- ベストアンサー
信仰義認説と絶対他力について
ルターの信仰義認説は「意図的な行為によっては救われずただ信じることでのみ救われる」という点で親鸞の絶対他力と似ている、という認識に誤りはあるでしょうか? 宜しくお願いします。
- みんなの回答 (5)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
こんにちは。 ▲ わがはからひにあらず。 ☆ という親鸞の表明において 《信仰義認》と同じであると言っていいのではないでしょうか。 ▲ (親鸞:自然法爾の事) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ http://www.asahi-net.or.jp/~yi9h-uryu/qa/s-zinenhouni.htm 「自然(じねん)」といふは、 「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、 「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからいにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。 「法爾」といふは、この如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふなり。法爾はこの御ちかひなりけるゆえに、およそ行者のはからひのなきをもつて、この法の徳のゆゑにしからしむといふなり。 すべて、ひとのはじめて はからはざるなり。このゆゑに、義なきを義としるべしとなり。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ もし 《義なきを義としるべしとな》る《絶対他力》に近い表現を探そうと思えば 次のようだと考えます。 ◆ 風は気ままに吹く。 ◆ 神は憐れもうと思う者を憐れみ 慈しもうと思う者を慈しむ。 ◆ わたしは〔双子の兄弟であっても〕エサウを憎み ヤコブを愛した。 ☆ 旧い約束のほうで言われているものですから キリスト・イエスの出現とことばで包まねばならないでしょうが 信仰は 非思考において 受け身から始まることを示していると考えます。
その他の回答 (4)
- owlsjp
- ベストアンサー率18% (23/127)
絶対自力と絶対他力を考えるだけでも難しいのに、それぞれの思想の比較となると、知識も必要となってくるので、答えようがない。 しかし、いわゆる宗教家や思想家と、私が同じ考え方をしていると仮定すれば、自分が考える自力と他力を論じれば良い という事にもなる。 うーん、どうしようかな、はっきり言って、全く自信がない。 頭を使うのは、精神的に疲れるし、時間も必要だし、動機も必要だ。
お礼
回答ありがとうございます。 返信が遅れてすみません。 大変参考になりました
結果として脳が休めば、脳がアルファ波になれば、正しいという事です。レターも親鸞の他力も、脳を休めるための、ひとつの方法です。脳が思考してる時は、人と神の自然の情緒との交流を、脳が遮断し、心がストレスになります。不調和の脳と、調和の自然の神は対立、相反する関係です。
お礼
回答ありがとうございます。 返信が遅れてすみません。 大変参考になりました
「まともな方」が回答するとしても… 玉虫色の回答にならざるを得ないかもしれません。 信仰される側が 「なる」 「しむける」 という視点では、「似ている」といえるかもしれませんが、キリスト教の「神」と「阿弥陀如来」は違います。 どちらも空想の産物といえるかもしれませんが、 このような「ものいい」を「めんと向かって」言われる・聞かされると きづついてしまう人(キリスト者か阿弥陀信仰の方か)ときづつき方(信じ方の度合い・信者分布)に違いがでてきます。 「似ている」などと聞けば、牧師様・坊主であれば、「失敬な」ということで怒ってしまう人もあるかもしれません。 日本のバレンタインデーとアメリカ・ヨーロッパのバレンタインデーが、「似ているといえば似ている」また、「違うといえば違う」 と結論付けすることも出来るでしょう。 逆に キリスト者であってもバレンタイン・デーを「不敬」として受け入れない人もいます。
お礼
回答ありがとうございます。 返信が遅れてすみません。 大変参考になりました
- QES
- ベストアンサー率29% (758/2561)
親鸞の絶対他力は、 救われることは阿弥陀如来の本願であるということであり、 信じるから救われるという原因と結果を表すものではありません。 人が阿弥陀如来を信じるに至ったとすればそれも阿弥陀如来がそのように仕向けたものです。
お礼
回答ありがとうございます。 返信が遅れてすみません。 大変参考になりました。
お礼
回答ありがとうございます。 返信が遅れてすみません。 大変参考になりました