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江戸時代と現代についての質問です;;

”江戸時代と現代の比較”について、今取り組んでいるのですが、 わからない項目がいくつかあるので、教えてください(><;) (1)ごみ処理の方法の比較 (2)法律の比較 (3)生活水準の比較 (4)住民感情(ごみに対するもの)の比較

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回答No.1

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 あなたのご質問については、各地での状況が違いますので、江戸を例にとってお話しをしましょう。 >>(1)ごみ処理の方法の比較 「よもやま話」でもお話しをしますが、とにかく、リサイクルシステムが完備されており、 例えば、大根1本にしても、庶民は、まず皮をむいて味噌汁や煮物で食べる。その後、皮は千切りにして、「いためて」食べる。葉っぱは「お浸し」などで食べる。・・・つまり、残るところがない。 しかし、武家や商家、料理屋などでは、当然、そこまでは食べませんので、残飯が出ます。これらは、農家の人たちが定期的に町内を回って回収し、農家の肥料などに使いました。 また、火事などで焼けた廃材などは、江戸は千代田城(江戸時代、「江戸城」とは呼ばず「千代田城」または「舞鶴城(ぶかくじょう)」と呼び、庶民は、ただ単に「お城」とよんでいました)のすぐ近くまでが海でしたので、柵を作って、そこへ投棄しました。 つまり、埋め立てに利用したのです。現代の「夢の島」ということです。 >>(2)法律の比較 江戸で出される「○○令」などは、基本的には、江戸の庶民に対してのみの法律でした。 また、「武家諸法度」のような法律は、大名に対してのもので、諸国の庶民は、その地の領主(大名など)の管轄で、その地だけでの法律がありました。 従って、江戸で出された「禁止令」などは、主に、江戸の庶民に対してだけの効力しかありませんでした。 >>(3)生活水準の比較 う~ん。これは難しい。 江戸時代も物価の変動があり、一概には言えませんが、 例えば、大工の賃金は年収で約120万円位といわれており、その収入の中で、妻や子ども4~5人を養っていたようですので、士農工商の人々は、自分なりの工夫で生活をした、と思います。 ただし、逆に貧乏だったのは、武士(主に、御家人)の方かもしれませんね。 少ない俸給の中で、冠婚葬祭などにしても体面が重んじられていましたから、札差などからは、借金、借金、またまた借金と、借金地獄だったようです。ですから、江戸時代も終わりに近づくと「御家人株」と言って、身分を売ることさえ行われました。 風呂屋・・・8文(約100円) 蕎麦・・・・16文(約200円) 庶民としては、士農工商の下に「非人」「穢多(えた)」と呼ばれる最下層の人々もいました。 非人: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%9E%E4%BA%BA 穢多: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%A2%E5%A4%9A >>(4)住民感情(ごみに対するもの)の比較 江戸は、盛時で、庶民が50万人、武士は軍事上の秘密から公表はされていませんが、武家地の町割り図から見て、同じく50万人位、つまり、江戸は100万人都市で、世界一の大都会だったのです。 しかし、し尿処理など(「よもやま話」参照)や、さまざまなリサイクルシステムがあり、世界一綺麗な街だったのです。 例えば、フランスなどは、排泄物を自室の洗面器などにして、窓から道路や川へ捨てていました。 そこで、靴やドレスの裾が汚れないように考え出されたのが「ハイヒール」だったのです。 (よもやま話) 題して・・・「EDOの街はECOの街」 (1)下肥問屋 江戸の街は武家地が25%、庶民の地が15%、後の60%は農地でした。渋谷、原宿、麻布なども農地でした。 盛時には江戸の人口100万人と言われて世界一の大都市でしたが、農地が大部分だったのです。 現代では、「食い倒れ」と言うと「大阪」を指しますが、昔は、江戸が一番の「食い倒れ」でした。 こうした贅沢な庶民の排泄物は、農家の野菜作りには大変優良な下肥でした。 農家は、長屋の大家と提携して、年に数回「汲み取り」にやって来て、その代わりとして、年に「たくあん漬」10樽とかを大家に収め、大家は店子に配ったりしました。 元禄年間(1680~)頃には、下肥の争奪戦が勃発し、「下肥問屋」なる職業が成立し、下肥の値段が急騰したため、勘定奉行より「公定価格」まで提示されました。 また、大奥などのやはり優良な下肥は「葛西権四郎」なる者が一手に引き受け、堀を伝って舟で運び、農家に売買していました。 (2)古紙回収屋 紙は、当然、貴重品。 現代の「チリ紙交換」と同じように、役所や商家などで書き損じた紙は「古紙回収屋」が引き取り、また、街中を篭をしょって歩き、紙くずを拾い集めたりしました。 再生紙は、「浅草紙」と呼ばれ、トイレットペーパーになりました。 これは、今も昔も変わりませんね。 (3)古着屋 武家や大店から古着を買い取り、庶民の女性が集まりやすいように、長屋の近くに店を出すのが一般的でした。 (4)端切れ屋 これも、反物から着物を作った残りの布地を買い取り、古着屋と同じく、女性の集まりやすい長屋近くに開業。 昔は、少々の破れは布を当ててつくろいました。 良く、TVの時代劇で子どもが、何の「つぎはぎ」もない着物で遊んでいますが、とんでもないウソ。 (5)着物のリサイクル 旦那の着古し→子どもの着物に仕立て直し→おしめ→雑巾。 (6)傘の古骨買い 番傘(蛇の目傘)の壊れたものを買い取り、折れた骨は取替え、油紙も新しく張り替えて、再度、店先へ。 (7)焼き継ぎ屋 現代では、茶碗や皿などが割れると、ハイ「廃品回収」ですが、江戸時代には、立派な職業。 割れた茶碗や皿に「ふのり」と「粘土」を混ぜた「天然の接着剤」でくっつけて、火で焼けば「元通り」。 (8)たが屋 水桶などの「たが」のゆるんだ物を直す職業。 (9)らう屋 キセルの修理屋。 (10)ゲタの歯入れ屋 磨り減った下駄の歯の交換屋。 (11)古鉄買い 火事で消失した家などに使われていた「釘」を買い集め、再び、新しい「釘」にして大工などに販売。 (12)灰買い屋 家庭の灰や焼け跡から「灰」を買い取り、農家に販売。 天然のアルカリ成分なので土の再生に利用された。 (13)廃材の再利用 「ふすま」「障子」「戸」などは、全て同じ寸法。従って、取り壊した家などから、そうした物を買い取り、長屋や商家などでの取替えをした。 「柱」も数種類だけの寸法なので、古い建材ですぐに家が建てられた。 (14)風呂屋(湯屋) 江戸の街は、密集しており、一度火事が起きると広範囲に消失した。 そこで、庶民の家では「風呂」を造ってはいけない禁止令が発令された。 風呂屋を開業するには、勘定奉行所の許可が必要だった。 また、「薪」も近隣の農家から買う必要があり、高かった。 しかし、大体は町内に1軒位は湯屋があり、湯銭は8文(約100円)で蕎麦の16文の半値だったため、風呂好きな暇な大家などは朝夕の2回の風呂屋通いをした。 かの有名な大店の「三井越後屋(現:三越)」の店員でさえ湯屋通いをしました。

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その他の回答 (1)

  • sudacyu
  • ベストアンサー率35% (687/1961)
回答No.2

 No1さんの回答に言い尽くされていますが。蛇足に・・・  井上雄彦さんの漫画はとても良く出来ているのですが、現在連載中の宮本武蔵を描いた「バガボンド」のはじめの頃の話に、道に落ちていた丸い釘を武蔵が踏んで怪我をするシーンがあります。  実際のところ、当時の鉄は貴重品ですし、釘一本道に落ちているというのは、今の感じで言えば500円玉が落ちているという感じで、まず道に落とすということがありえないし、落ちていればだれかが必ず拾っていきます。(丸い釘というのもありえません。鍛冶屋が一本一本手作りした角釘でした。)当然古くても、加治屋さんが釘やその他のものにリサイクルしました。

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