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心の哲学:心の哲学的説明と科学的説明の違い
心について科学哲学の立場で勉強していますが、壁にぶつかってしまいました。 それは、心について、哲学の立場で説明することと、科学の立場で説明することの違いが判らなくなってきたのです。 哲学では、心に関する「概念」を論理分析していくことだ。科学では、「仮定」と「実験」で理論を実証していくことだ。との説明がありました。しかしながら、哲学での「概念」は当然のこととして科学理論をも踏まえたものであります。 そうすると、哲学の概念の中にも科学理論が内包されているわけで、そのような概念とは、科学理論とどのような違いがあるのだろうか、という疑問に突き当たってしまったわけです。 これは、哲学するとはどのように思考展開していくのかという疑問にも通じることです。アドバイスと参考文献の紹介をお願いします。
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けっこう固まってきました。「内部観測」に関して、自分の理解にまだまだ修正の余地があることを自覚していますが、自分が知る領域に引き付けてある程度把握できた気がします。 ここでも回答されているmotsuanさんの質問「人間にとって物語とは何なのでしょう?」(下記URL参照)への私の回答No.8で書いたのですが、「ガダマーの解釈学」。これで途中までは行けそうです。それをここに再掲(コピペ)するのはいくら何でも暴虐ですので、そちらはそちらで軽く目を通していただくとして、ここでは簡単にかいつまんで書きます。 ガダマーは、ある文章(特に古典)が内包している「意味」を客観的に読み取ることは不可能だと断じています。というのは、文中のある単語の意味はそれが置かれた文脈に規定され、その文脈もまた文章全体の中で位置付けられて意味を持ち、さらにはその文章そのものが、それが書かれた社会や時代背景という大きな「文脈」の中で意味を持つものだからです。「客観的に」読み取ろうというのであれば、それらすべてが「客観的に」把握されていなければなりません。ところが、逆に見ると、文脈は単語から形成され、文章全体は文脈から形成され、社会や時代背景はその文章を含む雑多な文物から形成されています。つまりここには「どうどう巡り」が生じてしまう。単語と文脈、文脈と文章、文章と社会は、互いに他方に依拠して支えあっている。…どちらか一方が「客観的に」固定されていれば、他方も客観的に固定できる見込みも立つのですが、それは事実上不可能です。したがって、ガダマーは「文章の客観的読解は不可能だ」とするのです。 このあたりの問題の枠組みは、内部観測論の「内部観察者」と「観察対象」との関係にきわめて近いものがあると感じました。完結した系を外部から観察する「外部観察者」とちがって、内部観察者は完結していない(開放系の)系の中で、対象を同定する「文脈」、その文脈を規定する文脈、その文脈を…という無限遡行を強いられるのです。ここでも「客観性」というものは、素朴な自然科学が前提する「カルテジアン・カット」のように簡単には得られません。 さてしかし、ここでガダマー先生には「脱臼」していただかなくてはなりません。百歳を越える御高齢なのですが…。 というのは、やはり問題が「人の心」となりますと、ガダマーがテクストを相手に構想した解釈学とはまた別の問題が生じるからです。 ガダマーが相手にしたのは、あくまでも「古典」でした。現代のわれわれと、過去との間の「文脈」の差異、これがあるがゆえに「問いと答えの弁証法」が生じ、テクストと読者の双方を巻き込んだ運動となり、その中で「地平」が融合していきます。その運動全体こそが「真理」であると彼は述べています。そこでの「真理」は、それが掴まれてしまえば運動が終結するというような「客観的な」ゴールではありません。無限の、開放系の弁証法です。 前の書き込みでも述べましたように、人間および社会を相手とした知は「開放系の知」であらざるをえません。ガダマー解釈学も開放系の知にはちがいないのですが、それでも既に完結した「テクスト」、および既に完結した「過去」を相手にしています。これに対し、私たちが考えようとしている「心」は、現在のものを当然含みます。したがってなおのこと「完結していないもの」と言えましょう。テクスト以上に。 この点に注目しますと、例えば「人間とは何か」という設問は次のように分解できます。すなわち、 「人間は何であったか」(過去への視線) 「人間は何でありうるか」(未来への視線) です。 前者については、一定の時間の区切りさえつければ、何とか答えが得られる可能性があります。ところが後者に関しては、やはり未来というものの本質的原理的予測不可能性ゆえに決して解答は得られません。また、過去は常に「現在」が積み重なっていくことで膨大に膨れ上がっていきます。そのことを考えると「過去」を片付けるのも容易ではありません。 同様のことが「心とは何か」という問いに関しても言えるでしょう。この問いもまた、 「心とは何であったか」 「心とは何でありうるか」 という二つの問いに分けられます。以前予告申し上げていた「文学っぽいアプローチ」というのは、実はこの前者の問いに関わるものでした。「心の真実の姿を覆い隠しているかもしれない《近代の神話》」を剥ぎ落とすために、過去のさまざまな時代、さまざまな地域との間に「問いと答えの弁証法」を経験することを通じて「心」というものを見ていく…そういうようなことでした。 でもやはり、それだけでは話は済まない。…と、こう来ますと、satonohukurouさんの問題意識である「幻影肢」からはガンガン話が飛びまくるわけですが、本質的に予測不可能が未来が絡む以上は、少なくとも「心の可能態」に関して説明するところまでは行っていないと「心の哲学」として充分なものにはならないのではないかと考えます。これ、ものすごいことですので、もちろんsatonohukurouさん独りでやれってことじゃないです。関連学界全体でそっちもやんなきゃいけないのではないかと。 「心の可能的なあり方」だと、まずは「脳」。心を担う物質的基盤として。心的内容を納める器として。 そして「心理学」。…以前の書き込みをお読みいただいてお分かりと思いますが、私は過去、および現行の心理学にはあまり厚い信頼は寄せていません。一定の有効性はあるでしょうが、いつでも「エセ科学」に堕しうる。少なくとも思索の素材を提供する学、そしてできれば、素朴実在論的実証主義を乗り越えた学となってくれれば…と願います。 でもって「哲学」。人間および世界を捉えようと試みる知としての。 要するに物質的基盤から観念に至るまでの多層的なレベルのどこかに還元するのではない、その全体が絡み合った複雑系として「心」を眺めてみる必要があるのではないかと思うのです。それができるのは「科」に分化した「学」たる「科学」ではなく、哲学でしょう。 幸いなことに、前の書き込みでも紹介しましたように、カオス論などへの注目あたりから、科学の側から人文諸学への歩み寄りが始まっております。「カオス」というのは、解釈の対象たる「自然」の側から人間に突きつけられた「否」であろうと思うのです。「問いと答えの弁証法」を稼動させるところの「否」。それに科学はようやく耳を傾け始めた。ですが哲学を初めとする人文諸科学は、太古の昔から一意に還元できない人間的諸現象を宿命的に、当たり前に相手にしてまいりました。この点からして、「歩み寄り」は「科学の側からの」歩み寄りです。人文諸学の側からではなく。 ここから、「哲学の見方」と「科学の見方」という両者の区別には神経質になりすぎることもないかな、とも思えたりするわけです(哲学と科学を截然と区別すると、哲学もまた仕切りの中に囲われた「科-学」の一つに成り下がることにもなりますし)。ただ、「科学」が示すことどもを盲目的・無批判に受け容れるのではなく、その知の成立基盤を問い、疑い、検証しつつ取り込む…そういうことでよいのではないかと考えます。 何やら話が拡散して、ご研究には直接役立つ範囲を逸脱しているのではないかと恐れますが…いかがでしょう。
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- serpent-owl
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halkaさま No.63を拝読した上で用意した書き込みもありましたが、破棄しました。なに、今までの繰り返しです。大したことは書いてません。No.65を読みまして、あなたが好きになりましたよ。ね、へびくん? 「ほっほぉ~い! へびくんね! はるかおねいちゃん、だいすきだよっ!」 …とのことです。 全汎化問題はそのうちやりましょう。 それと、思い出したことが一つ。これはsatonohukurouさま宛てです。 「心」に関係するもので私が回答したものに、心理学カテゴリーの質問「人の心には鬼が棲んでいますか」があります。 最初は文学から入って、次にちょっとばかりジョルジュ・バタイユねたで、「人がキレる、鬼になる」ことについて一つの解釈を試みております。なんか…あそこでのみなさん、引いちゃったみたいで悲しかったのですが。もし参考になれば。
- halka
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>密接に関わるようですが、何よりも質問者のsatonohukurouさんが一定の納得に到達 >されたのであれば、そろそろ閉じ時ということでしょう。 気づきませんでした。提題者の斯様なお達しであれば然もありなんと思います。 fwappyさまは、わたくしめから討論のお誘いしてなんとなく、言葉尻の取り合いになっ た感じですがわたくしめの至らぬ所、おゆるしくださいませ。 実のところ,茂木様に代わってお答え頂けるならクオリアにおける主観と客観のなんらかの 差異につきいま少し知りたいというところが本音でした。 fwappyさまは茂木様とも違う独自の信念をお持ちのようですね。 いまのところ、剣の打ち合いのようなものでしたのであらためてfwappyさまのお考えを わたしなりに理解したいと考えます。 serpent-owlさま、ながいあいだ愚者の戯言にお付き合い頂きありがとうございました。 当初ここを閲覧して、あなたの優美な投稿を拝謁してなんという方だろうと感激したもの です。お相手して頂いてわかったことは私の今のままの表現方法では私の考えはうまく 伝わらないのだろうということです。あなたは哲学の現状の知識において偏りなく公正な 目を持って判断される方と思いました。 >残念ながら、この場でのあなたにはそれがあまり感じられなかった。 それにしてもわたくしもつい気負ってしまい、そうとうご不快の念を抱かれたようで 改めてお詫び致します。 しかしながら、もともと回答者同志の討論を許さぬところに特例を設けてしまったようです からこれはいままでのserpent-owlさまの実績があったからこそgooの管理者さまも 見逃さざるを得なかったのだろうと理解します。 satonohukurouさま、私が回答したことでかえって混乱したかもしれません。 私の考えはまだ偏狭のものと理解されてよいでしょう。私自身、結果が全てだとおもい ます。serpent-owlさまにはお相手してもらえませんでしたが、やはり「重大少年事件の 実証的研究」のような現実の事例に対して一定の回答を与える体系こそ心の理論たる 資格を持つと思います。ご健闘をお祈りします。 halka
お礼
長い間、貴重なご意見をいただきありがとうございました。 もっと早く、お礼を申し上げなければならなかったのですが、突然の不幸がありまして1週間ほど不在してしまいました。ご無礼をお許し下さい。 不在間に、議論はさらに発展しておりますのが、私の当初の質問事項は相当のレベルでご回答をいただけたと考えております。 そこで、とりあえずこのコーナーは、明日23時をもって締め切らせていただきます。 はるかお姉さまの、ご意見については、反論も多くありましたので、それらを含めて今後じっくりと勉強させていただきます。その後、あらためてお礼をさせていただきます。 そもそも質問者には、議論に対等に参加できるだけの技量がありません。あるのは疑問のみです。その意味では、質問者同士の議論はある程度は許される方が、回答の内容が深まるのではないかと考えておりました。はるかお姉さまとの他の質問者との議論は私にとっては貴重なものでした。孤軍奮闘の場面が多かったようですが、私のために戦っていただき、感謝申し上げます。ありがとうございました 他の質問コーナーでお会いできる日を楽しみにしております。 私好みの めそめそ女 さま
- serpent-owl
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satonohukurouさま、本当に毎回毎回丁寧なお礼ありがとうございます。この場の「妙な盛り上がり」に関して責任を感じておりますが、少しはお役に立てたようで嬉しく思います。また、すでに何度か触れましたように、ご質問をきっかけに私の方こそ大変有意義な勉強をさせていただきました。重ねてお礼申し上げます。 fwappyさんとhalkaさんの対論は継続中であり、「心の哲学的説明」という問題にもちろん密接に関わるようですが、何よりも質問者のsatonohukurouさんが一定の納得に到達されたのであれば、そろそろ閉じ時ということでしょう。(お二人は場所を変えて…そう、どちらかの方が質問を開設されるなどして、お話を続けられてはいかがでしょうか? そしたら、僕もまた参加させていただきますよ。) さて、そろそろ閉じ時ということで、halkaさんの立論について言及せねばなりません。私は「暫定的結論」として「心・命題同一説は無効である」と宣告いたしました。このことは、halkaさん好みの表現で言えば「かなり客観的に」言えると考えています。 がしかし、その一方で、この手の問題(とりわけネット上の討論)の「決着」というものは当事者(私自身を含む)が判断すべきことではなく、読者が決めることだとも考えています。よって、私自身が「結論」に付した「暫定的」という言葉を「最終的」という言葉に置き換えることはしません。(もちろん、質問者たるsatonohukurouさんの、この点についての「ご意見」があれば、嬉しいとは思いますが。) そして、期待の新人たるhalkaさんに対しては、遅まきながら「歓迎」の意を表しますとともに、僭越ながらアドヴァイスを少々。 すでにご存知のように、「質問者を通り越しての回答者同士の議論」というのは、本来ここでは遠慮してほしいという「管理部からのお願い」があります。私個人は、とりわけここ「哲学カテゴリー」など学にまつわるカテゴリーにおいては、「質問に答えを与えようと努力する」というその一点を外すことなく、かつ、質問者の同意と承認が得られているのであれば「議論」も許されてしかるべきと考えています。が、原則的には不可です。 ですから、halkaさんもTPOに応じて判断した上で節度ある議論をお楽しみいただければと願うのです。 それからもう一点。これは「学に臨む態度」に関してです。「誠実さ」が大事だと思います。自分の考えに間違いがある、限界があると判断したなら、率直にそれを認めた上で再出発をはかるという「誠実さ」です。残念ながら、この場でのあなたにはそれがあまり感じられなかった。先にも述べましたように、あなたは「有望な期待の新人」です。これからもここで活躍していただきたい。ただ……その「誠実さ」をお持ちにならない限りは、私があなたに尊敬の念や好意を抱くことはないでしょう。 少々厳しい言い方で、お気に障ったかもしれませんが、お聞き届け下されば幸いです。 P.S. それから、satonohukurouさま、ご存知ないかもしれませんので申し添えます。質問は締め切った後では「新たな回答」と「質問者による補足」は書けなくなりますが、「お礼」は後からでも書き加えることができます(ふつうにログインすれば)。 何しろ肥大化したスレッドです。あわてて「お礼」を書かずに、後でゆっくり味読しながらレスポンスされるのも一つの方法です。 P.S. おっと、halkaさんの投稿が…。とりあえずこれ載せちゃいます。読んだ上で必要があればコメントします。
お礼
不幸があったため急遽1週間不在してしまいました。 締め切りもしなかったため、放り出した形になってしまいました。 大変申し訳ありませんでした。 さらに議題は発展しているようですが、私としては、当初の目的は達成でましたので、これで締め切りたいと考えます。 oshieteの利用方法までアドバイスいただき、ありがとうございました。 もう一度ゆっくりと読みながら、あらためてお礼することにします。 それと、幻影肢の件については、あらためて質問させていただきます。 その際はよろしくお願いします。 ありがとうございました。
- halka
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serpent_owlさま >これをネタに解決策を議論するというのは「問題点のすり替え」ですってば。おぢちゃんはその手には乗りません。 あら、そのほうがおもしろいじゃありません。 satonohukurouさまがどう言う立場でご研究されているかわかりませんが、具体的に 哲学理論が役立つのかどうかを判定するにはもってこいだとおもいますよ。 ニュートンらの古典物理学だってそこから大砲の弾道とか具体的なところで役立つ 領域を見出すのは研究の励みになるというものです。 >前々回の書き込みではっきりと申し上げたはず。 > 「加害者少年たちが、自分を磨くか外界を変えようとするかの選択は何に由来するの>か、論理式のどこに表現されているのか」 > そして「質問4」については、 「外界を変えようとする具体的手段のちがいはどう >説明するのか、その手段の程度や修飾は論理式で解釈できるのか」 >…というのが問題点です。 ももも、しぶといのでございますね。菅原道真公の怨霊のようなお方・・・。 わたくし、随所に述べてきたつもりではございましたが、ではもういちど・・・。 「重大少年事件の実証的研究」にもありましたように単独で重大事件を起こした少年に 共通する特徴・前駆的な行動とは(2)-4自己イメージのワルさ、および(2)-5 ゆがんだ男性性へのあこがれに代表されています。 おじさまはa.自分を磨く b.外界を変えようとする のふたつをあげていらっしゃいますので かりに、第一原因を(1)-3思春期に大きな挫折を経験したタイプということにしましょう。 ここには「勉強や運動で活躍していたが挫折」といえばまあ受験に失敗したとか、自分也 にやっているのに成績が上がらなくなったでもいいです。 (VA∧PA)⊃VSのVS=0、ここで「自分はダメな人間だ」が設定されます。 Aは「自分は成績が良くみんなにあがめられる存在」とかで「自分はかくあらねばならぬ のに今の自分はそうでない」ゆえに「自分はダメな人間だ」になっているわけですね。 本来Aは希望とか欲求の対象であり「かくありたい」という命題ですが、親とか周りから ちやほやされていたものでAは「かくあるべし」当為に変化します。 たとえば「お菓子がほしい」というVAが設定されて、「ちょうだいちょうだい」おねだり しているうちは良いですが回りの皆がもらっているのに、自分だけもらえない状態が 出たとしたらどうなりますか?「わたしにお菓子をくれるべきだ」ないし「わたしだけもらえ ない、わたしはここにいるべきでない」のファイトオアフライト反応になるわけです。 ちやほやされてわがままなのは自分を立てて周りを困らせる、攻撃性の要素です。 当為は強くなると他者への命令、それに従わない他者には懲罰を与えると相場が きまります。かの少年は「自分はダメな人間だ」から「まわりは自分を引き立てるべきだ」 「それを怠っている世間は罰せられなければならない」そしてその手段としてのPA はゆがんだ男性性へのあこがれ、と変化していくわけですね。 それは自らが懲罰の実行者となるわけです。 VAの変化「自分は優秀でちやほやされたい」が希望の場合PAは比較的攻撃性をもた ないでしょう。それには自分を磨いて、まわりに自分の優秀さを認めさせれば良い,と いうかたちでPAを設定すればまあ問題は起きないといったところです。 いつか見返してやるとして一生懸命努力する。 自分自身を惨めなものとしておとしめてしまっては努力の意欲もうせるというものですが やたら自分は優秀だとして弱いところに攻撃を加えるというのはそう、第一次大戦後の ドイツに似てはいないでしょうか? これはVAの質の変化による意識の一般的特徴です。 お受験問題に付いて。 彼女の場合VA「地域社会に一定の地位を得ていたい」が、たぶん夫婦との会話もでき ない中で(事件後夫は愛情を示したがそれまでは任せきり)それはやはり希望から 自分への責任に変化したと考えられる。ここではVAはやはり当為に変化した。 彼女は幼児殺害を周到に行い死体を隠蔽するまで行っているので、この行為自体は かなり計画的・・・ということは、私が彼女を取り調べたわけではないので推測ですが PAを考えているうちに、その幼児がいなければ一定の目的を果たす,という明確な推論 が彼女の中では成立したと考えられます。おそらくはその幼児の親との関連で公表は されないけれど聞けば納得するような理屈が成り立っていたのでしょう。 PAは目的関数です。それが具体的に事実世界で果たされるのは「すっぱいブドウ」で やった、石を投げて当てる,とか棒で取るとか、てつだってもらうとか手段はさまざま。 実際に実行に移すことが出きるものがx1,x2・・・あるとする。 問題はどれを使っても良いけれど,目的PA=1を果たさねばならない。 やはり、精神的に生きるか死ぬかの切実なところでは倫理も超えてしまうことがあります。 彼女はPA=1をみたすxnを選択した。 まだ確信していませんがどうもこれは存在例化のサンプルに似てますねぇ。 ところで全称汎化はどうされたのでしょうか? あれ、けっこうまじでやりたいことなんです。経験命題が個別に確認されている段階 ではまだ全称汎化されていない状態ですからね。 > 「表現されていない」「説明できない、解釈できない」ではないのですか? まあ、くだらないとか意味をなさないとか言われるのでしょうけれど,落雷はいや! 道真公、ゆるされて。 >「それじゃ観察できる行動に注目しよう」ってことで行動主義になるんではないかと思うのですが。 ですから~、おじさまがホントっていってくだされば、はたして叔父さまがずっと狂言して いたとしても私目には愛を勝ち取ったということです。 あとになって、かげで「バカ」とかいわれてもわたしが感知しなければわたしは幸せ。 * > それと、「ガダマー解釈学におけるカオス論」って、要約として乱暴すぎます。おぢちゃん、困ってしまいます。 シンプルに命名するって悪いことではないでしょう? わたしはsatinohukurouさまのためにも必死になってあれこれ提示しているのですから 叔父さまは結局、自分のものは出さないで、わたしばっかり否定してるにとどまるとしたら ミネルバのふくろうのご親戚としては御名が泣くのではないでしょうか? >「論理法則」なんてものは、「心」の法則化できる、ほんの一片だけを救い出して組み >立てただけのものではないか、と。たぶんここが私とhalkaさんの対立点なんですよ。 私も駆け出しでございますから、まあ困難なことはわかっております。 しかしながら脳生理学の研究結果が「重大少年の実証的研究」にたいして関連事項とし て意味を持つとは考えられません。いずれにしてもそれら諸科学は価値命題を取りこめ ないのです。あらためてふくろうおじさまも価値命題についてお考えあそばせ。
- fwappy
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>>ではわたしが「誰にとっても薔薇はいいねぇ」といったら、如何ですか? >>「いや、俺は薔薇が嫌いだ。」と貴方はいうでしょう。 >>それは、わたしが間違ってるということですよ。 >あなたの価値判断がどこからきているかということでしょう。 >ヘロインは誰にとってもいけないものですが、 >それをやっている人は「いいねぇ」というでしょう。 もし、やっている人が「いいねぇ」というのなら、 その人にとってはいけないものではありますまい。 >あなたがいかなる根拠をもとに「誰にとっても薔薇はいいねぇ」 >といったかわかりませんが その場でわたしが嫌いだといっても, >あなたが間違っているということにはなりません。 では、あなたが間違っているのですか? もし、わたしのいうことが物理学に基づいているのならば、 あなたが薔薇を嫌うのは、物理学に反しているから、 あなたは間違っているというわけでしょうか?
- fwappy
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No.60の続きです。 >根拠がないということはfwappyさま自身、 >自分の考えに自信がないということを意味 >しているのですか? 自分が赤い薔薇を見ているときに、根拠を求めますか? >ご自分の思考には自信があって、他人の思考には >「おまえの思考は 根拠のないものだ」ということは >板面に他者の不安をあおっているだけです。 わたしはわたしが赤い薔薇を見ていることに自信をもてるが あなたが同じように赤い薔薇を見ていることに対して自信を もつことはできません。 まあ、あなたが「赤い薔薇を見ている」といったならば、 それを疑うほど猜疑心は強くないですが、それでも私自身の 体験ほど強く信じるわけではありません。 自分の主観的体験を絶対的な安心の基準としてみるならば、 他者が同じ体験をしていると信じることには明かに不安が あります。それを持たないことが良いことだと思う人も いるようですが、私はそこまで自己中心主義ではありません。 >>「哲学」とは、人の無意識的な本能に対する意識的な疑念だとわたしは思います。 >fwappyさまには「科学」も幻の巨塔なのですね。 いいえ、「科学」は私にとっては幻ではありませんよ。 他の方にとってもそうだと確信することはできませんが。 >でも、「無意識的な本能」とかを前提とされているようだから >フロイトとかの精神分析、 あるいはハルトマンの哲学を基礎として >独自の思想を展開されている? それはあまりに皮相的な解釈でしょう。 だいたい、わたしはそのハルトマンとかいう人を知りません。 第二次大戦のドイツの撃墜王にそんな名前の人がいたのは 知ってますが。
- fwappy
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>>光波の存在はどうやって確認するのでしょうか? >古典物理学から現在に至る量子力学のものを受け入れております。 なぜ、受け入れたと思いますか? それは我々が光を見、そしてそれにはなにがしかの原因があると 考えるからでしょう。しかしながら、そう考えることに根拠は ありますか? >fwappyさまの主張はいままで分類されていたものを両者は同じだ, >といって分類する意味をなくしてしまっているわけでしょう。 >そのように思考するメリット,そこからどんな結果がでてくるので >しょうか? 貴方にとって、「客観的真理」とは貴方自身のメリットのためだけに 存在しているというわけでしょうか?それこそまさに「独我論」でしょう。 それならば、独我論になんの不都合もありますまい。みながみな、独我論 を信じて生きていながら調和できる。実に素晴らしい。 >>しかし、もしかしたら、貴方のその体験自体が、夢の中の出来事かも >>しれませんよ。それでも貴方はそれが真といいますか? >その発言はあなたが客観世界を前提としてのものでしょう, >fwappyさまの自己矛盾と考えます。 いや、貴方が前提としないというのなら、それでよい。 わざわざ客観世界などといわなければそれでよいではないですか。 貴方こそ自分の考えで自分を縛っていますよ。 ところで、なぜ諦めてはいけないのでしょう。 誰に対して勝たなくてはいけないのでしょうか? 勝負する必要もなければ、挑戦する必要もない。 わたしがあるかぎり、それをただ楽しめばよい。 そうではありませんか?
- halka
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fwappyさま >光波の存在はどうやって確認するのでしょうか? 古典物理学から現在に至る量子力学のものを受け入れております。 光は波であり,かつ粒子でもある。 >なぜ、懸念する必要があるのでしょう? >全ては主観的言明です。しかしながら、世の中には・・・ >これに対して抱く信念が「客観的存在」です。 fwappyさまの主張はいままで分類されていたものを両者は同じだ,といって分類する意味を なくしてしまっているわけでしょう。そのように思考するメリット,そこからどんな結果がでて くるのでしょうか?再度引き合いに出しますが善悪のうち、善しかないとして悪はその不 完全形態というわけですね。ただ、行きつくところは独我論でしょう。 >>時空という議論領域に現れる他者の時空における対象の存在言明は >>共通であると思います。 >それは貴方個人がそう思っているだけでしょう。 それでもいいです。そのほうが不都合はありませんし、無矛盾性も維持できると考えます。 >>わたしが知覚できないとしたらその命題を真とは判定できません。 >もし、貴方が私の目の前に薔薇を見出せないと偽だというわけですか。 そのように処理し、そのように行動します。 >しかし、もしかしたら、貴方のその体験自体が、夢の中の出来事かも >しれませんよ。それでも貴方はそれが真といいますか? その発言はあなたが客観世界を前提としてのものでしょう,fwappyさまの自己矛盾と 考えます。 >>その種の命題を事実命題としてあなたとわたしは共通の判定ができると思います。 >できないでしょう。 それはあきらめという敗北主義です。ネバーギブアップ!! >もし、10人の人がいて、5人が薔薇が見えるといい、 >他の5人がなにも見えないといったら、どうします? 両者別の利害関連がまったくなく、視覚に頼る限りそのように主張していると判断された 場合、まずは両者の対象に対する視覚的位置とか、それを見る時間がおなじかとか、差異 の物理的原因を探ります。それでも原因が解消されない時は、それらグループの成員の 視覚器官の差異を分析するということになるでしょう。 >ではわたしが「誰にとっても薔薇はいいねぇ」といったら、如何ですか? >「いや、俺は薔薇が嫌いだ。」と貴方はいうでしょう。 >それは、わたしが間違ってるということですよ。 あなたの価値判断がどこからきているかということでしょう。ヘロインは誰にとってもいけ ないものですが、それをやっている人は「いいねぇ」というでしょう。 あなたがいかなる根拠をもとに「誰にとっても薔薇はいいねぇ」といったかわかりませんが その場でわたしが嫌いだといっても,あなたが間違っているということにはなりません。 >ええ、だから、全ては主観的体験なのだから、議論領域には差異がある可能性が常 >にあるといっているのですよ。貴方が自分自身の説を自分の都合で無視しているの >です。その都合とやらが、まったく根拠のないものだといっているのです。 根拠がないということはfwappyさま自身、自分の考えに自信がないということを意味 しているのですか?ご自分の思考には自信があって、他人の思考には「おまえの思考は 根拠のないものだ」ということは板面に他者の不安をあおっているだけです。 >「哲学」とは、人の無意識的な本能に対する意識的な疑念だとわたしは思います。 fwappyさまには「科学」も幻の巨塔なのですね。 でも、「無意識的な本能」とかを前提とされているようだからフロイトとかの精神分析、 あるいはハルトマンの哲学を基礎として独自の思想を展開されている?
- serpent-owl
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fwappyさま 私も実は「法則化は不可能」とまで言い切ってしまう勇気を今は持っていません。が、きわめて困難であることは認めざるをえないように思います。 その困難さの由来するところはしかし、fwappyさんご指摘のような「心の内部の問題」ではなく、むしろ外的な問題、心と外界の関係の問題にあると考えます。一言で言うと「帰納が機能しない」ということです。(あ~あ、やっちまった…) つまりその、心の内容は必ずしも内発的なものだけではなく、むしろ文化的動物たる人間の場合には後天的に獲得される学習内容の方が多いからです。心にその学習内容を刷り込んでいく源、これをとりあえず「文化」と呼んでしまいますが、この仮構物の形成および変容の力学はもはや「個」の意志や力が及ぶものではなく、言わばこの仮構物自体が勝手に自己形成していくものであり、さらには他の文化との相互影響もこれを左右します。 仮に「心」を「単語」、「文化」を「文脈」としますと、この「文脈」は「他の文化一般」という「大きな文脈」の中に置かれており、さらにその「大きな文脈」は、歴史の中に流れる時間という「より大きな文脈」の中に置かれています。逆に辿れば、「より大きな文脈」は「大きな文脈」に形成され、「大きな文脈」は「文脈」に形成され、「文脈」は「単語」によって形成されています。(…結局、私は「ガダマーっぽい枠組み」にこだわっているのですが。) これらすべてが「心の内容」に影響を与えうる。極端な言い方をすれば、地球の裏側アルゼンチンで作曲されたタンゴの新曲が、日本人である「私」の心を左右しうるということです。そして「多様性が多様性を再生産する」文化というものの能産性を考えますと、「今よりのちの諸文化のありようは予測できない」ことが推定されます。とすれば…、「心」に関して今現在の時点で得られている「経験から帰納された知」が、将来においてもその妥当性を維持できる保証はないことになりはしないでしょうか。文化が持つ多様性の無限ゆえに「心の内容は無限に変容しうる」とすれば。 数列の規則が一定であってこそ数学的帰納法は有効。ところが、規則が途中で変わるとすれば数学的帰納法など無効…みたいな話です。つまり「帰納が機能しない」。(またやっちまった…) むろん、「文化の形成および変容の一般法則」が確立されれば話は別です。「規則の変化」をも予測可能ならば。しかし、これは無茶です。現実的な労力のために無茶というだけでなく、原理的に無茶ではないかと。…というのは、上記の「単語-文脈」の相補・循環のためです。双方とも単独では確固たる基盤を持たず、言わば何もない空中で互いに相手を支えようと持ち上げあっているような、不安定な両項。客観化は不可能であろうかと思われます。 なにやら私の方が「不可知論者」めいてまいりました。ですが反面、いやぁ~な予感もしているのです。いや、実は「よい予感」でしょうか。 上記のように「法則化の困難さ」を述べた自分自身の立論、およびそれを支える知識の範囲に「穴がある」という予感です。それが何かはわかりません。わかってたら上記のようなことは言いません。でも、ありそうです。抜け道が。すなわち「法則化の可能性」が。 これは「勘」です。科学捜査を重んじる若い刑事と対立するベテラン刑事さんがよく言う「勘」です。ただそれが何を指し示しているかをはっきりさせるには、今の私では修行が足りません。 ※回答者は複数でも、質問者はたったのお一人です。satonohukurouさんに議論の流れを味読していただく時間を少しでもとるため、お返事を遅らせました。その点のご理解をお願いした上で、遅れにつきお詫び申し上げます。
- fwappy
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serpent-owl様 >しばらく前から自分の考え方は「非法則論的一元論」に >近いような気がしてきてるんです。 >心に物質的基盤があることは確か。でも「心」は法則への還元を >受け付けない。「論理法則」なんてものは、「心」の法則化できる、 >ほんの一片だけを救い出して組み立てただけのものではないか、と。 心が自身の法則を意識したときに起きる不可思議さは、以前にも 「全知全能の神の非存在証明」で議論しましたね。 ただ、そこから心自身が法則化不可能だと帰結することはできない ように思います。あくまで内省による法則化が出来ないというだけの ことでしょう。ただし、この場合、心が脳内の物理現象だと考えた 上で、意識と非意識がいかに区別されるかを明かにせざるを得なく なるでしょうけれども。
お礼
ご回答の皆さまへ No50 の回答にお礼をし書いている現在も、議論ははるかに先を行っております。お礼が遅く申し訳ございません。serpent-owl さんから結論をいただきましたので、少しコメントさせていただきます。 serpent-owl さまへ 長い間、本当にありがとうございました。また返礼が遅くなりましたことをお詫び申し上げます。serpent-owl さんにゼイゼイと息を切って、振り落とされまいと、付いて行くのがやっとという状況です。 多岐にわたるご回答をいただきましたが、お礼としてまして、私の最大の関心事に限定し理解できたことと、私の本質問から得た私の考えを述べたいと思います。 「心」に関する「知」が有する性質=「開放系の知」であり「完結していないもの」である。このパースペクティブからは「過去への視線」と「未来への視線」が得られる。 過去は現在の累積でありその無限性から説明が困難である。未来は本質的原理的に予測不可能である。予測不可能性から少なくとも「心の可能態」に関する説明が必要ではないか。すなわち、「脳」、「心理学」、「哲学」など、いわゆる物から観念までの各階層のいずれかに還元するのではない『その全体が絡み合った複雑系としての「心」を眺めてみる必要』がある。 科学は、自らの拠り所であった実証主義から現象(世界)を説明することに限界があることの自覚から人文諸学への歩み寄りが始まっている。このような現況からすると、「哲学の見方」と「科学の見方」の区分に神経質になることもないのではないか。要は、真理を追究する態度で重要なことは、「その知の成立基盤を問い、疑い、検証しつつ取り込む」ことではないのか。 大変貴重なそして重い回答でした。心という事象をいかに説明するのか、ということを勉強していくうちに、哲学での分野での説明と、科学での分野での説明の態度に疑問を持つようになりました。それは、哲学で使用している心に関する知識は科学的知識をも根拠としてしているのではないか、それなのに科学において心は学の対象足りうる資格を有するのかという問題を有するのではないのか、この2つの疑問のために、一体「心を説明する」と言うことはどういうことなのだろうか、という問に突き当たる羽目に陥ってしまったのでした。 serpent-owl さんの回答から私が学んだものは、 「心の性質(本質)を理解せよ、そしてそこから出発せよ。既存の論理に還元するな。」 でした。 serpen-owl さんは、心の本質を「カオス」ととられておられました。「開放系の知」としての本質です。先に引用しました「心の科学は可能か」(土屋 俊、認知科学選書)で、土屋は結言に代えて心の説明の困難性について、心の「文脈依存性」を指摘しています。すなわち「私」と「社会」を内容に含む概念は形式的処理が困難である、としています。serpent-owl さんの回答にも通じるものがあると感じました。 そこで、心の概念を説明していくうえで問題とすべきは、「複雑系」、「文脈依存」で性格づけられる心を説明するに相応しい「論理」を見出していくことだと思います。心の概念を説明する論理として「カオス」、「量子論」、「進化論」・・・(たぶん他にもあるはずですが、これから勉強していきます。)が議論されているのだと思います。 「心の可能態」に思いをいたすと、なんだか「心」がますます果てしなく遠くのものになるように感じますが、とりあえず、第一歩を踏み出すために、私に何ができるかを考えてみたいと思います。 本当に貴重なご意見ありがとうございました。多くの方に参加していたできましたので、その方々にお礼をしなければいけません。もう少しオープンにしておきます。そして、少しずつ終末態勢とさせていただきたいと思います。