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法・法思想について
法思想について皆様の意見を聞かせてください。教科書、他人の意見を無視してください。 法とは人為的に作られ成り立つものか、社会のなかで自然にでき成り立つものなのか? あなたはどう考えますか?答えは自由です。自分自身の考えを聞かせてください。
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- jinseiwalk
- ベストアンサー率23% (372/1603)
法は仏法と人間が社会的ルールとしての法律があります。 社会的ルールとしての法律は人間が作り出してきたもので、国会などでこれからもどんどんできていくでしょう。 仏法は単に法といわれますが、基本は原因と結果で、人間が発見しなくてもそれはあるものです。 原因と結果は何故起こるのかていえば縁があるとして十二因縁が説かれ、四苦八苦が解かれて最終的には諸行無常から常住という法が説かれます。 それらを体得する方法としての同化法。
- kadowaki
- ベストアンサー率41% (854/2034)
>法とは人為的に作られ成り立つものか、社会のなかで自然にでき成り立つものなのか? と言うよりも、そもそも今日の法の原型の誕生事情について考えた方が興味深いような気がします。 すると、人類が最初に言葉を使うようになったとき、それが言葉である以上、必ずその言葉の語義及び語法は複数の人によって共有されたと考えるしかないですよね。 何のために? より多くの人間同士が共通の認識を持っていたことの方が、過酷な自然環境の中をより多くの人間が生き残る上でより有利だったから。 こういう言葉の語義及び語法こそが法の原型であり、この語義なり語法なりが媒介となって人間の共同体が形成され、やがてこの語義なり語法なりが文字化されるようになって、今日の法により近い、より複雑多岐にわたる、より安定的な法体系が生み出されるにいたったと考えるしかないと思います。 要するに、言葉が誕生したことと法の(原型の)誕生とは同一の出来事だったのではないかということになります。 少なくとも、言葉の誕生以前に法の誕生を溯及させて説明することは不可能だと思います。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 わたしたちが野生の稲か麦を採って食べようと思ったのは いったいどこから来たのでしょうか? 木の実や果物あるいは苺などの実を採って食べるのと どこが違っていたでしょう? やがて 稲にしろ麦にしろこれらを栽培するようになりました。種を植えて育てます。最後に穫り入れをして食物とします。 《知恵の木》から採って食べるという言い方をしますが たしかにこれらの発見や発明は 知恵にかかわっているようです。 ところが この知恵の木を 《善悪を知る木》とも言います。そういう言い方が持たれています。 この善悪を知るというのが そもそも《法》の成り立つ起源であるでしょう。 では どこで善悪を知ったのか。何が善で何が悪なのか。 はっきりしませんね。 たとえば そもそも野生の鹿や猪を採って食べることじたいに 何かこころの落ち着きの無さを感じたのでしょうか? それと同じように 野草や野菜や木の実を採るときにも どきどきする気持ちを覚えたでしょうか。 あるいは 肉や草(稲や麦)を煮たり焼いたりして食べようというとき そのように料理という手を加えるという行ないに こころに逆らうかのような感じを覚えたのでしょうか。 さらにあるいは 自然に成っており生えているものを 自分たちの手で種から植え育てるという行ないに こころの揺れを覚えたでしょうか。 たぶんいちばんはっきりしているのは ほかの人の見つけたものや採ったものを 自分が何らかの手段によって得てしまうこと。このような振る舞いにもし出たとすれば そのときには こころのやましさや後ろめたさを覚えたものと思われます。 それなら 法の生成について考えるのもかんたんです。 《むさぼるなかれ》と言います。あるいは《ぬすむなかれ》。等々。 きわめて簡単な善と悪との分かれ目は こころにやましさを感じるか否かです。 もちろんやがては この後ろめたさの感覚をも隠すことをひとは覚えていきます。法は 具体的な条文として 細かくなっていくのでしょう。 でも考えれば やましさを隠すのも おそらくそのとき疾しさを感じるであろうから もともとの基準は 案外どこまでも有効であると言えるかも知れません。 この考え方で 人びと一般に共通の理解が得られるなら 法は 思想としてのまま考えつづけられていくでしょうし また法なる規範としても掲げられるようになった模様です。
- 来生 自然(@k_jinen)
- ベストアンサー率30% (80/261)
「人為的」と「自然に」という区分は、境界設定が曖昧な気がします。 私の場合、受け手の視点から、受動的なのか、能動的なのかといった方向性、ないし、受け手の立場から見て、トップダウン的なのか、ボトムアップ的なのかという概念にて考えます。 原初の段階では、共同体の構成とともに、相互の利害関係から能動的に、かつボトムアップ的に(ある意味人為的ですが、おそらく仰るところの自然に)作られたと思います。ただし、人智の解し得ない状況について、「外部」に何らかの神的・聖的なものを想定し、そこからのトップダウン的な要請を推定して(そういった意味で人為的ですが、人為に対する自然からの要請として)作られた部分もあるでしょう。また、ボトムアップ的に作られる過程でも、仲裁というトップダウン的な言動も執り行われたでしょう。 また、時代が下れば、たとえボトムアップ的に形成された法的なものも、受け手にとっては、先人の作ったトップダウン的な要素が感じ取られるかも知れないと思います。
- kana22_20
- ベストアンサー率41% (5/12)
私は大した学歴もないし 漠然というと、そもそもは人と人とが一緒に生活するために 安全というか生命の危険に関する取り決めとかを行うことで 共存のためのルールを作っていった結果、出来たものではあると思います。 極端に言うと「私は貴方を殺さないから貴方も私を殺さない」みたいな。 生存に関して(生きてるだけじゃなく地位とか名誉とかお金とかも含んで)人為的に作られ、それ自体が社会の生存意義の中で増幅され なんか無限の螺旋の中でお互いの正義でケンカしてる気がします。 正しい事と正しい事がぶつかることが問題で答えが出なくなることが 難しいと思います。でも始めに「貴方の言ったことを守る」なんて誰も言ってないから 自分自身も含め「その前提を守るなんて言ってない」から 「え!?私は法律を受容するなんて言ってないよ??」 みたいに思うと答えがでません。 「法律を守れって誰がいつ決めたの??」 「私「守ります」って誓った記憶ないけど?」