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ジリツイズムなる宗教は ただの奴隷の思想である。
自律思想を批判しますという意味です。 1. 他律の状態を あたかも奴隷のすがただと言って 無条件にこれを排除し自律を説く思想は 決して実行することの出来ないオシエをかかげて悦に入っている。それ自身が 奴隷の状態にあるアガキ(足掻き)であるに過ぎないのではないか。 2. ▲ (ヘーゲル:有限と無限) ~~~~~~~~~~~ 無限なものと 有限なものとの一体性・・・この矛盾・・・は どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない ないしはこれを 我慢できないであろうが この矛盾を持ちこたえることができるのが 人格(* もしくは《時間》ないし《非思考の庭》)の高さである。 (『法の哲学』§35 追加) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 3. 無限とは わけの分からないナゾです。有限とは 移ろいゆかざるを得ない身と心とから成る人間です。 4. つまり無限とは 神のことですがこれは 経験世界を超えていて しかもヘーゲルはここで 有限なる存在であるわれわれ人間にあっても その生まれつきの自然本性においてこの無限なるナゾがやどる・または埋め込まれていると言おうとしています。 5. ならば なぜこの《有限なる存在における無限との――非思考の庭における―― 一体性》を 《自然的なるもの》は 我慢できないのか。 6. なぜあなたはその存在としての《時間》が――あなたの《固有のとき》が―― 高くないのか? と。 7. けれども この自然的なるものには 無限なるナゾ・つまりブッダターが潜在している。 8. それで ひとまづよいではないか? だいじょうぶであるのではないか? たとえその今は他律的な生活を送っていたとしても。 9. けっきょく朽ちざるを得ないわが身と心とのその心の奥なる非思考の庭に アートマン(霊我)がやどるという《この矛盾・・・は どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない ないしはこれを 我慢できないであろうが》というとき だから何だと言うのだろう? 10. 問題は そこから わが心の格率を理念として持つのはよいとしても おれはすでにその格率にしたがって生きている《自律人間》であると宣言し おまえたちは 《他律の種族》だ 早く自律しろと説くのは いかがなものであろうか? 11. 《自然的なもの》なる自律の到らなさに どうして耐えることが出来ないのか? この自律ヤロー。 12. おまえこそが 社会に寄生して生きるだけの奴隷状態にあるからではないのか? 13. たとえ自分の思うように行動しえないとしても 組織や社会の要請するところに甘んじて その場合おのれの主張をゆづり 社会関係の中に生きて行動するという・それでも意志自由なる主体性 これを知らないで ジリツを説くのは いかがなものか? 14. そうではなく 出来もしない《自律》を説き他人(ひと)にこれを要請するというジリツイズムなる宗教 ここには 反哲学を感じます。蛇蝎の如くわたしはこれを嫌います。 これに意見して欲しい。
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- nananissethe3rd
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35 日常司法的プロセスの中で見られる この理性的一般論の普遍 つまり 対象として 対自的観点から見た意思の一般性は、フォーマルな個としてのペルソナであり、更に 自己意識を伴う個であり、更にまた、内容のない法的ケースの当事者としての単なるヒト その限りにおいては、法的コンテクストの主体が、法人格である。 追記 法人格的個性という言葉が、言葉として、意味を持つようになるのは、その前提として存在する条件として、主体が、単に、人あろう「その人のうち」から、<ある一定のあり方で規定されている状態にある>その「具体的な一人の個人」から というのではなく、 そうではなく、 まさに 一人の人間としての自己意識が、またき抽象的自己<Ich=我>から止揚を通じて浮かび上がることから ひもとかれる。---ここで述べる抽象的自己の中には、あらゆる種類の具体的に実在する限定性や法制適用範囲の妥当性といったものが、(その範疇にあっては)あてはまらないものごと として根源的に否定されているのである。 法人格的個性という言葉の中では、ゆえに、知るという現象を伴う学的知識は、人格そのものを起源とする智 さらに対象より導かれた智、否 思弁的・概念的に哲学すること、つまり、哲学的思慮をすることを通じて、シンプルな形で「無限」に高められた対象 また 即自的無限というレベルにまで高めるというプロセスを通じて 対象自体を 自己と共に 純粋に同化せしめた その対象を 創世の源とするところの その対象の学知である。 マクロの視点で個人は、またミクロの視点で民族は、以下の条件を満たさないとすれば、法人格的個性を得ることはない。その条件とは、自らより端を発する、純粋な思惟そして純粋なる智のDeixis的(自由自在な)合一に至ることである。 知徳合一を果たした即且対自的絶対精神には、現象的にうつろいゆく精神とは、全く違う何かがある。それは、人格の本質である。つまり、同じ精神が、この精神として全く同じ使命を人生の中で、「人の定め」としてきざまれながらも、一義的には、 自己意識・湧き上がる粗削りな根源的意識、同時に、否定的には、自然の意思また自由行為によって招来されるコンステレーションとしての矛盾的拮抗が、錯綜するのであるが、しかし、かように翻弄される中にあっても、本来的精神が、自らをして、抽象的自我としての自己を また ほかならぬ自由な自我を 智としては、対象世界とし、徳としては、目的としてもつ。 しこうして、かくなる精神を法哲学的人格と呼ぶのである。
- kurinal
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こんばんは。 >「けっきょく 《自律=社会生命・愛》と言っていても 《欲》深いのですね。」 「欲深い」と言っても、いろいろ。 「まみれる」というような表現もあれば。 「結局、違うじゃん?」というようなのもある。 「一人分」と言っても、それすら認められないのは、 ・・・いったい、どちらが「欲深」なのか そういう意味で? 「欲深」をなんとかする、社会的に? というのは、、、自律ですか・他律ですか
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ 「一人分」と言っても、それすら認められないのは、 ・・・いったい、どちらが「欲深」なのか ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 一人分って何ですか? 知りません。 ★ ~~~~~~~~~~~ そういう意味で? 「欲深」をなんとかする、社会的に? というのは、、、自律ですか・他律ですか ~~~~~~~~~~~~ ☆ 《そういう意味で》が 先ほどの意味からのつながりにおいて どういう意味かが分かりませんが 一般に《「欲深」をなんとかする》ということは 考えられません。 欲が深いという性質や振る舞いが現われていたとすれば それがもとづくところの思想 これについては 《なんとかする》こともあるかと思います。つまり 問題は 哲学です。 わたしは 《自律・他律》をものごとの判断の基準にはしていません。そうすることは出来ないと考えています。 そもそも人間が社会行為として《自律》することは――理念として持つことを除いて―― ないし 出来ないと考えています。 社会行為は 関係性において成り立っているからには 相互他律であるとか もし出来るとすれば相互自律といったように つねに関係を内容とするおのが自由意志による判断および実行であるしかない。こう考えます。
- a_hona
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内的な自然に従うことを自律というような気もします。だから、自律を推奨することは別に悪くないのでは?
お礼
ご回答ありがとうございます。 ★ 内的な自然に従うことを自律というような ☆ ということは ここでは他人に説くということが前提ですが その説く内容としては 決まったオシエではない。そうではなく 《その中身は 決まっておらずその時その場で臨機応変に対処するかたちにおいて 内的な自然に従う》ことを他人に勧めそのようなオシエとして説く。こういうことでしょうか? たぶん そうだとしたら その思考および行動の形式を 必ずしも《自律》という言葉を用いなくてもよい。ように思います。 つまりは 《内的な自然に従う》という大まかな言い方による内容であるなら それはたとえば ☆☆ (趣旨説明欄) 13. たとえ自分の思うように行動しえないとしても 組織や社会の要請するところに甘んじて その場合おのれの主張をゆづり 社会関係の中に生きて行動するという・それでも意志自由なる主体性 ☆ というときの主体性でもありうるわけです。むしろそういう内容をえらぶことになる場合のほうが 多いのではないでしょうか? つまり この主体性にかんしては 自由意志による行為として いまここでは《自律》とははっきりと区別して捉えています。 そういうふうなご回答内容になるのではありませんか? つまり この主体性のことを言うのなら それをいちいちオシエとして説くこともありません。人びとにとって ごく一般的な主題であるはずです。ジリツイズムにはならないでしょう。
- kurinal
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bragelonne様、こんにちは。 >「1. 他律の状態を あたかも奴隷のすがただと言って 無条件にこれを排除し自律を説く思想は 決して実行することの出来ないオシエをかかげて悦に入っている。それ自身が 奴隷の状態にあるアガキ(足掻き)であるに過ぎないのではないか。」 そうですね。 ここでは「カンペキ」ということが、問われていると思います。 誰しも「カンペキ」であるというようなことは、難しい。無理です。 >「10. 問題は そこから わが心の格率を理念として持つのはよいとしても おれはすでにその格率にしたがって生きている《自律人間》であると宣言し おまえたちは 《他律の種族》だ 早く自律しろと説くのは いかがなものであろうか? 11. 《自然的なもの》なる自律の到らなさに どうして耐えることが出来ないのか? この自律ヤロー。」 一つには「可能な限りで、自律しよう!」という、「欲」が、あるんではないでしょうか。 >「12. おまえこそが 社会に寄生して生きるだけの奴隷状態にあるからではないのか?」 人には、得手と不得手とがあり、 (例えば)「美貌によって寄って来た人間は、美貌が失われれば、去る」という表現があります。 もっと判り易くは、「カネ(や、権力)によって寄って来た人間は・・・」ですね。 「社会に寄生する」ということでは、例えば、類い稀なる美貌によってアイドルとなった者でも、 美貌が「社会」から認められることで、アイドル足りえています。 >「13. たとえ自分の思うように行動しえないとしても 組織や社会の要請するところに甘んじて その場合おのれの主張をゆづり 社会関係の中に生きて行動するという・それでも意志自由なる主体性 これを知らないで ジリツを説くのは いかがなものか?」 なるほど。 >「14. そうではなく 出来もしない《自律》を説き他人(ひと)にこれを要請するというジリツイズムなる宗教 ここには 反哲学を感じます。蛇蝎の如くわたしはこれを嫌います。」 なるほど。 「自己責任諭」でも、やってはいけない限界、というのが、あると思います。
お礼
Kさま こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 一つには「可能な限りで、自律しよう!」という、「欲」が、あるんではないでしょうか。 ☆ けっきょく 《自律=社会生命・愛》と言っていても 《欲》深いのですね。 【Q:《〈自律〉教》に意味はあるか?】 【Q:資本主義の中でニート以外に《自律》しうるか?】 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 人には、得手と不得手とがあり、 (例えば)「美貌によって寄って来た人間は、美貌が失われれば、去る」という表現があります。 もっと判り易くは、「カネ(や、権力)によって寄って来た人間は・・・」ですね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 意外とむつかしいですね。《寄生・奴隷状態》にからませて捉えるのは。 ★ 「社会に寄生する」ということでは、例えば、類い稀なる美貌によってアイドルとなった者でも、/ 美貌が「社会」から認められることで、アイドル足りえています。 ☆ まぁ このことは 社会にあって認められた職業でありまた制度としてもあるのでしょうから むつかしい。微妙ですね。 ★ 14.・・・なるほど。 / 「自己責任諭」でも、やってはいけない限界、というのが、あると思います。 ☆ このあたりは もうわたしは 感情だけで走っていますが。あぁ えぇ 《出来もしないジリツ》というのは 先ほどの先行するふたつの《自律》にかんする質問で 取り上げました。いろんなやり取りが寄せられています。 こんな感じでしょうか。
- NemurinekoNya
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ここで語られる《自律》ヤローが、わたくしのように思えるのは何故だろうか? 思い過ごしであろうか??? 遅れましたが、 こんにちは。 わたしは、《自然なるもの》に立脚する理性の限界性を強く意識するものでございます。 こんなものは、所詮、道具に過ぎないと考えております。 ではあるのですが、 わたしの有する感情よりは、正しい判断をしてくれるであろうと思い、 ───これは嘘だな、オレは子供のころから理屈をこね回していた。「子供のくせに可愛げがねぇ~」と何度言われたことか。オレは、小さな子供のころから、根っからの《理性主義者》にちがいない。 人間的な感情を有しているかどうか、怪しいもんだ。 すぐに感動し、おれが涙をボロボロと流すのは、オレの理性が判断停止状態になり、その対応に困ったときに見せる状態に違いない。きっとそうだ!!大体、激情にかられて行動したことなんて、ほとんどないしな~。他人(ひと)の目には、珍しく激情にかられて行動しているように見えるときでも、しっかり計算してるし。そのことを自覚してやってるし─── 理性にしたがい、この文章を、いま、書いております。 ですが、 だからと言って、 かりに私を《自律・理性型人間》、わたしの思想などを《自律教》と呼べるとして、 わたしの《自律教》を他人様に押し付けようとは考えません。 わたしの判断が間違っているかもしれませんし、それとは別に、人はひとり一人異なっているのが当たり前と考えておりますので。 そして、普段は、当たり障りのない話などをして過ごしております。 なのですが、それですら、理屈っぽいと言われるのですから、私はどれだけ理屈っぽいのでしょうか!! 理屈立たないように振る舞っているというのに!! と長い前置きをしまして、 ☆9. けっきょく朽ちざるを得ないわが身と心とのその心の奥なる非思考の庭に アートマン(霊我)がやどるという《この矛盾・・・は どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない ないしはこれを 我慢できないであろうが》というとき だから何だと言うのだろう? ◇オシエとして一先ず受け入れているだけです。 それすら、「ど~だか、怪しいものだ」とわたしの理性はいつも主張しています。 疑いを抱いております。 ☆10. 問題は そこから わが心の格率を理念として持つのはよいとしても おれはすでにその格率にしたがって生きている《自律人間》であると宣言し おまえたちは 《他律の種族》だ 早く自律しろと説くのは いかがなものであろうか? ◇そんな野暮なマネ、不遜なことは、いたしません。 「私とは違うタイプなんだな~」と冷静に事実を受け入れます。 ですが、相手が劣っているとか、優れているとかは、思わない。 ☆11. 《自然的なもの》なる自律の到らなさに どうして耐えることが出来ないのか? この自律ヤロー。 ◇至らなさは重々承知しております。自覚しております。 でも、わたしには、理性や理屈、そして感覚───感情なんて呼べる高度のものではりません、それ以前、極めて動物的次元。生理的に受け付けないというのはありますが・・・───以外に、判断根拠がない。 「ないんだもの、しょうがない」と開き直る。 事実は事実として受け入れる。 ☆12. おまえこそが 社会に寄生して生きるだけの奴隷状態にあるからではないのか? ◇わたしが、わたしの有する理性や理屈の奴隷であることは確かなのでしょうね~。 ☆13. たとえ自分の思うように行動しえないとしても 組織や社会の要請するところに甘んじて その場合おのれの主張をゆづり 社会関係の中に生きて行動するという・それでも意志自由なる主体性 これを知らないで ジリツを説くのは いかがなものか? ◇どう考えてもおかしい、ということは譲りませんが、 わたしは、結構、譲りますよ、妥協しますよ~。 「本当は違うけれど、仕方がねぇな~。ここはそういうことにしておいてやろう」というタイプ。 わたし、ほら、計算高いから(笑い)。 腹の中では、何を考えているかわからないタイプだから。 なのに、他人(ひと)にコロッと騙されるのは、何故なのだろうか? 人はすべて理性型であると信じて疑っていないのであろ~か。 この可能性はあるな、オレには感情ってヤツがないから(笑い)。 ですから、 骨の髄まで理性と理屈に侵食されているわたしに、何を言っても、無駄、無駄!! 《理性主義》の中で、一番質(たち)の悪いタイプなんですから。 しかも、そのことを自覚しているし(ポリポリ)。
お礼
◇ ここで語られる《自律》ヤローが、わたくしのように思えるのは何故だろうか? ☆ そうなんですか。一般論としての特定人物は やはりゴータマです。あるいは この質問の場合は ブディズム一般に対しても 当てはまるように思っています。あるいは もうひとり半鎖国状態にある人物も視野に入っています。 こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ◇ わたしは、《自然なるもの》に立脚する理性の限界性を強く意識するものでございます。 ☆ 《自然的なるもの》じたいは 感性を言うのだと思います。それ《に立脚する理性》ですか。これは ふつうのことですね。誰にもあてはまります。 《限界性》も ことめづらしくもありません。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ わたしの有する感情よりは、正しい判断をしてくれるであろうと思い ・・・ 理性にしたがい、この文章を、いま、書いております。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《感性と理性〔とのせめぎ合い〕》というような主題ではないように思うのですが。微妙なようですから いまそのまま受け留めてすすみます。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~ かりに私を《自律・理性型人間》、わたしの思想などを《自律教》と呼べるとして、 わたしの《自律教》を他人様に押し付けようとは考えません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《自律を人様に説く。オシエ。宗教》が 問題だと見ます。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆9. けっきょく朽ちざるを得ないわが身と心とのその心の奥なる非思考の庭に アートマン(霊我)がやどるという《この矛盾・・・は どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない ないしはこれを 我慢できないであろうが》というとき だから何だと言うのだろう? ◇ オシエとして一先ず受け入れているだけです。 それすら、「ど~だか、怪しいものだ」とわたしの理性はいつも主張しています。 疑いを抱いております。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ まづ《持ってはいない》というのは 《アートマンを生まれつき持っている。ただしそれは 潜在力である。顕在しないなら そのことを〈持ってはいない〉と表わしただけである》と解釈しています。 この前提に立って 《オシエとして一先ず受け入れているだけです》と言っておられますが この《アートマン想定》は オシエではないですよ。 それに《自然的なもの》≒《あやまちうるスサノヲ人間語》は やはりオシエではないですし 自然本性としてそなえているにもかかわらず おのれの《固有のとき》を持ち得ずにそれの顕在化を果たしていない。という場合を言っているのだと見るのですが? どこかで誤解があるかもしくは われわれが互いに食い違いを持つのかだと思われますが? ☆☆ 10(省略) ☆ は すでに触れましたところの 《自律を人様に説く。オシエ。宗教》が 問題だと見ます。 の問題です。どうも誤解されたようです。 ☆☆11. 《自然的なもの》なる自律の到らなさに どうして耐えることが出来ないのか? この自律ヤロー。 ☆ 《自律人間》は 自分で自分のことを《到っている人》だと思っているし そういう含みをもって発言しているというものです。引用しませんでしたが 誤解があると思います。 ☆☆12. おまえこそが 社会に寄生して生きるだけの奴隷状態にあるからではないのか? ◇ わたしが、わたしの有する理性や理屈の奴隷であることは確かなのでしょうね~。 ☆ 托鉢と観光と戒名料等によって生活するのは 寄生虫であり 奴隷状態に近い。不動産賃貸等の事業によって 生活するのは どう見ればよいのでしょう。 こんなところでしょうか。こんな感じでしょうか。
お礼
(つづき) (け) しかも私はそうした人格として 自分を自分自身のなかで自由であると知り いっさいを度外視しうる。なぜなら 自分の前には純粋な人格性以外になにものも存しないからである。 ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ あんまり観念の世界に浸っては何にもならない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (こ) しかも私はこの者として 一つの完全に規定されたものである。――たとえば しかじかの年齢 しかじかの大きさ この空間にいるなど まだほかにいくらでも一個特殊的なものがあるであろう。 ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ これは 《ただの精神の現象なるわたし》と《わたしの心のその奥なる心としてのナゾ――それによる人格の高さ――》とは けっきょく一体なのであると見た問題だ。 (う)☆ ・・・すなわち ここでも《完全に抽象的な自我(* 《わたし》のこと)》へと突き抜けて行くと見られるとき おそらく《ありふれた日常の具体的なわたし》とけっきょく一体となったかたちで 《人格性》が始まる。と受け取っておく。 (え)☆ また 同じようにこの《純粋に自己同一的な対象――わたしがわたしであること( 1 = 1 )――》は 日から日へ生活していく具体的な何でもないふつうのワタシと一体であると言っておいたほうがよい。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (さ) こうして人格は 高いものであると同時にまったく低いものである。 人格のうちには 無限なものとまったくただ有限なもの 規定された限界とまったく無限界のものとの こうした一体性がふくまれている。 この矛盾は どんな自然的なものも自分のなかにこれをもってはいない ないしはこれを我慢できないであろうが この矛盾をもちこたえることができるのが人格の高さである。 ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ここが 趣旨説明欄に引いた箇所である。 《身と心》:経験事象 《非思考の庭》:非経験の場を受け容れたというその動態(信仰) これら両者のあいだの《矛盾》について どう捉えどう扱うのか? 《矛盾をもちこたえることが出来るのが 人格の高さである》と言っている。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
補足
以下を読んで行きます。 ▲ (ヘーゲル:『法の哲学』§ 35 ) ~~~~~~~ 〔1967=初版、1977=18版 藤野渉・赤澤正敏 共訳〕 (あ) この対自的に自由な意志の普遍性は形式的な普遍性である。それは自己意識的でそのほかは無内容な 自分の個別性のなかでの自分への単純な関係である。――そのかぎりで 主体は人格( Person )である。 ☆(ぶらじゅろんぬ註) ~~~~~~~~~~~~~~~~ 《わたしはわたしである》という認識は その自己表現の行為主体であるかぎりで 人間なる存在としての《人格》である。 《格》というのは 格子のごとく網の目のネットワークのごとく――ほかの人格と互いに――関係し合っているといった意味である。つなぎの線と結節点とがある。 段落ごとに(あ)(い)(う)・・・の番号を勝手に付します。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (い) 人格性( Persönlichkeit )はつぎのようなことをふくむ。すなわち 《この者》としての私はあらゆる面から言って〔内面的な恣意 衝動 欲望の点でも また直接的外面的な現存性から言っても〕完全に規定されて有限な しかもまったくただ純粋な 自分への関係であるということ。 したがって私は 有限性のなかでそのように自分を無限なもの 普遍的なもの 自由なものとして知るということ。 ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《したがって》以下の命題をみちびくには 推論がうすいように見られる。おそらくワタシが《わたしはわたしである》と捉えたとき その《自己との単純な関係》にあっては むしろ何ら世の中のシガラミ≒カザリ(肩書き)などは そっちのけであると言っているか。 つまり むしろそれゆえに その《われのわれみづからとのかかわり》にあっては 《自由なもの 普遍的なもの 無限なもの》に通じている・またはそこへ突き抜けて行くと思えるようであるかも知れない。これを知る。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (う) 人格性が始まるのは 主体がたんに自己意識一般を 具体的なものとしての自分 なんらかの仕方で規定されたものとしてのじぶん についてもつときではない。 むしろ あらゆる具体的な制限されたあり方と通用性が否定されていて通用しないところの 完全に抽象的な自我としての自分について主体が自己意識をもつかぎりにおいて そこにはじめて人格性がはじまる。 ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 前項で《〈われのわれみづからとのかかわり〉にあっては 〈自由なもの 普遍的なもの 無限なもの〉に通じている・またはそこへ突き抜けて行くと思えるようであるかも知れない。これを知る》と書いた。すなわち ここでも《完全に抽象的な自我(* 《わたし》のこと)》へと突き抜けて行くと見られるとき おそらく《ありふれた日常の具体的なわたし》とけっきょく一体となったかたちで 《人格性》が始まる。と受け取っておく。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (え) それゆえ 人格性のうちにふくまれていることは 主体が自分を対象として知るということ だがこの対象は思惟によって単純な無限性へ高められ このことによって純粋に自己同一的な対象であるということ 主体は自分をこのような対象として知るということである。 ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 前項と同じようである。また 同じようにこの《純粋に自己同一的な対象――わたしがわたしであること( 1 = 1 )――》は 日から日へ生活していく具体的な何でもないふつうのワタシと一体であると言っておいたほうがよい。 《単純な無限性》という・無限についての単純なみちびき方では 困る。ほんとうはそれは 《思惟》によってみちびかれ《高められる》ものではない。つまり 《非思考の庭》の問題なのだ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (お) 諸個人と諸民族は この純粋な思惟と 自分についての知にまで まだ達していないかぎりで まだどんな人格性をももっていない。 ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ まぁ ものは見ようによるはず。《いま・ここにただいるというわたし》 このわたしであっても 存在であり とうとばれる人間である。つまり そこに《人格》を見てもマチガイにはならない。《純粋な思惟》が なんぼのものか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (か) 即自かつ対自的に有る精神は つぎのことによって 現象する精神とは区別される。 すなわち 後者が自己意識と規定されるばあい それは自分についての意識ではあるが 自然的な意識とそのまだ外面的な諸対立物という面からいっての自己意識でしかないのに その同じ規定のなかで前者の精神は 抽象的な自我(* 《自我》などという訳語は くそくらえだ! わたしのこと)しかも自由な自我としての自分を 対象と目的にしており それゆえ人格である ということによってである。 * ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《わたしがわたしを見て捉えたそのわたし》が 《対自的なわたし もしくは 対自的な精神》。 《この自己を見て捉えた自己を その自己たるわたしが なるほど わたしであるわい》とみづから見とめたなら それは 《即自的かつ対自的なわたし ないし精神》。 《現象する精神》とは では 何か? たとえばこうしてものを考えているその精神の現象。現象する精神。 この《現象する精神》は 目の前にヘーゲルの文章があるからそれと対面し時には対立して自己意識を持つ。に過ぎないか? 空気を吸ったり吐いたりしているのだから 《自然的な意識》としても現象している。 この現象する精神なるわたしだって 人格だよなぁ。そんなに人間を切り刻みなさんなって。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (き) 〔追加:人格という概念の高さと低さ〕 対自的ないし独立に有る意志 すなわち抽象的な意志が 人格である。 人間の最高のことは 人格であることである。だがそれにもかかわらず たんなる抽象物たる人格といえば すでにその表現においてなにか軽蔑すべきものである。 ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 概念が入り乱れているように見える。 《わたしがわたしである》ことは それのみによって成り立っているのか? と問うとよい。そうではないという答え つまり《人間は 身と心とから成るが それ以上にまだ存在にまつわるナゾがある》というように言った場合 それは 《人格》を超えたところではたらくチカラとしてのナゾである。と想定される。 このナゾを――つまりは 非思考の庭を――ふくむか含まないかで 人格の高さ低さがあたかも現われ ただ《身と心とだけだ》という人間観や《人格なる抽象的な次元における概念をあやつることが出来れば 立派な人間である》などと見る観念論は さげすまれてもよいはずだ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (く) 人格は 主体とは本質的に区別されている。というのは およそ生きものはいづれも一つの主体である以上 主体はただ人格性の可能性でしかないからである。 したがって人格とは この主体性が主体にとって(対自的に)有るところの主体である。なぜなら 人格において私はまったくただ私にとって(対自的に)有るからである。 すなわち人格とは 純粋の対自的存在における自由の個別性である。 ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ このように規定して《自由 また その自由の個別性(つまり 具体的なじっさいの自由)》をみちびくのは ただの観念論ではあるまいか。 人格は ひとが互いにとうとぶときの内容説明としての概念である。 これを(つまり 人格を)実現するのは 自由意志にもとづく意志行為を積み重ねて行くことによって確立してゆくところの主体性である。主体性ないし意志自由のほうが 《わたし》にとって実質における即自性かつ対自性であるように思われる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (つづく)