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ジリツイズムなる宗教は ただの奴隷の思想である。
自律思想を批判しますという意味です。 1. 他律の状態を あたかも奴隷のすがただと言って 無条件にこれを排除し自律を説く思想は 決して実行することの出来ないオシエをかかげて悦に入っている。それ自身が 奴隷の状態にあるアガキ(足掻き)であるに過ぎないのではないか。 2. ▲ (ヘーゲル:有限と無限) ~~~~~~~~~~~ 無限なものと 有限なものとの一体性・・・この矛盾・・・は どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない ないしはこれを 我慢できないであろうが この矛盾を持ちこたえることができるのが 人格(* もしくは《時間》ないし《非思考の庭》)の高さである。 (『法の哲学』§35 追加) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 3. 無限とは わけの分からないナゾです。有限とは 移ろいゆかざるを得ない身と心とから成る人間です。 4. つまり無限とは 神のことですがこれは 経験世界を超えていて しかもヘーゲルはここで 有限なる存在であるわれわれ人間にあっても その生まれつきの自然本性においてこの無限なるナゾがやどる・または埋め込まれていると言おうとしています。 5. ならば なぜこの《有限なる存在における無限との――非思考の庭における―― 一体性》を 《自然的なるもの》は 我慢できないのか。 6. なぜあなたはその存在としての《時間》が――あなたの《固有のとき》が―― 高くないのか? と。 7. けれども この自然的なるものには 無限なるナゾ・つまりブッダターが潜在している。 8. それで ひとまづよいではないか? だいじょうぶであるのではないか? たとえその今は他律的な生活を送っていたとしても。 9. けっきょく朽ちざるを得ないわが身と心とのその心の奥なる非思考の庭に アートマン(霊我)がやどるという《この矛盾・・・は どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない ないしはこれを 我慢できないであろうが》というとき だから何だと言うのだろう? 10. 問題は そこから わが心の格率を理念として持つのはよいとしても おれはすでにその格率にしたがって生きている《自律人間》であると宣言し おまえたちは 《他律の種族》だ 早く自律しろと説くのは いかがなものであろうか? 11. 《自然的なもの》なる自律の到らなさに どうして耐えることが出来ないのか? この自律ヤロー。 12. おまえこそが 社会に寄生して生きるだけの奴隷状態にあるからではないのか? 13. たとえ自分の思うように行動しえないとしても 組織や社会の要請するところに甘んじて その場合おのれの主張をゆづり 社会関係の中に生きて行動するという・それでも意志自由なる主体性 これを知らないで ジリツを説くのは いかがなものか? 14. そうではなく 出来もしない《自律》を説き他人(ひと)にこれを要請するというジリツイズムなる宗教 ここには 反哲学を感じます。蛇蝎の如くわたしはこれを嫌います。 これに意見して欲しい。
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お礼
(つづき) (け) しかも私はそうした人格として 自分を自分自身のなかで自由であると知り いっさいを度外視しうる。なぜなら 自分の前には純粋な人格性以外になにものも存しないからである。 ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ あんまり観念の世界に浸っては何にもならない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (こ) しかも私はこの者として 一つの完全に規定されたものである。――たとえば しかじかの年齢 しかじかの大きさ この空間にいるなど まだほかにいくらでも一個特殊的なものがあるであろう。 ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ これは 《ただの精神の現象なるわたし》と《わたしの心のその奥なる心としてのナゾ――それによる人格の高さ――》とは けっきょく一体なのであると見た問題だ。 (う)☆ ・・・すなわち ここでも《完全に抽象的な自我(* 《わたし》のこと)》へと突き抜けて行くと見られるとき おそらく《ありふれた日常の具体的なわたし》とけっきょく一体となったかたちで 《人格性》が始まる。と受け取っておく。 (え)☆ また 同じようにこの《純粋に自己同一的な対象――わたしがわたしであること( 1 = 1 )――》は 日から日へ生活していく具体的な何でもないふつうのワタシと一体であると言っておいたほうがよい。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (さ) こうして人格は 高いものであると同時にまったく低いものである。 人格のうちには 無限なものとまったくただ有限なもの 規定された限界とまったく無限界のものとの こうした一体性がふくまれている。 この矛盾は どんな自然的なものも自分のなかにこれをもってはいない ないしはこれを我慢できないであろうが この矛盾をもちこたえることができるのが人格の高さである。 ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ここが 趣旨説明欄に引いた箇所である。 《身と心》:経験事象 《非思考の庭》:非経験の場を受け容れたというその動態(信仰) これら両者のあいだの《矛盾》について どう捉えどう扱うのか? 《矛盾をもちこたえることが出来るのが 人格の高さである》と言っている。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
補足
以下を読んで行きます。 ▲ (ヘーゲル:『法の哲学』§ 35 ) ~~~~~~~ 〔1967=初版、1977=18版 藤野渉・赤澤正敏 共訳〕 (あ) この対自的に自由な意志の普遍性は形式的な普遍性である。それは自己意識的でそのほかは無内容な 自分の個別性のなかでの自分への単純な関係である。――そのかぎりで 主体は人格( Person )である。 ☆(ぶらじゅろんぬ註) ~~~~~~~~~~~~~~~~ 《わたしはわたしである》という認識は その自己表現の行為主体であるかぎりで 人間なる存在としての《人格》である。 《格》というのは 格子のごとく網の目のネットワークのごとく――ほかの人格と互いに――関係し合っているといった意味である。つなぎの線と結節点とがある。 段落ごとに(あ)(い)(う)・・・の番号を勝手に付します。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (い) 人格性( Persönlichkeit )はつぎのようなことをふくむ。すなわち 《この者》としての私はあらゆる面から言って〔内面的な恣意 衝動 欲望の点でも また直接的外面的な現存性から言っても〕完全に規定されて有限な しかもまったくただ純粋な 自分への関係であるということ。 したがって私は 有限性のなかでそのように自分を無限なもの 普遍的なもの 自由なものとして知るということ。 ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《したがって》以下の命題をみちびくには 推論がうすいように見られる。おそらくワタシが《わたしはわたしである》と捉えたとき その《自己との単純な関係》にあっては むしろ何ら世の中のシガラミ≒カザリ(肩書き)などは そっちのけであると言っているか。 つまり むしろそれゆえに その《われのわれみづからとのかかわり》にあっては 《自由なもの 普遍的なもの 無限なもの》に通じている・またはそこへ突き抜けて行くと思えるようであるかも知れない。これを知る。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (う) 人格性が始まるのは 主体がたんに自己意識一般を 具体的なものとしての自分 なんらかの仕方で規定されたものとしてのじぶん についてもつときではない。 むしろ あらゆる具体的な制限されたあり方と通用性が否定されていて通用しないところの 完全に抽象的な自我としての自分について主体が自己意識をもつかぎりにおいて そこにはじめて人格性がはじまる。 ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 前項で《〈われのわれみづからとのかかわり〉にあっては 〈自由なもの 普遍的なもの 無限なもの〉に通じている・またはそこへ突き抜けて行くと思えるようであるかも知れない。これを知る》と書いた。すなわち ここでも《完全に抽象的な自我(* 《わたし》のこと)》へと突き抜けて行くと見られるとき おそらく《ありふれた日常の具体的なわたし》とけっきょく一体となったかたちで 《人格性》が始まる。と受け取っておく。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (え) それゆえ 人格性のうちにふくまれていることは 主体が自分を対象として知るということ だがこの対象は思惟によって単純な無限性へ高められ このことによって純粋に自己同一的な対象であるということ 主体は自分をこのような対象として知るということである。 ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 前項と同じようである。また 同じようにこの《純粋に自己同一的な対象――わたしがわたしであること( 1 = 1 )――》は 日から日へ生活していく具体的な何でもないふつうのワタシと一体であると言っておいたほうがよい。 《単純な無限性》という・無限についての単純なみちびき方では 困る。ほんとうはそれは 《思惟》によってみちびかれ《高められる》ものではない。つまり 《非思考の庭》の問題なのだ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (お) 諸個人と諸民族は この純粋な思惟と 自分についての知にまで まだ達していないかぎりで まだどんな人格性をももっていない。 ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ まぁ ものは見ようによるはず。《いま・ここにただいるというわたし》 このわたしであっても 存在であり とうとばれる人間である。つまり そこに《人格》を見てもマチガイにはならない。《純粋な思惟》が なんぼのものか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (か) 即自かつ対自的に有る精神は つぎのことによって 現象する精神とは区別される。 すなわち 後者が自己意識と規定されるばあい それは自分についての意識ではあるが 自然的な意識とそのまだ外面的な諸対立物という面からいっての自己意識でしかないのに その同じ規定のなかで前者の精神は 抽象的な自我(* 《自我》などという訳語は くそくらえだ! わたしのこと)しかも自由な自我としての自分を 対象と目的にしており それゆえ人格である ということによってである。 * ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《わたしがわたしを見て捉えたそのわたし》が 《対自的なわたし もしくは 対自的な精神》。 《この自己を見て捉えた自己を その自己たるわたしが なるほど わたしであるわい》とみづから見とめたなら それは 《即自的かつ対自的なわたし ないし精神》。 《現象する精神》とは では 何か? たとえばこうしてものを考えているその精神の現象。現象する精神。 この《現象する精神》は 目の前にヘーゲルの文章があるからそれと対面し時には対立して自己意識を持つ。に過ぎないか? 空気を吸ったり吐いたりしているのだから 《自然的な意識》としても現象している。 この現象する精神なるわたしだって 人格だよなぁ。そんなに人間を切り刻みなさんなって。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (き) 〔追加:人格という概念の高さと低さ〕 対自的ないし独立に有る意志 すなわち抽象的な意志が 人格である。 人間の最高のことは 人格であることである。だがそれにもかかわらず たんなる抽象物たる人格といえば すでにその表現においてなにか軽蔑すべきものである。 ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 概念が入り乱れているように見える。 《わたしがわたしである》ことは それのみによって成り立っているのか? と問うとよい。そうではないという答え つまり《人間は 身と心とから成るが それ以上にまだ存在にまつわるナゾがある》というように言った場合 それは 《人格》を超えたところではたらくチカラとしてのナゾである。と想定される。 このナゾを――つまりは 非思考の庭を――ふくむか含まないかで 人格の高さ低さがあたかも現われ ただ《身と心とだけだ》という人間観や《人格なる抽象的な次元における概念をあやつることが出来れば 立派な人間である》などと見る観念論は さげすまれてもよいはずだ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (く) 人格は 主体とは本質的に区別されている。というのは およそ生きものはいづれも一つの主体である以上 主体はただ人格性の可能性でしかないからである。 したがって人格とは この主体性が主体にとって(対自的に)有るところの主体である。なぜなら 人格において私はまったくただ私にとって(対自的に)有るからである。 すなわち人格とは 純粋の対自的存在における自由の個別性である。 ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ このように規定して《自由 また その自由の個別性(つまり 具体的なじっさいの自由)》をみちびくのは ただの観念論ではあるまいか。 人格は ひとが互いにとうとぶときの内容説明としての概念である。 これを(つまり 人格を)実現するのは 自由意志にもとづく意志行為を積み重ねて行くことによって確立してゆくところの主体性である。主体性ないし意志自由のほうが 《わたし》にとって実質における即自性かつ対自性であるように思われる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (つづく)