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南雲司令長官について

南雲司令長官はなぜ消極的だったのでしょうか? 自信が無かったのでしょうか? しかし、水雷や夜戦のことばかりやっていた人がなぜ 空母の機動部隊の司令官をやらなければならなかったのでしょうか?

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  • pri_tama
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回答No.4

>水雷や夜戦のことばかりやっていた人がなぜ >空母の機動部隊の司令官をやらなければならなかったのでしょうか?  先ずNo.2さんが仰った水雷の専門家である点が一点です。  他にも、水雷の専門家と言う事は夜戦の様な劣悪な環境下でも、艦隊編成を維持できる艦隊運用の専門家でもあると言うことです。  現在の我々の視点から真珠湾攻撃を見ると、南雲艦隊が攻撃箇所に辿り着くのは簡単なように見えてしまいますが、当時の軍令部の認識では、冬季の北太平洋は霧・時化が多発する海域危険な海域だと言う認識でした。  尚且つ艦隊を構成する艦の内、戦艦などの大型艦以外は途中で燃料補給を必要としました。  もし天候に恵まれなかったら(実際には数日を除いて燃料給油に問題がない良好な天候だった)、燃料補給が必要な艦を戦闘前に本国へ帰還させるか、燃料不足で帰国途中で放棄するという極めて重大な判断を下す事を予想されました。  (軍令部がそういった難しい判断をたくせるのが、夜戦の様な劣悪な環境でも艦隊運用を行える水雷[艦隊運用]の専門家だった。)  また南雲司令官は、燃料補給を必要とした軽巡洋艦や駆逐艦の戦隊司令や艦長等からも信頼が有りました。  (あの艦隊運用の専門家の南雲さんがが出来ると明言するのであれば、きっと可能な事なんだと、部下達が思うに足りる信頼が有った。)  ミットウェで赤城を失った後に、残存艦艇を集めて水雷戦による夜襲決行(連合艦隊司令部よりSTOPがかかるのですが…。)を意図した事など、彼は決して消極的とは言えません。  (後に艦隊司令官を解任されてサイパン守備隊司令官になった以降は確かに消極的ですが…。)  なお、真珠湾で反復攻撃をしなかった事を消極的な理由としてあげるのであれば、これは明らかに筋違いです。  そもそも、真珠湾攻撃のチャンスは一度しか存在しないと判断もと、魚雷・大型爆弾はただの一回の攻撃に使用できる分しか搭載(艦隊が本土を出航時に間に合わず、直接単冠湾にいる艦隊に追走された)していませんでした。←と言うか第二派の攻撃部隊の時点で魚雷や大型爆弾を不足していた。  (第三派の攻撃部隊が使える爆弾など60kgなどの小型爆弾位しかない。←これでは舗装されていない飛行場攻撃や非装甲の対空機関銃への攻撃くらいしか出来ない。)  まあ、それ以前にハワイに潜入していた帝国海軍のスパイが米軍の燃料は地下タンクに保存されているので攻撃する事はムダであると報告していますし、艦載機の数倍も爆弾を搭載できる陸上機が数百~一千機以上も集まって港湾攻撃を実施しても、相手が復旧を諦めなければ直ぐに機能を回復することは史実が示しています。  また、真珠湾自体がルーズベルト大統領が日本への牽制・威圧の為に急遽進出させた場所ですから、米軍にしてみれば仮に真珠湾が徹底的に破壊されつくしても、便利な前線基地の一つ無くなっただけで以後の作戦に支障が出るものでは有りません。  真珠湾で燃料補給が是非にも必要で有るのなら、帝国海軍が南方で良くやったような大型給油タンカーを常泊させれば事足ります。  なお、第三派の攻撃部隊で空母搭乗員に多大な被害が出ているとすると、珊瑚海海戦の様な米軍に対して真珠湾で緊急修理を必要とする様な打撃を与える機会が無くなるので、真珠湾の価値は史実以下に成ってしまいます。  (というかインド洋作戦や珊瑚海海戦等の作戦も出来なくなりますから、史実以上に連合軍は戦いやすくなります。)  反復攻撃を実施しても、小型爆弾しかないのですから、直ぐに復興する事が確実な米軍基地の半壊させた程度にしかならず、そのうえ被る被害は再補充不可能な搭乗員数百人である事を考えると、反復攻撃実施の決断は狂気の沙汰としか言えません。  この時の判断を消極的と言うのは、不当な評価だと思います。

dosanpin
質問者

お礼

大変詳しくご回答頂き感謝です。 ありがとうございます。

その他の回答 (5)

  • toro321
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回答No.6

1会戦分の爆弾や魚雷しか積んでなかった? 阿川弘之氏の「山本五十六」から。 第二次攻撃隊の後に戦果確認して遅れて帰ってきた淵田中佐に、艦橋で「第3次攻撃の目標はあるか?」と尋ねてます。 工廠や油タンクが無傷だからそこを攻めたいと具申し、尚且つ、攻撃隊の準備までして、戦闘機だけを上甲板に残して反転帰投を命じてますよ。 児島穣氏「太平洋戦争」から。 連合艦隊の参謀長の宇垣参謀長の日誌には、「30機程度を失ったぐらいでは、戦果の拡大を目指すべき」と書かれてます。 1会戦分の爆弾や魚雷しかないということを、連合艦隊司令部が知らぬはずはありません。 要は、この賭けに近い作戦で偶然にも勝てたのだから、さっさと引き揚げてしまおうという泥棒根性だったわけです。戦争に対するビジョンがなかったと言うべきでしょう。

dosanpin
質問者

お礼

ありがとうございました。 ビジョンがないというのは情けない話ですね。

  • tande
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回答No.5

>しかし、水雷や夜戦のことばかりやっていた人がなぜ 空母の機動部隊の司令官をやらなければならなかったのでしょうか? そんなこといったらアメリカのスプールアンスとかフレッチャーはどうなるのでしょうか? スプールアンスは駆逐艦と戦艦の艦長を勤めいましたが空母の艦長はやったことありません。 つまり、水雷とか戦艦の砲撃のことばかり考えていた人なのでしょう。(日本だったら間違いなくそう言われるパターンですね) 恐らく日本の軍人と違いアメリカの軍人は合理的(笑)なので『うまい理由』をくっつけて「そんなことはない。」になるのでしょうけど。 またフレッチャーは駆逐艦や巡洋艦、戦艦の艦長、巡洋艦部隊の指揮官を勤めいましたが空母の艦長はやったことありません。 つまり、水雷とか戦艦の砲撃のことばかり考えていた人なのでしょう。(日本だったら間違いなくそう言われるパターンですね) 恐らく日本の軍人と違いアメリカの軍人は合理的(笑)なので『うまい理由』をくっつけて「そんなことはない。」になるのでしょうけど。

回答No.3

真珠湾での第二次攻撃をしなかった理由ですか? 簡単な話しですよ。爆弾・魚雷なしでどうやって真珠湾の残存艦隊や基地を攻撃するのですか? 真珠湾作戦は全ての軍艦の艦内のあらゆる場所にドラム缶を置いて移動燃料を確保した作戦です。予備弾薬は積載されず、弾薬庫も燃料庫にしていたそうです。 山口少将がどうやって第二次攻撃をやるつもりだったのか知りたいものです。全機敵艦に爆弾なしで特攻? 尚、この話しは真珠湾に従軍した軍人から聞いた話しです。

  • k16399638
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回答No.2

南雲司令は、水雷出身です。魚雷の専門家でもあります。 で、なぜこの人に史上初の空母集中運用をさせたかというと、当時の艦上攻撃機の必殺兵器が、航空魚雷(九一式)だったからです。当時の爆弾では戦艦を沈めることができません。魚雷なら水線下にダメージを与えて沈めることができます。しかし、魚雷は非常に扱いにくく、また高価な精密機器でした(零戦五万円、魚雷二万円)。この兵器のことを帝国海軍でいちばん知っている人のひとりで、階級がトップだったのが、任命された理由です。 南雲司令は見えている敵に対する闘志は海軍全体でも高く評価されており、軍艦の操縦、駆逐隊の運用ではトップに近い人です。事実、ミッドウェーの米軍一次攻撃隊の雷撃を、南雲司令の操艦で赤城はすべて回避しています。 ただ、みえない敵には非常に恐怖を感じる人だったようで、真珠湾のときも寝ている源田を起こして「潜水艦に追尾されているような気がする」と言っています。この辺が、消極的といわれる原点でしょう。 山口多聞が日本空母の指揮官だったら、とよくいいますが、これは帝国陸海軍の官僚的体質が露呈した物だったと思います。

  • toro321
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回答No.1

空母の集中運用については、開戦間近になって(山本長官がついてからです)なので、誰も経験者がいなかったと言う事になります。 これを提唱したのは小沢少将(当時)ですが、編成のときに、南雲が先任で、艦隊司令長官になれませんでした。 そのことについては、山本長官も心配してたようですが、参謀長に切れ者として有名な草鹿龍之介を配し、航空参謀には源田実を配することで、大丈夫だと思われてました。 ただ、真珠湾では、反復攻撃せずに引き揚げましたが、第二航空戦隊の山口少将が第三次攻撃準備完了の信号を上げたことは有名ですね。 山口少将が指揮官ならば、飛行機の半分を失うか、爆弾がなくなるまで攻撃して、真珠湾は2年ぐらい使い物にならなかったと思いますよ。 ミドウエーについては、不運が重なったのと、正攻法に拘ったことが4隻の空母を一度に失うことになったと思います。

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