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《甘え》論再考 または 《聖なる〈甘え〉》
《甘え》には いわば健全なる甘えと病的な甘えとがあるらしい。幼児性が おとなであっても 必ずしも不健全なものでもないということらしい。 ▲ (土居健郎 :聖書と「甘え」) ~~~~~~~~~~~~~ ・・・実際 大人になっても 非言語的なプロセスとしての《甘え》は継続する。 しかし・・・《甘え》を子供っぽいもの 殊に人間の自立を妨げる芳しくないものとしてそれを排斥する動きがもし早くから育児環境の中で作用していると《甘え》が内向し 異常に自己中心的な性格が生まれる可能性がある。 そしてこの際しばしば 広義の性的 ということは官能的快楽の飽くなき追求を伴なう。この種の人間類型は もしそれが極端な場合は異常性格として一般の認識するところとなるが しかし現代人は多少ともその傾向があると言ってよいように思う。 現代が個人の自由をもっぱら旨とし また概して快楽主義的であるのはその点を示唆する。なお以上の考察は《甘え》に相当する語を有しない欧米人にも十分あてはまることをつけ加えておこう。(p.20) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《聖なる甘え》もしくは《超然的なる甘え》を提唱することができるのではないだろうか。 趣旨説明として不案内ですが さまざまな観点からご見解をおおしえください。
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我々人類は誰しも「甘え合って」いる。地球社会そのものが貿易などで助け合っている状況からして既に、ここに参加されている皆様も甘え合っているわけだ。しかし重要なのはそれは長期的な甘えであり、普段使っている「あまえるな!」というような短期的な甘えではない。 よって、「《聖なる甘え》もしくは《超然的なる甘え》を提唱することができるのではないだろうか。」とは、換言すれば、「長期的な甘えを提唱できないだろうか」といえる。聖書ゆえ「聖なる」と表現しているが、何の事は無い、単に「長期的視野に立った人類世界の助け合い」の重要性を説いているにすぎないのだ。 皆様も「長期的に」甘えてくださいよ。堂々と。
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結局「塩」の哲学=サラリーマンの経験科学ということですよね? 仏教的宇宙法則への超然的信仰=カレー粉 「ルー」の基本原則=ラードと小麦を使った西洋風ソース mythos ドキュメントの直線的・心理学的「日本人論」=ご飯 という設定になります。 甘えの統一性を「同一性」の文脈で語るべきなのでしょうが、 整合性がない。別々にかたるしかない。 聖書は、オリエント(カレー粉)とオキシデント(西欧仕立てのルー)のいいとこ鳥(雉)になる という解釈も出来るかもしれませんが、結局ソースセーバー(エゴ・イド)の話にしかならない。 ご自分でも自覚なさっていらっしゃるように セイゼイ心理学どまりの発展可能性に限定されるのでしょう。 逆に、「生命としての地球」を持ち出さなければ、少なくとも日本人論には行き着かない。 それでもどうしても そこへ行き着こうとすると 文学・経済学の文脈でアプローチすることになってしまいますよ。 ということです。
結局「塩(土俵と塩まき)」の哲学=サラリーマンの経験科学ということですよね? 仏教的宇宙法則への超然的信仰=カレー粉 「ルー」の基本原則=ラードと小麦を使った西洋風ソース ドキュメントの直線的・心理学的「日本人論」=ご飯 という設定になります。 甘えの統一性を「同一性」の文脈で語るべきなのでしょうが、 整合性がない。別々にかたるしかない。 聖書は、オリエント(カレー粉)とオキシデント(西欧仕立てのルー)のいいとこ鳥(雉)になる という解釈も出来るかもしれませんが、結局ソースセーバー(エゴ・イド)の話にしかならない。 ご自分でも自覚なさっていらっしゃるように セイゼイ心理学どまりの発展可能性に限定されるのでしょう。 逆に、「生命としての地球」を持ち出さなければ、少なくとも日本人論には行き着かない。 それでもどうしても そこへ行き着こうとすると 文学・経済学(ごはんのすばらしさ)の文脈でアプローチすることになってしまいますよ。 ということです。
補足
直前(No.38)と直後(No.40)のご回答を――ご投稿をありがとうございます―― 一緒にしてお応えいたします。 それにしてもあなたのお持ちの問題意識が広すぎますね。 まぁ わたしも広大な虚構を見通しているなどとほざいていますから 似たり寄ったりなのですが。 ★ 逆に、「生命としての地球」を持ち出さなければ、少なくとも日本人論には行き着かない。 ☆ この視点は 大まかに言って OtamaFJ さん(No.9&42)の ○ 長期的な視野としての甘え そして 甘え合い ☆ を想い起させますし 内容も重なっていると見ていいでしょうね。そして 今朝は 先にNo.42へのお応えを書いたのですが そこでは こう捉えました。 ○ 互いに自立しあった者たちの《地球規模の甘え》も 実際に役立ちうる。すなわち 具体的に誰かに甘えたい・甘えようかと思ったときに いや短期の甘えではだめだ・長期かつ全体的だと思いかえすということが 大事であるし 案外効くかも知れない。 ☆ そうして ★ 文学〔* は文学として〕・経済学(ごはんのすばらしさ)〔* は経済活動にかかわって〕の文脈でアプローチすること ☆ もあるでしょう。 しかるにここでのわたくしの焦点としては こうです。 或る種の仕方で標語としてまづ 《長期的にして地球規模の甘え合いとしての愛》でよいと考えます。そして あとは その標語の実践に当たって 現在人びとに持たれている広義の《常識》の中に むしろその実践を妨げる要素が――つまりこれは《自我》の問題を念頭に置いているのですが―― あるのではないか? こういった副次的な問題群を取り上げ 処理しておくことが 重要なのではないか? となります。 ★ 結局「塩(土俵と塩まき)」の哲学=サラリーマンの経験科学ということですよね? ☆ そうです。要するに われわれの生活および共生が 主題です。 ただし ★ 仏教的宇宙法則への超然的信仰=カレー粉 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 聖書は、オリエント(カレー粉)とオキシデント(西欧仕立てのルー)のいいとこ鳥(雉)になる という解釈も出来るかもしれませんが、結局ソースセーバー(エゴ・イド)の話にしかならない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これらふたつの論点を採っても それぞれが 長期的な対話〔とそれらがいくつも関係しあってすすむ複合過程〕になるでしょう。 も少し降りて来てください。話を絞ってくださいませんか。たとえば ★ ソースセーバー(エゴ・イド)の話 ☆ これがいいかも知れません。脇道での話なのかも知れませんが それを押さえておくと 長期的な甘えの本論に役立つであろうとわたしは踏んでいるのですが どうでしょう? 全体観と個別論 これをうまく使い分けるかたちでご議論を展開なさってください。どうでしょう?
?ソースポットにカレーソース、お皿にはご飯でワンセット カレーとご飯は別々です。 一方 ここでは、ご飯がテーマですね。 ということで 文学・経済へgogo ww
- littlekiss
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こんばんは、bragelonneさん。 ●果たして カレーのかかっていないカレーを、「カレーライス」といえるのだろうか? (^O^)/はーい! お好きなだけどうぞ~♪ :P 【現銀掛値無し(げんきんかけねなし)】 http://www.mitsukoshi.co.jp/corp/history_qa.html http://www.tvz.com/nishiki-e/nishiki1/nishiki15n.html ●カレーのかかっていないカレーを、「カレーライス」といえるのだろうか? ↑ 「カレー≪&≫ライス」 ↑ ≪&≫が省略されてるとみれば… ソースポットにカレーソース、お皿にはご飯でワンセット その名称が、「カレーライス」
お礼
リトルキッスさん ご回答をありがとうございます。 しかし 強引ですね。塩分控えめにしなきゃいけないけれど うまそうですね。ビーフがいいです。 でも考えようによっては カレーとライスが分かれているということは 《甘え》が いつでものべつ幕無しにおこなうものでもないことを示すものかも知れません。 また 健全な甘えに入ったなら やがて遅かれ早かれ卒業するということをも意味すると読めます。 べたべたなのではないことを言おうとしていると読めます。 ★ 【現銀掛値無し(げんきんかけねなし)】 ☆ 甘えるのなら しっかりと甘える。卒業するときには しっかりときっぱりと自立する。そのつど現金払いにて掛け値無し。 甘えるのなら 掛け引きも無し。部分的に甘えて 部分的によそよそしいということは無し。 というふうに考えることも出来るかも知れません。
夜分恐れ入ります。Hidocchiです。 先日、ご回答するとのお約束をしておりましたが、本日中には、まとめられませんでした。まことに申し訳ございません。 必ず、明日には愚見を述べさせていただきたく存じます。”健全な”甘えと、”不健全な”甘えの違いからの考察をさせていただき、ちょっと飛躍した意見(Hidocchi仮説)となりそうでございますが、ご一読の程賜れば幸いでございます。 それでは、明日よろしくお願い申し上げます。
お礼
こんばんは Hidocchi さん。 それは楽しみです。 《聖なる甘え》という仮説は 以前に持ったそのままを このたび持ち出して来たものです。まだ海のものとも山のものとも分からないところがあります。 そのことと そして《自我・超自我・イド》の精神分析仮説とのかかわり(そのかたちとしては その仮説に代わるものとさえ考える方向)において捉えて行けば いまの予想では 案外おおきな構想をもった虚構が開けるのではないかとすら思っております。 ま うまく行けばですが。ではお待ちします。
果たして カレーのかかっていないカレーを、「カレーライス」といえるのだろうか?
お礼
ふうむ。 方向としてそういったお考えがあるのかも知れません。 しっかりと考えた結果として 甘えを哲学の主題にしたとも言えないと告白しておきます。 その上でまだ未練はありますし まだ可能性も消えたとも思っていません。 それは たとえば 次の補足説明によって言えるのではないかと考えます。カレー粉は入れることが出来るのではないかと考えるわけです。(もしくは カレー粉に代わる調味料が使えるのではないかとも見ようとしています)。 すなわち 《自我・超自我・イド》の心理学ないし精神分析論との絡みにおいて 甘えという行為形式が 一般性を持つ主題であると思っています。 ☆☆ (No.8補足欄) ~~~~~~~~~~~~~ ◆ 趣旨説明・その七 ○ 《自我・超自我・エス》とは何ぞや? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ そうして たしかに ○ 聖なる甘え ☆ と名づけた概念は まだまだ湯気を立てていて そのすがたがはっきりとは見えて来ません。そういう段階です。どうですかねぇ。
- ENERGEAR
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No.28補足欄~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >☆ さすが。相手にはこれっぽっちも咎め立てはしないですよというおこころ遣いには なみだがちょちょぎれます。 いえいえ、自分の責任と他者への影響力の問題は また別ですから。 むしろ質問者と関わる人間が甘えられて<<同一化>>してしまうことも考えられますからね。 そうならないためには、反省してもらわねば困りますよ。 以上、返答は無用です。
お礼
◆ 《質問からかけ離れた瑣末な指摘にしつこく食いつく》 bragelonneさんの行動は 《bragelonneさんが虚栄心たくましく育った》 事にもとづくものだと思いますよ。 ☆ この《質問からかけ離れた瑣末な指摘》は だれがやったの? 果たして《瑣末な》ものだったか?
- ENERGEAR
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ああ、他の人との会話でわかりました。 No.1の補足欄が答えなんですね。 No.1補足欄より~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ◆ 趣旨説明のようなもの――《甘え》についての覚え書き―― 健全な甘えと病的な甘えとがあると見ることを知った。 通過すべき・経験すべき甘えを経験し得ていずに これを求め続ける甘え。したがって 負の甘えがあるということ。 また 甘やかすというのは その相手に同一化することを伴なうのだと。 同一化とは けっきょく甘えのことであって 甘やかすとき 人は その相手がおこなってくるであろう同一化を先取り(preempt)しているのだという。 甘えをこちらからおこなうと 相手は 一たん確かにに甘えてくるのだが そのとき その病的な側面については きちんとわかるようになるのだという。 先取りした甘えは この負の甘えを広く大きく予防することになる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ この覚え書き は、何処から写し取ったのだろうか。 >健全な甘えと病的な甘えとがあると見ることを知った。 と言うが、何を見て「知った」のだろうか。出典を明らかにすれば、それを読んで答えることも可能なのだが... しかし、上記の引用も、甘え については言及していないようだが...
- ENERGEAR
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へへっ で、甘え って何なんですかね。
元気付けるというのは 自分が自分に対してしか行えないことだと思っております。 光と闇の理論が、一般論である限り、甘えの論理も、 その一般性を「かいくぐる(塩基とその組成)」ことは 出来ないものであると考えています。 学的に見ると 甘えの論理は、その存在意義が、「文学的のものに限定されてきている」ようです。 甘え論を 塩の論理以外で語ることは難しいという考えです。
お礼
ふふん。 ★ 元気付けるというのは / 自分が自分に対してしか行えないことだと思っております。 ☆ 百パーセントおっしゃるとおりです。と同時に わたしは皮肉って言ったまでです。 わたしの悪口を書き連ねれば 連中には 元気づけのごとく錯覚することもあるというものでしょうよ。 ★☆(要約) 《甘え》論が 哲学一般の議論になじむかどうか? ただ《文学的なもの》であるに過ぎないのではないか? ☆ ですから そのおそれを取り除くために 《甘え》とは その相手との《同一化》であるという説明を添えました。たとえば ☆☆ (No.1補足欄における遅れて来た趣旨説明) ~~~~~~~~ 甘やかすというのは その相手に同一化することを伴なうのだと。 同一化とは けっきょく甘えのことであって 甘やかすとき 人は その相手がおこなってくるであろう同一化を先取り(preempt)しているのだという。 甘えをこちらからおこなうと 相手は 一たん確かにに甘えてくるのだが そのとき その病的な側面については きちんとわかるようになるのだという。 先取りした甘えは この負の甘えを広く大きく予防することになる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これでじゅうぶん哲学一般の議論になじむものと思いますよ。どうでしょう?
お礼
OtamaFJ さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ 聖書ゆえ「聖なる」と表現しているが、何の事は無い、単に「長期的視野に立った人類世界の助け合い」の重要性を説いているにすぎないのだ。 ☆ なるほど。まぁ 《聖なる》は わたしが勝手につけたたとえですけれど 《長期的・全体的な視野》のもんだいであると。 ★ しかし重要なのはそれは長期的な甘えであり、普段使っている「あまえるな!」というような短期的な甘えではない。 ☆ つまりわたしは このように実際の人間関係においてどういう考え方や態度で臨むかを焦点としていましたが こうなると どうでしょう? たとえば《甘えたい。甘えようか》というとき 《短期》ではだめだ・《長期! 長期!》というふうに思い直すという手があるということになりましょうか? それでもいいかも知れませんね。思い返すという間(ま)がよいかも知れません。 そうしますと あとはたぶん 自我だとかリビドだとかそれを抑える超自我だとか こういう・わたくしに言わせれば《わたし》の分断に通じるような考え方や態度が いささか問題になるように思います。 自我が育ち確立したからと言って もうそれでよいとはならないはずなのですが そういった方面がどうも気にかかりますし その方面は《甘え》と絡み合っているようにも思えます。思えてなりません。 ということは 《甘え》に関しては それは《長期的・全体的な視野に立て》というひとことで済むようだけれども それに絡み合った副次的な問題群がありはしないか? という問い求めをこの際同時におこなっておくのがよい。となるように思いますが どうでしょう?