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心の哲学:心の哲学的説明と科学的説明の違い

 心について科学哲学の立場で勉強していますが、壁にぶつかってしまいました。 それは、心について、哲学の立場で説明することと、科学の立場で説明することの違いが判らなくなってきたのです。  哲学では、心に関する「概念」を論理分析していくことだ。科学では、「仮定」と「実験」で理論を実証していくことだ。との説明がありました。しかしながら、哲学での「概念」は当然のこととして科学理論をも踏まえたものであります。  そうすると、哲学の概念の中にも科学理論が内包されているわけで、そのような概念とは、科学理論とどのような違いがあるのだろうか、という疑問に突き当たってしまったわけです。  これは、哲学するとはどのように思考展開していくのかという疑問にも通じることです。アドバイスと参考文献の紹介をお願いします。

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回答No.47

 けっこう固まってきました。「内部観測」に関して、自分の理解にまだまだ修正の余地があることを自覚していますが、自分が知る領域に引き付けてある程度把握できた気がします。  ここでも回答されているmotsuanさんの質問「人間にとって物語とは何なのでしょう?」(下記URL参照)への私の回答No.8で書いたのですが、「ガダマーの解釈学」。これで途中までは行けそうです。それをここに再掲(コピペ)するのはいくら何でも暴虐ですので、そちらはそちらで軽く目を通していただくとして、ここでは簡単にかいつまんで書きます。  ガダマーは、ある文章(特に古典)が内包している「意味」を客観的に読み取ることは不可能だと断じています。というのは、文中のある単語の意味はそれが置かれた文脈に規定され、その文脈もまた文章全体の中で位置付けられて意味を持ち、さらにはその文章そのものが、それが書かれた社会や時代背景という大きな「文脈」の中で意味を持つものだからです。「客観的に」読み取ろうというのであれば、それらすべてが「客観的に」把握されていなければなりません。ところが、逆に見ると、文脈は単語から形成され、文章全体は文脈から形成され、社会や時代背景はその文章を含む雑多な文物から形成されています。つまりここには「どうどう巡り」が生じてしまう。単語と文脈、文脈と文章、文章と社会は、互いに他方に依拠して支えあっている。…どちらか一方が「客観的に」固定されていれば、他方も客観的に固定できる見込みも立つのですが、それは事実上不可能です。したがって、ガダマーは「文章の客観的読解は不可能だ」とするのです。  このあたりの問題の枠組みは、内部観測論の「内部観察者」と「観察対象」との関係にきわめて近いものがあると感じました。完結した系を外部から観察する「外部観察者」とちがって、内部観察者は完結していない(開放系の)系の中で、対象を同定する「文脈」、その文脈を規定する文脈、その文脈を…という無限遡行を強いられるのです。ここでも「客観性」というものは、素朴な自然科学が前提する「カルテジアン・カット」のように簡単には得られません。  さてしかし、ここでガダマー先生には「脱臼」していただかなくてはなりません。百歳を越える御高齢なのですが…。  というのは、やはり問題が「人の心」となりますと、ガダマーがテクストを相手に構想した解釈学とはまた別の問題が生じるからです。  ガダマーが相手にしたのは、あくまでも「古典」でした。現代のわれわれと、過去との間の「文脈」の差異、これがあるがゆえに「問いと答えの弁証法」が生じ、テクストと読者の双方を巻き込んだ運動となり、その中で「地平」が融合していきます。その運動全体こそが「真理」であると彼は述べています。そこでの「真理」は、それが掴まれてしまえば運動が終結するというような「客観的な」ゴールではありません。無限の、開放系の弁証法です。  前の書き込みでも述べましたように、人間および社会を相手とした知は「開放系の知」であらざるをえません。ガダマー解釈学も開放系の知にはちがいないのですが、それでも既に完結した「テクスト」、および既に完結した「過去」を相手にしています。これに対し、私たちが考えようとしている「心」は、現在のものを当然含みます。したがってなおのこと「完結していないもの」と言えましょう。テクスト以上に。  この点に注目しますと、例えば「人間とは何か」という設問は次のように分解できます。すなわち、    「人間は何であったか」(過去への視線)    「人間は何でありうるか」(未来への視線) です。  前者については、一定の時間の区切りさえつければ、何とか答えが得られる可能性があります。ところが後者に関しては、やはり未来というものの本質的原理的予測不可能性ゆえに決して解答は得られません。また、過去は常に「現在」が積み重なっていくことで膨大に膨れ上がっていきます。そのことを考えると「過去」を片付けるのも容易ではありません。  同様のことが「心とは何か」という問いに関しても言えるでしょう。この問いもまた、    「心とは何であったか」    「心とは何でありうるか」 という二つの問いに分けられます。以前予告申し上げていた「文学っぽいアプローチ」というのは、実はこの前者の問いに関わるものでした。「心の真実の姿を覆い隠しているかもしれない《近代の神話》」を剥ぎ落とすために、過去のさまざまな時代、さまざまな地域との間に「問いと答えの弁証法」を経験することを通じて「心」というものを見ていく…そういうようなことでした。  でもやはり、それだけでは話は済まない。…と、こう来ますと、satonohukurouさんの問題意識である「幻影肢」からはガンガン話が飛びまくるわけですが、本質的に予測不可能が未来が絡む以上は、少なくとも「心の可能態」に関して説明するところまでは行っていないと「心の哲学」として充分なものにはならないのではないかと考えます。これ、ものすごいことですので、もちろんsatonohukurouさん独りでやれってことじゃないです。関連学界全体でそっちもやんなきゃいけないのではないかと。  「心の可能的なあり方」だと、まずは「脳」。心を担う物質的基盤として。心的内容を納める器として。  そして「心理学」。…以前の書き込みをお読みいただいてお分かりと思いますが、私は過去、および現行の心理学にはあまり厚い信頼は寄せていません。一定の有効性はあるでしょうが、いつでも「エセ科学」に堕しうる。少なくとも思索の素材を提供する学、そしてできれば、素朴実在論的実証主義を乗り越えた学となってくれれば…と願います。  でもって「哲学」。人間および世界を捉えようと試みる知としての。  要するに物質的基盤から観念に至るまでの多層的なレベルのどこかに還元するのではない、その全体が絡み合った複雑系として「心」を眺めてみる必要があるのではないかと思うのです。それができるのは「科」に分化した「学」たる「科学」ではなく、哲学でしょう。  幸いなことに、前の書き込みでも紹介しましたように、カオス論などへの注目あたりから、科学の側から人文諸学への歩み寄りが始まっております。「カオス」というのは、解釈の対象たる「自然」の側から人間に突きつけられた「否」であろうと思うのです。「問いと答えの弁証法」を稼動させるところの「否」。それに科学はようやく耳を傾け始めた。ですが哲学を初めとする人文諸科学は、太古の昔から一意に還元できない人間的諸現象を宿命的に、当たり前に相手にしてまいりました。この点からして、「歩み寄り」は「科学の側からの」歩み寄りです。人文諸学の側からではなく。  ここから、「哲学の見方」と「科学の見方」という両者の区別には神経質になりすぎることもないかな、とも思えたりするわけです(哲学と科学を截然と区別すると、哲学もまた仕切りの中に囲われた「科-学」の一つに成り下がることにもなりますし)。ただ、「科学」が示すことどもを盲目的・無批判に受け容れるのではなく、その知の成立基盤を問い、疑い、検証しつつ取り込む…そういうことでよいのではないかと考えます。  何やら話が拡散して、ご研究には直接役立つ範囲を逸脱しているのではないかと恐れますが…いかがでしょう。

参考URL:
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=39578
satonohukurou
質問者

お礼

ご回答の皆さまへ  No50 の回答にお礼をし書いている現在も、議論ははるかに先を行っております。お礼が遅く申し訳ございません。serpent-owl さんから結論をいただきましたので、少しコメントさせていただきます。 serpent-owl さまへ  長い間、本当にありがとうございました。また返礼が遅くなりましたことをお詫び申し上げます。serpent-owl さんにゼイゼイと息を切って、振り落とされまいと、付いて行くのがやっとという状況です。  多岐にわたるご回答をいただきましたが、お礼としてまして、私の最大の関心事に限定し理解できたことと、私の本質問から得た私の考えを述べたいと思います。  「心」に関する「知」が有する性質=「開放系の知」であり「完結していないもの」である。このパースペクティブからは「過去への視線」と「未来への視線」が得られる。  過去は現在の累積でありその無限性から説明が困難である。未来は本質的原理的に予測不可能である。予測不可能性から少なくとも「心の可能態」に関する説明が必要ではないか。すなわち、「脳」、「心理学」、「哲学」など、いわゆる物から観念までの各階層のいずれかに還元するのではない『その全体が絡み合った複雑系としての「心」を眺めてみる必要』がある。  科学は、自らの拠り所であった実証主義から現象(世界)を説明することに限界があることの自覚から人文諸学への歩み寄りが始まっている。このような現況からすると、「哲学の見方」と「科学の見方」の区分に神経質になることもないのではないか。要は、真理を追究する態度で重要なことは、「その知の成立基盤を問い、疑い、検証しつつ取り込む」ことではないのか。  大変貴重なそして重い回答でした。心という事象をいかに説明するのか、ということを勉強していくうちに、哲学での分野での説明と、科学での分野での説明の態度に疑問を持つようになりました。それは、哲学で使用している心に関する知識は科学的知識をも根拠としてしているのではないか、それなのに科学において心は学の対象足りうる資格を有するのかという問題を有するのではないのか、この2つの疑問のために、一体「心を説明する」と言うことはどういうことなのだろうか、という問に突き当たる羽目に陥ってしまったのでした。  serpent-owl さんの回答から私が学んだものは、 「心の性質(本質)を理解せよ、そしてそこから出発せよ。既存の論理に還元するな。」 でした。  serpen-owl さんは、心の本質を「カオス」ととられておられました。「開放系の知」としての本質です。先に引用しました「心の科学は可能か」(土屋 俊、認知科学選書)で、土屋は結言に代えて心の説明の困難性について、心の「文脈依存性」を指摘しています。すなわち「私」と「社会」を内容に含む概念は形式的処理が困難である、としています。serpent-owl さんの回答にも通じるものがあると感じました。  そこで、心の概念を説明していくうえで問題とすべきは、「複雑系」、「文脈依存」で性格づけられる心を説明するに相応しい「論理」を見出していくことだと思います。心の概念を説明する論理として「カオス」、「量子論」、「進化論」・・・(たぶん他にもあるはずですが、これから勉強していきます。)が議論されているのだと思います。    「心の可能態」に思いをいたすと、なんだか「心」がますます果てしなく遠くのものになるように感じますが、とりあえず、第一歩を踏み出すために、私に何ができるかを考えてみたいと思います。 本当に貴重なご意見ありがとうございました。多くの方に参加していたできましたので、その方々にお礼をしなければいけません。もう少しオープンにしておきます。そして、少しずつ終末態勢とさせていただきたいと思います。

その他の回答 (82)

  • stomachman
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回答No.73

satonohukurouさんの反応を待つまでもなく、どうやら旨く書けてなかったみたいだなあ。stomachmanです。  幻肢を考える上で、問題が分割できるのではないか、という事を申し上げています。幻肢は、(1)切断された神経に由来する刺激と、(2)五体満足でも生じている姿勢の知覚、が組み合わされて生じているのかも知れない。どうも還元論的で申し訳ないけど。  前者(1)に関しては、求心神経は必ずしも先っちょの感覚器を刺激しなくてもパルスを発します。ケーブルが切れたという比喩で言うなら、その切れたケーブルの近くに強いノイズ源を置けばケーブルに信号が乗ることがある。神経の場合は、磁気パルス・電流・圧力・化学物質・感染・炎症などの影響を受けます。  後者(2)は「各神経が身体のどの部位に行っているかを脳が知っているか」というだけの話ではありません。そうじゃない。ふしあわせの実験で示したように、主に皮膚の感覚器からの極めて多数のinputに基づいて身体の姿勢の精密な計算が行われ、そして身体の姿勢が3次元空間に埋め込まれた「形」として認識されているようです。この姿勢計算の性質や成り立ちは興味深く、その解明が重要であることは論をまたない。  さて、もし問題が分割できるとすれば、(2)は「対象を幻肢に限って研究すべき事だろうか?」というのが疑問なんです。逆に、幻肢という症状だけをテーマにするなら、当面(2)姿勢の計算メカニズムの部分はblack boxのままでも構わない。まずは(1)だけの問題になる。  つまり「専ら幻肢を対象とする」というのは、哲学研究として「問いの立て方」が適当かどうか。もうちょっと幅広い現象を視野に入れてアプローチすべきじゃなかろうか。他の回答者の方々は専らblack boxの中をかき回してますけど、その前にちょっと考えてみませんか?という程度のアドバイスです。  「皮膚のひっつれ」についても、この分割に対応した2つの効果が考えられます。(a)ひっつれによって切断された神経に刺激が生じる場合があるかもしれない。(b)皮膚に繋がっている求心神経(これは切断されてません)から脳が刺激を受けて「その皮膚の先にある(筈の)部分」の姿勢を誤って計算するかもしれない。  たとえば(a)なら無いはずの小指が痛くなり、(b)なら無いはずの小指が曲がっていると感じる。(a)(b)両方生じれば、無いはずの曲がった小指が痛い。stomachman症例報告の例では、(b)の効果が生じて「腕が真下にぶら下がっている」と認識したのかも知れません。  言い換えれば、いわゆる「幻肢現象」には「無いはずの幻肢で感じる痛みなどの感覚」と「幻肢の姿勢の知覚」とが含まれていますが、これらが本当に一体で不可分かどうか。stomachmanは分けられると思っています。 「もうちょっと幅広い」の例、というより単なる余談ですが:  姿勢の知覚が精密だとは言っても完璧な計算ではない。わざとこの計算を失敗させる良く知られた実験として「人差し指と中指を交差させて、その間に鉛筆を挟むと、鉛筆が2本あるように感じる」ってのがありますし、スポーツでフォームをうるさく言うのも「本人の思っている姿勢と、ビデオに撮って見た姿勢がだいぶずれている」ということの証左でしょう。どうも、慣れない事をやると計算誤差が大きい。逆に、道具を使い慣れると、道具の先まで自分の身体が延長したかのように自在に姿勢や感覚がわかる(外科医の訓練では、分かるようになれと、うるさく言われるそうです)。だとすれば姿勢計算が学習的に形成されるんじゃないか、という仮説を考えたくなります。  また、多くの場合、内臓で生じた刺激は、内臓自体の痛みではなく皮下(筋肉あたり)の痛みとして感じられます。投射痛と言います。例えば膵臓の具合が悪いと背中の一部が痛むんです。求心性神経が何処に行っているかを、脳が必ずしも事実通りには認識していない証拠ですね。

satonohukurou
質問者

お礼

 15日23時をもって締め切らせていただきます。 貴重なご意見ありがとうございます。 実は、急遽の不幸があり、1週間ほど不在してしまいました。 その間、議論は、当初の質問事項から、「幻影肢」の問題に発展しておりました。 実は、この問題、すなわち「幻影肢をテーマとすることの是非」については、これまでの議論を通じて、私も密かに問題視していたことでもあります。 しかしながら、私としては、大変肥大化しつつあるこの状況をとりあえず結節をつけることが必要となってきました。  そこで、皆さまからのご回答は、これからじっくりと読ませていただき、それからあらためて個別にお礼をしたいと思います。  とりあえず、このコーナーは、明日15日23時をもって閉め切らせていただきますので、ご了承下さい。

  • fwappy
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回答No.72

>コブラおにいちゃんの「かぷっ!」は、ちょっと、まとはずれ、だよっ! どこが的か、示せますか(にやにや) >もおいちど、よぉく、よんでねっ! あなたも一度読み直して考え直しては如何ですか(にやにや) 言い訳できないからへびくんをおつかいによこしたんでしょう?

satonohukurou
質問者

お礼

 15日23時をもって締め切らせていただきます。  長い間熱い議論を展開していただきありがとうございました。 もっと早い時期にお礼をしなければならなかったのですが、突然の不幸がありまして1週間ほど不在してしまいました。その間、議論は次の問題に発展していました。「幻影肢」をテーマとすることについては、私もあらためて検討する必要性を感じております。  とりあえず、私の最初の質問については、目的を達成できたように感じております。膨大なレスとなってしまいましたので、これからじっくりと読ませていただき、それからあらため個別にお礼を申し上げたいと考えておりますので、ご了承下さい。特に、はるかお姉さまとの議論については、あらためて勉強させていただきます。

回答No.71

ほっほぉ~い! へびくんだよっ! コブラおにいちゃん、よろしくねっ! でね! コブラおにいちゃんの「かぷっ!」は、ちょっと、まとはずれ、だよっ! もおいちど、よぉく、よんでねっ! きゃほ~い!

  • fwappy
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回答No.70

serpent-owl様: >例えば、「ぶたれるのはイヤ」という心的内容を機械に持たせたい。 >外部からプログラムすることなしにということですと、 >「ぶたれると痛い」という命題から機械自身に演繹させねばなりません。 >では「ぶたれると痛いぞセンサー」を機械に与えましょう。 >痛いんです。ぶたれると。が、「痛い」という刺激がなぜネガティブな、 >避けねばならぬものと評価されねばならないか。これも外部から >プログラムするのでなしに…とすると「痛いという刺激は自分の破壊に >つながる」という命題から機械自身に演繹させねばなりません。 ああ、忘れてた。うちのコブラがあなたに御挨拶したいそうです。 「ほほう、コイツおもしれえぜ。痛いのがイヤだというのに、  いちいち「自分の破壊につながる」と意識するんだとよ。  だいたい、センサをつければ何かを感じるだろうが、  そいつが痛いのか痒いのかどうやってプログラミングすんだよ?  そんなことできねえだろ。結局感じた後の振る舞いまで面倒  みなくちゃなんねえんじゃねえのかい?」 これこれ・・・どうもうちのコブラ君は口の利き方がなってなくて。

回答No.69

 stomachmanさま  ご教示の「三叉神経」についてちょっと調べてみました。「ミミズなどの下等動物では表皮内やその少し内側にある感覚細胞が、脊椎動物では皮膚から遠く離れて中枢神経のすぐ近くに集まっている」との説明がありました(ちょっと古い平凡社の百科事典)。実際、図を見ると、人間の場合は脳のすぐそばにあります。ここへの刺激が幻覚を呼ぶ…たしかにありそうです。  ただ、「切断部位近くの皮膚のひっつれ」はどうなんでしょう。神経末端と三叉神経との間を繋ぐ神経は「刺激を伝達するだけ」であって、そこで何かを感覚できるわけではないのでは? 比喩的に言えば、センサーとコンピュータを繋ぐケーブルが途中で切れているのと同じことで、「センサーでの感知情報が伝わらない」だけであって「かつてあったセンサーに何かを感じる(かのように感じる)」ということとは別のことのように思います。素人考えですが。  で、仮に切断部位が上腕部の真ん中へんだとすると、その近くの皮膚のひっつれは、その近くの感覚神経が受け取るだけで、無いはずの「貴方が噛んだ小指」が「痛い」ことには結びつかないように思います。  ことのついでに「幻覚」なるものについても調べてみました。心理学的には、現にある対象事物の空間的位置づけを誤ったり、それの感覚内容を誤ったりする「錯覚」とは区別されるようです。「幻視・幻聴・幻触・幻味・幻臭」などは、それら諸感覚を引き起こす対象事物が存在しないのに、かなり明確な空間的定位を伴って感覚されることを指すとのこと。「電波が「書け、書け」と命じる」などというのもこれの一環のようです。(「夢」も健常者でも感じる幻覚の一つだそうです。)  この「幻覚」についての古典的説明としては、今まで出ているような捉え方が既にあるようです。「脳内での突発的反応」とか「観念が強化されて感覚的内容を帯びた」とか。ただ、やはりそういう単純な説明では不十分との指摘もあります。「感覚と切り離されている純主観的心的過程がなぜ感覚性を帯びるのか、まったくわからない」とか。  少し古い資料ですので、今は事情が変わっているかもしれません。でも、これを見る限りでは、やはり「幻肢」一つ見るにも還元主義的説明には限界があるように感じられます。    (資料:平凡社『世界大百科事典』 三浦岱栄氏署名の項目から抜粋。)  で、halkaさんの論理式について。今後を期待する者としてはあまり言及したくないのですが、まずそのままではフローチャートを引いてプログラムを組むこともできないな、と感じました。条件分岐が論理式自体には由来しない「外挿」になり、具体的手段のバリエーションも論理式自体には由来しない「外挿」になる。さらには、よしんばプログラムを組めたとしても、「プログラムとして組めた」こと自体が、それが何ら「心」を表現しうるものになっていないことを証明するでしょう。現に今試みられている人工知能方面では、ご指摘のように、はるかに複雑です。  さて、人工知能が出てきたところで一つ。  将来、コンピュータやロボットが「心」を持つかという問題があります。私は「yes」だと思っています。いずれ、そのうちに実現されましょう。(ハナシ飛びますが、アシモフの「ロボット三原則」や石森章太郎の「良心回路」は承認しません。でも、ここは突っ込まないでね。ハナシ飛び過ぎますから。)  でも、現行研究そのままの延長上で「心」が実現されるとは思っていません。ハードウェア外部からプログラムされた反応系が、あたかも人の心のような反応を示すということと、機械そのものが内発的に「心」を獲得するということとは別のことだと思います。前者はあくまでも「シミュレーション」にすぎない。  例えば、「ぶたれるのはイヤ」という心的内容を機械に持たせたい。外部からプログラムすることなしにということですと、「ぶたれると痛い」という命題から機械自身に演繹させねばなりません。では「ぶたれると痛いぞセンサー」を機械に与えましょう。痛いんです。ぶたれると。が、「痛い」という刺激がなぜネガティブな、避けねばならぬものと評価されねばならないか。これも外部からプログラムするのでなしに…とすると「痛いという刺激は自分の破壊につながる」という命題から機械自身に演繹させねばなりません。次は「なぜ自分の破壊がネガティブな避けねばならぬことなのか」…これは「死ぬのはコワイ」ということをどうやって機械に認識させるかということです。生物ならば「個体保存の本能」があります。が、機械は内発的にはこれを持ちえません。…抜け道があるとすれば、機械に「利己的な遺伝子」を組み込んで、個体再生産と寿命を与えることでしょうか。…ああ、完全にSFだ…。  以上、satonohukurouさまにも参考にしていただけることを祈念しつつ。 P.S.「酔っ払いシリーズ・二連発」…傑作でした。    …ととと…fwappyさんも…議論再燃か? でもゆっくりやりましょうね。

  • fwappy
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回答No.68

stomachman氏は、ただの神経ネットワークがどうして 身体の位置関係をあらかじめ「知っている」ことについて 全く疑問の余地がないとおもっているようですが、本当 ですか? stomachman氏がいう「低レベル」のことなら確かにわかるでしょう。 しかし、その究極の理由までは分からない。 stomachman氏にとっては「心脳問題」は問題ではないのでしょうか?

  • stomachman
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回答No.67

serpent-owl先生<  幻肢に関して正確に調べた訳ではありませんが、たとえば三叉神経を血管が圧迫することで発生する疼痛など、必ずしも神経末端が刺激を受けなくても求心性神経の途中をいじめても何らか反応することがあるようです。  一方、四肢などの姿勢(位置)を知るのに、皮膚のtensionが非常に重要であることが知られています。ですから、切断した部分の近くの皮膚に変なひっつれが生じると、これが幻肢の位置を決める情報になるやも知れません。  これらのことから、ひょっとすると必ずしも脳内の問題が決定的という訳じゃないかもしれない、案外すっごく低レベルの問題かも、という事なんです。   余計なことながら、  serpent-owl先生の博識ぶりには舌を巻きます。コメントしようがない。  Halka様の様相論理による「おバカな心」のtoy modelは、いろいろいじくって楽しんでみました。まだ論理式を系統的(自動的)に生成する所ができてない(説明してないだけ?)ようなので、地の文で直感で式を作って解釈しているのが弱いところ。でも、ろくな推論ができないなどいかにも心のモデルらしくて面白いです。健全なシステムじゃ女心もボケ老人も表現できませんもんね。既製の非古典論理学と非常に近い部分が多いと思われます(たとえば「時空」って、標準的モデル理論では「世界」と呼ばれてます)ので、そっちの面からも検討してはいかがかと思います。モンタギュ文法のλ計算なんかも久しぶりにやってみたりしましたよ。  しかし人工知能の分野ではもうちょっと複雑な(semantic-netやframeなどの)知識表現が必要だと考えられています。また、幻肢の問題とはなかなかストレートにはつながらないように思います。

回答No.66

 ほいっ。stomachmanさまへ。  そうですね。私も「脳内に形成された、腕を担当するニューラルネットワークが、腕が切断されたのちもそのままであるため、脳は腕がそのままあると誤認し、意識にもそのように受け止められる」という理解もできるかと思いました(#30)。器質的説明です。でも…それにしてもどういう理由で脳内にそういう刺激が起きるのか。これを考えると果たして器質的説明だけで完全に説明できるものなのか、疑問が生まれてきます。心理要因が作用している余地もありうるのではないかと。専門の医師でないとわからないことでしょうが。

  • stomachman
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回答No.65

> 症例によっては、存在しないはずの部位に感覚を感じることもあるそうで > すね。無いはずの貴方が噛んだ小指が痛いとか(古いな…)。切断された > 付け根で感じるのではなくて、まさにその「存在しないはずの小指」で感 > じるという。これも不思議なことです。 に関して、老婆心ながらひとこと。  帯状疱疹という病気があります。神経に住み着いているヘルペスウィルスが何かの拍子に暴れ出すもので、皮膚の神経支配領域(これが帯状です)がちくちく痛い。患者は皮膚が痛いと訴えますが、皮膚に麻酔薬を塗っても全く意味がありません。神経自体が誤って「痛いよ」信号を出しているからで、皮膚の感覚器の問題じゃない訳です。  このことから、神経の興奮はそれが繋がっている「筈の」場所の感覚として感じられる仕組みになっている(ふしあわせの実験でも少し説明しましたが)のが分かります。つまり、無いはずの貴方が噛んだ小指が痛い場合、切断された付け根にある、もと指先に行っていた神経が興奮しているのなら、指先が痛くて当然だと思います。  そんなわけで幻肢に関しては、必ずしも身体論的観点まで行かなくても、もっと生理学的レベルでもある程度説明がつくものなのかもしれない。

  • fwappy
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回答No.64

>fwappyさまは、わたくしめから討論のお誘いして 誘い?因縁の誤りでしょう。 >なんとなく、言葉尻の取り合いになった感じですが なんとなく?あなたははじめから言葉尻だけ だったではないですか。わたしはそうでは ありません。わたしのいっていることが言葉尻 だとおもっているなら、あなたはなにも分かって いないし、分かりたいとも思っていないということ です。 >わたくしめの至らぬ所、おゆるしくださいませ。 許せません。 >実のところ,茂木様に代わってお答え頂けるなら 私は茂木氏にはなれません。 貴方はまだこのことが分からないらしい。 >クオリアにおける主観と客観のなんらかの差異につき >いま少し知りたいというところが本音でした。 茂木氏の意見なら茂木氏に聞かれるのが一番でしょう。 Qualia ManifestoのURLを以下に載せておきますから、 BBSでもMLでも行って存分に質問されたら如何ですか?。 serpent-owl様へ 私は私の考えを述べました。もう十分です。

参考URL:
http://www.qualia-manifesto.com/index.j.html