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論文の相談 「~と見える」という表現について
日本語の文法について勉強しているものですが、今、「~と見える」という表現について卒業論文をどうにか書けたいと思って頑張っています。しかし、「~と見える」についての先行研究が非常に少ないですので、自分もあまり良い発想が思いつかないです。パソコンに向かって、一生懸命書こうとしても、なぜか話せることは感想さえ何もないです。なかなかうまく進められなくて、時間が迫ってくるにつれて非常に困っています。是非とも、助けてください!ご感想なり、ごアドバイスなり、よろしくお願いします。例えば、皆さんは、どんな場合に「~と見える」を使うのか、この表現を使う時に、どんな気持ちをこもっているかなど、いろいろ。何でも良いです。 「見えている」表現があるのに、どうして「~と見えている」形式がないのか。 「~ものと見える」「~かと見えた」表現はどんな場合に使われるか。 「~ないと見える」と「~と(は)見えない」は論理的に等価である? 「と見える」は判断のモダリティ形式なのか? 比喩用法に使われる時、「ようだ」とはどんな相違があるのか。 もしよろしかたら、皆さんに「と見える」で多くのセンテンスを作っていただきたいです。 本当に、非常に悩んでいますので、皆さんの知恵を借りたいです。
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お礼
どうも、ありがとうございます! 4年生です、もうすぐ論文を提出しなければならないです。実は、指導教官は「~と見える」は面白いテーマですと言ってくれました。先行研究があまりにも少ないので、他のテーマに変えようかとかなり迷ったんですが、指導教官が面白いとおっしゃいましたので、そのテーマで頑張るしかなかったです。 恥ずかしい限りですが、私が考えたことや書いたものを貼り付けます。ご感想、添削など、お願いします。 論文の枠組み 序論 第一章 第一節 問題提起 (「と見えている」形式が存在しないことから) 第二節 先行研究 ??? 第二章 スル形式における「と見える」(モダリティ形式化) 第一節 「と見える」の否定文の性質 「~ないと見える」と「~と(は)見えない」は論理的に等価である 第二節 「~ものと見える」形式 I「と見える」が「だ」と置き換えられるタイプ II「と見える」が「だ」と置き換えられないタイプ 第三節 「と見える」の汎称性という人称性 第四節 婉曲表現としての「と見える」 I聞き手めあての場合(なわ張り理論) II話し手めあての場合 第三章 モダリティ形式と認めにくい特別な二形式 第一節 中止形の「と見えて」について 第二節 完成相過去形「と見えた」の用法について 第四章 第一節 結論 第二節 今後の課題
補足
第一節 中止形の「と見えて」について 特徴1:観察者と当事者が並存する (1)浜田はしかし、やっぱり極まりが悪いと見えて、酒を進めても飲もうとはしないで、伏しめがちに、遠慮しながらぽつぽつと口を利くのでした。(痴人) (2)先生は白絣の上へ兵児帯を締めてから、眼鏡の失くなったのに気が付いたと見えて、急にそこいらを探し始めた。(心) 「見える」の主体が明示されていないが、話し手(あるいは語り手)であることは容易に理解できる。上の用例(1)では、「決まりが悪い」と感じるのは浜田であるが、浜田はそうであると判断するのは話し手である。つまり、浜田は浜田で、話し手は話し手で、両者重なることなく、話し手は浜田を観察している立場にあるわけである。また、「と見えて」の主体が話し手(あるいは語り手)であるが、後件の「遠慮しながらぽつぽつと口を利く」のは浜田である。前件・後件が違う主体になっている。 「見ている」主体と「行動している」主体が違うので、行動している本人の心の中を分かるには、目の前の状況に基づいて推論するしかない。よって、観察者としての語り手の存在をより感じさせられる。「見える」ということは、「見る」という行為を潜在的に含んでいるためであろう。「と見える」は語り手の顕在化とも言える表現効果を果たしていると考えられる。つまり、(1)では語り手は登場人物浜田の世界に介入しないで、浜田と一定の距離を置いて浜田を観察している。そして、その観察した結果を報告する立場である。 用例(2)でも同じように、「眼鏡の失くなったのに気が付いた」のは先生であるが、先生は気が付いたと判断したのは話し手である。「と見えて」の主体は話し手であり、「急にそこいらを探し始めた」のは先生である。前件・後件が違う主体になっている。本来は「気が付いた」かどうかは、その本人である先生しか判断できないことであるため、「と見えて」の前に受けている内容は、あくまでも、観察者としての話し手の目を通した観察の結果である。話し手は観察者である自分の存在を積極的により前面に押し出している。事実はそうであるというよりも、「私」が観察した結果はそうであるという姿勢で報告している。前もって自分の主観が入っていることを断ることによって、客観性につながっていく。