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去る者は追わず 来る者は拒まず。
この原則(α)についてさらに詳しい中身を問い求めます。 まづなぜ 疑いが生じるかと言えば (β) 九十九匹よりも一匹を〔優先させるべし〕。 ☆ というのも もう一方の原則であるからです。《去って行った者》が この《迷える一匹》にあたるならば どうするか? です。 ここで妥協案を示すなら こうです。 (γ‐1) まづその条件を決めます。相対的にして時間的な問題を扱うという条件です。――ということは 哲学としてというよりは すでに具体的な政策として考えるということになるのだと思います。 (γ‐2) この条件の具体的な内容は こうです。社会にあって (β)の原則を実践するひとたちが 三分の一を占め これに次の三分の一が共感し あとの三分の一は お呼びでないひとたちが占める。この状態を目指すという条件です。 (γ‐3) すなわち最後の《お呼びでない三分の一》は (α)の《去って行った者》であるから (β)の《迷える羊として われわれが探すべき一匹》には入らないという考え方になります。 ☆ この(γ)の妥協案について吟味し ふるってご見解をおしえてください。
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ご返答いただきまして、どうもありがとうございます。 > そうですね。おおむね互いに同じ方向を向いて歩んでいると言っていいのではないでしょうか。 確かに仰いますように、 ・ 《お呼びでない》人びとは、 社会からのはみ出したひと(社会性・公共性を担っている、ある意味 重要な方々ですから) では断じてない。 これは、共通認識かと存じます。 また、若干異なる点を申しますと、 ・ 《迷える羊として われわれが探すべき一匹》も 3分の1に該当する《お呼びでない》人とは、必ずしも一致しない。 原則、愚生もこれを認めますが、ただ、《迷える子羊》が明確に《去る》との“意思表示”をした場合には、あえて《去るものは追わない》(愚生の場合)。ただ、この愚生の意見には、bragelonne様におかれましては、しっくりこないところがあると見受けられました。 ○ 去って行った者に対して まるっきり放っておくのか。それとも何か考えたりするのだろうか? ――《祈る》? 「迷える一匹の子羊については 多少無理にでも来させるべきか?」という問題も含んでいるかと察せられます。 もし、同じ職場、(同じ地域等の)共同体の仲間でしたら、多少無理をしても来させるべき と考えております(その地域等におきまして、不必要な無秩序が発生してしまうからです。また日本人なのからかもしれませんが、顔見知りのひとには“お節介”なることをどうしてもしてしまいたくなるからです)。 従いまして、同じコミュニティーにいる方でしたら、周りの環境等におきましても、共通点等があるでしょうから、「来させる」ということは、有益かとも考えております。 ですが、頑なにまで、《去る》とう“意思表示”(この場合、相手の方とは全く面識のないひとでございます)をされてしまいますと、“どうしようもない”というのが愚見でございます。 ですが、その意思表示なるものも、“錯誤(勘違い)”の要素がはらんでいる可能性も否定できないかと思われます。つまり、(勘違い等により)感情的になってしまい、《去る》とう“意思表示”を突発的にしてしまった とも考えられなくもありません。 これは、飽くまで愚生の意見でございますが、やはり、そのひとに“善性”が在ると考えている以上は、安易に《見放す》ということも出来かねる とうことも事実でございます。 つきましては、時折には、間に仲介者を挿んででも、粘るべきかな、と思ったりもしております。 なお、全くの余談ではございますが、 ★ 自己責任 以前は、“護送船団方式”なるものが存在し、 「金融機関の経営陣にとっても、何をするにも行政官庁に「お伺い」を立てないと進まないという、経営の自由を制約される代わりに責任追及から逃れられるために好都合なシステムであった。」 という状況があったものかと邪推している次第でございます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%B7%E9%80%81%E8%88%B9%E5%9B%A3%E6%96%B9%E5%BC%8F なお、前回の回答欄には、皆様のご心証を害する表現が見られましたことには、深くお詫び申し上げます。 ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。
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オコリザルです。 残された一匹の傾向分析です。 >観念的には「悪」に対しては(そもそも存在していないから)だれも責任をもたなくてもごもっとも むしろ悪者呼ばわりすることを責任を転嫁する口実にしているのが99匹の側の大多数でしょうか。 それとも、責任転嫁された「悪」の濡れ衣を被るのが99匹の側の大多数でしょうか。 これは大多数の主観的認識や自覚の類を無視して、後者が多数派です。
お礼
つづいてですね。 ○ 九十九匹に対する一匹 ☆ これはですね。いわゆる悪の側つまり裏においてはけっこう社会的な力を持って何らかのかたちで勢力を形づくっているその内のひとりという意味ではありません。 一般に 社会的に無力であり弱者の立ち場にいる者を言います。発言権がない。あるいは 発言をおこなっても 取り上げられない。人びとからは その発言を取り合ってもらえなくなってしまったという状態にある者を言います。 どうでしょう。 ★ 傾向分析 ☆ を与えられたひとたちは 《お呼びでない最後の三分の一》に属するようにも採れます。 既得権益を享受する側の人びとであるように思われます。 ちょっと解釈がむつかしかったですので 違っているかも分かりません。
おこりざるです。 自己責任を要求する。 のではなく、 精神的自立を推奨する。 これが責任に対する姿勢ですが、学校でいじめられっ子がいくら負けん気を発揮しろとアドバイスをもらっても、なかなか鬱々した状態から抜け出せないのと同じで、責任を取れと言ってもすぐ他者に責任転嫁する醜態は治らないんですよ。 下手をすれば無自覚ですらあり、自助努力で克服する問題を社会の責任にする輩が多いので、小泉元首相の突き放し方は割と歓迎です。 観念的には「悪」に対しては(そもそも存在していないから)だれも責任をもたなくてもごもっともですが、自らの生涯や生き様にまで無責任状態では困ります。 信仰のかかわる問題でも他者と責任を連帯するのはいかがかと思います。信念が自らの信念でなく、神から授かったものだとしてもです。その信念を授けた神様がイエスさんだったり、お釈迦さまだったりしているうちは偽りです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 そうですね。例によって違いのほうを浮き彫りにするかたちになります。 ★ 自己責任を要求する。 / のではなく、 / 精神的自立を推奨する。 ☆ 自己責任は 生活としての表現行為の自由に含まれます。意志行為の自由の前提に含まれると考えます。 自由に生きるというとき 自己責任は そのまま伴なわれているという見方です。 その自由――そして ほかのひとの自由との関係が対等であるということ しかもこの対等であることをどう扱うかについておのおの自由に判断するということ―― ここに《自立》は したがってつねに過程として・動態において 問い求められているし 一歩一歩築かれていくのだと思います。 精神的と言わず 生活の全体として自立し合うというふうに見とおします。 どんな信仰や信念や無神論の考えによろうとも この相互の自立を目指す社会的な共生は 問い求められているし 当てはまるのだと考えます。 この社会的な過程において 事件によっては責任を取ることもありだと考えます。どのように取らねばならないかは その社会と時代と情況に応じて 具体的に決めていけばよいという見方です。 このとき いわゆる大目に見るという扱い方も考えられています。ゆるいかたちで責任を問うということですね。――ただしだからと言って その大目に見る事態を 権限を持ちそれゆえさらになお責任を負う立ち場の者が まったくそれでよいのだと発言することは どうなのでしょう? 事実としてけっきょく同じことだと見るべきでしょうか? 発言があってもなくても同じことだと見るべきでしょうか? 一般に その大目に見ることはあくまで結果として常識の範囲においてならわしと成っているということではないでしょうか? 初めっから 大目に見てよいと 権限を持つ立ち場の者が言い放ってしまっては 不都合なことが生じる。のではないでしょうか?
- 来生 自然(@k_jinen)
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親子の関係は切っても切れないとは、良く言ったものです。。。 さて、質問の背景にあるbragelonne様の思っておられるであろうことと、どの程度関連するかは判りませんが、私の場合なら、以下のように考えます。 A-1.「ある集団」があり、その「集団」から一人が外れるような状態にあるとは、その「集団」の「外部がある」ということなのか。 A-2.その「外部」には、彼(彼女)が最初の「一人」(開拓者)であって、彼の意志によって(能動的に)進んでいるのか、あるいは、既に「外部」に多くの先達がいて、彼(彼女)は彼ら(彼女ら)に(受動的に)引き寄せられているだけなのか、あるいは、その両方なのか。 B.「A」でなく、「ある集団」は既に「全体」を構成していて、その内部での偏りによって、一人のみが外れているように「見える」だけという場合もあり得ます。 いずれにしても「一人いる」ということは、二人目、三人目がでてくる可能性はあるわけです。 仮に人に「意志」なるものが無かったとしたら、そうして、分割される「両側への外部からの働きかけ」が均等であったなら、300人が299人と1人になるのなら、150人と150人になることが最も確率的に高くなるでしょう。両側への共感であれば3等分(100人ずつ)ですが、どちらか一方への共感という概念が入り込むのであれば、3等分というよりも、4等分(75人ずつ)になるでしょうし、さらに「共感するもに共感するもの」という概念が入り込めば、さらに分割されうるでしょう。 すなわち、299人と1人の分割になることがあったなら、各々が一人ずつバラバラになることもあり得るでしょう。 更に言えば、1人の立場から299人を見れば、299人が「迷える子羊」ようにも見えるわけです。 で、「A」であっても「B」であっても、可逆的であるならば、(「A」のように見えるとしても実際には「B」の状態なのですが)「外がある」ように思っていたとしても、本当の「外」ではない訳で、いつかは戻ってくるかもしれないという希望があるわけです。 しかしながら、非可逆的、すなわち「行ったきり戻ってこれない、一方通行」であったなら、どうでしょうか? それでもやはり、「B」の状態なのに、「A」の特殊な状態(一方通行の状態)に「見えているだけ」という考え方も可能になることでしょう。 「去る者は追わず、来るものは拒まず」は、基本的に可逆的な移動が前提条件にあります。すなわち「全体」からみれば「B」であるという考えが根底にあると考えます。 行き先が「戻ってこれない・一方通行」のまさにその一歩手前までで連れ戻すことが出来るという考えがあるからこそ、 >>> (β) 九十九匹よりも一匹を〔優先させるべし〕。 <<< という考え方が生じうると思われます。 可逆的なものと非可逆的なものを分離して扱うのか、それとも(仮想的にでも)混同して扱うのかは、「全体」というものの概念を揺り動かすことでしょう。
補足
k_jinen さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 さて――世界で二番目に口の悪いわたしとしましては―― おもしろいご投稿かなと思ったら 焦点がまるで外れてしまっているぢゃないですか。(肝心なところで 足踏みをしているではないですか)。 ○ 主観にもとづいてください。 ○ 一人ひとりがそれぞれの主観にもとづくという意味です。 ○ 間違ったとしても 考えなおしつつ なおみづからの考えにしたがってください。 ☆ (α)と(β) あるいは (A)と(B) すべてについて 主観において判断します。 あるいは 《アハスウェルス》であるのかどうか つまりそのさまよいは《可逆的なのか非可逆的か》などなどすべて あなたのこころにおいて思うところに従ってください。 自分のことだけではなく 他人のことについても判断しますから この場合わたしたちは到るところであやまちを侵します。しかも ○ あやまつなら われあり。 ☆ と堂々と言って行きます。ただちに我れに還り 見直しを推し進めるからです。 ★ 「全体」というものの概念 ☆ は――むろんつねに考えているのですが じねんさんのように こういう論理形式を持ち出されたなら 言いたくもなることとして―― どうでもよいのです。いま目の前のわたし そして となりのひとたちを思っております。 ★ 外部 ☆ もへっちゃくれもありません。たましいが呼んだら 何とかしようとするでしょう。 ★ 社会の三分法 ☆ は秩序を言おうとした表現です。四分割でも五分割でもいいのです。いまたとえばこの三分法として表現しておけば いまの実践がやりやすいのです。みな(その中核としての社会の一部勢力という意味にとってもいいです)が共通の方向が持てるからです。 じねんさん あなたは あたたかいこころの持ち主でいらっしゃるようにわたしはお見受けします。それゆえかえって あらゆる場合を――たしかに哲学はそうするのですが――考慮に入れるかたちで出発点をきれいなかたちに掃き清めておられる。 わたしは ものぐさゆえ いちばん効果的な方法を考え 一点突破を図ろうとします。たいして心も温かくないので これだけは自分にも隣り人にもしておかねばならないということがらを真剣に考えて その最低限のことを実現させ確保したいとつとめます。 ということではないですかねぇ?
ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。 愚生こそ、bragelonne様はじめ、primeape様ともお話ができて、うれしく思っております。 確かに、(δ)から(θ)におきましては、愚見とするところでございます。 > (ι)《去って行った者》と《迷える一匹》とのつき合わせと区別 ☆ がむつかしいようですね。 確かに明確な線引きは困難かと予想しております。と申しますのも、 《去って行った者》(=“去る”と意思表示したひと)、と 《迷える一匹》(=意思表示はしたが、明らかに“迷い”を持っているひと)とは、 “迷い”という点では共通しておりますし、最初には“去る”との意思表示自体を示したひとも、とりあえずは「外を見てみたい」もしくは「プライヴェートな事情はどうしても避けられない」という方もおられるかと思われるからでございます。 ですが、“その時点”で、はっきりと、意思表示を示した以上は、《去って行った者》に入ると考えてもよろしいかと存じます。しかし、一方、こちらから最初に、《お呼びでない》と突き放してはいけないとも考えております。 > 言いかえると その訣別の当事者ではなく第三者であるなら まだ(ι)のつき合わせや吟味をしっかりとしなければならない。こうなるでしょうか. 「再度の訪問に門を、開かせておくため」という点から、とりあえずは、“その時点”では、《去って行った者》とみなしても、よろしいかと存じます。 なお、話が少ししそれてしまいますが、最近“自己責任”という言葉が聞かれますが、この“自己責任原則”とは、(Goo 辞書からの引用でございます) 「新語; 個人あるいは組織などが主体的に行なった選択や行為に関して責任を負うものとする原則。規制緩和の進展でその重要性が主張されている。また,金融システムの安定化策を金融当局の管理に任せるのではなく,個々の金融機関が経営健全化のために自己努力すべきとする考えについてなどにいう。」 従いまして、一個人というよりも組織(もしくはその組織の長)を指す言葉のようでございます。つきましては、各々のひとにこの“自己責任”という言葉は使いたくなかったという理由もございます(私の感情部分での話ではございます。primeape様からはキツイお叱りを受けるかもしれませんが.....(笑))。 ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。おおむね互いに同じ方向を向いて歩んでいると言っていいのではないでしょうか。 ★ 自己責任 ☆ その《新語)としての説明ですけれど これはおかしくないですか? これぢゃ 規制緩和をする前には 自己責任は負わない・考えないという方針であったと言っているようなものではないですか? 個人と組織〔の長〕の違いの問題もあるようですが。 昔は 金融機関は経営健全化をしていなかったかのようにさえ聞こえます。経営健全化をしていても その責任はすべて監督官庁に任せていたというふうに聞こえます。 さてあらためてですが ★ 「再度の訪問に門を、開かせておくため」という点から、とりあえずは、“その時点”では、《去って行った者》とみなしても、よろしいかと存じます。 ☆ と賛同していますのに なおまだこころが落ち着きません。 ○ 追わないのですが――はっきり追わないという方針に決まりですが―― では 《来る者を拒まず》というその門をたたくようになる日までのあいだ わたしは どうしているのだろう? ○ 去って行った者に対して まるっきり放っておくのか。それとも何か考えたりするのだろうか? ――《祈る》? 少しく落ち着きません。どうでしょう? お知恵を借りとう存じます。
- hornet3
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以下により疑いが解消しなければ、妥協案の前に疑いについての補足をお願いします。 "一匹"の主観を重視し、"一匹"が去ること、来ることを問題とし優先するべきと解決できるのではないでしょうか。 則ち、疑いは”一匹”よりも”追ったり拒んだりしている者”を優先させていることによるのではないでしょうか。
お礼
hornet3 さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。ご趣旨は明確ですね。 わたしの言葉に直せば ○(κ) 人間の存在あるいはその存在どうしの共存といった主題について考えるとき その最終的な判断つまり結論は 誰であれただひとりの人間が決め切るべきことではないのではないか? ☆ になります。こう考えて 反応いたします。 そうですね。もしまだ妥協案のほうに未練があるとすれば こうです。 ★ 則ち、疑いは”一匹”よりも”追ったり拒んだりしている者”を優先させていることによるのではないでしょうか。 ☆ とのお考えにもとづけば 《去る者・去って行った者》というのが ここで言う《拒んだりしている者》に当たると思うのです。つまり 《去って行った者》は 《拒んだりしている者》すなわち自分を《優先させている》ことになっていると思うのです。 すなわち ご趣旨としてわたしの言葉で言い直した(κ)の疑いは 《去って行った者》本人にかけられている。これが いまの質問の前提になっていると考えます。 それなら 分かるとおっしゃってもらえるかも分かりません。 ううーん。ただ もしそれなら 今度は別の疑いが生まれるでしょうか。 すなわち (λ) 《(κ)の疑いが 〈去って行った者〉本人にかけられている》かどうか それをどうやって決めるのか? 誰が決めるのか? ☆ そこでわたしは No.1 Hidocchi さんへのお応えの中につぎのように記したことを思い出しました。 ☆☆ (No.1補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ その《去る》という意志が明確に表わされていて しかもその訣別の宣言を直接に自分が受けている場合には まさしく《去る者は追わず》の原則どおりに実行することができる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまり明確に《去られた》側の当事者であるなら (κ)の疑いをその《訣別し去って行った者》にかけることができる。のではないか? こう思うのですが どうでしょう?
オコリザルです。 またまたくせが出て連続書き込みです。 >社会人として、自らについて責任を負わざる得なくても、実際にはそのような基礎的な責任能力すら放棄したまま、社会に出ざるえなかったのでしょう。 自己責任と社会的責任はバランスがとれていなければ享受できないのではないかと考えます。 ところがニートなどの問題を考えると、この責任をとることで享受できる自由に夢を抱くどころか恐怖を抱いている様子がうかがえます。 善性の基礎であるお互いに支え合う姿勢が解らないらしいんです。 前に違うカテでニートをもつ親にその点を指摘したら、その点に関しては教えそびれるどころか、親自身がそんな風に考えたことが無かったと言ってました。
お礼
なるほど。ふたたび なるほど ですね。 まだまだ 助けあいや 単純に思いやりの世の中は失われていないと思っていたのですが。・・・ これは いつだったか話題に出たことがあって primeape さんは 例の小泉政治を擁護しておられましたが そしてわたしは真っ向から反対しましたが 多少は小泉という人間が 放ったらかしにしてもいいんだよというメッセージを 結果的には送ったと思いますよ。 その前からそういう割りきった人と人とのつながりという社会のあり方は現われていましたが そのとき あたかもお墨付きが出て 人びとの多くは 一気に何の気兼ねもなく そうなったのではないかと疑われてなりません。 一人のひとに責任の全部を負わせるということは 社会的な事柄に関しては 明らかに間違いなのですが その政策うんぬんというよりも あの《人生いろいろ 会社もいろいろ》というせりふ この発言によって 世知辛い世の中の動きがなだれを打って動き出したのではないかと感じられてなりません。 あるホテルの経営者が ホテルに身体障害者用の空間を用意しなかったという違法行為でしたか それについて 《少々車の運転で速度違反をしてしまったかなぁと思う》とか発言していました。 おのおのが仕事で報酬を得るのも 社会的な協働の結果だという考え方が 一気に潰え去ってしまったのではないでしょうか? 言い過ぎたかも知れません。あらためての出発になると考えます。
オコリザルです。 >ワーキングプア”等に対する“自己責任論 これに証言です。 私のお店では社会に出る年齢になっても定職を見つけられないでブラブラしている若者を、猫の手掛かりたいほど忙しいんで、アフリカにでも行って奴隷狩りをしたみたいに、甘言で惑わせ無理やりアルバイトをさせています。 就労の条件として以下の説明をしました。 労働時間と税法上の問題等から社会保険を払うなどの手続きが出来ないのでとりあえずアルバイト。 適性などで仕事になじめれば、自然と労働時間が長くなるので、できるだけ早期にせめてパート扱いにできるぐらい頑張ってほしい。 小売業なので顧客への奉仕が仕事だが、そのような営業が一人前にできて、自分の給料を自分で稼げるようになれば(言われた仕事おしてるだけだと落第)生涯の仕事として自らの意思で選んでも認める準備がある。 要するにこのお店で仕事をする姿勢と社会とのかかわりを学んであくまでも自分の意思で将来を決定できるようになってもらいたい。 それまでの腰掛として働きなさい。 このように説明しました。 実際に雇用してみると、小売業なのに接客どころか電話の応対すらまともにできないで、仕事はパソコンと向き合うデータ処理などの事務作業一辺倒です。 学校ではまじめに勉強が出来たそうで、実際事務作業は黙々と効率よくこなせます。でも、社会人として一人前の他者との交流が出来ていない。その様子が現代の若者によくある姿だとすると、社会に出て働くにしてもそのための基礎的な適性が欠けている若者も多いのではないかと考えました。それを克服して自らの意思で将来展望を開けるようになるまでこき使うつもりですが、社会人として、自らについて責任を負わざる得なくても、実際にはそのような基礎的な責任能力すら放棄したまま、社会に出ざるえなかったのでしょう。 ただ、ここまで説明した話は、要するに新人類という流行語が出たころから、大人が若者に向かって言っていたことではないかと考えます。そのまま自立した将来展望を描けないで40歳くらいになった人も出てきているのでしょう。 かわいいバイト君にはそんなことはさせません。
お礼
なるほど。 ☆☆ 来る者は拒まず。 ☆ どころか ○ 迷える一匹の子羊については 多少無理にでも来させる。 ☆ というところでしょうか。―― primeape さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 これは だいじなことと思います。特には 一人ひとりが《仕事をする》ということは けっきょく社会的な関係として・その社会的な務めとして 誰にもかかわっている。こう思うからです。 わたしがその務めをしっかりと出来ているわけではありませんが その考えでいますし 実行をする用意がいつもあります。 一般に社会における仕事から はぐれてしまっている人びとは 決して《お呼びでない》人びとに入るわけではない。これですね。これで行きましょう。
お世話になっております。Hidocchiです。 妥協案の件についてです。 > (γ‐1) まづその条件を決めます。相対的にして時間的な問題を扱うという条件です。――ということは 哲学としてというよりは すでに具体的な政策として考えるということになるのだと思います。 “実践”の場(γ‐2からの準用でございます)という点から申しまして、具体的な条件を、ある程度幅を持たせた形での取り決めも必要かと考えております。実践の場という集団におきましては、残りの99人をも考慮に入れる必要性があろうかと考えられるからです。 > (γ‐3) すなわち最後の《お呼びでない三分の一》は (α)の《去って行った者》であるから (β)の《迷える羊として われわれが探すべき一匹》には入らないという考え方になります。 愚生は、「ひとには、元来“善性”なるものが備わっている」という条件下にて、話を進めさせていただきます。 最近では、“自己責任”なる言葉が聞かれます。「自ら去って行った者は、自己の責任でそうしたのだから、当方としては、責任は負いかねる」という意見です。ですが、去って行かざるを得ない理由等もあろうかと考えらます。また、この“自己責任”とは、昨今の状況から鑑みましたときに 、「責任転換しようとする者(主に博打等で失敗したひと)」を一般に指すものかと思っていたのですが、実際は、はなっから救済(手助け・アドヴァイス)をする気も無く、ただ単に誹謗・中傷の口実に成り下がっているものとも観察されます(特に、“ワーキングプア”等に対する“自己責任論“がこれにあたるものと察せられます。彼らは”労働“、”納税“の義務を果たそうとしているのですから、”自己責任“とは異なるものかと考えている次第です)。これでは、少なくとも、“実践”なるものを掲げ、向上を目指すものとしましては、実に拙いことだと思うのです。 従いまして、確かに“妥協案”なるものも必要があろうかと思われます。ですが、さまよってしまった“子羊”が、再度こちらの門を叩いてくれるなら、素直に迎え入れてあげることも必要かと考えております。 ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。
お礼
みなさんへ。(9月22日真夜中を過ぎたころ)。 ご投稿をいただきたいへんありがとうございました。 次の新しい質問に移りましたので 引き続きどうぞよろしくお願いいたします。 bragelonne
補足
あぁ Hidocchi さん お声が聞けてほっとしました。この質問も示すような問題をこのところずっと扱っていました。――まづはご回答をありがとうございます。 そうですね。少し順序を乱して引用しますが。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (δ) 「自ら去って行った者は、自己の責任でそうしたのだから、当方としては、責任は負いかねる」という意見です。 (ε) “実践”の場(γ‐2からの準用でございます)という点から申しまして、具体的な条件を、ある程度幅を持たせた形での取り決めも必要かと考えております。実践の場という集団におきましては、残りの99人をも考慮に入れる必要性があろうかと考えられるからです。 (ζ) 従いまして、確かに“妥協案”なるものも必要があろうかと思われます。 (η) ですが、去って行かざるを得ない理由等もあろうかと考えらます。 / ”労働“、”納税“の義務を果たそうとしているのですから、”自己責任“とは異なるものかと考えている次第です。 (θ) ですが、さまよってしまった“子羊”が、再度こちらの門を叩いてくれるなら、素直に迎え入れてあげることも必要かと考えております。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ と結論づけられましたね。 まづ (θ)は およそ無条件で肯(うべな)われますね。 (α) ・・・来る者は拒まず。 ☆ ですから。ということは 《再度こちらの門を叩》くまでの間は (ι) 《去って行った者》と《迷える一匹》とのつき合わせと区別 ☆ がむつかしいようですね。 (η)の場合などは まだまだ決して《去って行った者》とは決めつけられないように思いました。 いま考えたのですが (δ)(ε)の場合として さらにその《去る》ことが当人の意志としてはっきりしているなら 《迷っている》かどうかにほとんどかかわりなく 《去って行った者》に入ると考えていいでしょうか。 言いかえると その《去る》という意志が明確に表わされていて しかもその訣別の宣言を直接に自分が受けている場合には まさしく《去る者は追わず》の原則どおりに実行することができる。 言いかえると その訣別の当事者ではなく第三者であるなら まだ(ι)のつき合わせや吟味をしっかりとしなければならない。こうなるでしょうか。 ★ 愚生は、「ひとには、元来“善性”なるものが備わっている」という条件下にて、話を進めさせていただきます。 ☆ この大原則は人間存在に基本であり哲学のものでしょうから (α)よりは(β)の原則を支持するものでしょうね。この基本のもとに――この基本のもとに―― もし《去った》ことが明確であるなら (ζ)を選択する場合もある。こう考えられるでしょうか。 ううーん。どうなんでしょう。
補足
Hidocchi さん ありがとうございます。 見通しが立ちましたようです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ もし、同じ職場、(同じ地域等の)共同体の仲間でしたら、多少無理をしても来させるべき と考えております(その地域等におきまして、不必要な無秩序が発生してしまうからです。また日本人なのからかもしれませんが、顔見知りのひとには“お節介”なることをどうしてもしてしまいたくなるからです)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 多少とも長くおつきあいしていれば その間たがいに信頼関係が築かれているのだから 一度や二度たしかに《訣別するのだ。》と言って去って行ったとしても この発言をじゅうぶんに受けとめつつも いろんな角度から捉え直して考えなおす余地はある。と受け留めました。 そしてぎゃくに たしかに《ほとんど面識のない》場合には はっきり《去る》と言って行動したのなら 去るに任せるしかない。これにひとこと付け加えるなら ほかにもその人と交通(まじわり)ができる者は いくらもいるはずだと考えられます。(α+β)原則を実践する人びとは 知り合いでなくても互いに同志のような者ですから。 ううーん。だいぶんすっきりしました。 ★ つきましては、時折には、間に仲介者を挿んででも、粘るべきかな、と思ったりもしております。 ☆ こういう場合も考慮に入れるということですね。 〔別の一面として こういう場合があります。対話は切らさないが その話はまるで絡み合わないという場合であって これも考えているのですが いまは措くことにします。複雑です〕。 ★ “護送船団方式” ☆ 金融行政は特に《雁字搦め》であったように聞いています。ただ 経営者によっては ひと工夫もふた工夫もおこなったのではないかと民間側に肩入れして楽観的に捉えていました。 コンビニなる商業形態を創成した場合とか 宅配便という事業を起こした場合ですとか 行政側とは けんかをしてでも信念をつらぬくということだったのでしょうから そういう民間の知恵と努力を買いたいという気持ちからでした。 また 乱暴に言うのですが 《護送船団方式》も 廃業と創業を活発にするに任せるといった大前提があれば 社会もそれほど窮屈でもないかも知れないと思ったりします。ま そうなると もはや行政指導の出る幕ではないのでしょうけれど。 見通しが立ちました。ありがとうございます。