えるのです。 即はそのもの、それ以上の照合は無い、終わったという状態なのでしょう。 不異はまだ照合すべきところがあるという状態のように思えます。 不異は概念上の同じという結論なのではないでしょうか。
お礼
ありがとうございます。 ご参考にさせていただきます。