• 締切済み

道元と親鸞の思想的共通点に関する文献を教えて下さい

自力を重視する(ように見える)道元と, 他力を重視する(ように見える)親鸞ですが, その思想は,突き詰めていくと共通ないし類似している,という指摘を見たことがあります。 この「道元と親鸞の思想的な共通点」に言及した文献(新書,専門書,論文など)があれば,ご教示下さい。 作家や匿名の方が執筆したもの(例えば,五木寛之氏や立松和平氏)ではなく,研究者又は僧侶の方が執筆した文献をご教示頂ければと思います。 今のところ,ひろさちや『親鸞と道元―自力か、他力か』くらいしか見つかりません。

みんなの回答

回答No.3

 こんにちは。  考え方をつづります。  まづふたりの文章を見てください。  ▲ 〔親鸞:自然法爾(じねんほうに)章〕~~~~~~~    自然といふは    《自》はおのづからといふ。行者のはからひにあらず。    《然》といふは しからしむといふことばなり。    しからしむといふは行者のはからひにあらず     如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。        * 爾(に・じ):しかり。そうである。  ■ (道元:現成公案) ~~~~~~~~~~    自己を運びて万法を修証するを迷とす。    万法進みて自己を修証するは悟りなり。    ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 如来を出すのは いわゆる――広く取ってください――有神論です。  道元の言う《万法(森羅万象 またそこに見られるという法則)》のさらにその背後になおアミターバ・ブッダと呼ぶ神を想定しているのが 親鸞です。  つまり道元は いわゆる無神論です。  ところが その《無い神》をけっきょく 親鸞のアミターバ・タターガタ(阿弥陀如来)と同じ位置に立てていると帰結されるかのように 《自然法爾》だと言っています。道元が です。そう言っているも同然です。なぜなら 《自己が修証される》のは 《万法が向こうからすすんでやって来るゆえに》だと言っているからです。  つまり 一般に神とわれとの関係――これが信仰のはずですが――については 無神論の道元のほうも 決して《自力》ではなく《絶対他力》なのです。自己の能力と努力は 経験的なことがらについては大いにまじめにおこなうのですが こと信仰にかんしては あちらからのおとづれを俟って成り立つと言っています。  信じる: 他力(絶対他力)  考える: 自力聖道門(ときにはラッキーな易行道?)  こうです。  なお《本覚》というのは すでに法華経に《一切衆生 悉有仏性》という文句があるように この有神論か無神論かを問わず絶対他力に成る信仰がすでに人間に潜在的なチカラとしてやどるということを言います。そのチカラは タターガタ・ガルバ(如来蔵)あるいはブッダター(ブッダ・カーヤ:仏性)と呼ばれます。  もっとも《本覚思想》となると その信仰についてのふつうの理論からさらに勝手に考えた仮説のことを言うようです。  つまり 早い話が ブッダター(仏性)の潜在性という想定から一歩も二歩も踏み込んで すでに人間はみなそのチカラが顕在していてすでにブッダであるという思想です。  この本覚思想は しかしながら微妙な理論です。  たとえば 空海は 《即身成仏》を言います。親鸞も 《即得往生》を言って応じています。  つまり微妙であるというのは 潜在性としてのブッダターが これら二人の理論では 《すぐさまただちに》顕在化すると言っているわけです。《自然および社会という環境世界 〈わたし〉を取り巻くあの人この人の世界 この世界のほうから わたしのところに或る日或る時その声がおとづれる》 そのとき即座にひとは さとりを得る。《わたしがわたしである》ことを得る。  とまでは言っているはずなのです。  しかもその《おとづれ》は 向こうからやって来るのみです。  それを俟ってひとは 経験的なことがらにかかわる生活にあっては 地道におのれの自力で一歩一歩あゆんでいる。  こういう図柄は 親鸞も道元も ともに同じなのではないでしょうか。

noname#207465
質問者

補足

共通点に関するご見解、大変勉強になりました。 「ありがとう」を押させて頂きました。 ただ、私が知りたいのは、質問文にあるとおり、両者の共通点に関する文献です。 上記ご見解に至るまでに参照された文献などあれば、ご紹介頂きたく存じます。

回答No.2

道元も親鸞も共に比叡山に仏教を教わったので、だいたい日本仏教の祖師は比叡山で学んでいますが、比叡山は最澄が開き、その最澄が唱えたのが、本覚論。 本覚論というのは始覚・縁覚・本覚の本覚で、三覚の統一である一乗思想、それに反対したのが徳一の三乗思想で、平安時代に両者の間で「一乗・三乗論争」というのがあった。 いちおう、最澄の一乗思想が勝利したと言われる。 そこから最澄の、人間は生まれながらにして「仏性」を有するという思想が生まれた。 これを「天台本覚論」という。 日本では、人が死ぬと誰でも「仏」になると言われる。 しかし、本覚論はブッダを否定するようなもので、仏教から見たら異端の思想。 ブッダは長い修行の果てに悟りを開きブッダになったので、最初からブッダであったわけではない。 だから人間は生まれつき「仏性」なんて持っていない。 道元と親鸞の共通点は共に比叡山で修業し、天台本覚論を正しいものとして信じていたことだ。 道元は自律、親鸞は他律と、その方向は別だけど、人間が本来生まれついて「仏性」を有していたと考えていたことでは共通している。 しかし、道元は「正法眼蔵」の75巻本を書き終わった時点で、天台本覚論に疑問を持ち、晩年にそれを全面的に改定しようとしたが、12巻を書いた時点で死ぬことになり、未完のまま終わったと言われる。 そもそも人間に生まれついての「仏性」を有するという思想は仏教というより、日本神道のアニミズムの世界観、人間と自然を区別のない、一体なものと考える物活論に基づく。 道元はその間違いに気がついたんだろうね。 天台本覚論は仏教じゃない、と。 とはいっても、本覚というのは「大乗起信論」では「如来蔵」といって、人間はもともとその内部に「如来」を蔵している、という考えがあったことは事実。 その「大乗起信論」はインドで作られたのではなく、中国で作られたというから、中国の老荘思想、自然とか「道」という思想が入っているかもしれない。 その中国の老荘思想では、人間は自然と対立するものではなく、自然の中に存在すると言われたし、「道」も人間の外に存在するのではなく、人間の中に「道」が存在すると言われたし、その点では日本神道の考え方と親近性がある。 だとすると「大乗起信論」の「如来蔵」もインド仏教の思想ではなく、中国の思想だということができる。 「大乗起信論」は大乗仏教の思想を大成したと言われるけど、どうかな、むしろ中国の老荘思想ではないか? 文献としたら曹洞宗系の大学、駒澤大学の袴谷憲昭の「本覚思想批判」と松本史朗の「縁起と空」がある。

noname#207465
質問者

補足

本覚思想に関する御高見,大変勉強になります。 ご紹介頂いた袴谷憲昭『本覚思想批判』及び松本史朗『縁起と空』には,道元と親鸞の思想を比較検討しているものなのでしょうか。あるいは,本覚思想に関する文献でしょうか。 道元と親鸞の思想の共通点が本覚思想にあるとしても,そのような評価に至るプロセス(両者の思想を具体的に比較するプロセス)を知るための文献を探しています。

  • aokii
  • ベストアンサー率23% (5210/22062)
回答No.1
noname#207465
質問者

補足

質問文に記載したとおり,作家や匿名の方が執筆したもの(例えば,五木寛之氏や立松和平氏)ではなく,研究者又は僧侶の方が執筆した文献をご教示頂ければと思います。 ご提示頂いた文献は,まさに,五木寛之氏と立松和平氏との対談本です。