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自由か平等か
民主党政権誕生、千葉法務相の発言等から、自由と平等の対立軸は、 平等側へシフトしているようですね。 自由と平等の対立界面は、明確だとは思うのですが、 はたして、自由は平等を前提とした限界内で自由なのか、 それとも、自由を行使できる限界に平等があるのか、 つまり、ギリギリのところで平等優先か、自由優先かを 問いたいのです。そして、それは何故かです。
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苦境に陥ってはならない。しかし、苦境を苦境のままにしておいてはならない。苦境は既に起こっているのだと観て、部外者であってはならない。更に酷い苦境も想定されえるのだとこころに観て、怖気てはならない。 苦しみのはてを知って、それに応じるならば、安らぎを知るといわれる。
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- hakobulu
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自由が無ければ生きていけない、平等が無ければ生きる値打ちがない。 古いキャッチコピーのもじりで恐縮ですが、単純ですがこういうイメージです。 あれは、たくましさと優しさだったですかね。 であればあれは自由と平等の本質だったのかもしれません。 たくましいのは本能ですから、自由は本能的。 やさしさは超自我的なので、平等は超自我的。 という視点もありかと。 そうすると、 >ギリギリのところで優先 :されやすいのは自由。 本能は原初的な機能ですから、理由は言わずもがなということで。 目指すべき方向性、ということであれば、 自由に振れやすいだけに平等に関してはやや意図的に舵を切るぐらいで丁度バランスが取れる。 ということになるのでしょうか。 ただ、奴隷的自由を自由と勘違いしたまま、という状況も多そうです。 たくましさの無いところに本当のやさしさなどあるはずもないですし、 その意味では、まず、自由を理解し獲得することからしか始まらないのかもしれません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 自由は、原初的な機能である本能が起源であるが故にデフォルト優先になっているので、バランスをとるために超自我的な平等を意図的に優先するということですね。つまり、意識的には平等優先。 なるほど、その通りかも知れません。 例えば、死刑は、この考えのみに従うとするなら、廃止論に傾くということですね。私は総論だと廃止論者なのですが、現状だと本能的に廃止するのは早計と感じてしまいます。
- gigamax2
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こんばんは。 私には自由と平等とは対立軸に無いと言う認識が前提になりますが・・・。 宇宙の法則に従えば実のところそれは同軸にあり、物質領域の結果に囚われてしまえば対立軸となるのでしょうね。 例えて言うなら、自分の思考は無限で自由ですし、それを具現化するパワーも平等だと言う事です。 それをどう行使するかで結果が千差万別になるわけで、現実は社会システムが相反する事象にしてしまったともいえます。それについてはその他複雑な要因が絡んでいますのでここでは述べないでおきます。 貴方の考えを否定するものではありません。このような考え方もあるのだという参考ですので・・・。
お礼
ご回答ありがとうございます。 私には、沢山の欲があり、破壊したい衝動も、盗みたい衝動も、犯したい衝動もあり、物質領域の結果に大いに囚われます。そして、この問は、人間が集まれば争いが起こるものであるという事実から展開しています。もちろん理想は自由と平等の極が一つになり輪を形成することですから、gigamax2さんと方向がずれている訳ではありません。 >それについてはその他複雑な要因が絡んでいますのでここでは述べないでおきます。 そうおっしゃらずに一部だけでもご教示ください。
- heartmind
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すいません。 実は、あまりよくまだ分かっていないのですが、個人的に 保守と全体主義の間でずっとふらふらさまよっている口なので、 ついつられてしまいました。 すみません。自由とは自由競争のことですか?それとも、大量生産の労働力が必要だったころの弱者は考えるな従えという保守の思想ですか? 平等や社会保障費が増えるのは自由を妨害しますか? 少子高齢化の中でこれから一番問題になりそうなのはやはり、 老いた時の生き方にありそうです。PPK(ピンピンコロリ)という のがありました。元気に働いて、長患いするなというような思想だそ うです。基本的には賛成ですが、長患いはしないにこしたことはあり ませんが、呆けちゃったら、、、極論かも知れないけど、自殺を容認 してほしいくらいです。周りの人に心的外傷を与えない様な自殺の あり方が議論されてもいい気がします。 自殺の自由があってもいい気がします。 話は変わりますが、個人的には昔のような極端な保守はいらない気が します。なぜなら大量生産はきっと中国やその他発展途上国の方が 得意分野になっていくのではと予想するからです。 質問者様は、社会保障に傾くと自由競争が阻害されると、お考えですか?今一度、自由とはなんですか、思想の自由ですか?自由競争ですか? 平等とは何ですか?独裁のことですか? 個人的には、PPK思想を重んじながらの、個人の能力を阻害する までの保守に偏らない。敗者復活を支援する。他人の生き方に口を 出さない。やはり個人を尊重する。その中で弱者は見捨てない。 弱者を弱者として切り捨てない。弱者の救い方を間違えない。 個人には叱咤激励しすぎず、全体には勇気を与える。 その中での自由は、やはり縛られていますか? すみません。まだよくわからないのですが、 やはり私は保守が嫌いなのでしょう。
お礼
>自由とは自由競争のことですか?それとも、大量生産の労働力が必要だったころの弱者は考えるな従えという保守の思想ですか? この質問は、すごく一般的なことを聞いています。 自由競争も含めて、概念としての自由と、概念としての平等の対立軸の話です。 >社会保障費が増えるのは自由を妨害しますか? 広い意味では、それを望まない者の自由を妨害しています。 >自殺の自由があってもいい気がします。 自殺については、非常に深い話になってしまうと思いますね。 もともと究極の自由とも言えますし、積極的な容認は、自由の拡大より、むしろ、平等の破壊になる恐れが大きいですね。殺人は最悪の差別であって、自殺を自己の殺人とみなす場合がありますから・・・本人にとって、治療を受けない自由はありますが、安楽死の選択が自由かどうかは微妙だと思っています。 >質問者様は、社会保障に傾くと自由競争が阻害されると、お考えですか?今一度、自由とはなんですか、思想の自由ですか?自由競争ですか? 平等とは何ですか?独裁のことですか? 一般概念としての自由を指しています。 自由は拘束を受けないということで、平等は差をつけないということにつきます。思想、経済、政治、日常のあらゆる場面での状態、行動のことです。 先日の、非嫡出子の相続問題も自由と平等の対立軸で論ずることが出来ます。 >その中での自由は、やはり縛られていますか? 縛られすぎているとは思いません。 これまでのご回答に奉仕にあたる健全な自由優先かと思います。
- wiz0621
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A no.2です。 確かに"自由"を阻害するものでしょうが、その意味では 友愛は"平等"すら阻害するのです。 自分が右の端に居れば、残りの人間は全て左に見える。 論壇ではよく使われる言い回しですが、あるいはその逆も然り。 二項対立する概念が存在すれば、自己(それが自由を志すにしても、平等に配慮するとしても) からの評価は、その自由と平等の線上にしか存在し得ないわけです。 ただし、仮に、自由を志向する政府が平等を重視する政策へと転換したとしても、 それは単に強弱の逆転に過ぎず、その人同士の軋轢はまだ継続する。 そこで、異なる第三の概念を提示すれば、その評価軸は平面としての広がりを持ち、 二項対立以外の問題にも目を向けるきっかけとなる。 それは平等の優先ではなく、新しい価値観の提示となるのです。 もし、既存の二項軸を判断基準とする者が自分の信条とは逆の偏りを感じるとしても 実際にはさらにその評価軸の外にある問題かもしれない。それを気付かせることが 第三極を設定する最大の意義なのです。 現代風に言ってみれば、"脱構築"の 手法のひとつとして、革命期には受け入れられたのではないでしょうか。 ですが、新たな一極を重視しすぎると、別の問題が生じます。 繰り返しになりますが、それは自由でないと同時に平等ですらなくなるのです。 現在の日本で行われつつある手法は第三の価値観として『友愛』という宗教概念を (宗教的な理解に基づかず)持ち出したが故に、教権主義の悪い面が強く現れつつあるのでは ないでしょうか。そもそも、聖書で使われた『友愛』は、すべて人類(弱者)を兄弟と成すという教義の下に 設定された言葉でもあります。そういった一部の人、つまり兄弟(弱者)達にとっては極めて有意義なものとなるでしょう。 しかし、その友愛や弱者という概念が一元的であるが故に、それは別の軋轢しか生まないのです。 例えば、その教義に弱者である老人を保護せよ、金を分け与えよとあった場合。 個人金融資産の70%が老人に集中する国家であっても、老人であるというだけで弱者となる。 いくら貧しく、老人になるまで生きながらえないような人であっても、若者というだけで強者とみなされる。 例えば、その教義に現代は心が貧しい。金融が心を貧しくした、昔は良かった。などとある場合。 いくら昭和期の犯罪発生率の方がが高いことを説明しても、あるいは、増加した資産によって 多くの人を救うことが可能になったとしても、そういった面は彼らの視界には入っていかないのです。 結果として、その不明が彼らが自身の身を焼くことになるまで。 既存の二項では、時流によっては片側によることも在りうる。そこで、別の異なる評価軸を用意し、 判断基準が独善的にならないようにする。それが『友愛』であっても『人間性』であっても、 それ自体は悪いことではありません。 ですが、第三の概念を登場させるのは『既存の二項が劣り、第三の概念が優れているため』ではないのです。 あくまでその独善(自分の属する極では完全な善性を持ちますが、他の極にあるものからすれば、 こういった喜ばしくない評価となります。)を防ぐためなのです。 為政者に求められるのは、その三鼎の共立です。それができないのならば、 "三本目"を登場させることは無用の争いを増加させるだけではないかと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 なるほど、自由と平等の他に3極目を持ってくるとどちらをも阻害する面がありますね。 友愛、奉仕、そして、平和主義に反しますが、武力、暴力もありますね。 いずれも、自由と平等を拡大し、または、阻害します。 >求められるのは、その三鼎の共立です。それができないのならば、 >"三本目"を登場させることは無用の争いを増加させるだけではないかと思います。 確かに。 自由を求めて戦い、平等を求めて闘争する事前の予防対策が友愛、奉仕ともいえる のでしょうね。 >自分が右の端に居れば、残りの人間は全て左に見える。 この自分の位置によらず(完全な端を除く)、より自由を求める権利を主張するのか、 より平等を求める権利を行使するのかという選択のいずれかが優先するという理由付けは 具体性がないとできないのでしょうね。 有り体に言うと、自分は自由でありかつ平等であるという漠然とした生活観というか生活意識があれば足りると言うことでしょうかね。
NO.1ですが、更に補足追加しておきます。 例えばA先進国、B発展途上国、があるとします。 B国が過度の飢餓状態等で緊急即時の支援が必要な場合なら、直接支援が必要でしょうが、B国が自助力を発揮できる状態下にある場合は、A国が直接結果的な金銭援助等を行うだけなら、B国はやがて国力を失ってむしろ衰退して行くでしょうから(支援金も増加する一方)、後者の場合にはB国が自助力を発揮し伸ばして行ける方法で支援することが大切でしょう。 また例えば年収400万円のA店主、200万円のB店主、がいるとします。 この場合、競合店ですから通常A店主がB店主へ支援するわけはなく、ならば政府がB店主へ200万円支給する、という施策を実施すると、A店もB店も怠惰に流れ、退廃して行くこととなるでしょう。 経済の基本は、人々が必要とする利便を提供することによって、その感謝として結果的に受け取るところにあると思いますので、B店主が通常労働可能なら、人々がより必要とするものを提供して行くことにより、結果的に収入アップして行く、というあり方が基本であると思います。 もちろん拝金至上主義的あり方ではなく、自己を研鑽して行き、他者や社会をよりすばらしくして行こうとすることが基本だと思います。 様々な救済が必要なこともありえるでしょうが、適切なあり方や物事の基本をおろそかにしては、かえって悪化を招くこともあると思いますので、注意が必要かと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 法律やマナー等により調整され・・・・勝者の方が余徳でもって自主的に社会慈善事業等へ奉仕・・・・・自己を研鑽して行き、他者や社会をよりすばらしくして行こうとすることが基本・・・・・ 自由優先で、社会システムによる調整、そして、奉仕と研鑽ですね。 よく理解できます。
NO.1です。 >>このぶつかり合う自由優先を自分から初動することが是であると言える理由は見出せるのでしょうか。 自由の発揮パターンを3種類に分類してみます。 1.自由を利他的に行使する場合はありえます。 例えば、通常、職業とは、そういうものだと思います。 自分のやりたいことを行使することが、そのまま利他につながる、というものであり、これは是でしょう。 2.自由を行使することが、他者の自由行使と直接衝突する場合 この場合は、通常、法律やマナー等により調整され、害悪なものは取り締まられ、調整可能なものは調整される、と思います。 例えば、暴力行為は取り締まられ、車運転交差の場合は信号機により時差調整することを社会的合意とすれば済みます。 以上、1,2から、調整不可能な他者への害悪行為は制限されるが、それ以外の自由行使は是である、ということが言えると思います。 3.ただ、1において、間接的・結果的に、競合を経て勝敗が分かれる、ということはありえるわけです。 例えば、AさんもBさんも同地域へ出店した場合等です。 この場合、一義的には他者への利便提供のために出店するわけですから、これ自体はよいことです。 ただ、競合の結果、どちらかが敗者となる、ということはありえるわけですが、この場合、敗者になったとしても、保険もありますし、再チャレンジ等も可能ですから、出店自体を制限しなくてもいいでしょう。 なお、むしろ、過度な保護制度を最初から設け過ぎると、旧ソ連の事例がありますから、そうした教訓は生かし、設ける場合は適切適度のラインを見誤らないことが大切かと思います。 更には、勝者の方が余徳でもって自主的に社会慈善事業等へ奉仕する、ということも現実に多々あります。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
>>奉仕するしないの選択は、社会システムとして是正プログラムが用意され、いわゆる敗者も奉仕される権利を得て、平等が担保されると言うことですね。 そうすると、この場合、社会システムの完成度が個人の自由の範囲を大きく左右するという理解でいいのでしょうか。 そういうことですが、それだけではないのですね。 すでに累進課税制度、謝金棒引きの個人破産制度などのシステムや国民年金・国民保険など様々な福祉制度がありますから社会システムの完成度は決して低くはないのですね。何度でもチャレンジできる社会、弱きものにはやさしくある社会システムを作るのも運用するのも人ですから、一番大切なことは真実を知る教育なのですね。 「自由と平等は相反する思想ですから同時に存在することはできない。」まずはこの厳粛な事実を多くの教育者が受け入れないとより良い先へは進めないということだけでしょうね。自由しかない世界であれば奉仕や福祉、再チャレンジについてもっと人々は真剣に考え、実現しようとするでしょう。ところが自由と平等が同列では人は他に無関心になってしまいますからね。むしろ自由の中の平等思想は嫉妬しか生まないのですね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 教育も含めたいわゆる社会システムについては分かります。 確かに自由に偏重した教育が今の風潮を醸し出しているのでしょうね。 >自由の中の平等思想は嫉妬しか生まないのですね。 そうですね。「自由と平等は相反する思想ですから同時に存在することはできない。」を理解しないとそうなりますね。 私も、真実を知った教育者に聞きたいですね。 自由と平等を、社会を内在する者としての自分に如何に落とし込めばいいのか。友愛か奉仕かでしょうか。 それとも、自由と平等の切り立った断崖に震える存在である自覚をせよということでしょうか。それも自由ですかね。その上で両方とも捨ててしまいますか。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
自由と平等は相反する思想ですから同時に存在することはできないのですね。 大きな集団の社会では自由しか存在できないですね。このなかで平等が存在できるのは思想としての「機会の平等」だけなんですね。 その理由は、人間性そのものに由来するからですね。人間の心は百人百様で金太郎飴のように同じじゃないからですね。 それでも極小さな村社会では我慢すれば平等社会は実現しますがこれを広げると旧ソ連のようになり存続できないことは明白ですね。 フランスの思想家の未熟な考えが相反する思想を同列に並べてしまった。それをうのみにした未熟な人達がいまだにいて混乱を招いているということだけですね。 自由との組み合わせで使うとすれば、自由と奉仕、自由と福祉なのでしょうね。自由は差別を生みますからその差別を受け入れると同時に奉仕によって差別を埋めるという考えが正当な考えでしょうね。 まあ自由優先、機会均等のみではアメリカ社会のようになってしまいますから「奉仕」の精神が重要ということですね。 奉仕が福祉につながるということですが、「友愛」では思想的にまだまだ未熟ですね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 現実的におっしゃる通りなのでしょうね。自由と平等は鋭く対立するようです。 みんなが平等に自由である。この界面は、自分が行動する自由と同じ自由が直ちに相手に与えられると言うことだと思うんですね。機会平等ですね。 ここで、自由と奉仕、自由と福祉ということは、平等優先とするのではなくて、自由優先により発生してしまった不平等をいわゆる勝者側が奉仕精神をもって後から是正するという点が友愛とは異なるということですね。 奉仕するしないの選択は、社会システムとして是正プログラムが用意され、いわゆる敗者も奉仕される権利を得て、平等が担保されると言うことですね。 そうすると、この場合、社会システムの完成度が個人の自由の範囲を大きく左右するという理解でいいのでしょうか。
- wiz0621
- ベストアンサー率42% (182/430)
あくまで概念の話としてですが、彼らは『友愛』と言ってますよね。 正直なところ、彼らがどの程度考えた上で発言してるのかは全く知らないですし、 そもそも彼ら自身の中で意味を理解しているか、ちょっと怪しいなと思う人も 居なくは無いんですが、それでもとりあえず自由や平等ではなく 『友愛』を目指してるんじゃないでしょうか。 実は友愛という言葉は、自由や平等と並びで使われることがあります。 つまり『自由・平等・友愛』という並びこそが、フランス革命時の国民公会の標語であり、 紆余曲折の末、第三共和制時代に『共和国の原理』として受け入れられたものです。 『友愛(fraternitè)』は本来、聖書の言葉とされます。 我々日本人は基本的に聖書とか読まない人間が大多数ですから、なにそれこわい、 としか思わんでしょうし、当のフランスですら、こういった宗教っぽい言葉を 使うのはかなりの反発があったようです。第三共和制議会では 『教権主義は敵だ!という言葉が国民の意思を完全に代弁する』と 左派陣営が主張してたくらいですし。 それでも、そのきもちわるい第三の標語『友愛』が、あえて採択されたのは 共同体の形成を重視したから、と考えられます。 自由と平等は確かに少なからず相克の関係にあり、いずれ大きくその秤が 片方に触れることもあるわけです。しかし、そこで価値観の異なる第三の概念を 登場させることにより、均衡を目指す。これがフランス革命での友愛の思想です。 さて、具体的にこの言葉が何を意味するか。 自由・平等が『権利』を表すとき、友愛が『責務』を表す。 自由・平等が『状態』を示すならば、友愛が『絆』を示す。 自由・平等は『契約』であるが、友愛は『調和』となる。 自由・平等の対象は『個人』であるが、友愛は『共同体』を対称にする。 自由・平等は『知性』を追求するが、友愛は『肉体を持つ人間』に関わる。 とされています。 この概念が正しいかはさておいて、対立軸を均衡させたいなら第三極を設定する。 これは自由・平等が標榜する知性でも是とされる方法ではないでしょうか。 つまり、自由や平等のどちらかを肥大化させる以外にも、実は解がありそうです。 さて、自称自由主義者としては友愛寄りで面白くない文章なので、以下蛇足です。 穿った見方をすれば、共同体を重視するこの思想が その後の国民皆兵体制へと繋がっていったという歴史があります。 最初の3つ並びの標語を、さらに正確に表記すると、 『共和国の統一と不可分性。自由・平等・友愛。"さもなくば死を!"』 となります。うーん。怖いなぁ。
お礼
ご回答ありがとうございます。 民主党も掲げている友愛は、自己から見ると平等寄り、平等優先ですよね。 私は、友愛を、車のハンドルでいう遊びと同じく、自由と平等の遊びだと思っていました。 自己から見ると平等優先、共同体から見ると調和せよということですね。 >『共和国の統一と不可分性。自由・平等・友愛。"さもなくば死を!"』 自由と平等を命がけで守り友愛しないと殺すと言う戦闘的思想なんですね。 でも、友愛ということは個人としては、相手の自由を尊重し、平等優先することですね。 友愛により自己が臥薪嘗胆すべき理由あるいはその利益をどこに求めればよいのでしょうか。自己と自然の維持発展と言うことでしょうか。
まず自由を優先し、 自由の中で慈愛も自由に発揮して行くのがいいと思います。 平等は、機会の平等、は必要だと思いますが、結果平等とすることは不公平になると思います。 具体例を挙げると明確だと思います。 ・A店はラーメンのだしのうまみを追求し、接客も快適だが、B店は他の客のスープの残りを用い、丼の上でクシャミをし、冷え切ってのびのびのラーメンを出す、とします。 平等に扱うなら、どちらも全く同じ料金にし、従業員給料も全く同額にし、更に客の方もどちらへも同じ回数通わなければいけません。そのようにしないと格差が生じるからです。 または、味も一律に政府が定めた規格以外のものを作ることは禁止する、というパターンもありえます。 いかがでしょうか? これを政治経済的に実施した国が、旧ソ連であり、結局崩壊しました。 もちろん、同じ仕事内容なのに、給料等の待遇が著しく違えば、それは改善すべきです。また、様々な事情で、労働できない状態にある人々が、適切な生活が送れるように、必要な便宜をはかることも大事なことです。 しかし、自由が効く状態であるならば、基本的には各自の自由を尊重すればいいと思います。 たしかに能力等々の差はありますが、能力の高い人はその分他者へ利便を与えることができるわけですから、その恩恵を享受することもできている面はあるでしょうし、高い立場の人は相応の責任も負いますので、バランスはとれているという見方も可能かもしれません。 更に、高い立場の人だって、結局は他者が何らかの形で支持しているから成り立っている面はあるわけであり、そうした人が著しく利己的のみなあり方をとれば、支持されなくなる、という流れもあるかと思います。 また、能力が低くても、高めることは可能ですし、日本は一応最低限の文化的生活は保障されていることになってはいますので、その上は自由ということでいいと思います。 それでもやはり現実面で不適切なことがあれば、上述したように色々改善等々して行けばいいと思います。 と、いうことで、基本的には冒頭の結論がいいようには思えます。
お礼
ご回答ありがとうございます。自由優先ですね。 平等は、旧ソ連からも分かる通り優先しすぎると崩壊するということですね。 そして、今回の自由主義経済の破綻により、すこし平等が寄り戻しているのでしょうか。 機会平等ということは、自由優先も平等に与えられるが故に、相手の自由を侵害することはできないですね。 このぶつかり合う自由優先を自分から初動することが是であると言える理由は見出せるのでしょうか。
お礼
amatubukunさん。 我、断末魔の苦しみの中にある。弾丸は、腰と肺に命中して、その銃口はさらに我の額を狙っている。 この苦しみのはてを知り、自らの銃で相手を殺してしまえば、我安らぎを得。 さあ、神よ、この光をもって刻み込まれし道を指し示せ。自由か死か。