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宗教の信憑性
宗教に関して必要性を感じ色々と調べています。 その中で目にしたり、今まで感じてきたこととして 「現代の宗教って信憑性はどれ位あるのだろう」という事があります。 例えば政治的背景や時代の風潮が大きく関わり歪められているのではないか、と思うのです。 教えとしてはとても理に適っていて、素晴らしいと思うのですが、本当にそれが元来の姿そのものであるのか疑いがあります。 だとすると、何を信じてよいのか分かりません。 一つの宗教によっても、人により解釈は違うように思うので、宗教そのもの・各宗教の信憑性についてどうなのか疑問に感じています。 また、教えに矛盾を感じたりもします。 捉えどころの無い質問で申し訳ないのですが 宗教関係に詳しい方がいらっしゃれば、無知な私に教えていただけませんか? 私自身は特定の宗教を信仰している訳ではありませんが、周りから入信を進められたりする事が多くなったのでその見極めとして本物を見つけ、信頼出来る教えに出会えればと思っています。 どうぞよろしくお願い致します。
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質問者様の疑問は、真摯に宗教を考えている人が必ずぶつかる問題のように思います。 おっしゃるとおりに宗教は、その経てきた時代の文化、知的レベル、統治者の意図的歪曲、偏見・・などによって多分随分ゆがめられて来たと思います。 でも、考えてみるに、宗祖が真理を説いた時代に、その説法を直接聴いた人の中に、本当にその説法の意図するところを理解できた人が一体どれだけいたのでしょうか。 現代よりうんと情報が乏しい時代に基本的教育すら殆んど受けられなかった人たちがどんな風に理解していたのでしょうか。 多分宗祖は、そんな人たちにも伝わるように、一生懸命当時の一般民衆の知的文化レベルで分かりやすく説いているはずです。 ですから現代人の感覚と合わない所があって当然だと思います。 現代の日本人が仏陀やキリストの時代にタイムスリップしたならば、文化、習慣、知的レベルの違いから面くらい、なかなか馴染めないのは当然でしょう。 当時の人々のために説かれた教えならば、現代人には本来合わなくて当然だと思います。 それでも教えは現代にも通じ、現代人の心をも引き付けます。 これは多分過去と現代に共通性があるというより、人としての最も大切な、必要な、幸せになるために不可欠な尊い部分(真理)が含まれているからだと思います。 人はこの最も尊い部分(真理)に引き付けられ、現代には合わなくなってしまった部分に違和感を感じるのではないでしょうか。 長い年月に於ける過度の修飾と歪曲と誤解によって、仏典も聖書も玉石混交になってしまったのではないでしょうか。 仏教は、仏陀の根本の教えである修行法が含まれた「上座部仏教」が中国を経るうちに大乗仏教になり、肝心の因縁解脱のための修行法が失われてしまいました。 又、キリストは、全ての人の魂の永遠性(人は死後も霊として存在を続ける)を説き、そのときのために身も心も準備することを教えたのが、やがてキリストは神であるから特別肉体のまま復活した・・に変わってしまったのではないでしょうか。 もし、仏陀やキリストが現代によみがえり、現代人のためにメッセージを送ってくれるとするならば、一体どんな教えを説くのでしょうか。 私たちはこの玉石混交状態の伝えられた教えの中から真に正しいものとそうではないものとを見分ける目と感覚が必要だと思います。 同じ教えにも人それぞれの解釈があり、汲み取る真理は違います。 皆、自分にとって最も必要な教えを伝えられた言葉、文字の中に見出すのだと思います。 私は、「真理はすべての善なる宗教に共通している」と思っています。 表現の多少の違いはありますが、言っている正しい事に同じ部分たくさん含まれています。 逆に言えば、共通する部分こそ真理なのではないでしょうか。 盗む無かれ・姦淫するなかれ・・ 自分が他者に望むことを他者に為せ・・ 死後の世界に持っていけるものは徳のみである・・・ 自分の蒔いた種は自分自身で刈り取らねばならない、因果応報・・ などなど・・自分にとって真に善い事、真に幸せになるための方法、本当に大切なもの・・ これらは殆んど同じです。 幸福になるために自己を向上させる手段として、キリストは愛を説き、仏陀は自己中心に執着する我欲を捨てるための修行法(瞑想法)を説いたのだと思います。 両者とも結局他者に奉仕することに喜びと楽しみを見出すようになると思います。 さて、質問者様、宗教は習ってマスターできるものでは無いと思います。 自己向上の止むに止まれぬ欲求から何かを捜し求め、何かのきっかけ(仏典でも聖書でも)からインスピレーションを受け取った瞬間に大切な何かを悟るのだと思います。 おそらくこの繰り返しで理解が深まっていくのでしょう。 悟りとは、自分自身の過去の体験によって何かの教えが心に響くことだと思います。 質問者様、妥協しないで真理を求め続けてください。 少しでも納得できない宗教には入る必要は無いと思います。 玉石混交の玉の部分だけ学ぶ事だってできますよ。 本からインターネットから幾らでもその気になれば学べます。 むしろ一つの宗教だけしか知らず、他を知ることを拒否するのは危険です。 真理に対する視野が狭くなり、結局そのたった一つの宗教に対する目も曇らされてしまいます。 新しいスピリチュアルにもきっと真理が含まれていますよ。 心を広く保って自由に真理を求めてみてください。 御自分の善良な直感に頼られることをすすめます。
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No.17 です。 macBee様は、現し世での生き方を学びたいワケではなく、 純粋に真理を解りたいという想いをお持ちなのでしょうね。 私個人的には、宇宙の理を知るには、仏教を深く学ぶ事が最善の道ではないかと感じています。 最善なだけに、最大にして最難と思いますが、宗教学の世界では、今は仏教が注目されているらしいですよ。 私は普通科の学生ですが。 私の真理に対しての解釈ですか・・。 私個人の世界観からは、オーラだとか霊が憑くなどというのは元より、霊界に進むだの転生するという神秘的な事は、全てが脳内で起こる「共感覚」と呼ばれるものの産物であると感じます。直に、"心ある科学"が神秘世界に追いつき、解明されてゆくのではないかと感じています。 うーん、話ズレてますね。 この流れじゃ思想の広場に投げ飛ばされそうです。 何はともあれ、現し世に住む私たちがすべきは、万事物に対して愛を以って接する事ですよね。 その理論・理由や、実践法などを教えてくれるのが、宗教だと認識しています。 ・・どんどんズレますね。 申し訳ないです。(苦笑)
お礼
再度有難うございます。 捉えどころのない質問に加え、またまた無理難題をお願いしてしまったこと、お詫びいたします。 私自身もとても混乱しています。普段使わない脳細胞が悲鳴を上げているところです。 神秘的にして「共感覚」ですか・・・難しいですね^^; 科学が解明してゆくだろうね、と何となく解釈しました。(ごめんなさい、少々疲れてきたようです) 私も最近仏教に関心を寄せています。 keityukeさんの仰る通り、仏教を深く学ぶ事が最善の道かなと何となくですが感じています。 仏教と言っても幅は広く、気が遠くなる思いがしますが。。。 先の回答にもありましたが、9番目に回答頂いた方に、「真理はすべての善なる宗教に共通している」というご意見がありました。 keityukeさんも同じお考えだとお見受けします。 私も非常に納得しました。 回答有難うございます。 <ご協力頂いた皆様へ> 今回、普段は得られない情報や見解を沢山の方々からご回答頂いた事、本当に感謝しております。 大変勉強になりました。 自分の中で不透明だった部分が皆様のご意見により明確になり、また自身の問題点など感じることも多々ありました。 皆様のアドバイスの通り、これから精進していきたいと考えております。 有難うございました。
- shooooo
- ベストアンサー率0% (0/2)
小室直樹氏の「日本人のための宗教原論」がお勧めです。さらに勉強を進めると、この本が多少偏っていることにも気がつくようになりますが、入門書としては大変わかりやすいです。お読みになったことはありますか? この本では、キリスト教と仏教については、当初の教義と現状との違いを突いて、信者の方には耳の痛い話となります。その結果、相対的にイスラム教を持ち上げるという、日本人には意外な結果になります。 この本を鵜呑みにすることなく客観的に読めば、無宗教の人が宗教をどう学ぶべきかというヒントが得られます。
お礼
ご紹介頂いた本はまだ読んでおりません。 面白そうですね。 ご説明を拝見してとても興味が湧きましたので、是非読んでみようと思います。 shoooooさんの立てている質問も拝見しております。 私にはまだ手の届かない段階ではありますが、色々勉強になりました。 本のご紹介感謝致します。 回答有難うございます。
- frisk_blue_love
- ベストアンサー率48% (141/293)
宗教が本物か否かの見分け方は簡単です。 まず、死後の事や罰を強調して恐怖心で信仰させる宗教はニセモノです。これらは最も性質の悪いものです。(例:xx年にこの世の終わりが来る、死後不信心者は地獄へ落ちる、墓の相が悪いから幸せになれない、この壺を買わないと不幸になる、この新聞を何軒に買わせないと災いがあるetc.) ニセモノではない宗教は、「死後に限定しない」救いと安心を説きます。 ニセモノでない宗教にも二つあって、救いの基準が客観的(数量化可能)なものは堕落した宗教です。もう一方は救いの基準が単純明快なもので、こちらは本物です。 何故このように断言できるか、と言えば恐怖で人の心を縛るのは教えに矛盾があるからです。理性で考察されると偽りがバレてしまうからです(宗教は理性を否定するものではありません)また、救いを死後に限定しているのは、死なないと救われるか否かが分からないからです。(ウソがばれるのはずっと先ですからね。死後に限定しない救いは「今」分かるではありませんか。ウソを言っていたらスグ分かってしまいますよ)ニセモノの宗教を信じてしまったら一度しかない人生は恐怖に支配される悲惨なものとなるでしょう。 救いの基準についてですが、客観的(数量化)した基準がある宗教は救われるか否かを「人が判断している」から、堕落しています。人間が判断するためにはお布施の金額や奉仕の時間や集会に集めた人数が基準として必要なのです。 本物の宗教は人を生かすもので、死後に限定した救いのためにあるのではありません。そして、救われるか否かは明確かつシンプルな基準でしかないのです。すなわち「この神(又は仏)の教えを信じるか?」です。 信じた人は迷わなくてすみます。人生において迷いが少ないのはそれだけでも幸せです。一度しかない人生を恐怖に縛られ、金や時間の使い方を束縛されて生きるのと、「もう救われているんだ~安心。」と思って生きるのと、どちらが人として良い生き方か考えるまでもありません。 以上参考になれば幸いです。 ※ニセモノの例にあげたのは特定の宗教団体ではありません、という訳ではありません。 P.S.私が飲んだ酒でアナタが酔う事はできません。酔うためには自分で酒を飲むしかないのです。願わくばアナタを生かす教えにめぐり合えますように。
お礼
何度となく頷きながら拝見致しました。 具体的にお答え頂いたので、思いつく事例もちらほらありました。。。(苦笑) >信じた人は迷わなくてすみます。人生において迷いが少ないのはそれだけでも幸せです。 そうですよね、私も迷う事無く信頼出来る教えに出会えたとしたら、どれだけ安心できるだろう、支えとなるだろうと思います。 >私が飲んだ酒でアナタが酔う事はできません。酔うためには自分で酒を飲むしかないのです。 ずしりと重みを感じました。 そうですね、味わって分かる(見えてくる)こともあると感じます。 大変参考になりました。 回答有難うございます。
- les-min
- ベストアンサー率41% (269/644)
こんにちは。。 他の方々のご回答と重複するかもしれませんが(ざーっと読ませていただいただけなので・・・) そして、(「人それぞれ」と言ってしまえばそれまでなので・・・)結局のところは自分の個人的な雑感のようなものになると思いますが、お邪魔します。 接した宗教の「普遍性」をどう捉え、どう感じるかが、その宗教に対する「信憑性」を考える上で重要なのだろうと思っています。 十分考察されていることとは思いますが、宗教は、結局は「信」に行き着くし、行き着いてしまうもの、という感じを持っています。 「信」(信心とか信仰心)というのは、ある種便利なもので、どれほど不合理であっても「信じる」と言えばそれで済む、という面があります。証明したり、実証したりする必要はないわけです。 もちろん「神の存在証明」とか、「前世の論証」といった感じで、宗教的な事柄に対する証明や論証は、どの宗教でも行なわれてきたと思いますが、(詳しくはありませんが)少なくともその熱意と労力の割には信憑性を補強する役に立っているのかどうかは疑問ではあります。 「信」が、証明や実証を端折ってしまえるという点は利点でもありますが、諸刃の剣的な側面も当然あります。信が強くなれば純化していくという傾向はどの宗教でも見られ、(某原理主義など・・・そこまで過激でなくとも、純化傾向というのはそこここに見られます)そしてそれは必ずしも好ましい結果を生まないように感じます。 信仰心によって教義を真理と見定めて固定してしまうと、あとはイケイケドンドン的な純化があるだけ、という構図ですね。 実際、「宗教に信憑性を問うのはナンセンスだ」と考える方は確実におられると思いますし・・・ あと、宗教にはある種の反社会性を内包する傾向が強いものがあります。「人間本来の姿」に社会性を含まない傾向の強い、個的内的な宗教は、理に適っているように見えるのに社会生活との整合性が取りにくいという難点を有します。そういう宗教を見極めたり、信仰したりするのは、教義を理解することとは別の難しさが付いて回わるでしょうね。 それと、宗教が「信」によって証明や実証といった「信憑性」を踏み倒すことを可能としている以上、そこには程度の差はあれ、「怪しげ」「胡散臭い」感じも付いて回ります。 これは宗教というものに必然的に付いてくるものと感じています。 ここで、最初に戻りますが・・・(長くなってしまった・・・すみません。) その宗教の末節は気にせず、「教義の本質・根幹」と言える部分に「普遍性」を感じられるかどうかが、一つの指標になるかな、と思っています。 自分は、まだ、というかどうしても「どの宗教も最終的には同じ」という考えに至っていなくて・・・そいういうこともあってか、「普遍性」を常に頭においていますし、どちらかというと無神教的な教えに魅かれます。(自称仏教徒←かなりユルやかにダレてる仏教徒だ・・・) あと、純化傾向が強い(純化を強要する傾向のある)宗教・宗派は最初のうちは避けておられた方がよいように思います。 最終的には個人の信教ですし、信仰されている当事者はそれはそれでよいのでしょうが・・・ 特定の宗教・宗派に拠らず、独学でもよいのでしばらくいろいろご覧になって見聞され、思索されるのもよいことではないかなと思いました。 有用なアドバイスかどうかわかりませんが。長々と失礼いたしました。では。
お礼
les-minさんのご回答、無知な私にもとても解り易くてなるほど、と共感しながら拝見しました。 >「信」(信心とか信仰心)というのは、ある種便利なもの >どれほど不合理であっても「信じる」と言えばそれで済む、という面があります。証明したり、実証したりする必要はないわけです。 漠然とは考えていましたが、私もそう実感しました。 今まで真剣に考えた事もなかったので、宗教の歴史について全くと言っていいほど無知だったのです。 携わっている人や信者の方々は、何かしらの信憑性を感じているのかと思っていましたが、「信じる」事が重要なのであって、事実がどうなのかは求めていないのでしょうね。 現在独学で本を読んでいるだけの段階ですが、難し過ぎて非常に頭が痛いです。^^; アドバイスの通り、色々思索してみます。 大変参考になりました。 回答有難うございます。
他の方の回答を見ないように心掛けたので、重複した回答になるかも知れませんが、お許し下さい。 お時間に余裕のある時にでも読んでいただければ幸いです。(汗) 私は、macBee様には宗教(団体)の必要性はあまり無いと思います。 もちろん、良質な宗教団体に出逢えれば幸せな事でしょうけど、macBee様ほど冷静な見極めをしようと努める精神力をお持ちならば、人生に於けるちょっとした苦労の乗り越え方や、渡る世間に鬼など居なく全ては良い方向に進みうるという事なんかも、何となく心得ていらっしゃるのではないかと感じます。 と、言うのは質問の答えになっていませんね・・。(笑) さてでは、一応、ちゃんと回答させて頂きます。 私は宗教だの哲学だのという言葉に何故か惹かれます。キリスト教やユダヤ教、ニューエイジの思想や最近人気の江原さんなど、色々な哲学を浅く浅く、浅く広くかじっています。2年ほど本気で放浪した現時点での感覚としては、万人に当てはまることかどうかは判りませんが、特定の宗教に属することは、よほどの事がない限りしない方が善いと感じています。それは単純に、「盲信」に陥ってしまうのを恐れてのことです。(このような否定的でない肯定的な考えからも説明できますが省かせて頂きます。)もちろん、先程も触れたようにmacBee様が盲信者になるなどとは思えませんので、一つの策として参考にして頂ければ幸いに思います。 うーん、乱文 失礼致します・・。 大きく複雑な問題なので、全てを表現するのは疲れてしまいます。 ここではアドバイスに留めさせて頂いて、この辺で終わりに致します。 以上の回答について解らなかった事があれば補足させて頂きますけどね。 私個人の宗教や哲学に対する姿勢の、現在での結論は、 「多方面から吸収し、個人の内で完結できるように努める事が大切」という事です。 しっかり自分の頭を使わなければいけません。 「力は借りても身を委ねるべからず」と、朝起き会に通う母親に注意を促しています。(笑) macBee様なら、もっと浅く広く、ライトで良いのではないかと感じますよ。 最後に、私が良質だと"感じた"宗教のURLを貼っておきます。ご存知でしたらご免なさい。 詳しいワケでも、入会(?)した経験があるワケでもありませんので、参考までにお願いします。 むろん、私はどこの会員・信者でもないつもりです。
- 参考URL:
- http://www.tl-kohza.org/
お礼
keityukeさんは「広く広く浅く」なのですね。 ご回答を拝見して特定の宗教に入る必要は無いのかなと考えさせられました。 もしかすると一番私に合っているのかもしれません。 私が宗教に関して調べる必要性を感じたのは、誘いがある中から明らかに違うものを判断する為ではありましたが、性格的に矛盾点(個人の見解の違いなど)を見つけると信じられなくなってしまうのです。 その点からも教団に属しながら不信感を抱いたままになってしまうのは本意ではありませんし、「広く広く浅く」というご意見も納得した次第です。 私が求めるものの一つとして「本当の事(事実)」が今後も得られないのかもしれないのは残念です。 「本当の事(事実)」=「自分の真理」と感じることが出来ればいいのですが、これもまた性格的に大きな関門だと感じています。 例えば前に頂いたご回答に「進化論を信じるか、神・宇宙人等による生命創造説を信じるか」というものがありましたが、各宗教ごとに教えに関して似たような違いは多いですよね。 無理は分かっていても、知りたい・本当の事を信じたいという意識が捨てきれないでおります。 しかし今回色々な方のご意見を伺って、それは小さな問題だ、問題なのは自分自身だと気付かされました。 お言葉に甘えることをお許し頂けるのであれば、お暇な時に構いませんので、 keityukeさんが、多数解釈がある中での「本当の事(事実)」について、どの様に考えていらっしゃるのかを教えて頂ければ嬉しいです。 参考にさせて頂きたいと思います。 今、図書館で借りている本(般若心経)の返却期間が迫っているため、要約に時間を取られてしまっておりますので後ほど参考URLも拝見しておきます。 参考資料のご提供に感謝致します。 回答有難うございます。
創価学会員です。 教えてgooでは、賛否激しくなりますので、参考として下記URLを御参照ください。 全ては、「日蓮大聖人御書全集」の中に記述はありますので研鑽されると良いでしょう。
お礼
お礼が遅れて申し訳ありません。 今、図書館で借りている本(般若心経)の返却期間が迫っているため、要約に時間を取られてしまっておりますので後ほど参考URLも拝見しておきます。 参考資料のご提供に感謝致します。 回答有難うございます。
- heyboy
- ベストアンサー率21% (1852/8730)
#5ですがー三度失礼します。 どうもそちらの感じは いっぱいお誘いがあるけど、どれに入ったらいい? って感じですかね。 「どれ」とか言っているうちは 迷いが生じていると思われるので 様子見でいいでしょう。 (何度も同じ事言ってますがー) 自分の場合は 小さい頃にキリスト教へ行き 神を自分なりに模索し 20代に性格矯正セミナーで 自分自身を模索し 最近は創価学会へ行こうとしてます。 それで創価学会の友人に言わせると 自分が体験し学んで来た事は どうやら仏法にも近いらしいです。 まあ、他の宗教の勧誘も3つぐらいは受けましたが なんか全然でしたね。 こんな感じですけど 自分が将来や来生で何を信じているかは わかりませんが 自分が納得するものを信じ続けようかなと 思ったりもしますね。 それとまったく話しは反れますが 自分の信じる宗教を 町内会が薦めるのを選択するでも 近所と角が立たなくていいかと思ったりしますね。
お礼
三度回答有難うございます。 今のところ「どれ」と絞れる所には至っていないのです。 情報だけ与えられ、目の前に幾つかのドアがありますがまだノックする前の心の準備中(ノックするか否か模索中)という状態です。 何しろ勧誘してくる周りの入信動機があやふやなものなので、その人達がいくら私に説明しても心に響くものは無く、冷めてしまうばかりなのです。 heyboyさんの仰る様に、自分なりに調べながら様子を見ているというところです。 私の質問文が誤解を招いてしまったようで申し訳ないです。お詫びいたします。 heyboyさんのように実体験できれば早いとは思うのですが、私の性格上、危ない橋は渡らない主義でして・・・^^; 危ないのか否か、検証中とも言えると思います。 お手数お掛けして申し訳ないです。
補足
この辺で今までの経過について少し状況を明記しておきます。 この質問に対する極論を言えば「個人の感覚で見極める事」だと思いました。 皆様に感謝しております。 しかし皆様の回答やアドバイスを拝見していると、その個人の判断は様々なものがあるようです。 宗教関係に精通している方々の見解は非常に興味深く考える事も多々あります。その中で気付く事もとても勉強になります。 せっかくですので、もう少し信憑性をどの様に捉え、どの様に結論を出しているのかを聞かせて下さい。 どうぞよろしくお願い致します。
- Musaffah
- ベストアンサー率36% (37/101)
再度#12です。 ご質問の内容について私なりの解釈を述べさせていただきます。 (ちょっと長くなるかも・・・ごめんなさい。) >「宗教の在り方」とはMusaffahさんにとってどの様なものでしょうか? もし間違って解釈していたらごめんなさい。 私にとって「宗教」とは、人生の究極の目標を実現させる為に存在するものだと思っています。 そこで人生の究極の目標とは何か?という疑問が発生します。個人的には人生の究極の目標とは「絶対的幸福の境涯を得る事」だと思っております。 「お金がほしい→お金が溜まった」「出世したい→出世した」といった幸福は、私は「一時的な幸福⇒相対的幸福」だと思っております。確かにそのときは夢や目標が実現できて幸せですが、達成してから(達成したならでは)の悩みというものもあるでしょう。つまり、そこが幸福の目標ではないのです。本当の幸福とは「今ここに生きている事自体が楽しい。」と常に思えることです。 人生の中でハードルが立ちふさがる(=苦難や悩みはでてくる)のは当然の事です。 重要なのは「信仰する事でハードルが目の前に出てこなくする」のではなく、「信仰する事でどんなハードルでも飛び越えてみせる」事なのです。 私はそれ(どんなハードルでも飛び越えてみせるという強い生命力を得る事)を「究極の幸福⇒絶対的幸福」と考えており、宗教はそれを実践させるために存在するものと捉えています。 >「仲間同士の道場」と解釈したのですが、それは大切なものですか? > 信仰をする上で必要不可欠なものですか? これは人それぞれ考えがあるでしょう。 私は必ずしも必要不可欠なものであるとは思いませんが、重要な存在であると思っています。 何かこう書くと矛盾してそうな観がありますね? 「道場」と考えずに「学校・塾」と考えれば分かりやすいと思います。 独力で算数、国語、体育といった教科を勉強する事も可能です。 しかし手っ取り早く、且つ正確に習得するにはどっちが最適な手段だと思いますか?私は「学校・塾」だと思っています。 あとは、おなじ学校でも「工業学校/商業学校/芸術学校」といった感じで、本人の進路によっていろんな学校があります。宗教も同じです。 周りが宗教をどう捉えているか(または利用しているか)は関係ありません。自分がどの進路で人生を進んで生きたいかは、(周りのアドバイスは必要だとは思いますが)ご自分で判断するしかありません。 長々と個人的な思いを書いてしまいましたが、ちゃんとした答えになっていますか?(結構表現が下手なもので・・・(^^;) 質問者さんの意思にそってない回答でしたら指摘してください。 ところで、質問者さんに質問(補足要求)してもよろしいでしょうか? 質問者さんが宗教の必要性を感じた根拠はなんでしょうか?(宗教に何を求めていますか?)
お礼
再度の回答有難うございます。 追加質問について詳しくご説明頂き有難うございます。 なるほど、「絶対的幸福の境涯を得る事」ですね。 「学校・塾」も理解出来る気がします。 補足要求頂いた件ですが、 <宗教に関して必要性を感じ色々と調べています> とした私の表現が悪かったと反省しているところです。 「宗教」に必要性を感じたのではなく、「見極める」必要性を感じています。 勧誘もちらほらあっておりますが、その方達を見ていると疑問を感じてしまうのです。 信頼出来る根拠も無く入信している気がしています。 「心の拠所」とする場合はいいんです。個人の選択の自由ですから。 しかし結果としてご利益があった(個人的にはご利益だとは考えられないのですが)と聞いた・言っていたなどの事例を信じていたりだとか、安易な判断で信頼しきっている周りから誘いを受けると、見極めは必要だと感じます。 そんな中で本を幾つか読んだのですが、「何が本当なの?」という宗教の信憑性について疑問が膨らみ質問に至ったという訳です。 勿論、調べるにあたり、これが本物だ!と思える教えに出会う期待もしていました。 宗教に求めるものとしては今はまだ明確ではないのですが、「人間の本来あるべき姿」を納得出来ればと考えています。 文章表現が下手であった事、お詫び致します。
- butakara_kimuchi
- ベストアンサー率25% (1/4)
>政治的背景や時代の風潮が大きく関わり歪められているのではないか 世界三大宗教に話を限りますが、最初に誕生したときから比べれば、宗教がかなり大きく様変わりしているのは確かだと思います。特に世論はとても大きな影響を与えてきたでしょう。 ここでいう変化とは、時代の変化による文脈の変化(表面の変化:例え話が現代風に直される、等)以上の意味合いです。 佛教も基督教も回教も、そもそも外国の宗教なので日本語になるまでに何度も翻訳されています。翻訳にはただでさえ、新しい概念をどうするかという問題が起こりがちです。またこれだけ歴史が長いと、写し間違いや「善意の改変」なども無視できません。 途中に征服や飢饉等の厳しい時代があれば、新しく強力な解釈や登場し、人々の心を救います。その一部は傍流になったり本流になったりして現代まで続いているでしょう。 そういうわけで、宗教が始まったときの教えを全て忠実に再現しているか、という点では、現代のどの宗教も「信憑性はない」となるのではないでしょうか。 ある宗教・教団の教えの信憑性について、教えの元来の姿を大切にて判断したい、と macBee さんがお考えなら、原典(原書)を学ぶ必要があると思います。(もっとも創始者の思考に近いものだと思うので。) ただしこの場合は、原典が創始者の考えと必ずしもイコールとは限らない上に、ヘブライ語やパーリ語などのマイナーな古語を学習し・原典を解釈、という膨大な時間が必要です。 時間がない場合、原典からの和訳や原書解説の入門書で勉強する、という手段もあります。どうしても著者の主観が入りますが、重訳に重訳を重ねたものよりは、原典に近くなると思います。聖書関連のものなら、比較的見つけやすいでしょう。(逆に言うと佛教・回教では見つけ難いかもしれません) しかし、原始のものと異なることは、必ずしも宗教の無価値を意味しません。例えば大乗仏教と初期仏教はかなり大きく違いますが、その根源の思想は同じ、と考える人も多くいますし、大乗仏教自体もかなり広く支持されている宗教です。これは基督教でも回教でも言えることでしょう。 根本思想を学んだ上で、やはり現代風に解釈しなおされた教えや、特定の宣教師を信じよう、と考える可能性もなくはありません。どういう理由で元来のものを正しいと感じているのか?ということを見極めると、何を学ぶべきか明確になるかもしれません。
お礼
回答有難うございます。 butakara_kimuchiさんのアドバイスを拝見して、漠然と感じていた恐れが明確に感じられました。 「元来の姿」を求める事は一般人には無理なんですよね・・・。 >どういう理由で元来のものを正しいと感じているのか? についてですが、4番目の方のお礼にも書きましたが 「一つの字そのものの意味を取り違えると、全く別の意味をなし、本来のものとはかけ離れた別物になってしまう」という見解を本の中で目にした時、非常に共感してしまったのです。 それもまた著者の価値観によるところではあろうかと思いますが、以前から抱いていた矛盾や疑問の答えだと感じたのです。 その結果として、諸問題の発端にもなっているだろうとも合点しました。 9番目に回答頂いた方からも感じた事ですが、 「原始のものと異なることは、必ずしも宗教の無価値を意味しません」 そうですよね。宗教とは何か、という事を忘れていた気がします。 元来の教えも大切だとは思いますが、人間にとっての位置付けを基点とすれば、柔軟性を持って変化していても間違いではないと思えます。 私は変なところに拘っているのかもしれませんね。
- Musaffah
- ベストアンサー率36% (37/101)
個人的な見解を述べさせていただきます。 まず宗教とは、簡単に言うと生命のトレーニングであると思っております。 そのトレーニングの方法も「教える人」により異なるのは当然のことです。あとはどれが自分にあう「トレーニング方法」なのかを見つけるだけなのです。 自分に一番あったトレーニング方法が見つかれば、「中間たち」と一緒にトレーニングします。何故仲間が必要かというと、人間である以上いろんな悩み事があると思います。またその悩みによってたまに違う方向を向いたり、そちらに進んだりするときもあります。そういったときに「同じ方向を向いている」仲間たちがそばにいると、すぐ軌道修正してくれるのです。それだけでなく、中間たち間の支えあいによって進むスピードが速くなることもあります。 また、「教える人」はその時代にあった「教え方」をしています。ですので、その「教え」はあくまでその当時に最も適した表現方法であり、いつの時代にも適用できるとは限りません。 よって「教える人」が書いた(あるいは「教える人」言った言葉を誰かが書きとめた)文章を読むにあたり注意しなければいけない事があります。 文上(文章の表現)そのままを捉えると、理解に苦しむ箇所が多々見られると思います。それは当然です。(だってその時代にあった表現方法で書かれているのですから。)文章そのままを捉えるのではなく、文底の真意(教える人がそこで言いたいことは何なのか?)を的確に認識・把握する事が大事なのです。 それを踏まえた上で、ご自分の目・耳でいろんな書物・意見をインプットし、時には質問したりして、自分に一番あった「トレーニング方法」を見つけてください。 とまぁ、「生命」を「筋肉」に例えて宗教・信仰のあり方やある宗教(団体)に入ることについて簡単に述べてみましたが、返って分かりにくくなっちゃいました? もし分からない事がありましたら補足いたしますのでどんどん聞いてください。 質問者さんにとって最も適した宗教を見つられることを切に願います。
お礼
回答有難うございます。 確かに、「仲間」の意義について納得します。 一人よりその他多数、思いを共有できる存在というのは生きる上でも必要だと感じます。 >文底の真意(教える人がそこで言いたいことは何なのか?)を的確に認識・把握する事が大事なのです。 時代や教える人により違いが出て来るのは納得です。本筋を反れていなければ良いのでしょうね。 私の方が本題から反れてしまいますが、お言葉に甘えまして一つお聞きします。 「宗教の在り方」とはMusaffahさんにとってどの様なものでしょうか? 「仲間同士の道場」と解釈したのですが、それは大切なものですか? 信仰をする上で必要不可欠なものですか?
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お礼
随分と遅い時間にも関わらず回答頂き有難うございます。 tokytimeさんの信憑性や真理に関する見解を拝見し、なるほどと思います。 「真理はすべての善なる宗教に共通している」 というtokytimeさんの考えに同感です。 人種により言葉が違うように、手段としては別物だけれども示している対象(物)は同じ事なのだと思います。 >皆、自分にとって最も必要な教えを伝えられた言葉、文字の中に見出すのだと思います。 これが本来「信仰」のあるべき姿なのかなと考えさせられました。 >悟りとは、自分自身の過去の体験によって何かの教えが心に響くことだと思います。 私も幾つか過去の体験により感銘を受けた教えがあります。 それはtokytimeさんの仰る”玉”の部分です。 今までは玉のみを見る事に抵抗がありました。 しかしtokytimeさんの回答を拝見していると「何が本当なのか」、と疑問を抱く事は愚かな事・大きな問題ではない、という気がしています。 また、8番目に回答頂いた方のお礼でも述べましたが、私は「宗教に入る」と「信仰を持つ」は別物だと考えています。 「それでいい」と思えなかったのですが、是非は別としても、自分の視野が狭かったことに気が付きました。 宗教の信憑性を問う前に、信じる事が出来ない自分の心が問題なのだと思います。我意識が強いのだと感じます。 「見極める目と感覚」さえ備えていれば、その歴史的背景等は問題ではありませんよね。 善と悪を見分ける目さえあれば臆する事は無いのだと感じました。 アドバイスの通り、自分の真理を探求していこうと思います。