• ベストアンサー

「他策なかりしを信ぜむと欲っす」とは陸奥宗光の「けんけん録」の最後の部

「他策なかりしを信ぜむと欲っす」とは陸奥宗光の「けんけん録」の最後の部分にある言葉ですが、この一文の主語は誰でしょうか? 陸奥氏が主語であれば「他策がなかったものと信ずる」ということでしょうか。とすると「欲っす」の意味は?希望するという意味なら、「(自分が)信ずることを希望する」で変です。 他人が主語なら「他策がなかったことを信じて下さるよう希望する」ということでしょうか。とするとあまりにも言い訳がましい。 「欲す」がなければよいのですが、よくわからないのです。教えてください。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#101614
noname#101614
回答No.5

No.4のcryfortyです。 長い回答になりました。OKWaveはリニューアルされ字数制限が厳しくなりました。三回分割でもムリそうなので、この回答のためだけに別のところからID取得しました。 ◇◇◇ 質問内容は「主語は?」「『欲す』の意味は?」ですから既に終了しています(No.1さんへ補足要求が現時点でもない以上、最初の質問には「欲す」の存在理由に対する疑問もある、という主張はない筈です)。また絡んでくるような人を相手にするのは時間損失感が甚だしく、迷惑です。ですが前回のアドバイスを全く解されていないようなので、一言しておきましょう。 ただ貴方に理解・納得してもらえるとは考えていません。それは最初の質問の質(主語は誰か!)を考えても、補足要求において示された私の回答に対する理解度を見ても、期待できるとは思えないからです。私としては第三者が読んで「どちらが全うか」ということが伝わればよく、この回答の目的は達せられます。 ◇◇◇ >「欲す」は無くても意味が通ずる、「訳出しないで意味を理解する」ということですと、陸奥氏はどうしてわざわざ「欲す」をつけ加えたのかについて、少しの疑問を感じますが如何でしょうか。 前回の回答への補足説明です。 「欲す」という言葉が使われている以上その存在を認め、それをどう理解するかから話を始めるのは当然です。もちろんプロの著者でも誤ることはありますから、すべての言葉を自明の存在として解釈すると回り道を強いられることもあります。ですが、この「欲す」を不適当という人がいますか?それにこの「欲す」があることによって理解が不能になるわけでもありません(まれに理解に支障をきたす人がいるようですが…)。また、この本は明治漢学の大家である島田篁村が手を入れたという証言が残っています(『蹇蹇録』岩波文庫p.431)。「欲す」の存在を尊重したうえで解釈することに問題はないでしょう。 まず、最初の質問を読んで思いました。「欲す」を「望む」「願う」という現代語に相当する語に、あまりにもバカ正直に当てはめて理解しようとしている、そのせいで混乱している、と。喩えれば、have = 持つ・find = 見つける、と単語に対応する訳語をセットで覚えた英語の初学者が、その訳語を唯一の頼りに英文を頭の中で日本語に置き換えて(それは即ち硬直した不自然な日本語で理解しようとして)混乱している、と。 【こういった「欲す」は、その前の言葉(信じる)への志向性をあらわしている、というように抽象的に把握して対応すればいいのではないか】 だから前回こう↑述べたのは、訳語を一対一で硬直対応させて解そうとした結果、理解に支障をきたした者へのアドバイスなのです、そのほうが貴方にとって解りやすいだろうと考えたわけです。 一応付加えておきますと、(英訳者と同じ訳の)1番さんの回答が問題であるというのではありません。否、私は同意を示しています。 またここでの陸奥のように、我々がシリアスな場面で「信じる」という表現を使う場合、自己の信念なり、強い意志なりを秘めていることが多い。そして「信じる」という以上、確定的なことや確認可能なことについてではなく、不可知なことをその対象にします(貴方の取り上げた短文は過去の確定事実に対する仮定の話)。「信じる」対象についての確証は得られないということです。確証があれば「信じる」必要などありません。従って「信じる」と発するときの胸中にある信念や意志には、「願望」「祈念」が付いて回ります。つまり「欲す」の持つ意味「願う・望む」は、この「信じる」と意味の範囲が重なる、付随する、近似のものだ、ということです。 「『欲す』は訳出しないでも文意を損なわない」というのはその点を考えてのことであり、「欲す」を黙殺していいというのではなく、「欲す」を「信じる」に含ませた訳、「信じる」に包含させた訳なのです。(ある種の)意訳をしたからといって私が原文の「欲す」の存在を軽視・疑問視したという訳ではありません。 無論これも、逐語的に現代語(それも会話表現での語感)に置き換えて混乱している者へのアドバイスで、文意を損なわないのならシンプルな現代語にしたほうが解しやすいだろうという考えによります。 以上、No.4回答の補足説明です。 まだ、 「『欲す』がなくても大意を損なわない」「意味を抽象したほうがわかりやすい」 と 「陸奥氏はどうしてわざわざ「欲す」をつけ加えたのか」 とを切り離して考えてもらえませんか。 そこを切り離してもらわないと、話が截然としません。 さらに言えば、「欲す」の存在に対する疑問と私のこれまでの回答を結びつけるのは、貴方にそのつもりはなくても、以上の説明から、私にとっては「曲解」という印象なのです。 少し話を続けましょう。 ◇◇◇ さらに「欲す」について。 ご存知のように「欲す」には以下のような用法もあります。 独り天涯に在って年暮れんと欲す (山陽の漢詩「船大垣を発して桑名に赴く」) 書を読みて睡らんと欲すれば、錐を引きて自ら其の股(もも)を刺し、血流れて踵に至る。(戦国策) 上は、時間の経過を表しているわけで、「年の暮」へ向っているという感じです。 下の「欲す」はもちろん眠ろうという意思ではなく、眠気を催している、睡魔に襲われているということです。四角く言えば、眠りに向っているということです。 こういう例を見ても、「欲」はある対象へ「向うこと、志向、指向」を要素にしており、意味を抽象的に把握した方が応用の利くことが分ります。 ◇◇◇ 「欲す」について。続きます。 「欲す」を使えば常に表現が控えめになる、と考えている硬直性も問題です。現代の会話表現では、言い切ることで与える強い印象を和らげるために「~したい」「~と思う」が頻用されますが、そのソフトな語感に引きずられ過ぎです。 例えば、「欲す」の訳(現代語の言い換え)に使える「~たい」。 「断固排除したい」「ぜひとも合格したい」と、使われかた次第で必ずしも弱々しくはならず、話者の強い決意や意志が表現されます。 文語の「欲す」も同じです。以下の「欲す」を婉曲・柔弱・配慮ととる者はいないでしょう。 治部藤道、その弟福阿弥、沼田某と奮つて曰く、「吾れ死あるのみ」と。槍を提げ馳せて府門に至り、呼んで曰く、「吾れ将軍と共に死せんと欲す。願はくは入るを得せしめよ」と。(日本外史) 魯失亜(ロシア)の猛鷲なるや、其の先王の貽謀を堅守して変ぜす、兵威に藉り益々版図を拡むることを求め、英国の富盛を妬害して、一意に其印度の根本を覆へさんと欲して已まず。(三酔人経綸問答) 貴方の取り上げた文はこうです。 【何人を以て】この局に当らしむるも【決して】他策なかりしを【信ぜん】と欲す。 御覧のように、短文に強調表現(【 】)が散見できるほどの調子なのです。 またこの文の前部分を読んでください。批判者を意識して弁明的ではありますが、強い調子の文章です。 http://www008.upp.so-net.ne.jp/bungsono/Okazaki/Okazaki37.html 以上、ここでの「欲す」を婉曲の意味にとる言語感覚が私にはわかりません。 ただ、どう「感じるか」(語感の問題)は他人の容喙する問題ではなく、貴方の「特殊」問題です。 ◇◇◇ 長くなったので短く要点を書き出して確認しましょう。 ■前回の回答、またここまでの回答は、実際に使われている「欲す」の存在を認めたうえでの解釈を問題にしている、ということ。 ■「『欲す』がなくても大意を損なわない」「意味を抽象したほうがわかりやすい」というのは、現代語(会話語)の語感に引きずられ、また一対一に訳語を対応させて硬直した読みをしていた貴方への「処方的アドバイス」という面があるということ。 ■「『欲す』がなくても大意を損なわない」というのは、「信ず」と意味が近似である、意味が重なることを利用しての意訳であるということ。「欲す」の存在を軽視・疑問視しているわけではないということ。 ■「意味を抽象したほうがわかりやすい」というのは、文脈によってニュアンスが変わる、純正の現代日本語でない以上、それが便宜的だということ。 ■ここでの「欲す」を婉曲表現にとるのは文脈上難しいということ。 以上、私にとって以下貴方の補足要求のメイン部分は意味を成しません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「欲す」は無くても意味が通ずる、「訳出しないで意味を理解する」ということですと、陸奥氏はどうしてわざわざ「欲す」をつけ加えたのかについて、少しの疑問を感じますが如何でしょうか。 「信ずる」のであれば「信ず」と言い切ればよいのに、そうしないのは自信に欠けるところがあったのでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ◇◇◇ 貴方の補足要求にある「なぜ『欲す』を使ったか」は、筋道がおかしい。【ただ、「欲す」の使い方、なぜ「欲す」を選択するかの疑問は、貴方の補足要求の文脈を離れれば、当然その存在は認められます】。 それに関しては、漢文の先生か漢文調の文語文を自在に書きこなせるほど古書に通じた希人に訊くしかないのではないか。いや、文語文が生活レベルで体に染み付いた人(後者)などいますかね。とにかく後者を捕まえるのは至難でしょう。 (当時の)文語体の呼称に「漢文崩し」という言い方があります。その名の如く、漢文の訓読の言い回しがよく見られる、というよりそれを材料の一部として文章が成り立っている文体です。言葉の選択については知りようがありませんが、漢文に「欲す」は頻出すること、陸奥の文章はそういった漢文訓読の要素と不可分の文体であること、それを付加えておきます。 ▽▽▽ “No more serving me! Go away!” He found the courage to say that much. 「もう、私を《提供しません》!立ち去りなさい」彼は、《その多く》を言う【勇気を見つけました】。 翻訳機のバカ訳です。《 》は辞書を引けば小学生でも間違いませんが、【 】は中学生なら、頭の中で一度これに似た言葉に置き換えてから理解処理する者もいることでしょう。 ▽▽▽ 初めて自転車に乗る者が手元ばかりを見てしまって走行が安定しない、ということがあります。外国語や古文を読むときにも同じです。慣れないうちは細部が気になって(視野が狭くなって)スムーズにいきません。所謂、木を見て森を見ずに陥りがちです。 ◇◇◇ 「自信」という言葉について。 前述したように、貴方の補足要求の筋道はおかしいという考えです。ただその筋道とは別に(貴方の使った個別の「自信」ではなく、一般的な意味の『自信』ということ)、この言葉について私見を述べてみます。 http://www008.upp.so-net.ne.jp/bungsono/Okazaki/Okazaki37.html 私は先ほどここ↑を取り上げて「強調表現」「強い調子」と形容しましたが、貴方の言葉を尊重して「自信」という言葉は使いませんでした。この「三国干渉」の章の末尾に「自信」という言葉を使うことに違和感を覚えたからです。 この章で語られているのは、グレートパワー(列強)の圧力に対して、新興のミドルパワー(日本)がどう対処したか、です。自ら動いた外交ではありません。強いられたなかで、ぎりぎりの可能性を探った外交です。 また「畢竟我にありてはその進むを得べき地に進みその止まらざるを得ざるに止まりたるものなり」とあるように、帝国主義外交におけるミドルパワーの【限界というものを自覚した】外交です。 「自信」という言葉には積極的な響があります。そしてどこか楽天の要素も感じられます。そういった言葉を、上述のような状況・認識の外務当局者のところに持ってくるのは、この言葉の個性にそぐわないとは思いました。政治家ですから「じしん」をもってやってもらわなくては困りますが、こういった場面では「信念」のほうが相応しかろう、というのが私の語感です。 岡崎久彦という方をご存知でしょうか。陸奥の従弟岡崎邦輔の孫で、外務省で情報を扱う仕事していた方です。評論活動も活発に行なっておられます。 その著書の一つ『国家と情報』に、外交の情報分析について語った箇所があります。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 第三の原則は、国際情勢は「一寸先は闇」ということを何時も忘れないことです。  私の経験から言えることは、極めて優秀で一度も情勢判断で誤りを犯したことのないという人の判断はどこか危っかしい所があって、使う前に注意が必要です。逆に、中ソは一枚岩で分裂しないと最後まで主張したり、中国共産党にはソ連のような権力闘争はないなどと言って、文化革命の判断を誤ったりして、結果として間違って夜も眠れないようなはずかしい思いをしたことのある専門家の意見ならば安心して使えます。  つまり、後者は、政治現象の本質というものをより良く理解しているからです。一寸先は闇というのは故川島正次郎氏の言葉と記憶していますが、まさに政治の本質を言い表わして妙です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 政治・外交判断に安易に「自信」などという言葉を持ち込むのはナイーブの誹りを免れない、私はそう考えています。 ◇◇◇ そうそう thinkのような基本動詞は文脈によって意味の軽重が変わります。もっともそれ以前に、近似値を示すにすぎない外国の翻訳語を陸奥の心理を忖度する材料にしようという姿勢に驚きます。 ◇◇◇ >お時間をとらせるようなことで申し訳ありませんが、英訳はどなたのものでしょうか。出典をご教示頂ければ有難く存じます。ネットで検索してみたのですが見つけられませんでした。 著者陸奥宗光のローマ字表記大丈夫でしょ? それなら問題ない。 ご存知のように「英訳 蹇蹇録」で検索しても訳者は判ります。 引いたのは訳書のP.254。 >お時間をとらせるようなことで申し訳ありません・・・ネットで検索してみたのですが見つけられませんでした。 「白々しい」、私じゃなくてもこう感じるはずです。確実に答えられる質問を一つ用意して私を引っ張り出そうという策ですか。 それから訳文の一部を検索にかけましたが、ウェブ上では閲覧できません。 結局、日本人にとっては古典的な名著でも、外人にとっては学術的資料ですから。米アマゾンで値段見てください、教養書としての普及度は零ということです。 ◇◇◇ 以前、親鸞の英訳に関する質問でタチの悪い人に答えたことがあります。その人は知的コンプレックスを刺激される回答者に対して、執拗に質問を繰返して相手を困らせる人でした。一応儀礼的な言葉は使いますが、相手の時間を消費することなど頓着しません。結局は自分の醜態に気付いたのか行方をくらましましたけどね。 貴方の質問履歴を見れば、その人と全く違う性質の人だとは分りますが、貴方の補足要求を読んだとき、すぐその人が連想されました。 それから、「勿論、本人でなければわからない」と考えていることを敢えて質問してくるというのは、どうなんですかね。私が質問者だったら、よほど気に入らない回答者に対してしか「本人でなければわからない」と考えることなど聞きませんけどね。私は時間を貴重に思っていますから、他人の時間を無駄に消費することなどできません。気に入らない奴は別ですけどね。 ◇◇◇ アドバイス 熱心に補足説明を求めるほどその本に興味がおありなら、原典をじっくり読むより、学者や識者が噛み砕いたものを読書対象にしたほうが良いでしょう。この本をまるまる扱った本はさほど多くないかもしれませんが、日清戦争・陸奥宗光・三国干渉、このキーワードで図書を調べればいくらでも見つかるはずです。そしてそれらの本に、この回想録への切り込みのない本はありません。貴方の見識・言語力・(予想される)読書量からして原典にあたるより、専門家や識者によって「加工」された本にあたるほうが適当な筈です。 過去の質問を拝見すると旧式の文体に興味をお持ちのようです。なので、内容より文語体の文章に興味があるということも考えられます。それなら、この本に対象を限る必要はありません。現代語訳や参考書のある本、あるいは歴史背景など一定の知識を要しない本でも選択したらいでしょう。 誤解されると困るので最後に一言。 超長文回答をする人には、書くこと自体に喜びを感じている人が多いようです。しかし、私はこの長文を面白くて書いたわけではありません。不快、歯がゆさの感情が長くさせたということです。

kayaba
質問者

お礼

重ねてのご教示有難うございました。 >私はこの長文を面白くて書いたわけではありません。不快、歯がゆさの感情が長くさせたということです。 ご不快にお感じになられていることについては予想外ですが、申し訳ありません。気軽な疑問を持ち、気軽にこのサイトに質問を出させて頂きました。そのような軽薄な態度は許し難いと仰せならば、ご叱正を甘んじて受けるしかありません。 >確実に答えられる質問を一つ用意して私を引っ張り出そうという策ですか。 全くそのようなつもりはございません。本当にネットで検索できないのです。ネットの扱いに慣れていないということなのでしょう。 いずれにしてもお時間をお使いくださったことを申し訳なく存じ、感謝をいたしております。 有難うございました。

その他の回答 (4)

  • cryforty
  • ベストアンサー率66% (16/24)
回答No.4

この「欲す」は「秦の兵を仮りて以て魏を救はんと欲す」(戦国策)、「天下の議論を画一ならしめんと欲する勿れ」(文明論之概略)などの「欲す」と同じですから、No.1さんのようにあっさり解せばいいじゃないですか。 「欲す」は漢文訓読文でも漢文くずしでも特に現代語に変換することなく意味が通じますが、ここでは多少の意訳(というほどではないですが、便宜的にそう言います)が必要なので??となってしまっただけでしょう。 こういった「欲す」は、その前の言葉(この場合は「信じる」)への志向性をあらわしている、というように抽象的に把握して対応すればいいのではないかと思います。 なお、ここでの(「信ぜむ」の)「む」は「決意」や「意志」をあらわす助動詞ですが、陸奥の「意」以外にとりようがありません。 余談になりますが、現代の言葉に訳すのなら「欲す」は特に訳出しないで「~と信ずる」「~と信じている」でも文意を損なわないと思います。 ちなみに手元の英訳では「I should like to think that ~」となっています。

kayaba
質問者

お礼

ご教示有難う存じます。 重ねてで恐縮でございますが、「欲す」は無くても意味が通ずる、「訳出しないで意味を理解する」ということですと、陸奥氏はどうしてわざわざ「欲す」をつけ加えたのかについて、少しの疑問を感じますが如何でしょうか。 「信ずる」のであれば「信ず」と言い切ればよいのに、そうしないのは自信に欠けるところがあったのでしょうか。あるいは、文の調子として「欲す」をつけた方が響きが良いと思ったのでしょうか。ここらあたりについてのご卓見をご開陳願えれば有難く存じます。勿論、本人でなければわからないことではありますが。 英訳についてもthinkが入っているので何か自信がないような気分を感じてしまいます。自信があればもっと断定しても良いと思いますが。 お時間をとらせるようなことで申し訳ありませんが、英訳はどなたのものでしょうか。出典をご教示頂ければ有難く存じます。ネットで検索してみたのですが見つけられませんでした。

回答No.3

 回答番号:No.2  そうですか、難しいですか。  極く当たり前の自分のこととして読むだけです。  文章は、とくに日本の文章はそうです。  文字と単語を追うと同時に、そのリズムと心の中に入るだけです。  難しくなく、そういう(投稿した解釈)でしま受け取れないのですが。

kayaba
質問者

お礼

ご多忙中、引き続きお時間をとって下さいまして有難うございました

回答No.2

 「他策なかりしを信ぜむ」は  「他策なかりしを確信せざるを得ない」です。  だから「他策なかりしを信ぜむと欲っす」は「他策がなかったことを確信せざるをえない」ことを願うものである。  という意味です。  希望はしていないし、それくらいは分るだろう。  陸奥についても無知ですが、文章を読む限りはそうでしかありません。  馬鹿にはわからんがなぁですね。  そんな経験はだれだってありますから、気持ちはわかります。   確信の主語は世の中の理解力のある人。  欲すの主語は陸奥宗光です。

kayaba
質問者

お礼

ご教示ありがとうございます。うーん。難しくなってきました。

  • toko0503
  • ベストアンサー率36% (886/2437)
回答No.1

その前の文章が 「余は当時何人を以て此局に当たらしむるも亦決して他策なかりしを信ぜむと欲す」 とありますので、「余(私)」が主語だと思いますよ。 「私は、当時、誰がこの局面に当たったとしても、決して、これ以上の策はなかったと信じたい」

kayaba
質問者

お礼

有難うございます