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恥をかくことは恥ずかしいことではない
すいません、少し気になったことがあったので質問させてください。 恥をかくことが恥ずかしいことではない。 少し矛盾しているような言い方になっちゃうけど、恥をかくことを恐れては前に進めないのではと言いたかったのです。自分の教養のなさ、無知そんなものを恥ずかしいと思って、隠していたら何も知ることもできません。間違っているかもしれない自分がいて、知らない自分がいて、その自分を自分だと言って、他人から指摘を受けたり、教えを請うことができたりすると思うのです。問うて学ぶことができるのです。 わたしは教養がないので、自らろくでもないとうに誰でも知っているかも知れない質問をこれからもしていくつもりです。 若い皆様もバーチャルなのですから、敷居を高く感じすぎずに、委縮しないでほしいのです。 わたしが小学校の頃の恩師が教えてくれた言葉があります。最近、また思い出して何か心理に近いものを感じています。 間違えたっていい 間違うことを恐れちゃいけない 間違うことを笑っちゃいけない 間違った意見も 間違った答えも ともに出し合い言い合おう そしてみんなで伸びていこう 皆さんはどう思ってらっしゃいますか?
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敵はほかにいます。 ゼウスなのにゼウスではないと主張されるカミカミ 通りがかりの普通の人に突っかかって、 「貴方にはとげが刺さっている、 ぬいてしんぜよう。」とわめきながら近寄っていき、耳元で「とげは抜けた!きもちいだろ!」と大声で1000回叫ぶデブがっぱです。 (同時に、きもがって走り去る人の後姿を見て、「貴方の足が速いのは、私が貴方のとげを抜いたからだ」と自己陶酔に陥るアスペルガー患者でもある。) あれは違うコレは違うじゃあ何、答は「聖書の行間(聖書ですらない)」 「恥ずかしくても質問する人がえらい人」 といいながら、サイバーハラスメントを繰り返す 利己主義者(社会) 教条主義者(宗教=独善) チンピラボスザル(発展段階の幼児ギャング) のことです、ひらに。 (NewGenerationの手下は、某チャンネルから出張してくるcoolなちびザル君たち) (質問者⇔偉い人この命題は、羞恥心を含まないか、羞恥心を仮定として受け入れるかのどちらかです。) ようく考えてください。 「間違った答えも ともに出し合い言い合おう」 恥ずかしいと言う心がない人が、他人を行動させる為にいっている「命令のないよう」です。 自分が絶対正しいと言う人に関して言えば、 自分は間違った答を出すことはないのですから…うそではありません。 結局 間違いをチェックして支配しようとしているだけです。 右左は関係ないと思います。 「他人を守っていくと言う姿勢のない」年長者(左右中道に限らず) 単なる思春期前小学低学年由来のの権威主義(コレは発達障害)です。 原因は、小学校・家族で激しいハラスメントを受けていたということか、さもなくば、 小学校(もしくは親が)がなかったということです。 でも、いま サイバーハラスメントは、犯罪です。 あらそわないで…観察しましょう。無視しましょう。 (本当は『罰』があるべきなのですが… ちなみに、孤独は『罰』ではありません。 その当該の患者が除かれた社会の、その社会の為の自然治癒です。)
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- SOLAR_RAY
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訂正: >「例えば」何でもポジティブに考える人は自殺をしないでしょう、 これは、削除で。(消し忘れ、編集ミス) 少し言い過ぎでした。 基本的に~のようで。 は、取り消します。
- SOLAR_RAY
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ゲスの勘繰りはしなくてよろしい. β11.まず、ある理論をうちたてた時、その逆説も然りなのでは?と疑う姿勢 そんな姿勢でものを考えているのですか... 単に追求していくうちに「どうやら、逆らしい」というのと、最初から「逆なのでは」と思うのは違うと言うことだけ覚えておけばよいでしょう。 β12.ご回答者様のおっしゃることは自明なのです。 「逆の可能性もある」のは自明かもしれませんが、「実際に逆なのかどうか」は、中正の姿勢でなくては図れないのではないかな? β13.それを、あえてやって下さっているのなら、すみません。もういいですよ。 無智をここで振りまくのはもういいよ。他でやってください。 β14.人の気持ちを考えながら行動することはやはり必要だと考えさせられたからです。 誰の為にか? β15.逆説を唱えているだけでは、水かけ論のようにみえてしまいます。 実際のところは逆らしい というのと、逆説を唱えるだけ と言うのを、区別したほうが良いだろう。言っても分からないか... 「例えば」何でもポジティブに考える人は自殺をしないでしょう、 β16.ここはバーチャルな哲学な場なので、人間関係を築きたいのが目的なら、実際の場の方が望ましいと思います。 「バーチャル」な場での馴れ合い、美辞麗句のかけ合い、キズのなめあいは浅ましいのではないですか... β17.逆説もいいですが、それだけでなく、具体例とか、客観的視点とか、がもっとあるとより建設的になると思いますよ。 ◇「例えば」:「全体でひとつ、みんなつながっているんだ」と考えるなら、そうやって「自分の為に」前向き思考をすることで楽になる人がいる分、負担が掛かる人も居ると考えられます。どうでしょう、ポジティブは良いことですか? 基本的にバカで頑固でナルシストさんのようで。
- SOLAR_RAY
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自分を無闇に信じることではなく、存在そのものは善でも悪でもないということを知らなければ、いい加減なポジティブシンキングの罠にはまるだけでしょう。そうでなければ、「おまえは悪である」と言われたとき、納得してしまいます。親との関係もそうでしょうか? 「笑止千万」は取り消しましょう。
- SOLAR_RAY
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笑止千万 この質問タイトルに現れているように、世界というのは欺瞞で以って虚が成り立つようで。真を表すのが全てを亡き者にしようとするように見え、それに対して虚存在が不快を感じ、反発するのは当然です。 さて、その虚がどこに現れていると言うかと言うと、質問タイトルだけでなく、 β9.悟るな、悟れ わかるな、わかれ ◇これらの言葉にも表れています。悟りに限りが無いのは当然でしょう、釈迦は悟りを「開いた」ところで、事情があってそこで歩みを止めたようでしたが、今はそんな時代ではありません。そんなことは当たり前ですよね?気付き初めたら、そこからスタートです。 β10.どんなことがあっても、人を信じたい。逆に人が自分を信じてくれていると信じたい。ただ、それだけでしょう。まず、土台にそれがなければ何もはじまらないのです。そこからなのです。 ◇何処かの質問に、「自分を信じること、それが信仰です。」 と、書きましたが、それだけでは不十分なのです。その後 が、あるでしょう。信仰は、古代からありました。いい加減卒業してください。 >悟った気でいるな、いつまでも悟れ 分かって気でいるな、いつまでもわかろうとしろ ↑ こういうことです。自分で言っているではないですか。 『信仰ではなく、真実のみを求めよ。』 恥は恥、恥をかくことは恥ずかしいことです。見習うべき人が「ぎゃく」なんです、達観してください。認識の逆転があるなら、それを先ず自覚することです。親との関係を見直すべきですね。
お礼
まず、ある理論をうちたてた時、その逆説も然りなのでは?と疑う姿勢は、一見、非建設的に見えますが、実は、とても建設的なことなのです。 そのことは、哲学カテの人なら皆さんご存知なので、そんなに一生懸命やってくれなくても、ご回答者様のおっしゃることは自明なのです。 それを、あえてやって下さっているのなら、すみません。もういいですよ。 私はあまり人のことを詮索するのが好きではない為、人の言葉の裏を読もうとする人の気が知れないと思っているところがあり、今でもその気持は変わらないのですが、 私が敗北だと感じたのは、人と堂々と対峙する上でも、人の気持ちを考えながら行動することはやはり必要だと考えさせられたからです。それは迎合ではなく、配慮だということです。言葉に配慮し、人の気持ちを傷つけないように行動することは、いやらしいことではないのだと考えさせられたからです。 ここでは、何かを解決しようとか、問うて学ぶ姿勢が底流にないと、ただ、逆説を唱えているだけでは、水かけ論のようにみえてしまいます。 逆説もいいですが、それだけでなく、具体例とか、客観的視点とか、がもっとあるとより建設的になると思いますよ。 ここはバーチャルな哲学な場なので、人間関係を築きたいのが目的なら、実際の場の方が望ましいと思います。 どうもありがとうございました。
- SOLAR_RAY
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β1.この人は本心なのでしょうか?本当にそう思いますか?私には理解できません。 ◇質問者は実社会で働いたことがあるのですか、特にそういった分野で。主婦なら世間を知らず、「理解でき」ないのも仕方がありません。 β2.恥をかかそうと思っているのではなく、もっと成長して、できれば自分を追い抜いてほしいということじゃないでしょうか。その信頼関係から「そんなことも知らないのか」ではないでしょうか。 ◇おめでたいですね。 β3.また矛盾してしまうけど、恨まれてもいいけど、人間不信には陥ってほしくないはずです。 ◇相手がその都度 「恨まれてもいい」とか「人間不信には陥ってほしくない」と考えて対応していると思っているのですか?世間知らずにも程がありますね、もっと実社会に出て働いて、実感して下さい。社会経験が少ないようですね。 β4.下僕などと本気で思っているのでしょうか。それはたぶん間違っています。 ◇「たぶん」が表すとおり、「間違っています。」という主張の根拠が無いと自分で分かっていらっしゃるようで。 β5.信頼関係なくしては人間関係はありえないのです。 ◇奇麗事は妄想の世界でしか通用しません。仕事をするとき、契約書を交わさないところは無いでしょう。 β6.なんていう僻み根性なのでしょう。 ◇なんというヒステリー的な対応なのだろうか、単なるヒステリーとハートで対応するのとは違う。区別したほうが良いだろう。「僻み根性」という言葉はそのままお返しします。 β7.人間関係においてこんな負の連鎖などが本当にあると思っているのですか? ◇それがなければ、何故今社会はこのような状態になっているのか? β8.今、はっきり分かりました。恥をかくことは、恥ずかしいことではありません。 ◇人は「はっきりと勘違い」することも出来るようで。 恥は恥です。せいぜい、自分の子供に恥をかかせ、グレたチンピラにするか引きこもりニートに育て上げてください。 印象ですが、今回の対応は質問タイトルの矛盾を突かれたことでの逆上的対応 といった風に映りました。勘違いであるなら失礼しました。 ◇だれでも主人公を気軽に演じられる良い時代になりました、そのツケはかならず帰ってきますが。 ↑この辺りがヒステリーの原因ですか? GONTITI の、「脇役であるとも知らずに」というアルバムがあります。良い音楽です、是非聴いてみてください。 達観しましょう、出来なくともそれを、生来できる人を貶めるべきではないでしょう、見習うべきです、「ぎゃく」なんですよ。お解りでしょうか?
お礼
ここで、私の経歴を言及するのは避けましょう。周りの人に迷惑をかけても良くないので。 私も、今まで自分の内にある人間不信というものと戦ってきましたからわからなくはないのです。(わからなくはないというだけで、実際にはわかりません) 哲学や心理学に興味を持つ人は、たとえ学生であっても、それなりの複雑なものを背負っているのだと勝手に推察しています。それはSOLAR_RAY様も例外ではないのではないでしょうか、とこれも勝手に推察しています。きっと今SOLAR_RAY様も戦っているのではないでしょうか。しかし、SOLAR_RAY様や、他の回答者様がどんなものを背負って、その心の悲しみの深さなどが、どれ程のものか分かり様がありません。 悟るな、悟れ わかるな、わかれ 悟った気でいるな、いつまでも悟れ 分かって気でいるな、いつまでもわかろうとしろ だれも人のことを本当に理解することなどできないのです。 だからこそ、人を安易に軽蔑したり、逆に知ったかのようになってはいけないのです。 それは、SOLAR_RAY様も含めてきっと共通の認識でしょう。 どんなことがあっても、人を信じたい。逆に人が自分を信じてくれていると信じたい。 ただ、それだけでしょう。 まず、土台にそれがなければ何もはじまらないのです。 そこからなのです。
- SOLAR_RAY
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聞くことは本来恥ずかしいことではないですが、聞くことで、「知らないの?」と人を小バカにし、恥をかかす人がいるという事実は、知っておくべきでしょう。現代の、細分化したテクノロジー社会(恨み憎しみの転化によるものと思われる)においては特に。 実社会において、知らないことをたずねると、「そんなことも知らないのか」などといったような、まるで知らないことが悪いことでもあるかのような反応をとる人は多いです。それも、専門分野に従事している人ほどその傾向があるように感じます。 親は偉くて、子は養われていると思っている、「城」の中の王様と王妃様とその下僕。だれでも主人公を気軽に演じられる良い時代になりました、そのツケはかならず帰ってきますが。 一瞬であろうと、恥はかかない方が良いでしょう。それがうらみになり、自分に聞いてくる人に対して恥をかかさずには居れなくなります。 恥をかくことは恥ずかしいことでです。
お礼
ありがとうございます。 >、「知らないの?」と人を小バカにし、恥をかかす人がいるという事実 この人は本心なのでしょうか?本当にそう思いますか?私には理解できません。特に専門分野に従事していればなおさらのこと、そういうことはないのではないでしょうか。 恥をかかそうと思っているのではなく、もっと成長して、できれば自分を追い抜いてほしいということじゃないでしょうか。その信頼関係から「そんなことも知らないのか」ではないでしょうか。 また矛盾してしまうけど、恨まれてもいいけど、人間不信には陥ってほしくないはずです。 >親は偉くて、子は養われていると思っている、「城」の中の王様と王妃様とその下僕。だれでも主人公を気軽に演じられる良い時代になりました、そのツケはかならず帰ってきますが。 下僕などと本気で思っているのでしょうか。それはたぶん間違っています。誰に対しても、下僕などと思ってはいけません。たとえ主従関係だろうと。それは主人を軽蔑した事なのですよ。客と店員でも同じです。信頼関係なくしては人間関係はありえないのです。 >一瞬であろうと、恥はかかない方が良いでしょう。それがうらみになり、自分に聞いてくる人に対して恥をかかさずには居れなくなります。 なんていう僻み根性なのでしょう。例え、その人がうらみをもったとしても、もっと建設的に考えるのではないでしょうか。こんな思いは誰にも味あわせてはいけないと考えるのではないでしょうか。 人間関係においてこんな負の連鎖などが本当にあると思っているのですか? 今、はっきり分かりました。 恥をかくことは、恥ずかしいことではありません。
- RingQ
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「恥をかくこと」には自己についての洞察がある筈と思います。手元の旺文社の辞書をひくと恥とは面目を失うことであると言い換えがありますが、我としての思い、主観のなかで自己イメージがノックアウトされるという自覚が、恥をかくことに備わっていると思います。こうした洞察や自覚は成長し伸びていくためにとても大切なものだと思います。 いっぽう「恥をかくのは恥ずかしいことではない」の場合の「恥ずかしいこと」とは、他者から客観的に見て恥ずかしいと判断されることを指すように思うんです。 だから、この文面には少々の捩れがあって、「自覚によって主観する者は、その自覚の姿で客観される者ではない」という形の中に嵌っている気がします。しかもノックアウトの自覚ですから、自己否定的な自覚について言っています。「自己イメージを自覚的に否定する主観を持つことができる者は、否定された自己イメージのように客観される者ではない」という形でくくることができます。 恩師のお言葉は小学生向きのやさしい言い回しではありますがともに出し合い言い合おうというところが眼目でしょう。それは、いろんな主観をぶつけ合いやすい環境にしてみようという初歩の初歩、第一歩の心構えだと思います。そこから自覚する強い心や洞察する賢い心を育てる教育がゆっくりと始まると考えられたのではないでしょうか。
お礼
あっ、これでようやく少し本題に戻ってきました。 主観的恥→(否)→客観的恥???? すいません。私の言葉足らずなのでしょう。こういうイメージではありません。 「自ら主体的に恥をかく行動は、恥ずべき行為とは言えない」でした。 あっ、やっぱり回答どうりでした。 しかし、これもそうとも言えないのではと、初めの方で疑問を投げてみました。 つまり、それも恥ずべき行為になり得ることもあるのでは?ということです。 馬鹿だと自分で公言することは、他人にとって嫌悪感を感じることもあるのでは?ということです。 それが、人間の主体的行動をそがいしているのではないだろうか?ということです。 世間の目があるから、正しい行動ができるのだから、あくまでもその世間の目を優先して行動するという行為に、そもそも疑いはないのだろうか?ということです。 否とも然りとも言えると思うのですが、 これは、個人を尊重すべきか、他との関係をまず考えるべきか、という問題に発展します。 私個人的には、個人が他の関係を無視して好き勝手やったら大変なことになるという固定観念をあえて否定して、 個人を尊重せずして、他との健全な関係などあり得ないと言いたいところですが、 それも、バランスですね、と結論付けていいものかどうか、、、 どうも、今の現状の閉鎖感は、少し前者に傾いている気がしている為、この疑問を投げかけてみたのです。 しかし、「対峙することこそ、尊敬につながる」という理論を実践しようとして、少し配慮のない意見を述べすぎたと今反省していたのです。だいぶ私もいろいろ考えさせられて、感謝しているのです。やはり、私には、人の気持ちを考えずに行動することなどできそうにないようです。ご回答者様の皆様には、これに懲りずに、またお願いしますと言いたいです。これは、たぶん迎合ではなく本心です。 憎まれっ子にはなりきれないようです。またもや敗北です。どうも、いつまでたってもふらふらしてしまいます。何なのでしょうか? すいません。もしかしたら、こういう気持ちはじめてかもしれません。今まで人を恐れてばかりいて、対峙したことが無かったのかもしれません。恥ずかしいのですが、胸の痛みというか、、、すいません。心理学カテなのは重々承知で、この心理を分析してみてくれませんか。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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No.4です。 ▲ あやまつならばわれあり。 ☆ あやまちに気づいたときには われ思うをおこなっています。あるいは われ われを思う です。 言いかえると その《われに還る》ゆえに《われ思う(思考する)》という順序だと考えます。《われに還る》が《われあり》であるのは とうぜんのこととなります。 ゆえに恩師の方のことばとなるように思います。 * ▲の引用は アウグスティヌスの言葉でした。
お礼
ありがとうございます。今、正にそんな気分です。
哲学的なお礼 ありがとうございます。 --------------- 無知の知は、馬鹿丸だしをとってもおしゃれに言い換えただけですよ。 へ理屈は哲学そのものじゃないですか。プラトンだってへ理屈じじいですよ。 偏見はよくありません。建設的ではありませんよ。 坊主だって屏風に肖像画かいたり、説法のDVDを打ったりする方がよっぽど信用できますよ。清貧なんて言葉にだまされてはいけません。 一流を本気で目指している人は、それはそれでみあげた人だと思いますが、二流や三流も必要なのです。 (中略 失礼いたします) ある思想に洗脳されすぎている感があります。 ------------------ 考えさせられるごもっともな意見拝読いたしました。 うれしい限りです。励みになります。 興味深いことは、 「ある思想」のくだんです。内省の為に「ほのめかし」をいただけないでしょうか。自分と言うものを分析したいものですから。 人との中にあって苦悩している方は多いと思います。誰が悪いといえない場合はなおさらです。でも考えて解決していきましょう。と言う意見とお察しします。 教えていただきました。 そして、 考えています。教えています。感謝しています。
お礼
哲学的?とんでもないです。今少し自己嫌悪に陥っています。 すいません。また、補足させていただくかもしれません。
補足です。 まず人間の種類を二つのカテゴリーに分けますと A羞恥心をもっている人 B羞恥心をもっていない人に分けられます。 羞恥心をもっていない人にネガティブな側面があります。 このネガティブな側面が最初に書いた文の具体的内容です。(世代・グループに大きく関係します。) また、羞恥心をもたない人は、常に自慢話をします。 加えて、嫉妬深く、ビーXたけOや、むらXみXXXなど個人名を出して悪口を言う。 公人だから「けなしていい」と本気で思っています。(こういう人たちの直接の後継者は、いま、オンラインの世界でもたくさんいるようですが…) また、羞恥心をもっている人に対し威圧的態度をとります。自分が嫌がらせを受けていると言う「被害者意識」を盾に、「だから他人を攻撃してもよい」と言う理論をたて、堂々と意地悪をする。ひねくれ者ですよ。 自分の行動を正当化したい。そして、やりたい放題やりたい ということだけが 「生きる根拠」です。 「猿真似がうまい」と言うのも特徴でしょう。あくまで猿真似ですが。 恥をかいたことがあると言う主張をしながら、実は恥をかいたことがない。恥を知るこころがないからです。 錯覚しています。「恥をかいたことがあるよ」と言うだけでは恥をかいたことにはならないという事実は無視する。 田んぼに出かけて、お百姓さんの仕事振りを眺め、自然はすごい!だから「それを見ている」自分はすごい!と勘違いしている人のことです。 草刈やらセたら10分も、もたないのは秘密。 お百姓さんも、「また例の屁理屈じじいだ」と声をかけられないように顔を下に向け、身をかがめます。 それでも声をかけるのが、じじい根性。痴漢以外の何者でもありません。 「自分は無知でいい!変わらない!」と決めたら負けです。 ある意味、痴漢に遭遇したときは、しょうがないし、勝たなくてもよいのです。負けないことです。 「教会は滅びるべき」と述べ「まじめなキリスト教者」をけなしながら、(わたしにとって大きな疑問は、この老人が、教皇に謁見した政治勢力に投票していたという事実ですが、) しかしながら、「あなたが教皇になればいいのでは?」という意見には至極敏感。速攻で反応してニヤニヤする。 「きょうこうたま」になったらこんなこともあんなこともできるなぁ…と、じぶん勝手に想像して、「ニヤニヤよだれをたらす醜いデブ」じいさん。 馬鹿な人間は「自分は馬鹿です」と言ったら、馬鹿ではないのでしょうか。 チンパンジーが、「自分は馬鹿だ」と思いながら「ムキーッ」と声を出せば、哲学をする人間になれるのでしょうか? 神は存在すると大声で叫ぶと自動的に「神が存在している」と断言できるのでしょうか? 神はナゾだと言えば、現実に存在することになるのでしょうか? 「おなかがいっぱいだ!」と口に出せば、空腹は満たされるのでしょうか? 基本的なことです。 馬鹿をさらすことが哲学だと思ってはなりません。 最後に 「無知の知」は、「馬鹿丸出し」とは違うものです。馬鹿丸出しの「屁理屈じじい」にプラトンの作品を読む「読解能力がない」と言うことだけは、自明です。
お礼
ありがとうございます。何なのでしょうか。はやりですか。ニヒリズム。 まあ、個人名を出して悪口を言うのは良くないですね。気を付けます。だれだって、正当化するものです。やりたいことをやることが生きることです。生きることは疑いなく本来そうでしょう。 恥をかくかかかないか、本人しか分かりえないことです。 お百姓さんも、散歩をするのも自由でしょう。 キリスト教をしりつくしている人なら、批判するのもありでしょう。 しかし、教皇になりたがる心理は理解しがたいですが。 馬鹿な人間は自分で認めても、認めなくても馬鹿は馬鹿です。 チンパンジーは自分が馬鹿だと認識できるものかどうか。 神の存在などは、主観以外のなにものでのないことは分かり切っているじゃないですか。空腹感も主観です。他人が決めるものではありません。 無知の知は、馬鹿丸だしをとってもおしゃれに言い換えただけですよ。 へ理屈は哲学そのものじゃないですか。プラトンだってへ理屈じじいですよ。 偏見はよくありません。建設的ではありませんよ。 坊主だって屏風に肖像画かいたり、説法のDVDを打ったりする方がよっぽど信用できますよ。清貧なんて言葉にだまされてはいけません。 一流を本気で目指している人は、それはそれでみあげた人だと思いますが、二流や三流も必要なのです。 一流の精神科医ばかりでは、ともだおれして、一人もいなくなってしまいます。 さるまね、けっこうじゃないですか、さるまねだって、経済活動です。 どうもある思想に洗脳されすぎている感があります。 私も、尾崎豊を初めて聞いた時は恥ずかしくて耳をふさぎましたから、 わからなくはないのですが。 じじいと対峙すべきです。 へ理屈爺を知らなければ、本当に批判ができないのです。 建設的ではないのです。
お礼
よっぽど、どうしようか悩んだのですが、とても深刻なものを感じましたので、一言だけいいでしょうか、、、。 そもそも、介護職や臨床心理士などの職業を目指すような方は、それまでも、自らのいろいろな経験の中で大変苦労されている方が多いように見受けられます。その御苦労から、正義感にかられて就く方も多いようです。しかし、その正義感には非常に屈折したものがあり、自信の苦労やその近親者の苦労を経験している為、なんとか改善させたいという思いが先に立ってしまい、なかなかその被介護者や患者との壁をのりこえられない現状があるのだと見受けられます。 そして、さらに、又、御苦労を重ねられて疲れ果ててしまい、心的外傷を負うほどのストレスを抱えている人も少なくないようです。 本来は、被介護者や患者の側に立ってという姿勢が望ましいのでしょうが、経験が人間を形成しているのですから、それを望むのは、難しいことかと思います。 もし、自覚があるのならば、まず、それを克服するのが先決かと思われますが、 そうでないのなら、心理士は’のれんにうでおし’くらいの対応に徹するとか、介護職の場合は、一回、はなれて、別の仕事についてみるとか とにかく、無理をしないことが、それ以上こじらせないひけつかと思うのですがどうでしょう? まだ、二人ともお若いながら、御苦労がその年齢以上に抱えきれないほどのものがあるように思いましたので、ご意見させてもらいました。 いろいろありましたが、運営者様もお困りでしょうし、私も建設的なご意見をもらった恩もありますので、エールをこめてポイントつけて、締め切らせてもらいます。 ご検討をいのります。