- ベストアンサー
「教えて」やってわかった知識自慢(自己顕示欲)が思いやりを上回る法則
一般論として、人っていうのは、 「人への思いやりよりも、自己顕示あるいは自己表現欲求のほうが勝るものである」 ということが当てはまるようだと思いました。 もちろん少数の例外(それこそ真の人格者)はあると思いますが、一般法則として感じます。 それは「教えて」をやって感じたことです(これを一般化するのはどうかと思われますが、どうも日常であう光景を考えても妥当なような気がします) ある質問で、 「すごく周りにいざこざが合って心が苦しい時代があった時に、なにか超自然的な現象が起こった、これを説明できないか?」 「近親相姦をしてしまっているのだが、なぜいけないことなのか教えてほしい」 という例があって、 これに対して、「同情」というようなものが感じられる回答がない。私は可能な限り、「知識にひけらかせ」ともちろん「嫌がらせ嫌味」は問題外だと思っているのですが、はじめのほうの質問には「そういう大変な時期なのですから超常現象のほうは付随的なんでしょ?」というニュアンスで回答できたのですが、あとのほうは「近親相姦してしまって悩んでおられますね心中お察しします」という風にはなれずに、「知識論」で通してしまったのです。あとのは「嫌味」やら「嫌がらせ」やらそこらの子供の戯言と同じでしたが、私としたことが、「同情」「共感」を持って回答できなかったのです。 ああ、これは限界だと思いました! いくら私が自分で行儀いいやつだ、情けが深いやつだとうぬぼれてみても、所詮はレヴェルの問題で、本質的な人格者寛容者ではないわけです。 人は結局、なにか忌避したいものとか蔑みたいもの、そういうものを作ってあるいは感じて、それに対して自分の優位性のようなものを抱いて生きているものなんでしょうかね?
- みんなの回答 (6)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
その他の回答 (5)
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
- dongri5656
- ベストアンサー率8% (8/100)
- nabayosh
- ベストアンサー率23% (256/1092)
お礼
たいへんなっとくしました。 不可分ない、理性的なアドヴァイスです。 無理はいけませんからね。おのおののキャパシティに従って、そして「良心」は残しておきたい。それがあれば、ほとんど問題ないんです。ほとんどは、そいつの不足から来ています。