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自由か平等か
民主党政権誕生、千葉法務相の発言等から、自由と平等の対立軸は、 平等側へシフトしているようですね。 自由と平等の対立界面は、明確だとは思うのですが、 はたして、自由は平等を前提とした限界内で自由なのか、 それとも、自由を行使できる限界に平等があるのか、 つまり、ギリギリのところで平等優先か、自由優先かを 問いたいのです。そして、それは何故かです。
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苦境に陥ってはならない。しかし、苦境を苦境のままにしておいてはならない。苦境は既に起こっているのだと観て、部外者であってはならない。更に酷い苦境も想定されえるのだとこころに観て、怖気てはならない。 苦しみのはてを知って、それに応じるならば、安らぎを知るといわれる。
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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お早うございます。 No.11&13&17&22&25&29です。 ★ (No.29補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >○ 特異点は 《白》というよりは 《透明》と言ったほうがよいかも知れません。○ そうするとその《透明》ないしけっきょくは《なぞ》が解であるとなります。 なぞそのものが解とはなりませんよね。白というのは、解らんけど間違いなく在るということでしょう。透明は不可視で存在が不明で、白は白で解とはなりませんね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 回答No.17の( f )で プランク定数が零の場合を想定しましたが これを細かく規定すべきだと思いました。 1. 特異点(≒非思考)では すべてのやってきた光を反射して白く見えるというよりは すべてを吸収してしまうのではないか? つまり 《透明》ではないか? 2. ただし人間の存在じたいが 透明であることは無理なので その非思考の特異点と想定したところでも 反射する部分があり何らかの色に見える。つまり振動している。ただしそれでも非思考と言いたい所以は そのプランク定数が おおよそ零であるのではないか? 3. その無根拠としての根拠を 少々抹香臭い文章にて。 ▲ (パウロ:ガラテア書5:24) ~~~~~~~~~~~~~~~ キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 4. ふざけんな! と突っ込まれても仕方のない命題ですが けっこう現実的であると分かりますよ。十字架上のイエスが特異点です。 【Q:イエスは 特異点か】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5111414.html 5. その木の船(十字架)に乗ってこの時空間をすすむ者にとっては その存在じたいがすでに魚のように網で掬われていますので 光が来れば不純物が交じっていて反射はするけれども そのエネルギなり振動なりを消してしまうかの現象となって現われます。言いかえると アースの役目をします。 6. 決してそのひとの内面の非思考の部分で《自由と平等が一致する状態が実現している》というのではないでしょうが あたかもそのような様相を持って能天気であるのだと考えます。静的にも動的にもです。――これが 経験現実に関するかぎりでは 《なぞとしての解》に相当するのだと見ます。《なぞつまり正解》の近傍(?)にあると言えるのかも知れません。 7.★ 白のなぞにおいて、分光光度計の解析結果は解です。 ☆ この場合の《解》は したがって 《なぞとしての正解》のもとにあって 実際に具体的に反射をしつつさまざまな色に見えているその色のことだと思います。いまの議論では 青の自由か赤の平等かになるでしょうか。 ★ (No.27お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 自由が成立すると平等の概念が形成されるが、平等が形成されても必ずしも自由は生まれないというのは、自由が優先されても然るべき理由にように思うようになってきました。これを精査したいです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 《ひと》がそれぞれ身体存在として独立しているからだと思います。 独立しているつまり分かれているということは そのまま同時に社会生活をする限りで関係しあっています。独立性が成り立つと同時に関係性が出来ます。社会的な独立が成るとき同時に社会的な関係が その存在じたいに現われます。おそらくもともと――自然本性として――そなわっているのだと思います。 ということは 理論としては 自由と平等とはむしろ切っても切れない二つにして一つのものであるかも知れません。ところが《わたし》の意志行為は 独立性の側にいくぶん片寄ったかたちにおいて行なわれる――こういうことではないですか。あたま(精神)のほうも おおよそでは 独立性のほうの身体とその知覚から始まっていますから。 この《いくぶん片寄った発進》によって 社会における実際の人間関係は いろんな意味で差異を持ったものになるようです。 この実際の情況に応じて行為したり政策を打ったりするときには 自由寄りか平等寄りかも情況の実態に応じて決まってくる――こういうことではないですか。 それと 社会全体を相手にする政策の場合は 自由寄りであろうが平等寄りであろうが どうしても一部分の人たちには不利であったり有利であったりという別の意味での片寄りが出てくると思われます。宿命のごとくに。 ふうーう。《近傍》の使い方は自信がありません。
お礼
>☆ これは 《ひと》がそれぞれ身体存在として独立しているからだと思います。 >この実際の情況に応じて行為したり政策を打ったりするときには 自由寄りか平等寄りかも情況の実態に応じて決まってくる――こういうことではないですか。 >この《いくぶん片寄った発進》によって 社会における実際の人間関係は いろんな意味で差異を持ったものになるようです。 そうでしょうね。こういうことでしょうか。 つい先日、非嫡出子の相続差別問題で、結局合憲になりましたが、裁判官から違憲の意見が出されましたね。平等側にシフトした感じですし法改正を視野に入れる動きもあります。 http://www.asahi.com/national/update/1003/TKY200910030150.html 最近の未婚の母、離婚増加の実体もあるのですが、基本的には嫡出子-非嫡出子間の不平等と法律婚との対立ですね。法律婚とは、一夫多妻の自由と一夫一婦の平等、重婚禁止、愛人契約の公序良俗違反みたいなことも含めた全般を指す訳ですけどね。 これは、一夫多妻は、平等を著しく欠くから、一夫一婦の平等を優先している。そうすると、非嫡出子には基本的に相続権は発生しない。それも不平等だから1/2にしているんですね。 これを子供に責任はないのだから、平等な相続をしないと、機会平等に反するとして嫡出子-非嫡出子を平等にすると、愛人契約も子供が出来てしまえば市民権を得てしまうのか・・責任さえ負うなら疑似一夫多妻あるいは多夫一妻ができる自由が顔を出しますね。 この辺は、もともと重婚でなければどうしようが自由(刑法上)なんですから、その傾向を加速させますよね。
補足
御回答ありがとうございます。 >1. 特異点(≒非思考)では すべてのやってきた光を反射して白く見えるというよりは すべてを吸収してしまうのではないか? つまり 《透明》ではないか? 無限大のエネルギーが一点に集中する宇宙の始まりの絶対矛盾の特異点を指しておられますね。bragelonneさんの透明イメージは解りました。特異点が白か透明かは、反論したり、議論したりする必要もないと思うのですが、私のイメージはお伝えしておきます。 白を構成する光と、この特異点の事象の地平線を同列に並べない立場なのです。 前者の地平線、境界は、白と各色にあって、各色が不可知。後者は絶対的不可知ですからまな板がちがいます。こちらは、特異点の存在はベンローズにより完全に証明され、解が不可知というところに境界があります。アインシュタイン方程式が正しければという但し書きがつきますけどね。まぁ、アインシュタイン方程式が間違っているとする(おそらく完全に正しいものではないとおもってます。一部間違いというか限界がある。)と、人間の相対論的な時空間把握と宇宙の実相との違いが明確になるということで、それがこの特異点のなぞを解き明かす、疑似解になるでしょう。 特異点が、白か透明かは不毛な議論です。どちらも実相からかけ離れ、どちらも象徴としては正しいのですから。 >2. ただし人間の存在じたいが 透明であることは無理なので その非思考の特異点と想定したところでも 反射する部分があり何らかの色に見える。つまり振動している。ただしそれでも非思考と言いたい所以は そのプランク定数が おおよそ零であるのではないか? プランク定数は、こちら側の話しなので、特異点では、そんなものはありません。 人間と特異点の関係は、深いです。存在と時間と誕生と死に密接に関係しています。 誕生が常に非線形現象であるなら誕生しているのは自分側なのか事象側なのか、時間論の観点からも区別がつかなくなります。究極的には、我々は特異点の中なのか外なのかさえ区別がつかないと思いますね。 >3.4.5 そういう視点から、イエスの特異点は、充分に特異点と表現して至極妥当かと思います。 >67 下から行きますが、反射光で解は得られません。スペクトラム解析が不可欠です。 近傍では知り得ません。非思考の能天気は、地平線の外側においてはどうしようもありませんね。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんばんは。 No.11&13&17&22&25です。 さすがの図々しいわたしも投稿がこれほど重なると びびりました。何故だか分かりません。 二点あります。 まづ 特異点の扱いをめぐってです。 ★ (No.25お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (α) 非線形の権化である特異点は、自己から見てなぞであり、確かに解は得られません。 (β) しかし、私は、特異点の存在は明らかであると主張しています。存在するということは間違いなく解もあるのだと。自己から見て決して解けないだけなのです。ですから、 (γ) 常になぞでいいのですが、そのなぞはあっても無くても同じとか、存在すら疑わしいのではなくて、それは存在し、 (δ)解もあるのです。あたかも白に隠れたそれぞれの色のように。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ まづ(α)および(β)は 共通の認識事項であるでしょう。強いて違いを際立たせようと思えば 次の表現をめぐってです。 ★ (α)・・・確かに解は得られません。(β)・・・自己から見て決して解けないだけなのです。 ☆ この前提に立って わたしにはおまけがつきます。 ○ 指先でそっと触れられたかのように感じるときがある。それはあたかも解が与えられたかに思うときである。 ☆ あるいは予感と言ってもいいかと思われます。ただし 無根拠です。 ですから もし次がわたしのことだとすれば それは誤解です。 ★ (γ) ・・・そのなぞはあっても無くても同じとか・・・ ☆ とはわたしも思っていません。《なぞはある》という立ち場です。《解》については上に述べましたね。 次の(δ)が微妙です。 ★ (δ) 解もあるのです。あたかも白に隠れたそれぞれの色のように。 ☆ 腑分けします。 ○ 特異点は 《白》というよりは 《透明》と言ったほうがよいかも知れません。 ○ そうするとその《透明》ないしけっきょくは《なぞ》が解であるとなります。 ○ 《白やそれに隠れたいくつかの色》は 《解》ではないですね。特異点のもとに おそらく次元を異にして現われる経験事象だと考えられます。 ○ ですから 仮りに《特異点においては自由と平等が一致している》とするならば まづ一つ目に そうであってもその《解はあるが 分からない》が来ます。 ○ 二つ目には 一般に経験現実においては二つの概念は対立しあっているとなります。すなわち自由と平等とは もしそれぞれ青と赤だとすれば そのように互いに差異を持つのだと。 二点目は したがって この特異点が非思考なのですから それを ★ スタティックな条件下に置 ☆ いた場合でも 同じだと思うのですが どうでしょう? 仮りに相手の情況が こちらから見るとブラックボックスの中にあってあたかも特異点のごとくであったとしたなら それがいわばスタティックな状態にあるという条件を満たしている場合だと考えられるように思いますよ。 * 自由のほうが 大前提であるようには思っています。自然本性としての記憶および知解につづく意志は 自由意志と呼んでも 平等意志とは言わないという点において。ただし 自由という概念は それが成立するとき同時に平等という概念が成り立つことになっているとも考えます。
お礼
>二点目は したがって この特異点が非思考なのですから それを >★ スタティックな条件下に置 >☆ いた場合でも 同じだと思うのですが どうでしょう? >仮りに相手の情況が こちらから見るとブラックボックスの中にあってあたかも特異点のごと>くであったとしたなら それがいわばスタティックな状態にあるという条件を満たしている場合だと考えられるように思いますよ。 はい、これはそうだと思います。スタテックな条件下に置きたいのは、bragelonneさんが「動態」と表現された《ひと触れ(ワン・タッチ)を受けとめた考えるわたし》の生のダイナミズムのことで、非思考そのものではありません。 >* 自由のほうが 大前提であるようには思っています。自然本性としての記憶および知解につづく意志は 自由意志と呼んでも 平等意志とは言わないという点において。ただし 自由という概念は それが成立するとき同時に平等という概念が成り立つことになっているとも考えます。 自由が成立すると平等の概念が形成されるが、平等が形成されても必ずしも自由は生まれないというのは、自由が優先されても然るべき理由にように思うようになってきました。これを精査したいです。
補足
御回答ありがとうございます 白のなぞにおいて、分光光度計の解析結果は解です。 生身の人間からはどうあがいて解くことはできませんが、分光光度計を使えば解けます。 人間と分光光度計は、非線形だから解けているわけです。 >○ 指先でそっと触れられたかのように感じるときがある。それはあたかも解が与えられたかに思うときである。 >☆ あるいは予感と言ってもいいかと思われます。ただし 無根拠です。 だから、白で象徴していいと思うんですね。実体は見えていないが、在ることは解っているという意味で。 >○ 特異点は 《白》というよりは 《透明》と言ったほうがよいかも知れません。○ そうするとその《透明》ないしけっきょくは《なぞ》が解であるとなります。 なぞそのものが解とはなりませんよね。白というのは、解らんけど間違いなく在るということでしょう。透明は不可視で存在が不明で、白は白で解とはなりませんね。 >○ ですから 仮りに《特異点においては自由と平等が一致している》とするならば まづ一つ目に そうであってもその《解はあるが 分からない》が来ます。 そうです。それが強く推定されても、あえてどちらかが優先である言える根拠はあるだろうかと聞いています。 >○ 二つ目には 一般に経験現実においては二つの概念は対立しあっているとなります。すなわち自由と平等とは もしそれぞれ青と赤だとすれば そのように互いに差異を持つのだと。 青と赤は、周波数が異なるだけで他は同じ性質を有する電磁波ですが、白の観察者から見ると鋭く対立します。青の光量が増せば、赤緑を増やさない限り、白は青になります。そして、超高速で移動する物体のドップラー効果でも青は赤へ赤は青へ偏移しますし、非線形で言えば光の波長変換素子、高調波変換材料で、青は赤になり、赤は青になります。 自由と平等は物理現象じゃないと突っ込まれそうですが、特異点とまでは言わないまでも条件が整えば、自由は平等と化し、平等は自由と同質となるのだろうかと思うんですね。
当回答者が語る平等についての追記説明 ・他人と自分が、同じ、同等であると言うのではない。(相手をすぐれているとか、劣っているとか、自分と同じくらいであるとか、見なし、考えることではない。)
誰しも、平等でありたいと思っているだろう。他を上回ることによって他を圧倒してしまったり、また他にかなわないことによって他からの抑圧を受けたくはないだろう。 他者とは、平たく、対等であって、物怖じせず、互いに遺恨なく付き合えるのが素晴らしいのだと、誰でもこころには了知あるだろう。(自らの心に問うて、そのことを疑える人はいないだろう。) 自由というのは、それを行為するのに当たって妨げなくできるという意味であると思うが、その行為することが、自らの望みにかなっていれば、だれもが支障、妨げなく行為できるものであると思う。自らのこころからの望みと、実際に行為することが違っておれば、誰でも、(自身のうちに)妨げを感じるだろう。 故に、平等を目指すということは、人のほんとうの気持ちに従ったことであり、それは、自由な行為であると言えるのではないか。
お礼
ご回答ありがとうございます。 おっしゃる通り、誰しも、より平等を求める権利を有していて、それ行使するかはまさに自由です。異論は全くございません。 そして、同時に、より自由を求める権利も有していて、これを行使するか否かもまた自由です。 しかし、両者を同時に行使することは出来ません。 これらは対立して自己矛盾が発生します。この問はその界面を聞いています。
- littlekiss
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こんばんは、bananasandさん。 ●それは、何故なのでしょう。もとの木阿弥となります。 【「ぎもんしつもん目の辞典(東山書房)」】 《 目の構造と働き 》――――――――――― <色覚> http://www.ocular.net/jiten/index.html 【「Synthesiology -構成学」】 http://www.aist.go.jp/synthesiology/vol01_03/vol01_03_full.pdf
お礼
ご回答ありがとうございます。 9月21日、ホワイトハウスからStrategy for American Innovationが発表されましたね。 http://www.whitehouse.gov/the_press_office/President-Obama-Lays-Out-Strategy-for-American-Innovation/ 具体性のある戦略です。その中の一節に、 the greatest job and value creators of the future will be activities, jobs, and even industries that don't exist yet today. とあります。 確かに白と対極にある闇ですからね。死の谷の所以でしょうけどだからこそ白が際だちます。 白があえて何色かは、闇の中でしょうか。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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No.11&13&17&22です。 ★ (No.17お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 世界がビクッと反応するアマテラス公民性に仕上げなければなりませんね。今が正念場でしょう。CO2、25%でガクッときている産業界をどうしましょぉう・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 経済活動ないし経済政策については どうしても相手がある場合には外交政策と同じように 成り行きに従うよりほかにないこともあると思います。どうするか。わたしにはいま力不足です。 前半の《アマテラス公民性の磨きかけと仕上げ》については ただいまの議題です。 ★ (No.22お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・色の話しに置き換えると、人間が白を見るとき、赤、緑、青の混合した白なのか、 七色混合した白なのか、高温の溶けた鉄のような全周波数の白なのか見分けることは出来ません。本来これらは、全く違う光の要素であるにもかかわらずです。人間側が変わらなければ無理なんですね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ きわめて煮詰めた議論としては この ★ 人間側が変わらなければ無理なんですね。 ☆ に行き着きますし そこからつねに踏み出します。 ★ (承前) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ で、同じ話しになりますが、白は、単純化した赤、緑、青において、いずれが優先か、限界はどこかと言うようなことを表したつもりなんです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《限界はどこか》の問題はつねにありますが 《いづれが優先か》については どうでしょう たとえば《相手や情況に合わせて決める》というふうにはなりませんか? それゆえにも――同じく究極の原則としては―― 《非思考というひと触れ(ワン・タッチ)を受けとめた〈考えるわたし〉》が わたしたちそれぞれの動態であるということになりませんか? 《相手や情況に応じて決める》のは《考えるわたし》ですが つねにその心構え(生活態度)としては 《非思考の指先による触れられ》――つまり要するに 能天気の状態――において《優先順位の未決定》を持つということではないでしょうか? ★ 限界 ☆ は対話の限界です。鎖国政策に出遭えば なかなかどうすることも出来ません。ひとりの人間による能力と努力とでは限りがあります。何人かのひとが入れ替わり立ち替わりして その問題のひとにあい対していかなくてはならないと思います。 社会的な交通(まじわり)において個人の鎖国政策が度を超えている場合には 社会性ないし生活の共同性という観点から 自由よりは平等(つまり相互の自由)を優先させて その一国一城のあるじに対して なんらかの社会的なちからを行使することもあるかと思います。その場合には 《どのように度を越しているか》を事前に明らかにして大方の合意を得る必要があるはずです。 ★ (No.22お礼欄) そうですね。非思考の顕在化に突入してしまった感があります。 ☆ このとき 微妙な差異があるかも知れないという一点でのみ しつこく投稿をつづけました。それは ○ 非思考の なぞとしての顕在化 ☆ なのだという言い分です。《因果関係のはたらかない特異点》は 依然としてまたつねに なぞに留まるということだと考えます。色としては白がそういう役割りを演じているでしょうかどうでしょうか?
お礼
ご回答ありがとうございます。 >たとえば《相手や情況に合わせて決める》というふうにはなりませんか? >それゆえにも――同じく究極の原則としては―― 《非思考というひと触れ(ワン・タッチ)を受けとめた〈考えるわたし〉》が わたしたちそれぞれの動態であるということになりませんか? 確かに生のダイナミズムが実際と合致すると思います。 でも、この問では、ダイナミズムもスタティックな条件下に置きたいのです。 それはさておき、相手の状況と非思考は、自己から見ると同じ態様ですよね。 これは、ギリギリのところでは、自己はこれらに呑まれてしまうということでしょうか。 と、やはり、時間経過の概念が入るダイナミズムになってしまいますか。 状況変化に伴う揺れでその時々の判断を下さざるを得ないところが限界ということは言えると思いますが・・ >★ 限界 鎖国政策と一国一城への平等の権利主張は、その通りだと思います。 >《因果関係のはたらかない特異点》は 依然としてまたつねに なぞに留まるということだと考えます。色としては白がそういう役割りを演じているでしょうかどうでしょうか? これが、以前からbragelonneさんと乖離する点ですね。 非線形の権化である特異点は、自己から見てなぞであり、確かに解は得られません。 しかし、私は、特異点の存在は明らかであると主張しています。 存在するということは間違いなく解もあるのだと。自己から見て決して解けないだけなのです。ですから、常になぞでいいのですが、そのなぞはあっても無くても同じとか、存在すら疑わしいのではなくて、それは存在し、解もあるのです。あたかも白に隠れたそれぞれの色のように。
- hakobulu
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#18です。 ど素人にもわかりやすいようにご説明いただき感謝いたします。 >やるのか、やらないのか、ギリギリの状況で、優先は自由か平等かを決める理屈は立ちますか・・・あるいは、自由と平等が二重化される(自由と平等は同じものである言える)限界を聞いているのかも知れません。 :本来的な意味での自由が獲得できてさえいれば、平等(社会)は自ずと訪れるのではないか、と思います。 それが獲得されていない社会形態のうちは、暫定的措置として平等という認識があえて必要になる、という感じです。 自由や平等が目的としての認識であるうちはまだ本物とは言えないのでしょう。 では、本来的自由を獲得すること、あるいは本来的に自由だという状況が定着し難いのは何故かということになるでしょう。 これは、怖れなのでしょう、たぶん。 他者というものも含めた環境に対する怖れです。 環境によって受ける刺激の取捨選択によって私たちは認識し、その記憶を元に言動を繰り返しているわけですが、 これに関連して怖れるということは、つまり、諸々を含めた環境を受け止めるだけのキャパシティ自体が現行人類には未だ不足している状態なのではないでしょうか。 ただ、怖れなくてもよい場面で怖れる、つまり、意志的にその怖れを超克できる場合は案外あるような気もします。 この意味で、単純かもしれませんが、怖れないことが自由へ近づく一歩、ということになるようにも思います。 ただ、怖れないということと無防備ということは別問題ですよね。 そうすると、過剰防衛にならないように留意する、ということになるのかもしれません。 そして自由が本来的なものに近づいていくにつれ、平等と声高に叫ばざるを得ない場面も減少していくのではないでしょうか。 本来的自由が獲得されれば、つまり、怖れない視点で他者を含めた環境に対処できるようになれば、過剰に相手の自由を侵す必要性も消滅するからです。 平等が揺らぐのは、自分の自由が侵されるかもしれないという怖れからでしょうから。 とりもなおさず、それが平等な関係ということになるのでしょう。 怖れは、人間の場合、単に本能的なものだけに留まらないという点がネックになっているような気もします。 少なくとも平等から自由を導きだすのは難しいような気がします。 「>理屈」になっているかどうかはなはだ不安ですが、このように思いました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >:本来的な意味での自由が獲得できてさえいれば、平等(社会)は自ずと訪れるのではないか、と思います。 私もそういう風に思うようになりました。 これまで寄せられた複数の回答から、本来的な意味での自由から平等は導き出せるが、平等から自由は生まれないということを改めて感じました。 ギリギリのところで、純白の状態なら、まさに怖れずにやってもいいのだと言うことです。 なぜなら、その自由が、対する平等を浮き彫りにするからですね。平等では、対する自由が動かず、輪郭がより明確になることはありません。 怖れについてですが、自由に行動して自滅で失敗したときの怖れも含まれた記載になっているように受け取れますが、この問で重要なのは平等を毀損する怖れだと思うんですね。 それをやることで平等を毀損することは当然出来ません。でも、平等を毀損する怖れが、それをやることの利益と拮抗するなら、やってみて失敗を蓄積するという境界の作られ方がいいのかも知れません。
- littlekiss
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こんにちは、bananasandさん。 ●七色に見える揺らぎは、あえて何色に見えるのか、それは何故か・・ ANS,白色 ↓ 【虹色のなぞ】 http://www.nijilab.com/nazo/nazo.html バチスタ 「高輝度白色LED(半導体発光素子)の作製とそれを応用した医療機器の開発」 http://www.pref.yamaguchi.lg.jp/gyosei/s-sangyo/cluster/centernews/pdf/centernews10-2.pdf 【赤外線技術資料】 http://www.japansensor.co.jp/products/popup/download/infraredrays.pdf
お礼
ご回答ありがとうございます。 それは、何故なのでしょう。もとの木阿弥となります。 その関数とそのフーリエ変換のコンパクト化の得失評価が不確定性原理で定式となる訳で、FFTスペクトラムアナライザーの機能のない人間は、善と悪の共存状態を独立分離させて両方を同時に見ることは出来ません。共存状態をそのまま見るしかないですね。 このあたりも技術的特異点なのでしょう。 仮に達成したとすれば、自己の深みを理解し尽くすことはできないまでも、曖昧な揺らぎと矛盾した事柄の共存に満足しているかも知れませんね。その状態では優先が見えているでしょうか。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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No.11&13&17です。 あーぁ とうとう周回遅れになっちまった。 今回は雲をつかむような話です。 ★ 自由と平等の対立軸 ☆ と来れば (α) 対立物の一致( coincidentia oppositorum ) ☆ あるいは このニコラウス・クザーヌス(Nicolaus Cusanus 1401-1464)の見解から発想を得たと言われる西田幾多郎の (β) 絶対矛盾的自己同一 ☆ について見ておかねばならないのではないでしょうか。クザーヌスについては もうひとつ (γ) 学識ある無知( docta ignorantia ) ☆ という――ソクラテスの《無知の知》とまぎらわしい――視点があると思います。 (γ‐1) 《経験思考する〈わたし〉を超えたところの非思考なる〈わたし〉》 ☆ と言うんでしょうか。クザーヌスがお坊さんですから 例によって信仰にかかわります。 ところが わたしは つい先だって おのれの原則を侵しました。 ★ (No.17お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >○ あくまで 人間優先でしょうね。 対等、即ち、自己の中で自他の垣根を越えたところの人間と言うことですね。 たとえ、他が自由優先であっても、機会平等の限界までは臥薪嘗胆の覚悟をしておく ということでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この《機会平等の限界》をわがままにも超えてしまいました。 この質疑応答の場でのことですが これまでにもわたしは ( a ) ほろびなさい。ほろんで 旧き人を脱ぎ新しき人を着なさい。 ☆ というように応答して この《人間優先》原則のぎりぎりのところをさまよいましたが このたびは ( b ) おまえには飽き飽きした。勝手にしたまえ。 ☆ と感情丸出しでのたまってしまいその原則をやぶりました。意味は ( b - 1 ) いまおまえさんは人間以前の状態にある人間であるとわたしは見受ける。人間のことばで話すようになりなさい。 ☆ です。あるいは ( b - 2 ) 互いに互いの自由をみとめる人間でないのならば そちらの自由をこちらはこばむ。 ☆ にもなります。 なんのことはない 《両極はあい見(まみ)える》と言いたいだけなのですが つまりは自己弁護しているに過ぎないのですが そのためにわざわざ神や絶対をクザーヌスや西田から引っ張り出したに過ぎないのですが ただし中でも(γ)ないし(γ‐1)は 普遍的な人間原則であるかと思うというお話です。 ★ 非線形構造 / 絶対矛盾多重構造 / 技術的特異点 / 人間の知能を直接的に増幅する具体的方法論 / プランク定数 ☆ をめぐっての空想的仮説です。 これらの概念について文脈をもここで確認します。 ★ (No.20お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 道教に見るような曖昧なカオスや非線形構造を呑み込む力場体と キリスト教、イスラム教、ユダヤ教等に見る絶対矛盾多重構造は、 同じものを指差しているのではないでしょうか。 その先は、人類が知り得た過去に基づいた変化予測モデルは通用しない、いわゆる技術的特異点に到達する道なのでしょう。 それは、最先端の暗号アルゴリズムを解く作業や複雑系現象を解析することで開けるようなものではなくて、人間の知能を直接的に増幅する具体的方法論が必要なのでしょう。 とはいえ、ここでの問は、自己内部へそういったことをも包含させて、七色に見える揺らぎは、あえて何色に見えるのか、それは何故か・・あるいは、そのプランク定数そのものを聞いています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 〔わたしがこの分野に明るくないとご存じなので 勝手に述べて行きます〕。 ( c ) 《非思考=信仰》が 《特異点》である。 ( d ) (γ)の《学識ある無知》・(γ‐1)のやはり《非思考》が 《人間の知能を直接的に増幅する具体的方法論》である。 * 澄みません。《特異点》につけられた《技術的》という意味が呑み込めていません。 ( e ) 《非線形構造 / 絶対矛盾多重構造》が (α)の《対立物の一致》や(β)の《絶対矛盾的自己同一》に激しく対応すると思うのですが その先は分かりません。 ( f ) 《プランク定数》は 黒体から放射してくる熱などのエネルギを示すときの定数だとすれば どうも人間があたかも黒体になった場合には 零だと思います。 ( f - 1 ) ぢゃあ エネルギも零かと言うと おそらく熱なり電磁波なりのようなものは あたかも放射されていると言えるかも知れません。 ( f - 2 ) 《あたかも》と《かも知れない》というのは 黒体となった――あるいはちょうど相手の意識の排泄を受けとめる《アース》の役割りとしての黒体となった――人間じしんからは何も出てこないという意味です。その《アース人間》じしんのプランク定数は 零です。 ( f - 3 ) ところが 相手はちょうど自分の放った電磁波が アース人間から跳ね返ってきたかのように受け取るものがあります。なので アース人間は――そしてまた ( c )のごとく《特異点》のようでもありますから―― 黒体ないしブラックホールであるかのように相手は受け取るのだと思います。 ( g ) 非思考=信仰は プランク定数が霊 いや違った 零だというように一般に《死》ですが (α)ないし(β)の理論によって それと対立するかのような《生》に揚げられたところで一致しています。 おあとがよろしいようで。
お礼
ご回答ありがとうございます。 そうですね。非思考の顕在化に突入してしまった感があります。 私には、根底に特異点を絶対に避けては通れないという確信があったりするので、 この問もそこに分け入ってしまったのかも知れません。両極があいまみえている人間原則の普遍性を非線形性や特異点等を通して破壊しようとしているのかも知れないということです。 No23で、littlekissさんから、七色は白であると言う回答がありました。 でも、白なんて色は無いのです。人間側が白に見ています。 赤はあります。他が赤をどう見ているかに関係なく、赤は単色あるいは、少なくとも赤方に偏っています。 で、白は、赤でもあり同時に青でもありますから、この問はあえて、赤ですか、青ですか。それは何故ですか。と聞いているようなものですね。 この色でいう白の場合なら、非線形性を考えると直感的に青優先でしょう。なぜなら、青から白は作り出せますが、赤から白には成り得ないからです。 もし、自由と平等の混在した「白」があるなら、エネルギー水準の高い方が優先されなければならないでしょうね。一方が他方を作り出すエネルギーを内在しているからと言う考え方も出来るかも知れません。 どうなんでしょう。我々は、白を赤っぽい白だから赤、青っぽい白だから青という風に決めているのでしょうか。それとも赤と青の揺らぎの中を彷徨っているのでしょうか。 自由と平等の白はあるのでしょうか。白があるなら実体はなんでしょうか。 >★ 非線形構造 / 絶対矛盾多重構造 / 技術的特異点 / 人間の知能を直接的に増幅する具体的方法論 / プランク定数 これらを色の話しに置き換えると、人間が白を見るとき、赤、緑、青の混合した白なのか、 七色混合した白なのか、高温の溶けた鉄のような全周波数の白なのか見分けることは出来ません。本来これらは、全く違う光の要素であるにもかかわらずです。人間側が変わらなければ無理なんですね。で、同じ話しになりますが、白は、単純化した赤、緑、青において、いずれが優先か、限界はどこかと言うようなことを表したつもりなんです。
なにをもって自由とするか? なんて、威張ったことを書かなくても、自己の自由の確立にはいろんなアプローチがあると思います。 たいてい経済的に不自由を感じる貧乏症の方が大勢を占めるので、自由とは豊かでなければ実感できないとなるのではないでしょうか。 でも、経済の法整備の進路は平等ではなく公正である事なんでしょうね。 豊かな生活が送りたければ、働く自由がある。 そんだけのことでしょう。 ちなみに現代は社会全体が豊かなので、手取りのお金が少なくても貧乏症であくせくしなくても生活が楽しめます。
お礼
ご回答ありがとうございます。 経済的不自由が、自由の欠如によるとするか、平等の欠如によるとするか・・・ 経済の法整備を公正基軸にするなら、機会平等を保てばよろしいと言うことですね。 >たいてい経済的に不自由を感じる貧乏症の方が大勢を占めるので、自由とは豊かでなければ実感できないとなるのではないでしょうか。 >ちなみに現代は社会全体が豊かなので、手取りのお金が少なくても貧乏症であくせくしなくても生活が楽しめます。 この二つの記載内容は、矛盾しますが、 個人が貧乏性で相対的に豊かでないことを経済的不自由と感じているが、社会全体は豊かなので生活は楽しめるのだから不自由とは言えない ということでしょうか。
お礼
amatubukunさん。 我、断末魔の苦しみの中にある。弾丸は、腰と肺に命中して、その銃口はさらに我の額を狙っている。 この苦しみのはてを知り、自らの銃で相手を殺してしまえば、我安らぎを得。 さあ、神よ、この光をもって刻み込まれし道を指し示せ。自由か死か。