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論文の相談 「~と見える」という表現について
日本語の文法について勉強しているものですが、今、「~と見える」という表現について卒業論文をどうにか書けたいと思って頑張っています。しかし、「~と見える」についての先行研究が非常に少ないですので、自分もあまり良い発想が思いつかないです。パソコンに向かって、一生懸命書こうとしても、なぜか話せることは感想さえ何もないです。なかなかうまく進められなくて、時間が迫ってくるにつれて非常に困っています。是非とも、助けてください!ご感想なり、ごアドバイスなり、よろしくお願いします。例えば、皆さんは、どんな場合に「~と見える」を使うのか、この表現を使う時に、どんな気持ちをこもっているかなど、いろいろ。何でも良いです。 「見えている」表現があるのに、どうして「~と見えている」形式がないのか。 「~ものと見える」「~かと見えた」表現はどんな場合に使われるか。 「~ないと見える」と「~と(は)見えない」は論理的に等価である? 「と見える」は判断のモダリティ形式なのか? 比喩用法に使われる時、「ようだ」とはどんな相違があるのか。 もしよろしかたら、皆さんに「と見える」で多くのセンテンスを作っていただきたいです。 本当に、非常に悩んでいますので、皆さんの知恵を借りたいです。
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- MandM
- ベストアンサー率31% (15/48)
お礼を読みました。 残念ながら論文を書いた経験がありません。法学部だったので卒論不要で、修士課程は中退です。というわけで、内容についてはあまりお役に立てそうにありません。たしかに面白そうです。これから先は、指導教官とよくご相談なさって、よいものに仕上げられることをお祈りしております。
- MandM
- ベストアンサー率31% (15/48)
おはようございます。 卒論のテーマということですが、4年生ですか、それとも2年生か3年生でテーマを決めるところですか? どちらにしても指導教官の方はこのテーマについてどのようにおっしゃっていらっしゃいますか? ご質問の文面通りに取りますと、先行研究もなく、ご自分に考えもないようです。そのようなテーマで卒論を書くというのは、普通は考えられないように思います。もう少し状況を教えてください。
- east-with
- ベストアンサー率41% (85/207)
まず、難しい質問ですね。それを考えるときに論文の考え方、つまり主観をなるべく客観的にする姿勢です。それが、論文の文体にも作者の意図として色濃く表れています。なるべく、主観を入れないや省く姿勢が大切なのであります。 主観とは「思った」や「思われる」で、客観的に書こうとした場合は「推測できる」や「相関性がある」や「考えられる」などです。その姿勢が大切であります。 さて、「見えている」という表現があるのに「~と見えている」がないのか。それは、「見えている」は「見える」や「見えた」というように作者が判断している姿勢があるからです。「~と見えている」は、はぐらかしや曖昧に書きごまかそうとして言い逃れの策を講じようとしているからです。つまり、「~と見える」は、たぶんいやおそらくそうだろうと言って、間違っていても私は100パーセント断言していないと弁解できる姿勢です。つまり、論文は自分の意見を客観的な資料でデーターで裏付けます。自分の意見が正しいのは先行研究やアンケートでもそういう事がいえるからだ。つまり、データーで物をいう科学的な姿勢が必要だからです。だから、より明確に判断する「見えている」がいいわけです。 あと、「~と見える」は冗長的に見えるので、「見えている」と簡潔な表現で書く。つまえ「~と」という言葉がなくても短く言う事ができるからです。つまり、論文の文体は一文を短く書き簡潔にすることです。 「~ものと見える」と「~かと見えた」の使いどころ。「~ものと見える」とは、例えば「弥生時代の土器のようなものに見える」とかの使い方ですよ。つまり、「ような」を使う時に「もの」を使う。また「古いものと見える」など断定に「もの」を使う。 また、「~かと見えた」は、例えば「おそらく~かと見えた」など主観的な判断で必ずしも言い切れないが自分はそう見えたという場合。例えば、歴史学や考古学のように客観的に言いにくく自説を書く場合に多い。 「~ないと見える」は「~と(は)見えない」は論理学的に対価か。それは、「~ないと見える」は弱い否定です。「~と見えない」は強い否定です。「~ないと見える」は一部否定の場合も使える。「~と見えない」も弱い。一番強い否定は「~とは言えない」です。少しオーバーだから「~とは言い切れない」が一番よいでしょう。 「と見える」は視覚的に見えるものしかいえない判断です。つまり、視覚的なものを「見える」といいます。先行研究批判の場合は「1999年に○○氏は○○を発見した」にように書く。だから、五感のどこで感じたによって「見える・聞こえる・感じる・臭う」などになります。その五感を客観的にいう姿勢が大事です。 「ようだ」も自信がない場合の断定。 「見える」を含む文節を書きます。 (例1)今回の測定結果の解析は誤差がないように見える。 (例2)おそらく今回の奈良の発掘で卑弥呼の住居といわれ、邪馬台国は奈良であるように見える。 (例3)夏目漱石は「こころ」のなかで、自分自身に問いかけたように見える。 (例4)フロイトの精神分析は、以後の心理学に多大な影響を与えたに違いがないように見える。 少し、変な文体です。その意地悪な文体は作者の性格である。真似ないことにこしたことがない。
お礼
いろいろ書いていただき、ありがとうございます。 けど、「と」+「見える」の形(「と見える」)についても、考えついたものをどうぞよろしくお願いします。 例文は、例えば 私は一言もなかった。詫まる以上に恐縮して俯向いていた。父は平気なうちに自分の死を覚悟していたものと見える。(心) 貧乏をしていると、皆友情以上に、自分をさらけ出して一つになってしまうものとみえる。 アフガンの治安は01年12月に暫定政権が発足した当初、安定に向かうかと見えた。 アフガンの治安は01年12月に暫定政権が発足した当初、安定に向かうかと見えた。
補足
特徴2:逆行推論を表す (6)この楽器屋はこの近辺の学生たちの「溜り」になっているらしく、ナオミもちょいちょい来るものと見えて、店員などもみんな彼女と顔馴染なのでした。(痴人) (7)「……よほどお前は力まかせに絞めたと見えて、指のあとが紫色になっていたよ。……」(蹉跌) 現実世界では、常にある原因が先にあって、その後ある結果が出るものである。上の(6)を例にとって言えば、ナオミもちょいちょい来るからこそ、店員などもみんな彼女と顔馴染みであることが結果として起こった。しかし、発話の場においては、話し手が今確実に把握している情報は、「店員などみんな彼女と顔馴染みである」ことだけであって、いったいどうして店員はナオミと顔馴染みになったのかということについては、何も情報を持っていないので、今持っている情報を理由に、「ナオミもちょいちょい来る」という帰結をするしかない。この場合は、話し手の推論の方向は事態発生の順序とは逆である。 事態発生の順序 原因 → 結果 ナオミもちょいちょい来る 店員などもみんな彼女と顔馴染 話し手の推論の方向 帰結 ← 理由 ナオミもちょいちょい来る 店員などもみんな彼女と顔馴染 次は、用例(7)を考えたい。同じように、現実世界では、「力まかせに絞めた」からこそ、指のあとが紫色になるわけである。言い換えれば、「力まかせに絞めた」ことが先にあって、且それが原因で、「指のあとが紫色になっていた」という結果をもたらしたわけである。しかし、発話の場においては、話し手が今所有している確実な情報は「指のあとが紫色になっていた」ことだけである。ゆえに、話し手はそれを理由に、その過去に「力まかせに絞めた」ことがあったと帰結するしかない。実際、「指のあとが紫色になっていた」ことは話し手の目に見える事実であるので、それが確実な情報として話し手は把握していることでもある。一方、聞き手が「力まかせに絞めた」かどうかはあくまでも聞き手にしか分らないことであるので、聞き手に向かって「よほどお前は力まかせに絞めた」と言うのもただ話し手の推測である。話し手が目の前にあったことを理由に、その過去(前)に何があったかと、出来事の発生順序と逆な方向で推論する。 事態発生の順序 原因 → 結果 よほどお前は力まかせに絞めた 指のあとが紫色になっていた 話し手の推論の方向 帰結 ← 理由 よほどお前は力まかせに絞めた 指のあとが紫色になっていた
No.1の方に同感ですが,もう土壇場なので間に合いませんね。指導教員に泣きつくしかないと思います。
- betarev
- ベストアンサー率25% (157/613)
大変失礼ですが、論文にご自身が書けない事を、他人の意見を頼りに完成させようと言う考え方がそもそも間違いだと思います。あなたがどうしても考えられないものを無理して卒論のテーマにすること自体がスタート地点から間違っていると思います。あなたが考えられるもの、研究したいテーマは何か、一度振り返って検討すべきではないでしょうか。
お礼
どうも、ありがとうございます! 4年生です、もうすぐ論文を提出しなければならないです。実は、指導教官は「~と見える」は面白いテーマですと言ってくれました。先行研究があまりにも少ないので、他のテーマに変えようかとかなり迷ったんですが、指導教官が面白いとおっしゃいましたので、そのテーマで頑張るしかなかったです。 恥ずかしい限りですが、私が考えたことや書いたものを貼り付けます。ご感想、添削など、お願いします。 論文の枠組み 序論 第一章 第一節 問題提起 (「と見えている」形式が存在しないことから) 第二節 先行研究 ??? 第二章 スル形式における「と見える」(モダリティ形式化) 第一節 「と見える」の否定文の性質 「~ないと見える」と「~と(は)見えない」は論理的に等価である 第二節 「~ものと見える」形式 I「と見える」が「だ」と置き換えられるタイプ II「と見える」が「だ」と置き換えられないタイプ 第三節 「と見える」の汎称性という人称性 第四節 婉曲表現としての「と見える」 I聞き手めあての場合(なわ張り理論) II話し手めあての場合 第三章 モダリティ形式と認めにくい特別な二形式 第一節 中止形の「と見えて」について 第二節 完成相過去形「と見えた」の用法について 第四章 第一節 結論 第二節 今後の課題
補足
第一節 中止形の「と見えて」について 特徴1:観察者と当事者が並存する (1)浜田はしかし、やっぱり極まりが悪いと見えて、酒を進めても飲もうとはしないで、伏しめがちに、遠慮しながらぽつぽつと口を利くのでした。(痴人) (2)先生は白絣の上へ兵児帯を締めてから、眼鏡の失くなったのに気が付いたと見えて、急にそこいらを探し始めた。(心) 「見える」の主体が明示されていないが、話し手(あるいは語り手)であることは容易に理解できる。上の用例(1)では、「決まりが悪い」と感じるのは浜田であるが、浜田はそうであると判断するのは話し手である。つまり、浜田は浜田で、話し手は話し手で、両者重なることなく、話し手は浜田を観察している立場にあるわけである。また、「と見えて」の主体が話し手(あるいは語り手)であるが、後件の「遠慮しながらぽつぽつと口を利く」のは浜田である。前件・後件が違う主体になっている。 「見ている」主体と「行動している」主体が違うので、行動している本人の心の中を分かるには、目の前の状況に基づいて推論するしかない。よって、観察者としての語り手の存在をより感じさせられる。「見える」ということは、「見る」という行為を潜在的に含んでいるためであろう。「と見える」は語り手の顕在化とも言える表現効果を果たしていると考えられる。つまり、(1)では語り手は登場人物浜田の世界に介入しないで、浜田と一定の距離を置いて浜田を観察している。そして、その観察した結果を報告する立場である。 用例(2)でも同じように、「眼鏡の失くなったのに気が付いた」のは先生であるが、先生は気が付いたと判断したのは話し手である。「と見えて」の主体は話し手であり、「急にそこいらを探し始めた」のは先生である。前件・後件が違う主体になっている。本来は「気が付いた」かどうかは、その本人である先生しか判断できないことであるため、「と見えて」の前に受けている内容は、あくまでも、観察者としての話し手の目を通した観察の結果である。話し手は観察者である自分の存在を積極的により前面に押し出している。事実はそうであるというよりも、「私」が観察した結果はそうであるという姿勢で報告している。前もって自分の主観が入っていることを断ることによって、客観性につながっていく。