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仏教は《目覚めよ》という以外に何を言っていますか

挑戦的な質問ですが おしえてください。 ・三身(法身・応身・報身)の説〔→http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3417579.html〕などを除けば 精神分析や心理学を伴なった哲学・倫理学〔のみ〕だと思うという意味です。(それがわるいというのではなく そう理解していいのでしょうかという趣旨です)。 ・修行のことは分かりません。その成果を言葉にして表現したものに限って 質問しますという意味です。 ・けっきょく たとえば《エポケー(判断停止・現象学的還元)》の内容になるのが 《目覚めよ(ブッダになれ)》だと思うのです。(おおきく歴史からすれば むろん 後者の基礎に立って 前者が 出たことになります)。 ・たとえば親鸞の述べるところ――単純に《他力本願》という絶対者への帰依――は 信仰だと思います。けれども そのほかでは 大きく言って けっきょく(良い悪いは別です) 〔修行をともなった〕哲学の問題だと思われて来ます。 大雑把ですが 取り組むとすれば 基本的な性格内容にかかわるのではないかと考えました。このような趣旨に対して ご教授いただけるとありがたいです。

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回答No.3

#1です。 いえ、私の方こそ、 昔のノートやらを見直すきっかけになったので、 とても有意義な時間でした。 そうです。唯識は学問です。 とても様々に勉強されているように感じたので、 是非『唯識三十頌』を図書館などで紐解かれると良いかと思いました。 「円成実性」はその最後の方にに書かれています。 それを、とても伝えたくて追記で書かせて頂きました。 ちなみに「円成実性」は完成された姿ですから、 「因縁生起」をも飛び越えると性質を持っています。 (ここはどうも私は納得できないところですが・・) 確かにその意味で明るいところに帰ってきます。 これは私の私見ですが、般若波羅密として こうして本当の悟りを得られたとしても、 人はその喜びをあくる日には忘れてしまうと思います。 それを日々体感できるように(もしくは日々体感できる世界で生まれるように) 信仰へと変わってゆくのかも知れません。 うーん、やはりエポケーとすると上からの精神上の発想なので 肉体的な働きが含まれてこないと思います。 阿頼耶識は意識を下から考えます。 ノエマ(相分)とノエシス(見分)といったものは、 「自証分(self-cbnsciousness)」というそれを 自分が意識できることで認知でき、 自己意識が自己意識であると意識する「証自証分(conste)」。 これは「不離身識」の本質を意味しています。 ともあれ、二千年以上前の前の人間がこれだけ近代西洋哲学でも難しい そういう思惑を作り上げたと考えるだけで、 私などはワクワクしてしまいます(汗。 私も分かっていないところがあるのに気付きました。 こういう機会を久々に与えて下さり、 この度はありがとうございました。

noname#80116
質問者

お礼

ganesha_meさん ご回答をありがとうございます。 うれしいものですね。わたくしも すっきりしたように感じますし 過分のことばをいただいたように思います。 たしかに エポケーは ドイツ観念論の臭いがするかにも思われます。この現象学的還元に相当する概念用語は 必ずしも ないのでしょうか。 昼ごろから ちょっと 野暮用がありました。このお礼を申し述べて 今から 図書館に行ってまいります。 一度 唯識の方から――このgoo質疑欄で―― 『大乗起信論』を薦められ 読んだそれ以来 また ブッディスムを勉強します。それでは。

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noname#50219
noname#50219
回答No.4

仏は、たった一つの真実を教える為に、無数の方便を以ってひろく衆生を導くと説かれます。 というのも、諸仏世尊はただ菩薩のみを教化しに来る(直ぐなる心のみがそれを知ることができる)からであり、そのために、様々な方便を以って衆生を導くというのです。 仏が、一つの真実を教える為に無数の教えを以ってそれを為すのは、海が無数の川を集めているようなもので、どの真実の教えも、須らく(覚るべき)それへとつづいており、仏の教えに様々な表現はあれど、目指している所は一つなのだろうと、私は思っています。 迷いを払拭するこの一なる道を歩むことが、人を迷いの尽きるその境地へと導くのではないでしょうか。

noname#80116
質問者

お礼

ご回答をありがとうございました。 《海が無数の川を集めているようなもので》 その海にたどり着くという意味で一つの道 すなわち《迷いを払拭するこの一なる道を歩む》とおっしゃっているのですね。その《一なる道を歩むことが、人を迷いの尽きるその境地へと導くのではないでしょうか。》ということですね。 そりゃそうでしょう。ところで その中味は 哲学等の学問ですか それとも 信仰ですか。信仰とは とりあえずの定義としては 経験科学を含みつつ さらに超えたところをも持つというものです。さて ブッダのおしえは 信仰ですか。そうではないですか。

回答No.2

#1です。 名前は気にしないで下さいな(笑。 brageloneさんが ここで記されている現象は、実は逆です。 阿頼耶識が在りマナ識を支えている。 阿頼耶識これは判断でははかることのできない 植物で云えば種のような存在です。 そして阿頼耶識は四分義(相分、見分、自証分、証自証分)が支えています。 また縁起とはここで表現されるには理屈を含み過ぎます。 因縁と置き換えられた方が正しいでしょう。 つまり諸々の因縁によって生まれたり起こったりすることを、 縁起(因縁生起)と呼びます。 エポケーとは判断中止を意味します。 単にこれは脳の思考停止に過ぎない。 これはニルヴァーナ=涅槃とは全く違う境地です。 全ての欲望の火が吹き消された状態でも (体感的にというべきか)知ることができる、 もっと円満とした大きな自覚の境地を指します。 さて、近代西洋哲学の限界は  人の見地できない存在は認めないところにあります。 ヘーゲルにしても、フッサールやカントにしても 西洋哲学においてはデカルトの提唱した、 心身二元論に分割されてしまうのです。 つまり心は神や全知全能の存在であり、 身体は自然の法則に支配される本能と説きます。 これは肉体を精神が超越するということを意味します。 何故、こうなったかは、 キリスト教圏における文化的な影響が大きいでしょう。 人間は生まれながらにして悪であり、 善行を積むことで神の僕となれる。 身体と心の関係という難しいことは 全てを神任せにしてきた節があります。 しかし、現実問題として、 私たちは精神と肉体を区別することができるでしょうか? 身体は心を伴って在ります。例え分析学的に分けられるとしても、 肉体の病が心の病と密接にあるのはどうしようもありません。 そこで仏教では、古来、神という概念を持ち出すことなく、 人の身体と心の関係について学問的に研究されてきました。 それが世親著の『唯識三十頌』という書物です。 玄奘三蔵がインドまで求めたことで有名です。 そこでは自覚の道程について詳細に分析されています。 もちろんお釈迦様自体はそこまで云っていないので、 少し行き過ぎた感があり、その後は本来の教えに戻ろうと衰退して行くのですが、 ただこれも仏教を理解しようとする試みの中で生まれた解釈です。 その意味では設問からは外れていないと考えます。 ひとつ気になっているのは経験科学が全てと呼べるかということ。 もしかしたら地球は平面かも知れません。 ぐるっと周れたから球だとは限らないし、 太陽だって光線を屈折して送っているかも知れません。 その「もしかしたら」を消してしまうのは人の心です。 科学思想も飽くまで思想にしか過ぎず、 私たちは知らず知らず信じていますが、 そればかりを信じる余りに一方的になると、 人は新たな発見を消してしまいます。 またそれ以外を信仰と一概に分けてしまうのも気になります。 信仰でも経験科学でもない認識・認知が我々には存在します。 仏教における哲学とは決して超越ではないのです。 また仏教そのものにも超越という言葉は相応しくないと思います。 むしろ、事象そのものの本質に気づくことの大切さを説いています。 確かに仏教の基本は信仰に基づいています。 しかし、信じてみようと気持ちが向くことで 新たに見えて来るものもあります。 科学はキリスト教を含む西洋思想の先人の知恵から発展しましたが、 仏教もまたアジアやインドの思想、先人の知恵から発展したものです。 現実に仏教は哲学としてだけでは無く、 福祉や医療の現場でも役立っています。 ・・何か色々と長くなってしまいましたが、 この辺りでよろしでしょうか。

noname#80116
質問者

補足

ganesha_meさん さっそくのご回答をありがとうございます。 大昔に学んだところを整理したいと思ってのことで 今回は 大きく構えのほうから捉えたいという心づもりでした。 三身について尋ねたところ どうも 仏教は 信仰とは異なるという感触を得ましたので この設問を致しました。 全体として 残念ながら 字面では よく分からないところがあるのですが わたくしなりに解釈してみます。 今回 昔の本をひも解き たとえば《円成実性 parinispanna 》とあるのを見つけ それは アーラヤ識から現実への戻りを明るい面へと転換することだと思うのですが  (1)まづその《目覚め》は マナ識から そこにまつわりついた世間のゴミを仕訳けし 別のものとして取り分けておくために あたかもエポケーをはたらかせると捉えてみました。 (エポケーでも 全然 判断をしないわけではないと思うのです。また ニルヴァーナは このエポケーを包むような概念として思い浮かべたものです)。 (2)だとすれば これで 般若波羅密だと思うのです。目覚めたわけです。 (3)だとすれば 仏教は 〔開かれた広義においてですが〕実践哲学であると考えられます。経験思考によって道を拓きます。 (4)ただしこのとき 今度は この目覚めの内容と深度において 経験思想には収まりきれない・科学を超えた信仰と呼ぶべき側面が伴なわれるというふうになるでしょうか。 (そして 信仰を前面には押し出すことなく 社会の普通の生活の中にも しかしながら 役立てていくといったところでしょうか)。 このような交通整理になりました。たいへんありがとうございました。重ねてお礼を申し上げます。 (わたくしは アウグスティヌスに拠っていますが それによると 《身体と精神》(経験領域)および《 X ・なぞ (旧い表現では 霊魂)》(超経験領域)(そしてこれの一元論)だと思って来ました。たしかに 身心二元論は 評判わるく よく聞くところではあります)。

回答No.1

ふむ、エポケーとは少し曲解と思えます。 ここは現象学との違いを説明しておくべきでしょう。 自己忘却における自覚を超越論とするのは低い次元です。 意識の考古学の観点からは、それらは表層しか示していません。 人間の知覚にはもっと深いところに「識」という深層を宿していると、 仏の教えの中で説いています。 (よく「マナ識」や「阿頼耶識」と呼ばれるもの) 近代の西洋哲学は意識より下の層のことを問題にしない特徴があります。 それについては持論がありますが、設問の主旨とは異なるのでここまでです。 仏の教えはこうした「しかたがないという考え」を打ち砕くところから 出発し発展したのだということをご理解下さい。

noname#80116
質問者

お礼

ganesha_meさん ご回答をありがとうございます。(それにしても ganesha〔Lord of Hosts (?)〕さんですか。 me は分かりませんが)。よろしくお願いいたします。 《意識の深層を捉えているととらえるべきだ。これを捉えた上で――つまりは 類型的にはより深いエポケーを もろもろの縁起のうちに実行した上で―― いわば暗を明に転換した新しい縁起に臨む》 こうおっしゃっていると理解してよろしいでしょうか。 つまりは 《基本的に 実践哲学である。信仰とも宗教とも 本来は 関係ない》 こう理解してよろしいでしょうか。 細かくは 次のような理解は 曲解にはあたらないと言えるでしょうか。 ~~~~~~~~ マナ識において 人は 暗い部分つまり自己の片寄った意志や考えをも加えて 縁起の事象を認識してしまう。アラヤ識は そのことを 深層に残すと同時に つねに あらたな縁起において 出して来て 影響を与えている。これらの作用を いわば仏教的なエポケー(――ここに ニルヴァーナがあるのでしょうか――)において見直す作業をつうじて 明るい縁起へと進み出る。 ~~~~~~~~ あと一点としましては けれども 《超越論》ともおっしゃっているので 《ただし 経験科学をも超えて やはり 信仰の領域にも入っている》と見るべきなのでしょうか。 よろしかったら ご意見をお寄せください。 《近代の西洋哲学》の捉えていないところを 仏教は扱っているという意味では 範囲を広げていただいても よろしいかと存じます。

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