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哲学書は芸術の色を帯びていますか?
以前、過去の質問を見ていましたら、「ウィトゲンシュタインの論理哲学論考に●●(芸術運動の名前)の雰囲気を感じた」といった質問があったのですが、哲学書とはそういったものなのでしょうか?
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- mmky
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回答No.2
>>もう少し具体的に教えていただけると嬉しいのですが… そうですね。この世の真理を追究するのが哲学で、あの世まで含めた哲学は宗教と呼ばれますね。 どちらにせよ、この世もあの世も本来的に「真・善・美」で彩られた世界だということなのです。この3つは一体となった言葉・思いですから「真理」を追究すればおのずと「善」や「美」が発現するのですね。 たとえば、ピカソの絵をみて哲学と考える人は少ないかも知れませんが、西田哲学の難しい表現「絶対的矛盾的自己同一」と同じ意味なんですよ。ピカソの絵は複数の自身が同時に存在し、一つの対象物を描いていると考えれば理解できるでしょう。これは西田哲学と同じ真理を画家が絵を通して表現しているだけなんですね。 また、愛に真理が在れば、おのずと善が発現し、美につながるがごとくですね。絵画の世界に美を感じることが出来れば哲学に美があることは自明でしょう。 つまり、美の存在しない哲学は真理なく偽であるといえるのですね。
- mmky
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回答No.1
>>哲学書は芸術の色を帯びていますか? 哲学の原点は「真・善・美」ですから当然芸術的「美」が含まれているのですね。 これに正反対の「偽・悪・醜」という哲学もありますので注意しないといけないですがね。
質問者
お礼
ご回答ありがとうございます。 無知なので、もう少し具体的に教えていただけると嬉しいのですが… やはり美はあるのですか。 興味津々です。
お礼
詳しいご回答ありがとうございます。 西田という方(哲学の道の由来になった方でしょうか)やその言葉について調べてみます。 しかし、非常に断定的なので他の方の意見も得たいと思います。 悪が真であったり美であったりすることはあると思いますし、そもそも善というのが何を指すのかわからないですし、愛と“愛とされているもの”の違いがわからず非常に欺瞞を感じております。 また、その西田という方の考えは知らないですが、ピカソの表現に関しては芸術のための表現やコマーシャルも大いに含まれていると思っています。 私の洞察が浅いのは承知しております。