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上手に論文が書けるようにしたい!

現在文系一回生の者です。大学での課題でレポートや論文を書く機会が多いのですがゴミクズ程度のレベルのものしか書けずその都度自己嫌悪しています。文才の無さを余すとこなく存分に発揮したせいもあって単位評価は地面スレスレの恐るべき低空飛行です。 漠然とした質問だと答えにくいと思いますので以下の4点に絞って質問させて頂きます (絞り切れていないような気もします。) ・何から書けばいいのかがわからない ・どのような論理展開で全体を構成すればいいのか、論文の運びがわからない ・そもそも書けるほどの知識や、関連テーマが引き出せない→字数稼ぎの中身の無いスカスカなものになってしまう。 ・一つの側面だけの狭い価値観に基づいた見解、あるいは事なかれ主義のごとく、中庸的な意見にとどまってしまいます (どちらとも言えない・場合によって使い分けるべきだ・状況によって変わるので断定はできないといった結論) 以上の状態から時間も多く費やしてしまい、効率も大変悪く頭を悩ませています。 高校では現代文を解くのは大の得意でしたが書く練習を全く積んでいないため苦手です。 また、対人関係においてもあまり喋れないのでそれも起因しているのかもしれません。 この私には、どのような練習が必要で、効果的だと思いますか?回答の程よろしくお願いいたします。 ちなみに現在は、読んだ専門書を要約したり、テーマを独自に決めて論文を書いてみたり あるいは語彙力増強ということで気に入った表現をメモに書き留めたりしてます

みんなの回答

noname#181951
noname#181951
回答No.14

No13のお答えを拝見して。  お褒めに預かり光栄です。私の書き方にも曖昧な部分があったので、それを補足してくださったと思います。  味噌を舐める方法。そうですね、言い得て妙です。検証のやり方については割愛しましたが、これがそれにあたると思います。質問者のために書いておきますが、論文というのは、二つの部分から成り立っていると言えます。一つは専門家なら誰もが知っている凡庸な情報。もう一つは専門家の知らなかった、目新しい情報。  「学術論文」の場合(願わくば卒業論文の場合というべきか。そんな卒業論文は十本に一本も出現しないのが世の常と思っていましたが)、後者の要素を見て点数が決められます。今の段階だと、あるテーマについて、複数の文献を読んで比較検討してみるというのがいいのかもしれませんね。  ああ、ここまでは同じなんだ。ここからが違うや、という風に分かってくるわけですので。それを腑分けしたものをまとめるのが、レポートということになります。文才はそれほど必要なくて、図表にしてあってもいいくらいだと思います。  しかし腑分けにはプロセスに注目するべきだというのが私の話です。結論だけ先取りすれば、時間は短縮できるけれど、いいことはないわけです。似たような結論になっているけれど、議論のプロセスが少々違えば、それはそれで大きな問題なのです。例を出してみます。例えば戦争に賛成の人と反対の人の意見を整理するとする。高校生までは、戦争に反対の人と賛成の人を結論だけ見て分類すれば良かった。とても大雑把で、理由付けは一応見ておくけれども、深く掘り下げはしなかったでしょう。  しかし大学で求められているのは、反対の人同士の中で、もっと細かい分類しないとならない。経済効果のために戦争してはならないという人がいたとすれば、それは本当なのか。彼の議論はどの点で正しく、どの点で間違っているのか。その上で、あなたはどういう風に結論するのか。こういう風に話が細かくなってきたわけです。ともかく反対なんだろう、経済効果が問題なんだろう、という程度の読みを卒業しないとなりません。  ところが予備校の現代文の先生は傍線の付近や、結論部だけ読みなさい、なんて教えます。細かいことにこだわっていると制限時間内に問題は解けなくなっちゃうからです。また小難しいことは高校生の頭ではパンクしてしまうからです。しまいには選択肢だけ見て、「常に」とか「いつも」などと限定している選択肢は切ってよいと教えます。  でも、これはダメ。丁寧に読んで行く経験をしないとなりません。慣れてきたら読み飛ばせるでしょうが、それができるのは院生くらいになってからだと思います。最初はマニアックなまでに細かいことにこだわるでしょうが(木を見て森を見ずみたいな道を誰しも通ることになる)、そのうち、どれが重要なのかが分かってきます。つまり味噌が分かる。  こういうことをしていると、自ずと頭がロジックになってくるでしょう。  先にもちらっと触れましたけれど、正直な話、文体は二の次でいいと思います。流麗な文章よりも、まず整理された文章を目指すべきです。これは既に今のままでも大きな問題はないかもしれません。  これを書いていて思いましたが、高校から大学の差は次のことなのかもしれません。  ・こんな意見があるんだな、というパターンを学ぶのが高校生。  ・そのパターンを吟味し、批判したり、同意するのが大学生。  私は受験というものは、結構な弊害を生むと時折思います。というのも、受験に勝ち抜くために条件反射の猿みたいな修練を重ねるからです。早押しクイズみたいなことをやる。大学教員は高校生の頭を解きほぐし、もうちょっとゆっくり考えていいんだよ、そんなに素早い動作はもとめられていないよ、と言ってあげないとならないんでしょう。  各駅列車に乗るような気持ちでやろうという他の方の結論にも、私は頷くものがあります。

noname#232424
noname#232424
回答No.13

No.10のお答えを拝見して。(数日前から,じつに頼もしい方にも新たにご寄稿いただけるようになり,面白くなりました) 人物像や中庸という点について。たぶん,質問者はまじめで道を外さない(肉ジャガのレポートは書かない)とすれば,こういうこともあるかもしれません。 ・教員は毎年その授業を担当しています。そうすると,「この参考文献の引用は,毎年あるよね」というレポートもあります。もしかすると,先輩から後輩に「この文献がいいぞ」という文化伝承があるのかもしれない(先輩の「控え」を写せば不正行為になり罰せられます)。あるいは,図書検索でトップにでてくるのかもしれない。その時点で,「オリジナリティを欠くなあ」と不利な心証になるのが,大学という教育機関です。 ・その文献は,プロである教員ももちろん知っています。そうすると,「こいつも,前書きの通説的なところだけ読んできたな。この本の味噌は独自の論を展開した第3章にあるんだが,わからなかったんだね」という評価も生じてしまうのです。複数の本の通説だけ接合しても,あまり魅力はありません。3年生以上なら,ちゃんを味噌をなめてきます。 ・複数の本で異なる部分をうまく織り込んで,自分なりにまとめれば(文才もいくらか必要),それだけでもオリジナリティがでてくると思います。少なくとも,それらの著者は,自分ではそれを行わなかったんだから。質問者は,それを投げ出しているか,あるいは勉強不足で手がでないか,あるいは下記のように脳機能に未熟な部分があるのか。卒論を書くときにそれだと,ちょっと困りまります。 ・ぼくが質問文について気になったもう一つの点は,「逆接」がないことです。異なるものを接合するには,「逆接の論理展開」が必要になってきます。質問者の脳機能は,一歩方向のレールみたいになっているのではないか。大学受験までは,それでいいです。しかし,急坂を登攀するには,「スイッチバック」が必要なんじゃないかと思うのです。

  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.12

 加筆並びに補足。 「何が正しいのか」ではなく「何を以て正しいと言えるのか、を検証する」それが社会科学や人文系のレポート課題の特性であるともいえます。  この様に考え、検証のプロセスを踏まえたから、この結論に行き着いたのであり、その命題に対する真偽だけを問うならば、それは古典論理学の一階梯でしかありません。  易しい言葉を使うなら、この文章を読んで、きみはどの様な物語りを組み立ててくれますか?。そして物語りをどの様に結末に導きますか?、との課題の立て方です。  既に「課題」は教員から提示されていますので、それに対する独自のアプローチ法と手掛かり、そして結論を用意するだけの話です。  受験の話題がありましたので、それに付随する形でお話ししますが、受験は「あくまでも、振るい分け!」のための選抜試験です。入学以後と同一の基準でお話しすることは無意味であり誤解を生じかねません。そこで試されるのは「基礎的なデータ整理作業」であり、データベースに入力してもらうためのコーディングと同じです。  これに比べて「入学以後」で求められるのは、専ら「ロジック」です。論理性がなければ、それは読むに値しません。ですから「様々なロジックの組み立て方」に関して、読書する中で身に着けていただきたいと存じます。ネコの先生が仰る「それを教養と呼ぶ」はまさしくこの言葉であろうかと存じます。  芭蕉を読むなら、必然的に西行や世阿弥が出てきます。龍之介を読むならば、中国そして日本の古典をベースとしつつ、そこにニーチェや西洋近代の作家達が顔を覗かせる仕掛けになっています。なぜ彼がそうしたのか、を考えてみればヒントを掴むこともできるでしょう。夏休みに寝転がって読書するのも中々いいものですよ。それも一冊に集中せず、あちこちツマミ食いしながら古今東西の古典に触れるなら、これほど至高の時も他にはないといえます。言葉を探す旅に出掛けてみませんか、各駅停車の列車に揺られながら。

noname#232424
noname#232424
回答No.11

思い出し笑いをしながら,補筆。 >「授業中によけいなことは喋らないでほしい」 その「よけいなこと」を,「教養」っていうんだよ! 爆

noname#181951
noname#181951
回答No.10

 No9に応答。確かに全科目で外す可能性は低いですね。  では参考までに、私のみた質問者像を書きます。最初からそうするべきでしたが、私の未熟さ故とご容赦を。 1.人物像  ・質問者は、意見がないわけではない。特に「一つの側面だけの狭い価値観に基づいた見解」とやらを弁じるとなれば、それなりにちゃんとやれていると自負がある。  ・しかし周囲にそれが受け入れられたためしがない。場合によっては「強敵」が出現し、ボコボコにされた経験さえある。そういう危険をおかしてまで持論を展開するほどの覚悟は特にない(そりゃそうだ!学部一年でそこまで決意はできない。ちょっと言ってみちゃっただけということに過ぎない)。  ・ストレスで、いざレポート用紙に向かうと頭が真っ白になる。  ・この結果、やはり「事なかれ主義」の意見を展開した方が好意的に受け取られやすいのではないかと考えて、指針が定まらない。(こういうのをコミュニケーションに障害があると言えば、あるんでしょうね。当人も対人関係において自信がない旨を書いています)。 2.レポートの中身  さて、出来上がったレポートなり、小論文はどのようなものと推測されるのか。  ・意見は非常に一般論であり、毒にも薬にもならない。世間一般で反感を買わないと思われる通念をまとめただけである。  ・しかし、その意見の根拠はどこにも書いていない。断定的に、結論を書いただけ。  ・それもそのはず、自分で考えて導きだされた意見ではないからである。何がポイントとなっているのかも見当がつかない。  ・従って「何から書けばいいのか分からない」。さらに紙幅をどうやって埋めるべきなのかも分からない。何だか関連ありそうなことをごちゃっと書いている。  ・参考文献は、おそらく皆無ではないが、議論に直結しない。あれもこれも、何となく知っているよ。こんな意見の人もいれば、あんな意見の人もいる、みたいな感じのレポートになっている。いや、ディベートの仲裁をやったようなものを「論文」と思っている。  ・一言でまとめると、検証するというステップが全く抜け落ちている。 3.助言の方向性  仮に上記だとしたら、こういう人物をどのように指導するべきか。一部、前言を撤回するような形ですが、私なら、次のように言いますね。  ・どのような過激な意見であれ、根拠が明示されており、その分析も正しいのであれば、点数を出さないわけにいかない。  ・世間一般でいわれている通念を全否定するのではなく、部分的に修正点を加えるというやり方から出発すると、反感を買いにくい。  ・ともかく自分の頭で考えること。他人の意見を書けば反論されないとか、自分が傷つかないなどという発想がないか。  ・自分が骨を埋めてもいいと思える意見を探す期間が学生時代である。最初から独自の意見は言えない。  まあ私の意見としては、授業の議論に全体では同意しておきつつも一部を取り上げ、その資料を検証してみたらどうか、ということです。つまり「中庸」をやるために、あれもこれもと他人の意見を調べてくるのではなく、授業に集中しろ。と言いたいのです。  おそらくこの質問者は視野が広く、教官の見解を覆すような別の見解を容易に見つけてくる「癖」があるのかもしれません。だから知らず知らずのうちに、教官の想定の範囲を逸脱することをやってしまう。現代文が得意とあるから、出題された評論文や、それを読むための対策を通じて、幅広い視野が持てているのでしょう。しかしちょっと突っ込まれると、「えーと、結論は知っているんだけれど、どうしてそういう結論に至ったかまでは覚えていません」ということになる。これでは大学ではいい点はつきません。  こういうパターンをどうしたら抜けられるのか。  まずディベートの仲裁みたいな「中庸」の意見を提示するということに、ほとんど点は入らないんだよ。精密に、ちゃんと検証したかどうかというプロセスに配点が大きいよ。ということを伝えることくらいでしょうか。  しかし受験では、全く逆です。プロセスはどうでも良くて、答えだけ書いておけばいいものが多い。つまり受験秀才が大学でつまづいているということなのかな。何となく正解が出せるし、選択式なら理由も分かる。でもゼロからその理由を論じることはできない。またその理由は正しいのかどうかを掘り下げて考える練習はしてこなかった。せいぜい、ある意見と反対の人もいることを想起し、中庸の結論を模索するくらいに留まっていた。  検証の技術的な問題は、一旦、割愛したいと思います。

noname#232424
noname#232424
回答No.9

「出題意図を外してしまっているのではないか」という回答もつきましたので,加筆。 たしかに,授業ではたとえば「栽培植物の起源」について講じたのに,「肉ジャガの作り方」についてレポートを書かれても合格点はだせない,という例はあります。旧制高校では,化学の試験答案に「問題を見てピクリン酸,脇の下にはアセチレン・・・」という狂歌を書いて単位をもらった(北杜夫『どくとるマンボウ青春記』),という武勇伝もあったかもしれませんが,その方式は現在では通じません。 だから,そういう迷答が無視できない科目(教養系)では,ぼくは「御題」をいくつか示すことにしました。そうすればちゃんと書けるのですが,「ちょっとなさけねえなあ」という気持ちはあります。そういえば,この科目の授業評価では,「授業中によけいなことは喋らないでほしい」という回答がいくつもありました。あれまあ 笑。高校のように「ここは試験に出すぞ!」といいながら,赤チョークで板書しないとだめなのかい,君らは。 このような「的はずれ」は,1~2科目ならありうるでしょう。どうにも授業の論理についていけないということは,自分自身の学生時代にもありました。しかし,多くの科目で「的はずれ」ということは,確率的にひどく低いと思います。もしかすると,コミュニケーション障害の気があるのかもしれませんが,そうは見えないんですよね。

  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.8

 こんばんは夜分遅くに失礼します。僕も縁あって大学生達と付き合っている者の一人です。敬愛するネコの先生よりのお言葉、そして他の回答者様からも適切なアドバイスがなされているように、質問の仕方もそして問題点もよく整理できていると感じます。  もしレポートの評価が低いのであれば、それはレポートの「課題」に対しての分析視角と材料の集め方に難があるのではないでしょうか。  仮に僕の専門分野である日本中世史で「手継売券」に関するレポート提出を求められたとします。こうした場合に、先ず考えるべきは先行研究に目を通し、そこから質問者様がどの様に課題設定をするかが先ずは大切です。  手継売券文の「どこに問題点を見出すのか」であり、それは「土地の権利委譲」に関して、最初の所有者が権利を次の所有者に譲渡する形で「証券文」も手渡されます。ここまではごく普通の形ですが、これが三次そして四次と権利委譲が行われる場合に、最初の証券文以後の「全て」が最終的に譲渡されるとの現象を「どう説明するか」との問題が派生します。そして「それぞれの売券文」のどこかに「棄」の文字もしくは×点が施され、権利の失効状態を明確にしている形です。  こうした「権利委譲にまつわる現象」とその根拠を法制や法意識に求めるなら、その具体的な根拠となる史料も必要です。  一般的なレポートの作成において、一つ具体的な提案をさせていただきますと、一つの文を短く書く。そして一つの文は「一つの話題」に限定する。  そして「このレポートの課題が何であるか」を最初に示し、それに対する「結論」を最初の段階で提示するスタイルと結論部分を最後に記すスタイルのどちらかを選択するのは、質問者様の好みともいえます。  ある課題に対し、自分の結論はこうであると宣言し、その結論が合理的であるか、再検証可能か反証可能かといったプロセスを粛々と冷静に観察する形です。  一方は、ある課題設定に対し、それを順を追って検証していく形です。一般的な「序論・本論・結論」の展開スタイルです。けれどこの形にも一つの欠点が生じます。最初に立てた課題が何時の間にか別の問題に変質してしまっているとの部分に気付かずに論を進めてしまい、あれっと気付いた時には既遅しとの不安もあります。  レポートの書き方に余り慣れていないようでしたら、むしろ前者をお薦めします。最初に結論を提示することで、そこに至道筋を検証して行くスタイルですから、比較的軌道修正もし易いといえます。また同時に自身の論点を整理し、先行研究との対比もし易い。その理由としては、とある先行研究の結論に対し自身がどの様な問題点を見出しているかから課題が始まるために、常に結論の出し方に対し検証方法の合理性およびその根拠とすべき史料を横に置いて眺めながら自説を展開する形だからです。  むしろ人と話すことが苦手であるなら、それだけ言葉を選んで使っているともいえ慎重な方であるともいえましょう。レポートや論文の様な性質の文章であるなら、余計に質問者様の姿勢は適切であるといえます。物語の文章にはそこに使われている言葉が持つ「言外のニュアンス」と「文章全体が示すモチーフ」といった感性の部分に依存する部分も多くあります。  けれど説明の文章には、そうした饒舌な部分は必要もありません。そこに示されるデータを的確に伝えるための言葉ですから、別の解釈が成り立つ余地は必要ないのです。もしそれがあるならば、論旨自体が混乱する結果ともなりえます。  取り敢えず、参考になる読み物として以下をお薦めします。 (1)『日本語練習帳』…大野晋 (2)『日本語雑記帳』…田中章夫 (3)『日本の思想』…丸山眞男 (4)『文章の磨き方』…立濃和男 (5)『読書力』…齋藤孝 (6)『加藤周一』…海老坂武 (7)『わかったつもり』…西林克彦  (1)~(6)までは岩波新書、(7)のみが光文社新書です。焦らずに、じっくりと腰を据えてご自身と対峙され、ご自身を磨いてくだされば幸甚です、僕もまだまだヤンチャ坊主がそのままおっさんになっただけの話で、いつも「これで果たして良いのかネ」と逡巡してばかりです。僕は不器用な男子学生がカワイイです、大好きです、それだけ正直な方が多く、不器用だと思い込んでいるだけで、寧ろ駆け足でスマートに歩いていく学生に対しては「余りに小器用でスマートだと、いつか足下をすくわれるぞ」と苦言を呈していますから(大好きだ、との言葉にはヘンな意味はありませんので、誤解なさらないでください)。

回答No.7

とりあえず、 いまいま、メディアで売れっ子の 東進予備校の林修先生に手紙を書いて、 訊いてみませんか。 懇切丁寧に、 教えてくれると思いますよ。 あるいは、 誰でもいいので、質問者さまの大学か、 別の大学の教授にでも学生にでも 訊いてみませんか。 訊かれれば、教えたいと思うのが 普通の人間ですので、遠慮せずに 訊いてみることではなしでしょうか。 書く材料さえ充実していれば、 いまは編集が容易なPCで書けるのですから 先ずは、目次というか章のタイトルを書いてみて、 それを配列して構成を考えてみませんか。 Good Luck!

noname#181951
noname#181951
回答No.6

追記  No4の方の言うように、私も根本的な問題があるようには思えません。なぜあなたの点数が低いのか。これは謎です。申し訳ない言い方かもしれませんが、学部一年は五十歩百歩です。あなたくらいの人が落第すれすれだと、他にどういう人が及第するのだろう。  私の見解は、授業の内容を反映したレポートを書かなかったことにあるのではないか、教員が想定外のことを書いたのではないか、というものでした。グダグダいろいろ書きましたが、耐えて、そのまま頑張ることをお勧めします。高得点をとる戦略としては一考の余地があるかもしれませんが、文章修行の方向性としては間違っていませんから。

noname#232424
noname#232424
回答No.5

補筆。 履修科目が共通教育(一般教育)の教養系なら,いっしょに3~4年生も履修しているでしょう。そりゃあ,彼らと比較されたら相対評価は低くなりますよ。もっとも,4年生になっても教養の単位が取れていない遊び人で,まずいレポートしか書けない連中も混じりますがね。

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