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江戸時代の勘当制度と無宿人|時代劇番組の視点から見る
- 江戸時代の勘当制度で親や親戚から勘当された子供は無宿人となり、時代劇番組ではよく描かれる
- 勘当されること自体が罪になり、厳しい立場に立たされることが多かった
- 町奉行所や代官所の役人は無宿人に対して、どのように対応していたのかが質問の主題
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江戸時代の法令というのは、現在のように詳細な具体的な項目がありませんでした。 ものによっては心得みたいな倫理規定のようなところがありました。 さらに、知らしむべからず寄らしむべし、という基本があり関係者以外の外部には公表されていませんでした。 例えば、町奉行所の刑罰に関する法令も公表されていませんでした。 実は、同心も岡っ引きも法令の内容を正式には知らずに取り締まっていました。 結果的に法令の運用は臨機応変といいますか時々に応じて適用範囲がコロコロ変わっていました。 ある意味でいい加減なとこがありました。 唯一の例外が戸籍に関するものでした。 結果として戸籍があらゆる信用の原点でした。 庶民(町人、百姓)のこの戸籍の管理は寺院に一任されていました。 寺受け制度と呼ばれます。 長屋の熊さんでも八っつあんでも引っ越す場合には、この者は当寺の檀家であるという証明書が必要でした。 この証明書は大家や大店の雇い主が保管管理していました。 戸籍制度の元々は宗門改めつまりキリシタンではないということの証明でした。 この戸籍を所有していないこと自体が犯罪でした。 武家の場合は主君が戸籍を管理していました。 浪人者でも元の藩などに名簿が残されていました。 作州浪人宮本武蔵などとよばれるのも、武蔵本人あるいは父祖が作州(美作)の藩に所属していたという意味です。 なにか事件があった際にはこの身元を遡っていきました。 大家が証明を保管管理していませんと、家主、地主までが責任を問われました。 藩や町役人、村役人の管轄がおよばない、身分外身分の人も浅草弾左衛門の管理下にありました。 乞食であっても乞食を管理する非人頭がいてこの非人頭は弾左衛門の支配下にありました。 勘当といいますのは、この戸籍から抹消されるということですので、住むことも就職することも例え乞食でもできなくなるということです。 無宿人が旅を続けるのもこのためです。 しかも旅籠には泊まれませんので、土地の親分の家を渡り歩くことになります。 旅をするためには道中手形という現在のパスポートのようなものが必要でした。 この道中手形を申請する際には前記したお寺が発行する証明書が不可欠でした。 旅籠は宿帳へ記載させる義務がありました。 時々役人が旅籠へ踏み込んで宿改めをするのは、この宿帳に記載した事項に齟齬がないかどうかを確認するためです。 吉原などの遊女は遊女になる際にこの戸籍から抹消されました。 結果として死んでも葬る寺がありませんでした。 遊郭の近くの寺の境内に掘られた穴に投げ込まれてオシマイでした。 この寺は投げ込み寺と呼ばれいました。 現在も吉原の近くの浄閑寺が有名ですが、日本全国の遊郭のある土地には必ずありました。 つまり勘当されるということは生きて行くことも死ぬこともままならなくなるということです。 盗賊やヤクザになる以外に道がありませんでした。 TVの時代劇や落語で勘当の話がよくでてきますが、実際には精々親類付き合いをしないという申し合わせ程度のことでした。 お寺の和尚さんも口裏を合わせてくれました。 簡単には戸籍からは抹消しなかったということです。 これを知っていますから、出入りの親方が預かる話がよく出てきます。 放蕩息子を親方が徹底的に鍛え直すということです。 親方以外に庇護者がいませんから親方の言いつけに従う以外に生きていけません。
お礼
しがない質問へ、回答して頂き、有難うございます。 又、質問した時は、よろしくお願い致します…。