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「働く」とは思想の一種なのか?

人間はそもそも何の為に働くのか? 働くことには本来意味など 存在しないのでは? 働くとは、 思想の一種なのではないのか? 哲学カテゴリー皆さんの ご回答のほど、 お待ち申 しております! 補足 日本人が働く思想を尊ぶのは、 働かない人間への社会福祉が 事実上存在していない為では? 国憲法第25条 では すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない と 記載されているのだから 日本国は働かない 選択肢をした日本人が生きていける 環境整備を しなくてはいけないのでは?

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回答No.3

ハンナ・アーレントの「人間の条件」という本によれば、人間の営みには、「活動」「仕事」「労働」があります。 そして社会には私的なものと公的なものがあり、古代ギリシャでは「労働」は奴隷に任せ、市民は公会・民会という議場で政治的討論をするか、それとも戦争をするかの二つしかありませんでした。 「労働」は私的なものと見做され、家政・オイコスの延長とみなされました。 古代アテネにあって、経済というものは社会におけるウエイトが小さく、私的なものと見做されたのです。 「労働」は奴隷のするものと見られていました。 西欧中世もだいたい同じで、「労働」は農奴とか農民という下層階級がやるものでした。 そして上層階級である王侯貴族は政治や戦争に従事していました。 「労働」以外にも、人間にはやることがいっぱいあり、それが「仕事」であり、そして人間一般の「活動」でした。 それが変わったのは中世末期に農村の周辺に「都市」ができてからです。 「都市」に集まったのは職人とか商人という人たちでした。 封建領主に対抗して、都市の周りに城壁を築き、傭兵を雇い、封建領主の軍隊と戦い、自治権を獲得しました。 この都市を「市民社会」と言い、その住人を「市民」というようになりました。 互いに平等の資格で、市参事会委員を選出し、その参事会委員が統治しました。 農村から農民が逃亡して来て、1年間定住すると市民の資格を与えました。 こうして中世から近世にかけて都市は拡大してゆき、ついには封建領主を打倒するに至ります。 それが英国の17世紀の2度の革命であり、そして18世紀末のフランス革命でした。 市民が政治の実権を握るようになります。 そして市民はもっぱら職人と商人でしたので、それまで私的なものであった「労働」が社会の中でウエイトが大きなものとして台頭しました。 いい換えると「経済」が社会の前面に台頭してきて、人間は「活動」[仕事]を排除してゆき、もっぱら日中のほとんどの時間を「労働」に費やすようになりました。 そして近代なると「労働は人間の本質」などと言われるようになりました。 また、マルクスは人間の歴史は「階級闘争の歴史」などというようになりました。 古代ギリシャにあった「公的なもの」「公共性」は失われ、政治は政治家を選出して政治家に任せ、自分はもっぱら「労働」に費やすようになりました。 今の私たちも同様です、1日の大半を「労働」に費やしています。 これは人類の歴史から見ると異常です。 「労働は人間の本質」でも、何でもありません。 資本主義の剰余価値、つまり利潤を生むための道具が「労働」です。 そういう点からいえば、今の「労働者」は古代の奴隷、中世の農奴となんら違いはありません。 言い方が違うだけです。 「働く」のではなく、「働かされている」のです。 「働く権利」は奴隷の権利です。 「働く思想」は奴隷の思想です。

hayyuji9401010
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noname#207785
noname#207785
回答No.11

人は働くべきだ。 働くことは尊い。 たしかに日本では働くのは思想ですね。 サラリーマン教です。 日本では働くのは宗教並に崇拝されてますね。 昔々の狩りの時代で言うならば、働くのは食うためだった。 逆に言えば、食えればすべてOK。 ところが今や労働時間の長さ=尊さとなり、 忙しいことは自慢になってしまっている。 貴族がいた頃とは真逆ですね。 その時は奴隷や農民など地位が低い人がやる品のない行為だった。 働く価値観はその時々で変わるけど、今の日本人はぼくも含め、見えない何かにおびえるように労働時間というものにこだわって、働いてますね。

hayyuji9401010
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  • kohichiro
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回答No.10

この日本のように高度に発達した複雑な文明社会では、とかく働くことの意味を見失うひとが出るのは仕方がないのかもしれません。大昔は人間も生きるために食べ物を探して山野をうろつきまわったでしょうし、着物や履物や住まいはやはり自分で材料を見つけていちから作らねば成らなかったでしょう。それが自分のため、自分と自分を頼っている親族のために働くということだったのでしょう。 働くとは基本的に(自分が)生き残るためだということは縄文時代も現在もそれほど変わってはいないと思います。 やがて文明が発達して、お互いに自分の得意な分野に特化して働き始めると、それぞれが足りない部分で依存しあうようになり、貨幣などもできて便利になる一方で金融業もできて金持ちが現れるなど複雑化してきますが、その時代の勤労の意味として言われ始めたのは働くとは「はた(端、側、傍:の人間)を楽にさせること」というようなことです。傍の人間とは親族とかだけではなく、直接関わっていない赤の他人、遠くの人間も含むわけです。今でもこういった「働くことの意味、定義」は十分通用すると思います。 >働くとは、 思想の一種なのではないのか? どんな思いを篭めてこれを仰ったのかは分かりませんが、日本人は西洋人のように労働を軽んじたりはしませんから、社会は安定し、それなりにどんどん豊かにもなってきました。労働は神聖な人間の活動のひとつであり、その種類に貴賎、上下はないという思想は非常に重要な哲学思想だと私は思います。 >日本人が働く思想を尊ぶのは、 働かない人間への社会福祉が 事実上存在していない為では? 日本は結構社会福祉が充実していると思います。ただ、上記の考え方の裏返しとして「働かざるもの食うべからず」という思いも浸透しています。憲法27条でしたか、日本人は勤労の義務を負うともかかれてありますから、働けるにもかかわらず”働かない選択肢を選定した日本人が生きていける環境整備を国はしなくてはいけないのでは?” とは必ずしもいえないのでは、と私は思います。

hayyuji9401010
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  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.9

こんばんは。 (寡聞にして)聞いたところでは、産油国では、誰も、働かずに生きていけるだけの所得が、あるとか。 (逆に言えば?)そういう環境では、単にコーヒーではなくて、「美味しいコーヒー」なら、付加価値があると言えるでしょうか。 だから >「人間はそもそも何の為に働くのか?」 ・・・自分の能力を(正当に)発揮するために、でしょうか。 >「日本人が働く思想を尊ぶのは、 働かない人間への社会福祉が 事実上存在していない為では?」 本当に困った人間には、手当があると思いますよ。 >「国憲法第25条 では すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない と 記載されているのだから 日本国は働かない 選択肢をした日本人が生きていける 環境整備を しなくてはいけないのでは?」 「すべて国民は、」の時点で、旧い!という気もするのですが。 ・・・あとは、なんですか。 ああ。 >「働かない選択肢をした日本人が生きていける 環境整備をしなくてはいけないのでは?」 ですね。生存権は絶対ですから。そうでしょうね。

hayyuji9401010
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  • yuniko99
  • ベストアンサー率15% (31/204)
回答No.8

同じように働いていても 或いは働いてる同僚であっても どの様に思って働いてるかは人それぞれです。 生活の為 お金の為という人も多いですし そればかりではなく 自己実現の為 社会の為 人間の為と思って働いてる人もいます。 宗教によっても違ってくるのは事実でしょう。 日本に幾つの宗教があるのか知れませんが 働くことをしない宗教もありそうです。 お坊さんは働いているのでしょうか?戒名や葬式で儲かるのは働いているのかどうか疑問です^^ 不労所得というのもありますし。株や不動産や金融で儲けるのも働いているのかどうか? 銀行では働いているようですが 昔金利が良かった頃は金利だけで食べられましたから 金利は働いている内には入りません。 今やワーキングプアや倒産も多いですから 働いてもお金にならないケースも多いです。 仕事がしそうかと問われたら 大概の人は思想ではないでしょう。 生業というか 生活の為 生きてる証というのは合うでしょうけど お金のない社会が出来て どんな仕事をしてもいいとなれば 皆つまらない単純作業はしたくないでしょうね。 働くことは社会を支えるために必要なことですが 個人がやりたくてやっている仕事はその一部ということでしょう。 思想かと言われたら 思想じゃない人が多いでしょう。私もそうでした。

hayyuji9401010
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回答No.7

「自分」とは、環境を感じている感受表面の内側で あるというのが、一般的な感覚(素朴唯物論)だ。 しかし、その本質を探究していくと、そうした存在 性は脳内に生じているものであり、『それが環境を 映したものである』という信念は怪しくなってくる。 肉体(物=空間)としての自己と、宇宙(心=時間) としての自己をつなぐのが、不確定性原理における 時空的相補性(位置Sと運動量St、時点Tと質量 Tsの一方を確定しようとするとそれに実体を与える 他方が無限不確定性に発散する)であり、そうした 不確定性原理の表出である量子に基づく階層現象性 (超弦(量子)<クォーク<素粒子<原子<分子<細胞 <認識体(脳))に由来する仮想的(階層現象表面的) な時空の広がりと、それを無に還元するプロセスと しての物理である。 その「自我成立のための必要としての環境」において、 自我仮説とは、時間独立である物理において異なる プランク定数hの時系列化(hの収束=物体の収縮= 宇宙の膨張)としての時間軸の導入であり、そこに おける“無=無限不確定性の潜在的な認識可能性の 変移=異なるhの時系列化”の射影として、環境にも 異なる認識可能性=他人が生じる。 同様に、「肉体としての自己と宇宙としての自己」を つなぐもの(相補性)として、「量子的な相補性(物理) ~生態系における物質循環~個体の摂食による新陳代 謝~交配(生殖)による進化~分業(労働)による組織化」 といった環境と肉体の相互作用は、認識にとって必然 となるのだ。

hayyuji9401010
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  • titelist1
  • ベストアンサー率25% (712/2750)
回答No.6

働くことが思想などではありません。働かなくても生きてゆけるのならば働かない選択をしても自由です。働く必要が無いのに好きで働いている人は多いです。働くことが生きがいの人は幸せです。働くことが人の役に立っていると思うことや、働くことで誰かを支えていると思えることは喜びです。 昔から働かない人でも生きてゆける方法がありました。誰でもできるわけではないが、出家する方法です。お布施によって生きてゆけますが、人の役に立っているいるのかも知れません。このお布施に相当するのが現在の社会福祉なのでしょう。貧困者の社会福祉についてはあまり知らないのですが、死なない程度で良いのではありませんか。

hayyuji9401010
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回答No.5

明らかに我々の意識が、終身雇用の時代と雇用流動的な今の時代で変わってくるということですね。 一度入社したら、会社丸投げで定年まで働けた時代は終わり、自分の「働き方」とは?と常に問われ続ける今の時代。自分の人生を誰かに丸投げできたら、どれだけ楽かとは思います。働くこと、働き方を自分で決めていくことが重要なのかどうかは、まだちょっと懐疑的です。どんな人にも創造性が必要といわれるとちょっとつらいような。

hayyuji9401010
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  • hekiyu
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回答No.4

"人間はそもそも何の為に働くのか?"   ↑ 働かないとなると、自然状態のまま、という ことになります。 それでは動物と同じで、生きることが非常に 不安定になります。 だから働いて、自然に働きかけ、加工して 生きることを安定にし、豐にするのです。 その為に働くのです。 ”働くことには本来意味など存在しないのでは?”     ↑ 資産があれば働かなくても生きていけますが、 生きて行けるだけのモノは、やはり誰かが働いて 創り出す必要があります。 だから、意味があります。 ”働くとは、思想の一種なのではないのか?”      ↑ 思想としての「働くこと」というのは次のような ことをいいます。 A:働くのは生活の為だ、より豐になる為だ。   つまり働くのは「手段」である、とい思想。   これは欧米キリスト教文化の考え方です。   働かないと生きて行けない、というのは   神が与えた罰だ、というのがその例です。 B:働くのは手段ではない。働くこと、そのこと   自体に意味があるのだ、と考える思想。   石田梅岩の思想がこれです。 ”日本人が働く思想を尊ぶのは、 働かない人間への社会福祉が 事実上存在していない為では?”     ↑ 違います。 江戸時代の身分制の為です。 働いても、身分を超えることは原則できない。 だから働くための動機付けとして、働くこと、 そのこと自体に価値を見いだしたのです。 ”国憲法第25条 では すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない と記載されているのだから日本国は働かない選択肢をした日本人が生きていける 環境整備をしなくてはいけないのでは?”        ↑ 残念ですが、そういう解釈をする学者はおりません。 憲法29条により、日本は資本主義を採っている、 だから自分の食い扶持は自分で稼ぐのが原則だと するのが、通説判例です。

hayyuji9401010
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回答No.2

人が何のために働き働く意味とは?って疑問は簡単です。 効率的に生きるためです。 誰も働かなければ社会を維持するのは不可能です。 集団にしても個人にしても誰かが働かなければ生きるのさえ困難です。 だからこそ古来より役割分担をしてそれを働くと言ってるだけです。 思想ではなく効率的に生きるための制度です。 人類が存続するためには役割分担をどうするかを考えることはあっても 働かないと選択することは不可能です。 なので働かない人を増やすことは社会の崩壊と破滅を意味します。 そんな愚かな制度を推奨しようなんて人は破滅願望がある人だけでしょう。

hayyuji9401010
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noname#209756
noname#209756
回答No.1

働くことは一つの意義があるもので、重みを置くのが思想かと。 プロテスタントかもしくはモンスーン地方の人だったか。勤勉を貴ぶのは、思想です。

hayyuji9401010
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