- ベストアンサー
恥をかくことは恥ずかしいことではない
すいません、少し気になったことがあったので質問させてください。 恥をかくことが恥ずかしいことではない。 少し矛盾しているような言い方になっちゃうけど、恥をかくことを恐れては前に進めないのではと言いたかったのです。自分の教養のなさ、無知そんなものを恥ずかしいと思って、隠していたら何も知ることもできません。間違っているかもしれない自分がいて、知らない自分がいて、その自分を自分だと言って、他人から指摘を受けたり、教えを請うことができたりすると思うのです。問うて学ぶことができるのです。 わたしは教養がないので、自らろくでもないとうに誰でも知っているかも知れない質問をこれからもしていくつもりです。 若い皆様もバーチャルなのですから、敷居を高く感じすぎずに、委縮しないでほしいのです。 わたしが小学校の頃の恩師が教えてくれた言葉があります。最近、また思い出して何か心理に近いものを感じています。 間違えたっていい 間違うことを恐れちゃいけない 間違うことを笑っちゃいけない 間違った意見も 間違った答えも ともに出し合い言い合おう そしてみんなで伸びていこう 皆さんはどう思ってらっしゃいますか?
- みんなの回答 (24)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
- ベストアンサー
敵はほかにいます。 ゼウスなのにゼウスではないと主張されるカミカミ 通りがかりの普通の人に突っかかって、 「貴方にはとげが刺さっている、 ぬいてしんぜよう。」とわめきながら近寄っていき、耳元で「とげは抜けた!きもちいだろ!」と大声で1000回叫ぶデブがっぱです。 (同時に、きもがって走り去る人の後姿を見て、「貴方の足が速いのは、私が貴方のとげを抜いたからだ」と自己陶酔に陥るアスペルガー患者でもある。) あれは違うコレは違うじゃあ何、答は「聖書の行間(聖書ですらない)」 「恥ずかしくても質問する人がえらい人」 といいながら、サイバーハラスメントを繰り返す 利己主義者(社会) 教条主義者(宗教=独善) チンピラボスザル(発展段階の幼児ギャング) のことです、ひらに。 (NewGenerationの手下は、某チャンネルから出張してくるcoolなちびザル君たち) (質問者⇔偉い人この命題は、羞恥心を含まないか、羞恥心を仮定として受け入れるかのどちらかです。) ようく考えてください。 「間違った答えも ともに出し合い言い合おう」 恥ずかしいと言う心がない人が、他人を行動させる為にいっている「命令のないよう」です。 自分が絶対正しいと言う人に関して言えば、 自分は間違った答を出すことはないのですから…うそではありません。 結局 間違いをチェックして支配しようとしているだけです。 右左は関係ないと思います。 「他人を守っていくと言う姿勢のない」年長者(左右中道に限らず) 単なる思春期前小学低学年由来のの権威主義(コレは発達障害)です。 原因は、小学校・家族で激しいハラスメントを受けていたということか、さもなくば、 小学校(もしくは親が)がなかったということです。 でも、いま サイバーハラスメントは、犯罪です。 あらそわないで…観察しましょう。無視しましょう。 (本当は『罰』があるべきなのですが… ちなみに、孤独は『罰』ではありません。 その当該の患者が除かれた社会の、その社会の為の自然治癒です。)
その他の回答 (23)
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
No.6です。 >自分を優秀だから従えという人に限って間違えを犯しやすいものです。 えっとですね、プラトンだったかな。国家を書いた人。 彼の意見は、イデア界を知りうる人の言う通りにしていれば、イデア界を知りえない人も間違いを犯さなくなる って考えだった。 つまり 要するに北朝鮮のように一部の知識人が国をリードしていくべきって考え。 今は日本は民主主義社会ですよね。 自由を履き違えている。 結果 どういうことが起ったかというと、先生は子供の顔色ばかり気にして注意をしない。 子供におもしろくない先生だという評価をもらわないように こびへつらい、ダメなことをちゃんとダメだと言えない。 そんな子供はより自由を求め、我慢をしなくなる。 大人は子供を恐れ、子供はそんな大人に敬意を示すどころか馬鹿にするようになる。 いや なった。 自由が過度になったので、こうなったわけです。 アメリカは陪審員制度が前からありましたよね。 なんでも裁判を起こす。 マックのコーヒー事件は有名ですよね。 マックのコーヒーが熱くてやけどをしたから、って裁判を起こして何億とふんだくった。 これを皮切りに、バスが事故を起こしたら、みんな一斉にバスに乗り込み、痛い痛いと言って、バス会社に賠償金を払わせ、バス会社は倒産。 その町にバスは走ってない。 自分の首を絞めているのに、今さえ快楽であればいいという裁判社会の実態。 アメリカの理性を狂わせ狂人たちばかりにしたのは、この陪審員制度のせいだと思うんですね。 もちろんやり手の弁護士が、メロドラマにはまる一般人の陪審員に対して演技して、いかに原告が被害を蒙ったか涙ながらに訴えることをするので、陪審員は弁護士に心理操作にはまり票を投じるわけです。 原告と被告の弁護士が、お互いオペラのような演技をするのを観客席で鑑賞して、どっちの劇がすごかったかで票を入れる。 これが陪審員制度の判決。 日本もこうなる。 >実は最近、身近な人から自分を馬鹿という人に5割ぐらいの人が嫌悪感を覚えているのではないかと聞き考えていたところなのです。 ん? よくわからないのですが、破産宣告をして返済の義務を免れた人はいいなってことですか? 最初から返済するつもりはなくて、競馬や競輪やパチンコで使って破産宣告する奴は利口だってことですか? いえ 使用が娯楽の場合、破産宣告の申し立てをしても通りません。 破産宣告すると、選挙権とかいろいろのちのち不都合なことになるんですよ。 ローンが組めないし、履歴に残るので、信用による成り立つ取引ができなくなる。 禁治産者扱なので、就職先は調べないでしょうけど、普通の人ではないと企業にわかった場合、責任あるポストは与えられない。 計画をする能力がないので障害者なんです。 そんなことはない? 普通に会話できるのでとても障害者には見えない? ええ、でも障害者なんです。 だから、後見人がついているわけです。 で、障害を持つ人から健常者が「馬鹿だ」て言われたとしても、しょうがないじゃないですか。 健常者に唾吐きかける障害者とか殴る障害者とかいっぱいいますが、泣き寝入りするしかない。 自分の行動に対する責任能力が無いから。 その人の言動に対して、本人に責任能力が無いので、他の人を「真面目に働く馬鹿」って言えるわけでしょ? その能力が無い人に「自分の発言に対して責任を取れ」って言っても、取れないですよ。 取れないから、快楽の求めるまま無秩序な人生にならざるを得なかったわけです。 彼らを同じ健常者だと思ってしまうと、怒りが起りますが、能力の無い人たちだとわかれば、そう腹も立たないでしょ? すっぽんぽんで通りで「ばーかばーかばーか」って周りの人を指差し笑う人に対して、悲しみを感情を抱くでしょ? 哀れみを持つでしょ? 自分がいかに幸福であるかわかるでしょ?
お礼
ありがとうございます。また、極端な事を、、、、。 自由とは何なのかまず考えてみましょう。ルールとは、規制とは、そうです。本来は自由のためのルールや規制なのです。これを忘れてはいけません。先生が子供に迎合しているのも主体的にそうしているのです。自由のせいでなったというのは本末転倒です。先生には子供と対峙する自由があるのです。自分の理念を堂々と示す権利はもとよりあるのです。今の時代でも新卒の先生は目がキラキラしています。大きな理想を抱えているのです。しかし、そういう人たちを短期的な目でしか見ずにプレゼンテーション能力がないなどという理由だけで、短絡的にすぐ悪評価するからいけないのです。世の中の焦燥感が人を育てられなくなっているのです。悲しくなります。自由のせいではありませんよ。そういう人には負けてほしくないのです。迎合してはおしまいです。何故ならそれは社会を軽蔑していることに他ならないからです。迎合と軽蔑は表裏一体なのです。対峙してこそ尊敬や信頼につながるのです。よっぽど建設的なのです。烏合の衆などとクールに見くびっているより、他山の石と見ませんか?もっと建設的に熱くなってもいいのですよ。悟る?って何ですか?そんなものはあらがうことにあらがっているだけです。素直に抗いましょう。ニーチェなどばかりを信仰してはよくありません。
補足
子供の教育は確かに難しいものです。一様に何が正しいとは言えないところがあります。しかし基本的には自主性を育てることが大切だと思います。自主的にルールを守ることの大切さを覚えずに、管理して押しつけて従わせてばかりいては、本当の意味での主体性を阻害してしまいまい、いつか、その子は生きる方向性を見失ってしまいます。その子の人生はその子のものなのです。それを忘れてはいけないのです。 陪審員制度と日本の裁判員制度については言及をひかえましょう。実は、ある程度おっしゃることと同じ考えなのですが、もう少し勉強した方が良さそうなので。アメリカの司法は特に民事は破たんしています。弁護士は金の亡者の代名詞になっています。しかし、日本がそうなると決めつけてもよくないので。 破産宣告のくだり、安易にそういう例をだした私が悪いのですが、どうも危険です、その思想。偏見の匂いがぷんぷんしてくる。障害者の人を十ぱひとからげにしていますね。精一杯生きているのだと思えませんか。憐れみを持って幸福感を知るんですか?なんて傲慢なのでしょう。人の不幸は蜜の味とでも言いたいのでしょうか。自分が主体的に幸せだからしあわせなのです。比べるものではありません。 誰でも他山の石なのです、烏合の衆などではありませんよ。
- ap10
- ベストアンサー率33% (453/1356)
>職場などでは自分で調べる労働時間のコストよりも、聞ける人に聞いて作業効率を上げ >て利益を追求したいという立場もありそうです。 確かにあります 企業等であれば、それこそ質問されるような事はパターン化されているので、過去事例を調べるのは必須 これが入社したててで、本当に何も判らない場合にはご質問者様が主張する立場も取る場合があります 状況によって答えは変化します 状況を限定するのであれば、最初からそれを明示しておいて貰えると助かります 今回は一般的な話だろうと思いましたので、No5のような優しい回答をしました 企業というのであれば、少々変化し、それこそ作業効率を上げるために自分で調べてからじゃなきゃ質問するな、という厳しめな回答になります この回答も企業の種類やタイプにもよるとは思いますけどね 少なくとも自分の経験上、調べずに直ぐに周りに質問する事は、企業にとって作業効率を下げる行為だと認識してます 正確には一番最初に調べ方のみを教えてもらい、そこの情報のみでかなりの割合が対応可能なので、それを越えるようなケースは質問してね・・・ってのがパターンです 恥を恐れて質問しないはバカでしょう ただし、質問して良い内容かどうかを判断せずに直ぐに質問する人は、職場にとっては迷惑至極 判らないのに質問を全くしない人よりかはマシですが、十分迷惑なタイプですよ
お礼
建設的なご意見ありがとうございます。実は最近どうも若い人がお行儀が良くて、素直なのが気になっていてこんな質問をしてみたのです。 世論を当然の権利だと思えない 社会にあらがうことをさける 自分の精神を磨くことは必要だと思いますが、世の中こうも、坊主や牧師ばかり増えても良くないと思うのです。未来の社会を切り開いていくのは若い人の力なのです。たぶん、自己責任などという言葉で洗脳されたのでしょう。しかし、社会のせいじゃない自分の責任だなどと悟られても困るのは社会なのです。もっと自分をさらけ出して社会と戦ってほしいのです。ある意味賢くなりすぎているのです。そういう社会にも問題はあるかもしれませんが、しかしそれは今に始まったことではなく昔からです。何が本当の原因なのでしょうか?わからないのです。
補足
処世術などが、何を生産するのか?必要ないとはいいません。 しかし、考えても見てください。潤滑油ばかりべとべとに注いで、 摩擦をゼロに近づけたら空回りするだけで、何も動きませんよ。
仰ること(恩師の言葉?)は心理→真理?だと思います。 私的には、真理ではあろうけれど、時代錯誤的な感もあるというのが正直なところです。 今の教育現場を見たことはありませんが、TVで見るような若者のパホー万スを見ていると >間違えたっていい、間違うことを恐れちゃいけない こんなことはごく当然、という風潮のように思えます。 >間違うことを笑っちゃいけない 笑われたって彼らは平気でしょう。むしろそれでプロになっている「タレント」群が居るくらいです(笑)。 このご質問が若者へのエールでなく、昭和生まれの人間に対するものなら多少は的を得たものかもです。 でも、(多分詔話生まれの)モンスターペアレントって、間違うことをてんで恐れないし、大体恥というものを知らないのが特色ですよね。 要は、恥を恐れるなという謹言は今やローカルな言葉になっているということだと思います。 歳を食えば恥も多くなるとは兼行法師の言葉ですが、私にはひしひしと実感される言葉です。 ネットをうまく使ったら、大抵の疑問はそこそこ解決しますよね。そこからが勝負だ、という考えもあると思いますし、 質問者様の思いや考えは貴重だと思います。 がんばってください。
お礼
ありがとうございます。 ごく当然の風潮ですか。それは、本当でしょうか。 私は、閉鎖感を未だ感じていますが。 No.6様に回答した様に、このパラドックスを打破することがとても大事だと思っているのです。 情報化社会であらゆる情報があるからと言ってそれをうのみにするだけで、それが本当に理解することと言えるのでしょうか。
補足
そういえば、今ちょっと思いつきなんですけど、 ソースコードも公開しているかなり優秀なフリープログラムなどは、かなり社会に貢献していると思います。皆にただであげちゃうけど、間違えてるかも知れないからわかったら教えてね。っていうスタンスです。関心してしまいます。
ご質問のキーとなる言葉は、「小学校の恩師」という言葉。 I>「賢い老人はどう賢いのか?」 恩を感じているのは大いによいことですが… 論理的には 「サンタさんは存在する」の世界です。 馬鹿にしてるだけだったのかもしれません。 その先生がどうだったかは、わかりませんが、ふつう 児童のやらかした失敗は、「これでもか」と言うほどメモられています。小学生の話です。 また、『モンスターペアレンツ所有』の「ブランド(焼印の本来的意味です)」キッズ達にこんなことを教えると、大変なことになりますよ。ちくられて「プチ暴動」がおこります。 お願いします。「リアリズム」を忘れてはいけません。 見逃していけないことは この先生も実は「自分の縁者」に関して言えば、そういう教育は全くもって していないと云う「動かしようのない事実」です。 (付記:どうでもいいけど知っている範囲でいえば、教育関係者の子息たちは、モンスターが多いようです。) もしかすると質問者様は、団塊世代・団塊ジュニア(結婚相手だったりして…)にだまされているのかもしれません。この世代は、「弱きを助け強きをくじくべきだ」とゴニョゴニョいいながら長いものには巻かれ、強者には卑屈にとりいり、弱者には威圧的に振舞う人たちなんですよ。 で自分は「健常者」の癖に日常「介護されて」います。自分のことが自分で出来ない。 コレも変な話ですが、弱者擁護の「べき論」を騙るものに限って、家族の中で弱いものを助けていると言うことは、絶対無い。自分より弱いものにもっと弱いものを助けさせてそれを眺めてます。「主観的しあわせ」におぼれながら、「お客さん」として「夢(ヘンな家ゲー)」をみています。 根性のねじれた人たちです。 「弱いものを守れ」と言っている人間は、通常この言葉を免罪符として使っています。差別意識が強い人たちなので、弁護をしたら仲間にしてくれるとおもってます。(残念ながら、コレまで、この「口先のごまかし」が通じてきたともいえるかもしれません…だからここまで社会が壊れてしまいました…学校どころか「家族が壊れている」と言うことです。「個人が壊れている」と言うことです。) ここまでくると価値の問題でも道徳の問題でもない。被害を最小限に食い止めること被害修復が危急のテーマです。 II>「弱い者たち=恥を知る人たちが救われないのはなぜ?」 結論を述べると 「いうのはただ」と言うコンセプトに隠れている「差別者の醜態」を見抜く洞察力が必要とされているのです。 ようく考えると「リップサービス」と「資金援助」は、はっきり区別されているのが現状でしょう? 兵士でもないのにやたら大東亜戦争の話をする。「戦争のかけら」を子供の目で見ていただけの人たちなんですよ。「俺達がやったら勝ってる」と勘違いをしている「輩(ヤカラ)」。 客観的には「日本人に戦いを挑む裏切り者」たち… きゃうの晩ごんは何かな?としか考えていない人。食べるのは自分だけだから当然最後に箸を上げる。作るのは他人。縁者は目を伏せて視線が合わないようにしています。縁者が走って逃げるのはなぜか考えもしない。ひがみの認知です。 夢は、薄っぺらい「アメリカ財産」。最悪の場合、その子+孫たちは、アメリカ海兵隊のシュミレーションで(チンピラ思考の頭だけ)大きくなります。 いまの世は、煽動するものと扇動されるものの戦いです。(だからといって他者の扇動は、いただけませんが…) 精神がぼろぼろの相手に勝つ必要は、ないが 痴漢防止策はとらなければならないと言うことです。 べたべた触ってくるやつは、キもい笑顔を浮かべながら、「触られる者の為だ」というスーパー勘違いの議論を吹っかけてきます。 いずれにしても、 「年金」の意味をよく考えるべきです。社会に毒だから引き下がってくださいと言うことで年金をもらっているのにまだ何か口出ししたい。基本的にじじいです。この文脈でおばあさんはほとんどいません。(年金の給付差額もひどいけど…逆に毒性を数字で測ることが出来るかも) 今社会で活動しているものたちは、「動的な厳しい社会」に順応していかなければならない。経済原理で行けば、労働力は、希少価値では、なくなっている。コレからどんどん安くなって行くのです。また若奥さまが果たすべき役割は、殺人的です。自分以外はみんな子供? 一方、アジア全体で見ると「唯物論者たち」の「一人っ子政策」を直接的理由として女性の価値は相対的に上がっています。 女性としてズに乗る必要はありませんが、日本女性は世界で引っ張りだこです。日本に縛られるつもりがないなら可能性はたくさんありますよ。(一方、セレブはいつの世も国際的です。中国人はげ親父はいやだけど…) 子供に価値ある知識を譲り分け、「子供自体を強くしていく」ことだけが、解決策です。(このことがはっきり分かっているグループと言うのも、もうお分かりだと存じあげます。) メディアの「プロパガンダ」は、生き生きとゲートボールを楽しむ「笑顔の老人」ですが、本当に弱い立場の「恥を熟知している」老人たちは、自宅に隠れて泣いていますよ。 (誰が誰の世話をしているのかな?ヒント=隠れている人たちが「多数派」です。) 現実的に敬老の論理を持ち出すのは、タダの目立ちたがり屋です。実際にこの職種に直接携わっている方々は、寡黙です。 老人介護士がが寝たきりガタガタ老人を介護する日が来ています。 達観するべきです。自分が介護士として機能することなど夢にも思わない「いまのおじじ」たち。「全部、女ヘルパーがやればいい」とおもってます。他人のウンこを触ったこともない人なんですよ… この人たちにとって老女に自由はありません。 「老人を大事にしようという老人(おじじ)」 「謙虚はいいこと」と宣伝しながらむさぼる唯物論者 「弱いものを大事にしましょうという成金」 「間違いを認めるのは、賢い人」と大音声を発しながら、小さな声で「自分は馬鹿だから」と主張し、手のひらを返したように「傲慢ブり」を発揮、自分の間違いは「絶対」認めない「おいぼれ」。 恥のない人たちは、結束しています。我々の恥を利用してつけ込んでくる。口車に乗せるのがうまいのです。 heartmindさん気をつけてください。こいつらが他人から略奪するときは集団でやってきます。獲物を獲得したらその後は「だましあい・いがみあい」に専念する。注意するべきことは、まず、「自分が盗み取られない」と言うことです。
お礼
ありがとうございます。 何とこたえてよいのやら、すみません。ちょっと頭がついていっていません。もう一度考えてみます。
補足
すいません。遅くなってしまいました。たぶん団塊アレルギーなのですね。かなりの偏見が感じられます。確かに彼らは回答者様の様にクールではありません。その為、独りよがりでもあり、ある意味、迷惑な面もあるでしょう。しかし、バリエーションはもう少しあります。エリートの矛盾だらけの少し疲れた左派、赤という言葉を毛嫌いするほどの保守(この部分が大多数なのが現状です。ご近所づき合いで選挙のお手伝いをします)、高学歴でありながら小さな町工場で修理工を生業とする自己批判を徹底した一流の左派(プロフェッショナルなミイラ取りはミイラになるものです。イワンの馬鹿に本気でなるプロです)、団塊は「べき論」を騙りますが、決して弱者擁護の人ばかりではありません。買いかぶっています。左派アレルギーが大多数です。その人達が管理教育という悪魔の所業の張本人なのです。校門圧死事件、戸塚ヨットスクールまたそこにアレルギーでゆとり教育なのです。ふりまわされた人はたまったものではありません。「口先のごまかし」をする人はふらふらした右派が多いのです。超右派の経営者などは差別意識はなはだしくて手に負えまえん。 しかし私はあえてこの人たちに敬意をはらいましょう。いいですか、敬意をはらうことは迎合することではありません。迎合と軽蔑は紙一重なのですよ。対峙することこそが本当の意味での敬意なのです、そこから本当の信頼感が生まれるのです。ウンコを触ったらどうですか?と言いましょう。それこそが敬老なのです。エネルギーだけはある彼らはそれを待っているのですよ。そう信じましょう。達観してはダメなのです。リアリズム?日本の若者がそんな坊主や牧師の様なことを言っていては税収あがったりです(そうなのです。超保守はこうして自分の首を絞めたのです)世論は国民の権利であり義務でもあるのですよ。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
間違えたっていい 間違うことを恐れちゃいけない 間違うことを笑っちゃいけない 間違った意見も 間違った答えも ともに出し合い言い合おう そしてみんなで伸びていこう >>皆さんはどう思ってらっしゃいますか? 教育的にはいいのですが、社会では、 間違うことを恐れちゃいけない。 しかし、間違いと気付いたならすぐ修正しなさい。「朝令暮改」 が基本ですね。 総理大臣が間違うと国民全部が不幸になりますし、社長が間違うと社員が路頭に迷うことになりますからね。
お礼
ありがとうございます。 総理大臣の間違いは、歴史上繰り返されてきました。社長の間違いも、時代の流れで正解が間違いに変化してしまうこともあります。
- sakusya
- ベストアンサー率18% (6/33)
その考え方でいいと思います。ただ……恥をかくことは恥ずかしいことではないのは確かですが、“恥ずかしいと思わなくていい”とは話が別なのは覚えておいても損はないと思います。質問者様の小学校の頃の恩師が教えてくれた言葉の後ろに、「ただ、そこから学ばなければ恥だと思え」とつけている感じだと思ってください。 そういう点で、俺は“無恥”よりも“無知”を選択する人を消極的だとは思いますが、悪い選択だとは思っていません。「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」という諺も、“聞いたら知識をしっかりと吸収して忘れないこと”前提ですからね。忘れたり、理解していなくてもう一度聞くことを繰り返すのであれば、無知による一生の恥と大差ないですもん(笑)。 聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥……聞くと無知ではなくなり記憶に残りますが、その一時の恥も記憶に残ります(そう言う点では一生の恥といえるかもしれませんね)。聞かなければ無恥でいられますが、一生無知でいることになり恥ずかしい。どちらにしても恥ならば、自分にとってより恥ずかしくない方を選んで構わないっていう意味ですね。違いますけど(苦笑)。 まあ、安易に「聞く」という選択をするのではなく、自己消化できるものはしようということです。恥をかかずに知識を得られるのならそっちに越したことはないでしょう? その上で初めて「聞く」という選択肢が出てくるのではと思います。
お礼
ありがとうございます。 >理解していなくてもう一度聞くことを繰り返すのであれば >無知による一生の恥と大差ないですもん しかし、浅い理解で、理解しているつもりになっているもの良くないので、もう一度、どういうことなのか聞いてしまうこともありますね。 恥をかかずに知識を得られる方法を選択しすぎても、独りよがりの知識になってしまうこともあります。 しかし、安易に聞いてその人の時間をどろぼうして損失を与えては、いけません。
- rin00077
- ベストアンサー率21% (117/534)
恥ずかしい事とは、知識がないとか、教養がない、とかではなく、 人をバカにする、とか、人をいじめるとか、弱者に対して威圧的な 態度をとる、とかだと思います。 人の不幸を笑う人間にだけはなるな。 と、お父さんが息子に言い聞かせる話がありましたが、これも すごく恥ずかしい行為であるため、お父さんが教えたのでしょう。
お礼
ありがとうございます。 確かにこういう人は、恥ずかしいとしか他に言いようがありません。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
だいたい 決まるものも人が増えると決まらなくなるもんなんです。 ともに出し合うと、決まるはずのものが決裂する。 伸びていくどころか、改悪になる。 ってのが私の体験した思ったことです。 国会みてもそうじゃないですか。 馬鹿みたいな法律を通して、国民がその害をもろに蒙っている。 議員は話し合ったと満足かもしれないが、そのために国民が被害を蒙っている。 多数決で国民の総意を国会で出しているわけだけど、なんというか、、、 裁判員制度ってあるじゃないですか。 1人の人が決めずに多数決で決める。 私は1人の優れた経験豊富な人が、1万人の裁判員全員のオツムよりマシだと思うんですね。 ゆえに、1人の優秀な人が、人の意見を聞いて決定はその人がやればいいと思っています。 優秀な人材が1人もいない集団はどうすればいいか? ずっと話し合っているんじゃないですか。 優秀な人がいないので、決まらないので、ぐだぐだ あーでもない こーでもないと 烏合の衆、 国会みたいなもの。
お礼
ありがとうございます。この辺から少し革新に入ってきましたね。 文字道理パラドックスの匂いがします。 実は最近、身近な人から自分を馬鹿という人に5割ぐらいの人が嫌悪感を覚えているのではないかと聞き考えていたところなのです。 良く良く聞いてみると、破産宣告して得している雰囲気がしているというのです。 つまり、 質問する→問うて学ぶ→楽して席次進めてる→カンニング→不法行為→著作権法違反→ダメじゃん こんなイメージなのではと、 じゃあ辞書ひくのも?日本語ただで使っていいの? ここまでいくと極論だけど、 ちょっとこれ解決することは経済成長のキーワード?
補足
>私は1人の優れた経験豊富な人が、1万人の裁判員全員のオツム >よりマシだと思うんですね。 >ゆえに、1人の優秀な人が、人の意見を聞いて決定はその人が >やればいいと思っています。 船頭多くして船進まずとは言いますが、これ、ちょっと危険な考え方ですね。 私は個人的には裁判員制度には受け入れがたいものを感じていますが、 自分を優秀だから従えという人に限って間違えを犯しやすいものです。 裁判員制度が施行されたのは、日本の裁判官に私利私欲がない本当の意味での賢者の良心につけこんで作られた制度の様な気がします。 しかし、本当に頭のいい人は、確信犯のように間違えをあえて犯して、自分の利益をちゃっかり計算している気がします。 正義感が強い政治家は頭のいい官僚に利用されているのです。
- ap10
- ベストアンサー率33% (453/1356)
そのような考え方でいいと思いますよ ただし、これだけの情報化社会 ご質問されたい内容は、既に他の方が質問されて、ネット上にその答えが載っている場合が多々あります 恥を恐れずご質問される事は良い事ですが、その前に必ず自分で調べるという作業を忘れない方がいいです
お礼
ありがとうございます。 しかし、職場などでは自分で調べる労働時間のコストよりも、聞ける人に聞いて作業効率を上げて利益を追求したいという立場もありそうです。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 いぢわるな答え方をします。 哲学思想という主題が特殊なのです。 自分を全部出さないことには 話にならないと来ています。人格の全体が この主題と対応しています。 あるいは 過去に恥ぢをかいてまなんだことを話すわけですから。しかもそれでもまだ知恵や知識の内容が物足りなかったという事態に遭わないとも限りません。つまりは まだ恥ぢをかき足りなかったという事態に遭遇するのがつねです。 それに対処するには 初めっから わたしはばか丸出しですとことわるほかにありません。 それがいやであれば 哲学はやめるほかないと思います。 でも恥づかしいという感覚は つねにあるのですよ。
お礼
ありがとうございます。 恥をかく感覚が哲学ですか。そうかもしれません。
お礼
よっぽど、どうしようか悩んだのですが、とても深刻なものを感じましたので、一言だけいいでしょうか、、、。 そもそも、介護職や臨床心理士などの職業を目指すような方は、それまでも、自らのいろいろな経験の中で大変苦労されている方が多いように見受けられます。その御苦労から、正義感にかられて就く方も多いようです。しかし、その正義感には非常に屈折したものがあり、自信の苦労やその近親者の苦労を経験している為、なんとか改善させたいという思いが先に立ってしまい、なかなかその被介護者や患者との壁をのりこえられない現状があるのだと見受けられます。 そして、さらに、又、御苦労を重ねられて疲れ果ててしまい、心的外傷を負うほどのストレスを抱えている人も少なくないようです。 本来は、被介護者や患者の側に立ってという姿勢が望ましいのでしょうが、経験が人間を形成しているのですから、それを望むのは、難しいことかと思います。 もし、自覚があるのならば、まず、それを克服するのが先決かと思われますが、 そうでないのなら、心理士は’のれんにうでおし’くらいの対応に徹するとか、介護職の場合は、一回、はなれて、別の仕事についてみるとか とにかく、無理をしないことが、それ以上こじらせないひけつかと思うのですがどうでしょう? まだ、二人ともお若いながら、御苦労がその年齢以上に抱えきれないほどのものがあるように思いましたので、ご意見させてもらいました。 いろいろありましたが、運営者様もお困りでしょうし、私も建設的なご意見をもらった恩もありますので、エールをこめてポイントつけて、締め切らせてもらいます。 ご検討をいのります。