キリスト教の原罪は、元来、アダムとイブが神の命令に反して禁断の果実を口にし、その罰として楽園を追放されたことに由来します。人間が神様の言うことをきかなかったという罪(いうことを聞いていれば幸せに暮らせたのに、そこからわざわざ逃げた。神の命令を信じず、悪魔の誘惑に耳を傾けた)のことですが、この罪をおかしたのが人類共通の祖先であったために、あたかもDNAのようにして人類全体が原罪を受継いでゆくことになる、人間は生まれながらにしてすでに神に対して罪をおかしている、というのが原罪の教義です。
これに、後世、「しかしそれでも慈悲深い神は、人間を救うためにイエスを遣わし、教えをひろめた。けれどもまたしても人類は神を信じることなく、イエスを殺してしまった(同じ過ちを二度繰返した)」という、キリスト個人に対する罪の意識と重ねられて発達し、現在の原罪という観念が生まれたようです。元来の原罪が楽園追放に関するものであったことは、聖母無原罪説(マリアは原罪のない女性であり、それゆえにキリストを産むことができた、とする説。後世、処女懐胎説とごっちゃになってゆくこともある)というものがあることをみてもわかります。
人間は罪深い。ゆえに祈りなさい。神はそれをかならず救うであろう、というのが原罪説です。
一方の悪人正機説には、いくつかの説があります。
まず浄土真宗の教義研究のなかでうまれてきた説として(以下の説のすべてがかならずしも現在の真宗の公式な教義として認められているわけではありません)、人間は弱く、罪をおかしやすい。だからこそ、その罪の意識を契機にして(正機)、信仰の道に入ることができる、という考えかたがあります。悪事によって人間の無力さ、よわさを悟り、阿弥陀仏の絶対的なちからに思いをいたすとき、小さな我を捨て(他力)、衆生済度の誓願(本願)を心から信じることが可能になる、というものです。
これをさらに原理的に解釈して、いかなる悪人であろうと弥陀は救う。たとえいやがっている人間であろうと追いかけていって救う、とする説さえあります。そこまで阿弥陀さんが人間の救済にこだわるのは、もともと彼が「全人類を救いたい」という願い(本願)によって仏になるべく修行した存在であるからなのです。つまり、キリスト教の神様は、もとからずっと神様で、べつに人間を救済する義理はない。しかし阿弥陀さんは、人間を救いたいという願いによって仏になった存在なのですから、いわば自分の趣味・信念として、人間を救わずにはいられない。その趣味・信念のつよさの前には、その人が悪人か善人かなどというのはちいさな問題に過ぎない、ということなのです。
もうひとつは、当時の歴史的背景を勘案するもので、平安期の旧仏教で救われない罪業をおかしているとされていた人々(たとえば殺生をする猟師、無学であるために経を読むことができない庶民、同じく貧しいために法事を営めない人々)は、一般に仏教において「悪人」とされているけれども、しかしそういう人々こそ、わたしの教えに従えばまっさきに往生することができる、という、布教のためのキャッチフレーズ的なものとしてとらえる説(悪人>善人なのは、庶民を主なターゲットにして布教していたから。教義としてはうまく説明できない)です。
後者はこの際おいておくとして、前者の解釈説に立てば、原罪説と悪人正機説には以下の相違点があります。
(1)原罪は神に対しての罪であるが、悪人正機説の罪は阿弥陀仏に対する罪ではなく、仏教において一般的に非とされる行為である。(2)したがって原罪は神様に「ゆるしてもらう」ものだが、悪人正機説の罪は「罪に苦しんでいる自分を仏さまに救ってもらう、助けてもらう」ものである。(3)原罪はだれもが犯しているが、悪人正機説の罪はおかさない人もいる。
お礼
どうもありがとうございました。 詳しく教えていただき、少し思いだした様な気がします。 >悪人正機説の罪はおかさない人もいる。 自己認識があり、人間についての洞察によって「原罪はだれもが犯している」に近づくのですよね。 つまり「仏教において一般的に非とされる行為」について鏡を合わせる感覚。 そこから先はNo1さんの回答に近い感情を持ちます。 押し付けがましい考えでも他の解釈を許さない真理に近似していると思う時、我々はどのような姿勢をとるべきなのでしょうか