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上杉謙信について

僕は、上杉謙信が人間の温かい部分を 持っているから気に入ります。 関東を助けて欲しいと言われたなら そのとおりに軍を引き連れて助けに行ったり 人間としての素質は、すごいと思います。 リーダーは、力を持っていくつれてわがままに なっていくと思うんだけれども ずっと、リーダーらしく 振舞っているのは、すごいと思います。 こんなすごい人でも、家来に見放されたことがあるんで 自分に置き換えると、うまく指導出来なくても しょうがないかなとか思ったりしてます。 自分は、人間的に謙信よりも優れていないんだから 当たり前だと思っています。 みなさんは、謙信のどんなところに好かれますか?

みんなの回答

回答No.7

というか、謙信は小田原に行ってませんよ。軍記モノは捏造です。 1次資料では、酒匂川の手前まで、上杉の協力勢力がやってきただけで、大藤隊に敗北しています。 というか、鎌倉にもきてないですね。

  • kimari14
  • ベストアンサー率17% (50/288)
回答No.6

時代も考え方も、人との繋がりもまったく違いますので、テレビや小説、戦国ゲームで知る人物像を、そのまま信じて、自分の生き方に生かされることになんの遠慮もいりませんが、歴史というのは、私たちのルーツでもありますから、なるべく正しく知りたいものだと思っています。 現在のアラブ諸国の中の紛争地の部族だとおもってください。法はその部族たちで決めて運用していますよね。政府(昔の朝廷)なんて誰も頼りにしていないでしょ。自分たちの利益は自分たちで守るという世情であるわけです。ですからはっきりとした、弱肉強食なわけです。鎌倉室町時代に通用した力の秩序は崩壊していまして、公家や寺社の領地は在地の武士たちに横領されたわけですよね。下克上は人のものを力ずくで奪い合うそんな時代でもありました。特に、頭に入れておかなければならない事項に、戦国の100年間は日本の農業史のなかでも、自然災害の発生の割合がとても多く、餓死や飢饉をどう乗り切るか、ということが その土地を領有する大名たちの必修項目でありまして、これに失敗しますと、滅びるしかなかったわけです。北条氏康が隠居の年には早すぎるのに、隠居して息子に代を渡しました、これなんか、飢饉の対処の失敗の責任を取った事例です。代を換え、領内の民衆にたいして、いまより絶対によくなるんだとのメッセージなんですよ。それぐらいきびしい生存状況だったんですよ。ですから、謙信が関東の武士団の要請の北条征伐は裏を返せば、自分の家来たちの口減らしなんですよ。上杉軍の軍の記録を調べますと、冬は決まって、関東で年を越します。春になったら帰ってきます。ひどいときは帰ってすぐ、川中島の妻女山に登っています。8月でしたね、陣を張った西側は黄金稲穂がたわわに実っていたんですよ、このときは予期しないほどの激戦になりまして、奪った米もなにもほったらかして、帰国しています。飢え死にしたくないから、付いていく、そんな面が非常に大きかったとこともわかっておいてください。 、

noname#111031
noname#111031
回答No.5

上杉謙信は長尾家ですよね。上杉家を継いで、関東管領である上杉家は関東に利権がある と言う理由で 関東へ出兵し、後北條氏とことを構えたのではないでしょうか?

  • jamiru
  • ベストアンサー率5% (170/3044)
回答No.4

酔っぱらい人間なのにあの能力は憧れるんじゃないでしょうか。 酒の勢いをそのままやってのけるのですから不良も真っ青です。

回答No.3

家来に見放されたのではなく、家来が自分を認めないから ほっぽり出して逃げたんです。 騙し打ちや嘘、約束破りもしていますし援軍を出さなかった事もあります。 また家来がなかなか言う事を聞かなかったのは謙信の性格や 態度に不信感があったからです。 粗暴な態度から敵対した家来も数人います。 でも否定している訳ではありません。 戦国時代ですからそれで良いのです。 本やテレビ、ゲームなどで美談を刷り込むことがいけないのです。 『敵に塩を送る』。。。謙信は送っていません。 ちなみに謙信は嫌いではないですが好きでもありません。 一地方の一武将と言うイメージです。

noname#138477
noname#138477
回答No.2

 質問者様が書かれている助力を仰いだ武将等を、国力を相当消費してでも助けたことは、良い印象がありますね。ただ、越後の国人や領民は違う考えを持っていたのかもしれません。  後は、反乱を起こした国人等を許すこともありました(本庄繁長や北条高弘等)。戦国時代という時代背景を考えると、稀有なことではないかと思います。  関東の国人には、上杉氏との離反・服従を繰り返した武将もいたようです。存亡を賭けた選択であり、越後の武将とは別に考えるべき事例ではありますが。参考URLに書かれている武将は一例です。実際には、書かれている以上に離反・服属が繰り返されたとする説もあるようです。  武田家との数次の戦いが知られますが、信玄の子の勝頼が和を求めれば、承諾したりもしています。  ミステリアスな面もあります。一例としては女性との交渉ですね。不犯を一生守ったとされますが、直江景綱の娘(昨年の大河ドラマの主人公直江兼続の妻の姉に当たる人物)等との逸話があるそうです(ただし、史料的に信頼はされていないらしい)。こういう話があると、自分なりの上杉謙信像が想像できますよね。そこが面白いです。  

参考URL:
http://www7.ocn.ne.jp/~htobe/karasawa.html
回答No.1

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>みなさんは、謙信のどんなところに好かれますか? そうですねえ、やはり多くの方が言われるように「義」に徹したからではないでしょうか。 「義理」「義務」「正義」「義侠心」 関東への出陣も「義」のため。 敵対する武田信玄へ「塩」を送ったのも「義侠心」。 多くの戦国武将が「女」に狂う中、「女」には目もくれず、越後を守り抜いた。 「我は、越後を守るために生まれてきたのだ」 と言うような、一貫した「義」を貫いたことではないでしょうか。

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