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エロは生存本能だって言える?なぜ隠すのか?
- 人はなぜ自分の性を隠したがるのか?その本能欲求が生存にとって重要な役割を果たすというのに、エロ本を隠す行動はどうして起こるのだろうか?
- 子供の頃、エロっぽい物を持っていた人の反応を見て、エロがなぜ忌避すべきものとされているのかに戦慄を感じた経験はないだろうか。なぜこれほどまでにエロが「隠すべきもの」であるとされるのだろうか。
- 一般社会ではなぜエロに対して「立派」という感覚が持てないのだろうか。エロを隠すことがなぜ重要なのかを考えてみよう。
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いつもは機嫌が良いおじさまの「急に険しい雰囲気」というのは、一つには、まだ小学生である甥ごさんに見せるべきではないもの見せてしまった、ということと、いま一つは、おとなとしての体面、でしょうか、年長者というものは、親が子への態度に端的ですように、どこか威厳を保とうとする傾向が一般ですしね。 おじさまが、その「エロなもの」を甥ごさんに見られてしまったというときの反応を伺って、以前、どこかで読んだ話ですが、ある婦人の回想を思い出しました。 その人が幼い頃、まだ昭和の初期あたりだったでしょうか、細かいところは覚えていませんが、ある日、その人から見て祖父母にあたるとか言ってたと思うのですが、彼らと同居している、まだ新婚の、おじさん夫婦を訪ねて、その家の玄関に立ったところが、誰も出てこない。 しばらく、ようすを覗っていると、家の奥から、誰やら女性の呻き声が漏れ聞こえてきたというんです。 それで、当時まだ子どもだったその人は、てっきり、これは、誰かが腹痛か何ぞで苦しんでいるに違いないなどと思って、声の聞こえてくる部屋を覗いてみたところ、、、 その新婚の若夫婦が、祖父母を始め、家内の者ら皆、出払っているチャンスに、真昼間から大ぴらに励んでいたのを目撃してしまったらしいのです。 そりゃあ、昔の日本は、地方なら当然のこと、跡取り息子なら、なお当然のこと、親と同居の大家族が普通でしたそうですから、新婚の夫婦と言えど、アノときの声も、さぞや気がねしいしいだったことでしょう(笑) そこへ思いがけず、自分たち夫婦二人だけになれた貴重なひと時なのですから、それはもう、ここぞとばかり遠慮なく、、、だったでしょうね(笑) で、くだんの少女に目撃されてしまった、そのあとの、若夫婦それぞれの反応が、まことに対照的だったのだそうです。 おじさんのほうは非常に不機嫌になってしまったそうで、当時少女であった、その人のほうも大いに困惑してしまったところが、いつも優しく可愛がってくれていた若いお嫁さんのほうは、おじさんとは正反対の落ち着いた対応ぶりで、照れるでもなく、狼狽した言い訳するでもなく、冷静に手短に、子どもにも納得できる説明をしてくれたのだそうです。 さて、本題に入ります。 哲学カテゴリーとは言え、やはり、心理学や生理学、生物学などの観点からの考察は絡んでこざるを得ない御質問だと思いました。 と言って私には、特に、それらの知見があるわけでないのですが。。。 ただ、しろうとなりに、容易に考えられますことは、 いかに知能の高さを誇るヒトの、こんにちでも明らかに本能レベル由来の行動には、大きく、食事、排泄、生殖、睡眠が挙げられますね。 これらに第一に共通することは、無防備であるということ、それは、一歩間違うと、危険が伴うということです。 俗に言われます「同じ釜の飯食った仲」ですとか、ましてや同衾して生殖行為に及ぶというのは、(強姦は当然除きますが)、最大の親和行動です。 排泄などは、まず、一人になって行ないますね。もちろん、国柄や地域事情によっても多少違ってきますが、一つの例として、これも何かで読んだことですが、確かポリネシアのどこかの島国だったと覚えていますが、 真昼間、子どもたちが眺めて囃したてる傍で、これも笑いながら言い返したりしつつ夫婦の営みに励んで、ちょっとも恥じないのだそうです。 そのあたりは年中暑い気候の地域ですから、今現在どうなっているかは知りませんが、当時は、まだ椰子の葉で葺いた屋根がかかってるだけの壁も何もないような家屋で、戸締りどころではないという感じの様子だったということでした。 日本でも、昔の、あるいは、いまでもそういう所は残っているのかもしれませんが、戸締りなんぞする必要もないくらいに、勝手知ったるご近所どうし、警戒心というものが必要ないほどであった。 ということならば、最も無防備な行動の一つである生殖行為の最中でも、密室に閉じこもり隠す必要もないということになるわけかもしれません。 と言うよりも、そもそも、伝統的な日本家屋自体が、およそプライバシーを守るようには、あまり向いていない造りだったわけですが。日本人に関しては、こちらの影響を考えてみたほうがいいかも。 だいたい、隠す、隠さずにおけない、ということの理由を考えてみると、まず、それは、ある面で不利な行為であるということが真っ先に考えられる理由ではないでしょうか。 食事に関しては、そもそも、獲物を仕入れることから始まるのが自然界の掟ですから、ヒトにしたって、狩りや採集の危険から逃れられなかったわけです。 なお、仲間から離れて一人で食事するのを避けたがる人が多い傾向もあるようですし、人前で食事するのを憚る気分も、人によっては強かったりするようです。 睡眠が最も無防備な状態であることは説明するまでもないでしょう。睡眠時の安全が確保できているかどうか、これは、生活状態を計る一つのバロメーターになりそうです。 排泄や生殖行為の場合、体表を守ってくれる体毛の甚だしく退化したと思しきヒトは、その代替でもある着衣を、いったん離さなければなりません。 しかも、排泄なり生殖行為の、ひとたび佳境(?)に入りますと、「車は急に」、ではありませんけど、おいそれと切り上げるわけにもまいらないわけですね(笑)考えてみれば、まことに危険です。 そうした危険性が伴うからこそ、そして、その危険性を覚る知能の高いヒトならでは、そこを共にした者どうしの親密さも高まろうというわけでしょう。それは、文化としての華?にまで発展しているわけですね。 単なるデートでも、二人っきりでデートするのと、集団デートでは、趣きが違いますでしょう。 お目当ての人をデートに誘ったら、友だちも連れて行っていい?などと聞かれてガッカリした、などと聞いたりします。 まぁ大人数でのデートのような場合でも、ふとした隙に周囲に気づかれないように目と目を見交わしたり、お茶するテーブルの下で密かに膝と膝を触れ合わせたりとか、いろいろと隠微に楽しむ手段はありますけども(笑) 女の子などは、おトイレに連れ立って行くのが、親密さの表現だったりするくらいで。男性の場合、「連れ」ナントカがどうであるかは存じませんが(笑)これは余談でした。 ヒト以外の動物だと、たとえば生殖行為の最中、彼らには彼らなりに快楽はあるのだろうけど、基本的に、自分たちの目前のことしか考えてないでしょう。そして、サッサと済ませる傾向にあるのではないでしょうか。 そこへいくと、ヒトはヒトを、周囲の視線を、特に後ろからも横からもを気にします。(しないヒトもいるか 笑) そして、その分も、じっくりねっちり引き延ばして引き延ばして楽しもうとします。ね? その「危険性」というものは、それを「冒す」ということに、隠微な悦楽や恍惚感をいや増す効果も生じてくるということかもしれません。 リスクの高さを分かっているからこそでもあるでしょうし、 ですから、隠そうとすればするほどに、そこに深刻なまでの「危険の匂い」、タブー感が漂ってくる、なみなみならぬ事態である、ということを「白状」しているようなものなのです。 それ自体は、ヒト以外の動物でも、ある程度わきまえているようだと思いますが、ヒトの場合、「文化」にまでなっちゃってる。 それが証拠に、「あけっぴろげのおっぴろげのまる出し」なんぞ、どこに「禁断の色香」がありましょうか。 そのへん、すでに、他の御回答でも指摘されておられますね。そういうことだと思います。 で、ところが、ついには、露出の恥ずかしさを快感にしてしまったり?どこまでいくのやら(笑) 危険―恥ずかしさ―罪悪感 この連関は、考察の余地がありそうです。 かの坂本龍馬でしたか、アノときの恰好を想像したら、どんな立派なおエライさんでも、そのマヌケな姿の滑稽さに笑える、とか言ったそうですね。
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- o_tooru
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こんばんは、疑問はつきませんね。 さてご質問の件ですが、本能だから隠すんですw 人間は、文化的になろうと努力を重ねてきました。動物と人間が異なるのは、文化を持っているからだと思うとしてきました。その結果、人間は「本能」をいかに隠すかと言うことを考えてきました。その結果、体を隠す我々の服装ができ、下着ができ、好きだと直接言う代わりに音楽ができ、好きという言葉を直接言わないで、別な表現にして異性の気を惹こうとしてきました。 まさしく、本能を隠すために文化が発達したんです。人間は本能を隠す生き物なのです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 文化と本能が逆向きであるということ、なんと複雑でこまやかなんでしょうかね。はっきりいって面倒くさい。
- VIVIDNESS
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貴方の意見を要約すると、「性欲は本能欲求である」という前提があり、「本能欲求を隠す必要はない」という展開があり、「性欲(=エロ)を隠す必要がない」という結論に繋がっているようです。ところが、この「本能欲求を隠す必要はない」という展開の部分に、問題が潜んでいるのではないでしょうか。 人間は社会性の発達した動物です。まさしく、NO.9の方が的確に表現されたとおり、「公の場で平気でパンツを脱ぐお猿さん」ではありません。その社会性とは、一定程度のルールを持つ社会において、社会の構成員が、自らの本能欲求を抑え、他の構成員や社会規範と同調する能力を意味します。こうした社会性は、社会を維持する上で重要な能力となっており、我々構成員は、自覚的・無自覚的レベルでそれを獲得しています。 したがって、「本能欲求を隠す必要はない」と信じ、「本能欲求を隠さない」ということは、他の構成員の自覚的・無自覚的レベルでの反感を買い、社会規範からも何らかの罰則を受けることになります。そして、言うまでもなく、こうした危険性の自覚も、社会性の中に内包されています。 よって、社会性を獲得している人は、他の構成員の反感を買うことや、社会規範の罰則を受けることを避けるという、社会性の目的からして、本能欲求を隠すのです。我々の社会がこういう性格であるからこそ、「本能欲求を隠す必要はない」という展開が誤りとされるのです。とはいえ、「本能欲求を隠す必要はない」という展開の誤りは、こうした性格の社会の中でのみ見られるものであり、他の性格の社会の中では正しいとされるかもしれません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 人間は本能を隠すことで社会性を獲得すると言う変な動物ですね。こういうことは他にも例があるのでしょうか。 社会性はすなわち本能の抑圧である、というからくりにはどういう理屈があるのでしょうね。
- ENERGEIA
- ベストアンサー率10% (3/28)
公の場で平気でパンツを脱ぐお猿さんに聞けば解るのではないですか。 サル意識を顕現されている方も居られるようですし。 例の低次元の猿体現象たる醜態を犯している人です。
お礼
ご回答ありがとうございます。
- Y Y(@yy8yy8az)
- ベストアンサー率17% (89/501)
答えは恥ずかしいから。(たぶん) 人が生存していくために必要な本能である性欲になぜ、「恥ずかしい」という気持ちが伴うのか。 不思議です。 欲望というとあまり好ましくない意味で使われる事が多いと思いますが、より良い人間になりたい、社会の役に立ちたい、優しい心を持ちたい、なんてのも欲望と捉えれば、人の欲はすべて好ましくないものとはいえないと思います。 でも物欲とか金銭欲とかは、あまり表に現わしたりはしないもので、心の中に隠しておこうという傾向があるようです。 神(全体)と人間(個)という観点から見ていくと、いわゆる「向上心」というような欲望は、「全体」に結びつく傾向があるのに対し、「我欲」といえるような欲望は、「個」に執着するという傾向があります。 その「個」にまとわりつく欲望、快楽にはなぜか羞恥心が伴います。 なぜなんでしょう。 たぶん、人間以外の動物は、「本能」に節度を保つ能力が備わっているけど人間にはないので、ブレーキ役となる「羞恥心」を感じるように出来ているのではないでしょうか。 人は他人の前で裸にはなれません。恥ずかしいから。 もし人前に裸で放り出されたら、真っ先にパンツをはくでしょう。 隠したいから。 生命は存続するために「性欲」がありますが、人間の場合「理性」が行動をコントロールします。 そのために「羞恥心」があるのではないでしょうか。 理屈では、大切な欲望の一つである、と思っても自分の「個」にまとわりつく欲望は、隠したいものです。
お礼
ご回答ありがとうございます。
補足
そのとおりでしょうね。 「恥」というものが原動力になって、社会性を脱ぎ捨てて本能的行動に駆り立てたりします。それが人間の表裏なんです。 厄介なもんですねぇ。
- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
#5です。 お屠蘇の酔いがまだ抜けていないようで、誤植がありました。お恥ずかしい。 漫画礼参、アニメ礼参 => 漫画礼賛、アニメ礼賛 と読んで下さい。
- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
最近こんな川柳を新聞で見かけました。 もう少し 隠せば色気 出るのにな 不幸にして漫画礼参、アニメ礼参で117億円のも公費を掛けてアニメ殿堂館を作ろうなんて開いた口が塞がらない話が本気で出てくるような世相の中で育てられ、直接的な視覚を通さなければイメージが出来なくなってしまった想像力欠如世代の悲劇ですね。人間て、動物よりも楽しみ方が多様で、だから動物よりも幸せもいっぱい在るのですよ。「隠す」ことの意味が理解できないなんて、豊富であるはずの自分の幸せの可能性をご自分で制限してしまっている方々に、ご同情申し上げます。 アメリカに住んでいるインドの友人が「今の若い連中は、余りにも早く性を体験してしまい、これから長い人生で経験して行くはずの多くの喜びを味わえないでいる。可哀想に」と言っておりました。勿論これはアメリカのことです。願わくば、日本の若者には、自分をコントロールすることによって、喜びをより大きな物に出来ることを分かって頂きたいと思います。人間の面白さは、幾重に皮を剥がしても何か新しく意外なものが幾らでも出てくる、底知れぬ深みにあるのですね。私事ですが、いろいろな無駄な経験をして来て、このごろになってやっと「皆の言っていることや、分かり易い論理の反対がいつも正しい」ことが分かるようになって来ました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 無論隠すことがスパイスになっているのはわかりますが、一人でやるものと法的承認の上2人でやるものとの評価の差は。
補足
想像力、と言うものを要求されるからかもしれませんね。人間の性の必要事項にさえなってしまっている。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんばんは。 一方で 性をいわば密室の中でのこととするのと もう一方で 《エロ本をもっているのを隠す》のとは 別のことだと考えられませんか? 後者にかんしては密室における性の行為とは それじたいとして 別ですから どういうふうに捉えているかは ひとさまざまです。 ★ エロ本をもっているのを隠すとは、なんと矛盾した行動なのでしょうか? ☆ この場合は エロ本が 密室における性の行為と密接につながっているという感覚があるから そういう振る舞いをするのでしょうね。 ★ なぜ、こういうときに「ああ、こんなにエロなんだ!立派!」というような感覚に一般人一般社会はなれないのでしょうかね。そんなにも「隠す」ものでしょうか? ☆ と見るのも もうひとつの場合だと考えます。つまり 自由ですね。 ★ なぜ人は、自分の性を隠したがるのか? ★ エロは生存本能だって言うのに、なぜ隠すのか? ☆ このふたつの問いにしても 性のいとなみとそしてそれにかかわっているけれども 直接にそれ自体ではない事柄との二つに分けて捉えればよいと考えます。 ★ 自分の性 ☆ と言っても漠然としています。密室のそれと たとえば裸という事態を言う場合もあるだろうし それを語るという場合もあるだろうとなります。 ★ エロ ☆ と言うだけでは やはり同じく 密室の行為とそれ以外のさまざまな事柄とに分けられるでしょう。 では 性のいとなみは なにゆえ密室の行為なのか? ふたりだけの行為だからでしょうね。ふたりっきりのことだからでしょうね。 見られたからどうってっこともないでしょうが 一対(つい)のふたりのことだという場合には 二人だけいる場でおこなうということでしょうね。 ふたりだけの行為であることを嫌って いろんな情況でおこなう場合もあるのでしょうが ふたりだけの密室のいとなみだという原則が消えてなくなるというものではないわけです。別の事情や目的があってそうすることになるのでしょう。 見られたって どうってことはないでしょうが 見せるものでもないでしょう。ふたりでおこなうのですから。
お礼
ご回答ありがとうございます。 わかるようでわかりません。 密室で2人でするもの、自慰も密室で1人でするもの(基本はです)とすれば、それぞれの評価が違うのはおかしいではないか、と言うことですね。
補足
たしかに、本能的習性として、密室で行うもの(危険回避)というものからの流れだと思います。
バター犬と確信しての暴言です。 あんたは高次元の霊体現象たる醜態を犯してますよ。 猥褻物陳列です。 生きることをあきらめたようですね。 生の蹂躙が性欲であり、死を望む心です。 おねーちゃんはお嫁さんにもらえましたか? あなただけのオナペットがおねーちゃんです。
性欲は理性の破壊です。 生存本能を逸脱した変態行為です。 生殖目的以外の快楽追求です。 バター犬に舐めまわしてもらってください。
- koko_u_u
- ベストアンサー率18% (216/1139)
隠してあるからよりエロいにきまっとるではないですか。 そういった「高度な」愉しみ方が人間というもの。
お礼
ご回答ありがとうございます。 人間は表裏がある。
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お礼
ご回答ありがとうございます。 引用のお話しはとてもためになりますね。 >いお嫁さんのほうは、おじさんとは正反対の落ち着いた対応ぶりで、照れるでもなく、狼狽した言い訳するでもなく、冷静に手短に、子どもにも納得できる説明をしてくれたのだそうです。 こういう心意気がある人がいると言うことは頼もしい。
補足
大変論理的で説得力にとんだご回答です。 危険回避から密室化、そして恥じらいへと進んでいった。むべなるかな。人間はその社会的規制を犯すことのスリルを性欲のエネルギーへと昇華する過程を取ったのです。