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自由か平等か

民主党政権誕生、千葉法務相の発言等から、自由と平等の対立軸は、 平等側へシフトしているようですね。 自由と平等の対立界面は、明確だとは思うのですが、 はたして、自由は平等を前提とした限界内で自由なのか、 それとも、自由を行使できる限界に平等があるのか、 つまり、ギリギリのところで平等優先か、自由優先かを 問いたいのです。そして、それは何故かです。

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noname#96547
noname#96547
回答No.41

苦境に陥ってはならない。しかし、苦境を苦境のままにしておいてはならない。苦境は既に起こっているのだと観て、部外者であってはならない。更に酷い苦境も想定されえるのだとこころに観て、怖気てはならない。 苦しみのはてを知って、それに応じるならば、安らぎを知るといわれる。

bananasand
質問者

お礼

amatubukunさん。  我、断末魔の苦しみの中にある。弾丸は、腰と肺に命中して、その銃口はさらに我の額を狙っている。  この苦しみのはてを知り、自らの銃で相手を殺してしまえば、我安らぎを得。  さあ、神よ、この光をもって刻み込まれし道を指し示せ。自由か死か。

その他の回答 (40)

回答No.20

こんばんは、bananasandさん。 ●波動と粒子の二重性は、不確定性原理の顕在化がその理解を助けます。 その限界がプランク定数であり、これは予測結果の限界を意味し、不確定性を免れないことから、決定論的因果律が崩壊したようにも感じますね。しかし、不確定性原理は、限界がハッキリしたことで世界をより確定できるものにしたんです。一種のパラドクスでしょうかね。 【QNo.3417579三身常住は 三位一体とどう違うでしょう】  http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3417579.html 回答番号:No.29より一部抜粋 頭に留置いた箇所と次にあげた箇所をあわせ読みしてみると、東洋が西洋を認識することは絶対ありえなくもないのではないかと。次にあげた箇所の中で、"日本独特の、不確定で、奔放な、しかし断固とした実践"ということは、一見、不確定で奔放でつかみどころがなさそうなものに見られもしようが、断固とした実践を行う限りにおいては不確定で奔放というところをひとつの様態とながめればそのように規則だっているとみることもできるのではないでしょうか。ならば所作(ジェスト)もまたモニュメントと同質の性質を持つといえるのではないか。同質の性質を有するとするならば、東洋が西洋を認識することは絶対ありえないとはならず、認識することも可能という可能性が見いだせるのではないでしょうか。【歴史は未来においてはじめて現れる】 【メモ:岩波書店 [ランダウ・リフシッツ統計物理学第2版 上] 第1章第7節「エントロピー」中の或る訳語に付いて。 ついでに第3版で1パラグラフ講読】 http://yeblog.cocolog-nifty.com/nouse/cat4370752/index.html 【誤差の基礎】 http://homepage2.nifty.com/onojimusyo/gosa_kiso.pdf 【二乗平均平方根】 http://www.viswiki.com/ja/%E4%BA%8C%E4%B9%97%E5%B9%B3%E5%9D%87%E5%B9%B3%E6%96%B9%E6%A0%B9

bananasand
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 道教に見るような曖昧なカオスや非線形構造を呑み込む力場体と キリスト教、イスラム教、ユダヤ教等に見る絶対矛盾多重構造は、 同じものを指差しているのではないでしょうか。 その先は、人類が知り得た過去に基づいた変化予測モデルは通用しない、いわゆる技術的特異点に到達する道なのでしょう。 それは、最先端の暗号アルゴリズムを解く作業や複雑系現象を解析することで開けるようなものではなくて、人間の知能を直接的に増幅する具体的方法論が必要なのでしょう。 とはいえ、ここでの問は、自己内部へそういったことをも包含させて、七色に見える揺らぎは、あえて何色に見えるのか、それは何故か・・あるいは、そのプランク定数そのものを聞いています。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.19

#18です。 訂正があります。 × ただ、超自我に何の義理も無いのですが ○ <2> ただ、超自我に何の義理も無いのですが せっかちなので、投稿ボタンを押してから確認するんですよね、いつも。 ご容赦ください。  

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.18

#14です。 >人は、本当はやりたくはなかったんだと言いますが、行動した以上それはどう考えても嘘だと思いますね。 :全く同感です。 ただ、 > 理性で感情をコントロールするなんて聞こえはいいですけど、それを、決定しているのも感情 :と言えるのかといえば、どうでしょうか、という気がします。 うまく説明できるか自信が無いので2段階にしてみます。 <1> ご存知でもありましょうが、超自我というのは本能を抑えるために人に備わっている精神性とでも言うことができます。 ただ、「抑圧自体」が目的(詳しいことは知りませんが、神経症などの広範な症状を散見すれば、そうとしか思われません)なので、その対象が本能であるという条件において、結果として理性的と言われる作用として顕現しやすい、ということなのだと思います。 理性(と一般的に呼ばれているもの)の発揮のための理性でないとするならば、bananasand さんがおっしゃるところの、「それ(理性によってコントロールするかしないか)を、決定しているのも感情」というご見解は、たしかに合点がいきます。 超自我と理性という言葉を重複的に用いましたが、 理性は、理想的という概念に適しても、 超自我性とは、単に本能に対する抑圧である、という区分が可能でしょう。 超自我は言ってみれば本能の反動的存在という見方もできそうで、その意味でも、「決定しているのも感情」と言えそうです。 ただ、超自我に何の義理も無いのですが、あえて食い下がってみれば、 たとえそうであったとして、なにゆえ、そのような反動が備わるという属性を人間は携えて生まれてくるのだろうか、という根本的な問題が残ります。 動物と人間を分かつ決定的な要因と言っていいと思うのですが、こうなると人間とは何かとか、神はいるとかいないとかいうような方向に行ってしまい、私では手に負えなくなりそうなので、この件に関しては一瞬の食い下がりで終了しておきます。 お相手していただけるので、つい余談が長引いてしまいましたが、本質門に沿って多少軌道修正しますと、 本能も超自我という抑制(抑圧)作用も、いずれも原初的な欲求(あえて感情という言葉は避けましたが)である。 これらの欲求のいずれを選択するかという自由も、個人は(これも原初的に)持っている。 といったようなことになるのかもしれません。 このように、超自我も欲求、と解釈すると、 平等という概念は超自我的であるみたいなことを前に口走りましたが、個人が完全な自由の獲得を目指すことによって、結果として平等に近づくことができるような気もしてきますね。 しかし、こうなってくると、完全なる自由とは何かという振り出しに戻ってしまうでしょうか。^^; それぞれの個人が、人間としての自分に一体どれだけの可能性があるのだろうか、ということについてちょっとだけ考えてみるという習慣が定着するようになれば、なにか変化が起こりそうな気もしますけどね。    

bananasand
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 hakobuluさんの今回のご回答がこの問そのものですね。 本能→自由と拘束    超自我、理性→平等、意思決定の自由 獣としての人間の充足と、理性に満ちた人間としての充足。 充足という感情は、これらのどちらかを向いているのではなく両者を揺らいでいますね。 そして、獣としてのみ生きる人間は理性を持った人間を殺し、理性のみで生きる人間は獣としての人間の息の根を止めます。 それが自己内部で起こっているんですね。 バランス良く、調和して、というのはよく解りますが、両者を同時に完全に満足させることは永遠に出来ませんし、その均衡状態を完全に満足した状態であるとは感じないでしょう。 やるのか、やらないのか、ギリギリの状況で、優先は自由か平等かを決める理屈は立ちますか・・・あるいは、自由と平等が二重化される(自由と平等は同じものである言える)限界を聞いているのかも知れません。

回答No.17

 No.11&13です。  うかうかとボケをかましてはいられませんね。  ★ (No.13お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この問では、自由と平等を鋭い対立軸としてみていますので、それを踏襲すれば、ムラの資源、エネルギー、食料、土地、軍事は、結果系ですから平等なんて無いんですね。そして、ムラの自由は完全な自由。しかして、指導者アマテラスは、内外を問わず戦争の虜となるのは歴史も証明する必然です。  この延々と繰り返された愚行を学んだスサノヲ達でないと、このムラ単位の連帯は出来ませんね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ お株を奪われました。  ○ むらびとスサノヲ自身の内に 《公民アマテラス》を植えつけてまいりましょう。というよりは とうぜんそなわっているでしょうから 眠っているものは起こして 芽を出させ 水をやり 磨きをかけ 内側から光り輝くアマテラス能力としましょう。共同自治に活かせます。  ★ (同上) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この連帯が可能な精神性を 対等 と表現しておられるのでしょうか。  これは、お互い自由であることを認め合い、自由に自己表現し合うという対等のより深い部分が必要なのではないでしょうか。  何でしょう。もともとの相手に存在する富や豊かさを直接望まないと言うことでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ほかの回答のところで 感性を理性と同等に(もしくは同等以上に)とらえておられます。たしかにこの感情を大切にしたいと思います。  だとすると まづは  ○ 赤穂と吉良 会津と明治政府・・・亀井と小泉 等々のあいだで罵詈雑言のののしり合戦を 気の済むまで自由にまったく自由に繰り広げることが大事ではないでしょうか?  ○ 餃子とキムチと味噌汁とのあいだで けんかと呼べる舌戦を大々的にとことんテレビででも延々とやってはどうです?  ☆ そこから出発して   ★ もともとの相手に存在する富や豊かさを直接望ま  ☆ ずにむしろ互いにとうとび融通し合い まさかの時には互いに親身になってたすけ合う。それは けんか相手ならではという要素もあるのではないでしょうか?   〔口先だけのではない(=生活者市民スサノヲという土台にもとづく)《和を以って貴しと為す》というアマテラス公民性にかけては われわれ日本人のほうが 一枚上手でしょうね。輸出してもよいかも。つまり ののしり合戦をやっても つかみ合いになる寸前に塩梅よく取り持つのは にほんじんの得意技。自由で対等であるからこそ出来る。とごまをすっておきましょう〕。  ★ (趣旨説明) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  つまり、ギリギリのところで平等優先か、自由優先かを  問いたいのです。そして、それは何故かです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 蛇足として  ○ あくまで 人間優先でしょうね。  ○ 自分よりほんの一秒だけ相手を優先させる程度に人間優先とする。  ○ つまり《ゆづりあい》――これが《対等》の気持ちだと思います。  ☆ その昔 アマテラス帝国から服属の要求を受け けんかはおもしろいが人ごろしはごめんと言って《くに譲り》をしたのは スサノヲ〔の後裔のオホクニヌシのイヅモ村〕ですから。いづれ譲り返されるでしょうから そろそろその準備もしておかなくっちゃ。アマテラスは スサノヲにとって血を分けた姉さんですし。・・・  * それにしてもわたしはコイズミというのはスカンですね。徳川慶喜にもなれなかったのでしょう? 結果的にはなったのですかねぇ。北野武(その思想) 村上春樹(その小説)等々も。――あぁ 感情丸出しになりました。  * ほかのみなさんには bananasand さんとわたしの次の質問でのやり取りを参照していただくと この今のやり取りは分かりやすいと思います。  【Q:すべてのひとを説得することができますか】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4942224.html

bananasand
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >餃子とキムチと味噌汁とのあいだで けんかと呼べる舌戦を大々的にとことんテレビででも延々とやってはどうです? >アマテラス公民性にかけては われわれ日本人のほうが 一枚上手でしょうね。輸出してもよいかも。  独島、ガス田での餃子キムチのヒステリーと味噌汁の豆腐でしょうか。  一枚上手というのは、そうだと思います。資源、エネルギー、食料、土地、軍事の弱者が臥薪嘗胆し、独自に培ってきた強さでしょう。世界がビクッと反応するアマテラス公民性に仕上げなければなりませんね。今が正念場でしょう。CO2、25%でガクッときている産業界をどうしましょぉう・・ >○ あくまで 人間優先でしょうね。  対等、即ち、自己の中で自他の垣根を越えたところの人間と言うことですね。  たとえ、他が自由優先であっても、機会平等の限界までは臥薪嘗胆の覚悟をしておく  ということでしょうか。    ところで、 コイズミ、北野、伸助、村上 各氏に共通するのは、大衆心理と演出みたいな、いわゆるウケを心得ている点でしょうか。私は、好き嫌いよりも、彼らを作り出してしまった、あるいは、これからも彼らを作り出すのは我々視聴者側だという懺悔と恐怖が優先しますね。 ヒトラーが民主主義を使って民主主義を徹底的に破壊したことを許したのは当時のドイツ国民という愚行を我々もコイズミで犯してしまったと思うんですね。

回答No.16

こんばんは、bananasandさん。 【グスタフソンの法則】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%95%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87 【超ロバスト並列計算】 http://www.i.u-tokyo.ac.jp/coe/report/H16/21COE-ISTSC-H16_4_1_1.pdf 【マイクロアーキテクチャ設計入門】 「制御回路編」 http://homepage3.nifty.com/alpha-1/computer/Control_J.html

bananasand
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。  アムダールには随分お世話になりました。  メインフレームCPU間の超高速伝送をやらせてもらってまして、  昔から並列処理の嵐なのですよ。3.6ns/mの世界です。  処理速度と並列処理アーキテクチャから要求される伝送速度が出ますが  伝搬遅延時間は3.3以下には絶対になりませんから、結局、処理の遅延は、  その装置の大きさに依存するようになるのですよ。物理的限界があります。  しかし、如何に大量のデータから結果を出そうとも、  如何に複雑な処理をしようとも、結果は0か1かです。  確かにやっている時は、並列でいいんですけどね。まさに並列ね。

bananasand
質問者

補足

一種のパラドクスとしてとらえることも出来るのでしょうか。 波動と粒子の二重性は、不確定性原理の顕在化がその理解を助けます。 その限界がプランク定数であり、これは予測結果の限界を意味し、不確定性を免れないことから、決定論的因果律が崩壊したようにも感じますね。しかし、不確定性原理は、限界がハッキリしたことで世界をより確定できるものにしたんです。一種のパラドクスでしょうかね。

  • gigamax2
  • ベストアンサー率27% (170/628)
回答No.15

こんばんは、No、9です。 返事感謝致します。私の根本的な考えに理解いただいたことも重ねてお礼いたします。 さて、色んな意見で活性化してますが良い傾向です。人生相談カテでは目の前の出来事に囚われすぎて盲目になっている方が多いですが、このようなテーマに少し注意を向ける事で自分自身を見つめることが出来ると思うのですがね。 それはさておき、貴方の言うところの囚われる感情は自分も含め誰にも備わっています。物質領域・非物質領域を含め、それらを構成している根源は波動です。波動は二元性を持っており、全ての現象には陰・陽のエネルギーがあると言えます。自由と平等と言う言葉にも陰・陽の捕らえ方があるとも言い換えることが出来ます。 そこで貴方の言う人間が集まる煩悩の中での観点が質問ってことですよね?それは我々が歩んできた歴史が改ざんされている事、我々の本質が隠蔽されている事。そしてその中で我々が操作されている事と深い結びつきがあり、本質の自由と平等が達成できてない事に謎の答えが有るのです。 操作する側は陰陽の陰の部位をたくみに操作して我々を限定的な思考にしているのですが、この手の内容は賛否あるでしょうからこの位で止めて起きます。 ただ混沌とするこの浮世では、本質を見据え自分がどうあるべきか?に焦点を定めないと陰の部のみが蔓延すると言えますし、現に今はそうなのでしょう。人の数だけ境界線は限りないのですし、そこはまさしくグレーゾーンであり線引きは難しいと言えますが、最終的に本質的な自由と平等に帰依するのだと思います。 いつなのかは分かりませんが・・・。

bananasand
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >そこで貴方の言う人間が集まる煩悩の中での観点が質問ってことですよね?  煩悩の中であることをスタートにしています。事実を受け入れています。  それを前提に自由と平等の対立軸について問うています。 >それは我々が歩んできた歴史が改ざんされている事、我々の本質が隠蔽されている事。  それも自由と平等の対立軸で議論することが可能でしょう。  過去の歴史的事実の本質さえも、その事実の体験者の中にある自由と平等の対立軸に左右されるとみることさえ出来なくはありません。 >そしてその中で我々が操作されている事と深い結びつきがあり、本質の自由と平等が達成できてない事に謎の答えが有るのです。  そう思いますよ。まさに、この謎の答えを求めています。 >ただ混沌とするこの浮世では、本質を見据え自分がどうあるべきか?  この浮世は、自分の外側にはありません。自分の中にあります。  だからこそ、陰の部のみが蔓延する自分を回避することがこの問の本質なのです。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.14

#12です。 >この感情が自分を強く拘束する一方で、自由と平等を正常に保つ原動力でもあるんですよね。 :そうですね。 無ければロボットですし、かといってありすぎるというか、そればかりでも・・・。 ということなんでしょうね。

bananasand
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。  感情は、意思決定機能の主要部ではないでしょうか。絶対に逆らうことは出来ません。  理性で感情をコントロールするなんて聞こえはいいですけど、それを、決定しているのも感情ですからね。泣いて馬謖を斬るも、斬った方が良いと判断しているのは理性か感情かと言えば・・・確かに感情で泣いてはいますが、同時に冷徹にも斬りたいとしているのも感情だと思うんですね。 人は、本当はやりたくはなかったんだと言いますが、行動した以上それはどう考えても嘘だと思いますね。 このあたりがロボットと全く違うところだと思います。

回答No.13

 bananasand さん こんばんは。お応えをありがとうございます。  No.11です。せっかくのご設問ですから もう少しピリッとせずばなるまいと・・・。  ★ (No.11お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   >《対等》という基軸を差し挟む  これは、おっしゃる通り平等を前提とする概念ですね。  自分は自由である。相手も同じく自由である。対等に自由に自己表現することが  即ち定性的平等である。ということですね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この問題をめぐって しかもその視点は  ★ (No.11お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この問は、政策次元と人間関係の次元を区別しない自己の内部にある  自由と平等の対立軸を指していました。どちらにも向けられるという意味です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということでしたら 歴史社会的な自由についても触れるべきだと考えました。  例によって   ○ インタムライスム inter-mura-isme  ☆ という方向です。国境を超えて ムラ(市町村)どうしが連帯し 国家の次元を自分たちの自由な主体性に従わせる。企業に対しても 或る程度の指導性を発揮することができると思います。  こうでないと 平等を前提とした自由としての対等は まだまだ弱いと見ざるを得ません。  世界のインタムライスト 団結せよ。  てなぐあいで。  ひとつのムラが 縦横無尽に相互錯綜して世界中と経済的・共同自治的・文化的に提携・連携しあうという考え方です。  むろんと言いますか まだ具体化はしていません。どうでしょう?   つまり重ねて確認しておくならば この方向において  ★ (No.11お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  武士は食わねど高楊枝、やせ我慢説を世間の常識とするということは、  より平等になる権利(定量的平等)を自己が抑制するということですね。  第3極として捉えるなら、友愛、奉仕とも異なる、いわば臥薪嘗胆ですね。  自然であり、直接的です。自由が確保されている限り、諦めろというわけです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ となります。♪ 蛍の光 窓の雪 ♪・・・  どこからか茶々が入るでしょうか・

bananasand
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。  この問では、自由と平等を鋭い対立軸としてみていますので、それを踏襲すれば、ムラの資源、エネルギー、食料、土地、軍事は、結果系ですから平等なんて無いんですね。そして、ムラの自由は完全な自由。しかして、指導者アマテラスは、内外を問わず戦争の虜となるのは歴史も証明する必然です。  この延々と繰り返された愚行を学んだスサノヲ達でないと、このムラ単位の連帯は出来ませんね。  この連帯が可能な精神性を 対等 と表現しておられるのでしょうか。  これは、お互い自由であることを認め合い、自由に自己表現し合うという対等のより深い部分が必要なのではないでしょうか。  何でしょう。もともとの相手に存在する富や豊かさを直接望まないと言うことでしょうか。  

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.12

#10です。 >例えば、死刑は、この考えのみに従うとするなら、廃止論に傾くということですね。 :そうなりますね。私も一応は廃止論者です。 ただ、「現状での極刑適用」に反対するわけではありません。 というか反対できません、感情(本能)的に。 前回の「まず、自由を理解し獲得することからしか始まらないのかもしれません。」に絡めて少し考えてみました。 (死刑によって)殺したいと思うのも自由であると同時に、殺さないほうがよいと思う自由もあるはずで、つまり、どちらかを選択する自由が(個人の内面にも)ある、ということがあると思います。 しかし、現状では感情的に殺したいと思うだけであって、選択という過程を経ていない場合が殆どでしょう。 「殺したい」とか「排除したい」とかいう感情においては、自由を理解してもいないし、獲得してもいないのかもしれません。 このように、自由であるように思えて実は何かに囚われている、という面は案外大きいのでしょうね。 ここを超えないと本当の意味での自由も獲得できないのでしょうし、つまり、自らが囚われた状態で、他者との関係性において平等を真に認識することなどできないのだろうな、という気がします。  

bananasand
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 このご意見はその通りだと思います。 >「殺したい」とか「排除したい」とかいう感情においては、自由を理解してもいないし、獲得してもいないのかもしれません。  この感情に自己が拘束されて、自由を失っていると言うことですよね。そして、相手を殺すということは、究極の差別であって、平等が皆無ということです。  とはいえ、感情の発生は避けられません。これを統御するのが理性とか人間性と呼ばれるものかも知れません。この感情が自分を強く拘束する一方で、自由と平等を正常に保つ原動力でもあるんですよね。

回答No.11

 こんにちは。  ★★ (No.8お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   >自由とは自由競争のことですか?それとも、大量生産の労働力が必要だったころの弱者は考えるな従えという保守の思想ですか?  この質問は、すごく一般的なことを聞いています。  自由競争も含めて、概念としての自由と、概念としての平等の対立軸の話です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ とお聞きしましたので 気を楽にして空想を述べます。  ★ 自由と平等  ☆ に関して具体的な政策の次元で議論するなら 最終的にはほとんど運にまかせることになるとさえ言わねばならないのではないかと思います。横槍が入るなどの力関係によるのではないとしても 妥当性のある理論とそれにもとづく政策であってさえ 見落としがあったり なくても思わぬ展開が待ち受けていたりするのではないでしょうか。  社会科学は実験ではないと言いますが しかしながら試行錯誤になると考えます。    問題は むしろ空論のほうに分があって 生活態度や心構えが大事なのではないか。こういうふうにも考えます。  ★ 自由と平等  ☆ これは 政策次元でなければ 人間関係という次元の問題です。  平等は 機会の均等あるいは結果の平等というふうに見られたり 自由は 自己責任において自由な自己表現に従うべしというふうに解釈されたりだと思いますが そしてそのことがわるいとは思いませんが もし心構えとしてなら そこに《対等》という基軸を差し挟むとよいかと考えます。  対等な人間関係 あるいは 人間どうしのあいだにおける対等の関係 これをかかげるのはどうでしょう?    けっきょくは 自由のことですが 理念としての平等を前提とした概念であるかと考えます。  言いかえると 自由でない部分があるところで自由を求めるのはふつうのことですが 平等でない部分があるところでも自由であろうとし相手となる人たちとは対等に自己表現をしていくこと これです。定量的に平等ではないでしょうが 定性的には平等だというわけです。  定性的にとは 人間としてと言いかえてもいいと思うのです。  やや的を外したふるい言い方を持ってくれば 武士は食わねど高楊枝といったところでしょうか。やせ我慢の説とかありましたね。  あとはこれを世間の常識とすること つまり このこころがまえの水嵩を増していくあゆみがつづきます。    単純な妄想でした。  * あとは 勤勉資本主義とガリ勉資本主義とを分けて 後者のばっこする風潮があっても前者の地歩を少しづつでも固めていくことが大事かと思います。  あたかもわれわれは別個のワ゛ーチュアルな経済世界を雲の上につくられてしまっているわけですから この雲の上の台風には備えつつ 人間にとってのふつうの基礎としての経済生活世界を築いていくほかにない。自由と平等とは そういった方面について知恵を出し合うときの理念になるのではないでしょうか? 仮想現実の自由や平等では われわれは満足しないと確認しつつあゆむことではないでしょうか?

bananasand
質問者

お礼

bragelonneさん、ベタな質問に回答いただきありがとうございます。 >これは 政策次元でなければ 人間関係という次元の問題です。  この問は、政策次元と人間関係の次元を区別しない自己の内部にある  自由と平等の対立軸を指していました。どちらにも向けられるという意味です。 >《対等》という基軸を差し挟む  これは、おっしゃる通り平等を前提とする概念ですね。  自分は自由である。相手も同じく自由である。対等に自由に自己表現することが  即ち定性的平等である。ということですね。     武士は食わねど高楊枝、やせ我慢説を世間の常識とするということは、  より平等になる権利(定量的平等)を自己が抑制するということですね。  第3極として捉えるなら、友愛、奉仕とも異なる、いわば臥薪嘗胆ですね。  自然であり、直接的です。自由が確保されている限り、諦めろというわけです。 >あたかもわれわれは別個のワ゛ーチュアルな経済世界を雲の上につくられてしまっている  1ティックを1bitとするこの新生物的、統合思念体的存在は、経済システムの口から  爬虫類の舌のように上下を模索し続けますが、こいつは獲物に敏感で本性むき出しですからね。  自由も平等もシステムの口で予めルールを決めて、常に適正にコントロールしないと、正常な経済循環を逸脱して暴走と停滞の間を大きく揺れることになるわけですね。

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