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科学者って?

 温暖化問題について、最近とみに議論が活発になってきているかと思われます。  実際、科学者間でも、”温暖化論者”と”寒冷化論者”との討論も活発に行われているようでございます(8月の「朝まで生テレビ」もそうでした)。  では将来本当に「温暖化するか否か」につきましては、科学者は実際のところ、「判断不可能(わからない)」という状況かと思われます(下記著作をご参照くださいませ)。  丸山茂徳著「科学者の9割は地球温暖化CO2犯人説はウソだと知っている」  この著作からは → 温暖化が起こる:10%; 寒冷化が起こる:20%; わからない:70%   ですが、国民レベルでは、断定的・決定的な結論を出しているように見受けられます(どちらかと申しますと、”温暖化論”に傾いているように見られます)。実を申しまして、余りにも過剰な反応がおこっているように感じられます(下記サイト等でございませ) http://dell-support.okwave.jp/qa5234928.html   こうした、当の科学者も予想だにしない極論者はナゼでてくるのでしょうか?  いろんな理由があろうかと思われますが、愚見を以下に列記させてもらっております。 科学者の言説は信用できない。 何らかの熱狂的信者・信仰者集団がいる。 メディアの偏向報道 特別な使命感を持っている、もしくは英雄(ヒーロー)になりたい  その他、ご意見を賜りたく存じます。  それではよろしくお願い申し上げます。

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回答No.6

リスク管理とリスク評価という概念で見ていくべきものかも知れませんね。 いずれにしても 「事実・仮定・推論」の、どのレベルまで、どの程度「客観的に」把握しているかで、議論のレベルは異なってくるでしょう。 完全な理解・解明が不可能だから「わからない」まま無策でいいのか?ではなく、また、(「温暖化、寒冷化、わからない」の三つの結論の内の一つのみという)はじめに結論ありき、ではなく、世界レベルの頭脳を結集して「事実・仮定・推論」について「可能な限り、客観的に」判断しようという姿勢の結果、「わからない」以外のどちらかが選択されたなら、それに従うべきでしょう。 もし、責任が問われるとするならば、その程度のことでイデオロギーに振り回されている「科学者」しか排出し得なかった人類や、また、その程度の人智しか持ち合わせることの出来なかった人類の責任になろうかと思われます。 あと、環境ホルモン関連の研究をされておられるとのことで、よろしければ http://www.env.go.jp/chemi/end/2001report/pdf_j/aihara_j.pdf での、非線形との関連について、ご教示いただけますでしょうか? 素人ながら、地球規模の気象変動も環境ホルモンでの非線形と類似の機構が関与しているように思っておりますので。。。

noname#135843
質問者

お礼

 ご回答いただきまして、どうもありがとうございました。 > 完全な理解・解明が不可能だから「わからない」まま無策でいいのか?ではなく、また、(「温暖化 、寒冷化、わからない」の三つの結論の内の一つのみという)はじめに結論ありき、ではなく、世界レ ベルの頭脳を結集して「事実・仮定・推論」について「可能な限り、客観的に」判断しようという姿勢 の結果、「わからない」以外のどちらかが選択されたなら、それに従うべきでしょう。  確かに、温暖化、寒冷化のどちらかに進む可能性は否定できませんので、ほぼ結論付けが可能となっ た段階では、早急な措置は必要かと思っています(また、予めその対策も考えておく必要もあろうかと 考えてもいます)。 > もし、責任が問われるとするならば、その程度のことでイデオロギーに振り回されている「科学者」 しか排出し得なかった人類や、また、その程度の人智しか持ち合わせることの出来なかった人類の責任 になろうかと思われます。  残念ながら、国民のレベルがそれまでだったと、ある意味あきらめることも必要なのかもしれません ね。  以降は「回答への補足」で、述べさせていただきます。

noname#135843
質問者

補足

 > 非線形との関連につきまして、  愚生の実務は以下の書籍にございます  http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4882313871.html 第編 環境ホルモンの測定・分析・試験・機器開発 第2章 環境ホルモンの試験法、機器・装置の開発の “1.イムノアッセイ法による試験・測定法” “3.バイオアッセイによる環境ホルモンの試験法” “6.蛍光偏光法による環境ホルモン物質の検出の”   が中心でございました。  いずれにしましても、“候補物質”-“生物試験検査”or “受容体(環境ホルモンが結合し、活性化させる機能を持つたんぱく質です)” といった「1対1」の関係で、実務を進めていました(遺伝子or たんぱく質は1種類のみでございます)。従いまして、「線形」そのままの実験でございました。  つきましては、「非線形」を考慮に入れた検討は全く致しませんでした。ただ、その状況では、環境ホルモン=悪玉といった概念のみで、生体内での種々の転写活性なるものにまでは手をださなかったというのが実状でございます(もしかしますと、ご回答者様が仰るとおり、“幾通りもの物質”による制御作用・機構なるものが存在していたのかもしれませんが…..)。  以下に環境ホルモンに関しますWikipediaを載せております。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E5%88%86%E6%B3%8C%E6%94%AA%E4%B9%B1%E7%89%A9%E8%B3%AA  今では、このサイトの文面にもございます「極端な論者によれば、環境ホルモンは「人心を攪乱しただけだ」という主張もなされるようになっている」というのが、現時点での一般的な考え方でございます。  では、いったい何がメス化に影響を及ぼしたかとなりますと、文面にもございますが、「人口が爆発的に増えた」こと(栄養状態の改善等、さらには“環境ホルモン作用物質”として地球上に最も多く存在している)が主要因かと推察しております(これはあくまで私見でございます。何の証拠もございませんし、これ以上はご勘弁くださいませ)。 > 地球規模の気象変動も環境ホルモンでの非線形と類似の機構が関与しているように思っておりますので  地球規模の気象変動は明らかに「非線形」モデルかと考えております。具体的なパラメーターを採択しているかは小生の理解の範囲を超えておりますので、何も申し上げられないのですが、  また、何かございましたら、ご遠慮なくご返信くださいませ。

その他の回答 (11)

回答No.12

No.7です >>> > 逆方向へ振り戻すことは非常に困難であろうことが容易に想像され得ます。  “温暖化”の考えを受けて、アンチテーゼと致しまして、“寒冷化”なる意見が登場してきました。 ここら辺のいきさつはどういったものになるのでしょうか? 単なる既存の考え方に対する行き過ぎの防波堤的役割としてなのでしょうか。それとも反抗心からなのでしょうか? <<< いや、まさにNo.11での回答で提示されているところの >>> 当の不決断の状態を逃れようとする。こうして信念あるいは実践的確信が成立する。 <<< にて「判断が求められる」ことがきっかけで、(判断する主体も判断対象も非線形性を内在しているがゆえ)多義図形的に重なり合っている「温暖化・寒冷化・どちらでもない」の何れかを(判断する主体が)選択した途端、逆方向への思考が困難になるということです。 「老婆と婦人」の像が一端「老婆」に見えたなら、「婦人」の像を見るには、それ相応の努力が必要なわけです。 真に分析能力のある「科学者」であるならば、そういった(非線形性に基づくであろう)人類の「思考癖」すら予測・推論の範疇に入れるべきでしょう。しかしながら、もし、その手前、すなわち、イデオロギーごときでゴタゴタしているようなら、「真の科学者?」と懐疑せざるをえないということになると思われます。

noname#135843
質問者

お礼

ご回答いただきまして、どうもありがとうございました。 > 「老婆と婦人」の像が一端「老婆」に見えたなら、「婦人」の像を見るには、それ相応の努力が必要なわけです。 確かに、仰いますように、自分が見てしまう(もしくはそのように“見たい”)像が、「老婆」として見えた場合、 異なる像としての「婦人」として、そのひとを見ようとすることは、困難かと思われます(このあたりは、福岡伸一著「世界は分けてもわからない」講談社現代新書の中にも、マーク・スペクターなる、期待通りに見せようとする、天才(?)がいたことからも予想できます。もちろん、そのように“見たい”ひとにとっては、彼のような存在は十分以上の満足感が得られたと推察できます)。 > 真に分析能力のある「科学者」であるならば、そういった(非線形性に基づくであろう)人類の「思考癖」すら、予 測・推論の範疇に入れるべきでしょう。しかしながら、もし、その手前、すなわち、イデオロギーごときでゴタゴタしているようなら、「真の科学者?」と懐疑 せざるをえないということになると思われます。  この温暖化・寒冷化につきましては、そのうち(少なくとも7,8年以内には)決着がつくかと考えております。そのとき、一般民衆はその結果(予想通りなら問題はないのですが、予想とは異なった結果が得られた場合でございます)をどのように認めるか、受け止めるか? という疑問も沸いてきます。  こちらの方は10年後ぐらいに、再度“観察”したいと思っております。  回答いただきまして、厚くお礼申し上げます。

noname#94413
noname#94413
回答No.11

>こうした、当の科学者も予想だにしない極論者はナゼでてくるのでしょうか? ある事象が実現するために、何らかの実現的理由が提示されていても、その実現の諸条件が全面的に認識されていない場合には、われわれは実現の方向に働く要因と反対要因との間で、純理論的には判断を停止しなければならない。 しかしわれわれの意思は、需要とか願望とか愛好とか、その他様々の関心の形式を以って主観的要因を導入し、相反する要因を比較してその優劣を決め、当の不決断の状態を逃れようとする。こうして信念あるいは実践的確信が成立する。 このような信念はすべて、純理論的判断の前では殆ど根拠の無いものであるが、同時に、われわれの知性を懐疑あるいは不決断の不快から救出してくれる。 逆に言えば、われわれの実際生活に於ける行動は、判断にあまり遅滞を許さぬがゆえに、そのような判断が真とともに偽という性格を担うことを忍ばざるを得ないのである。 なんちゃって。

noname#135843
質問者

お礼

 ご回答いただきまして、どうもありがとうございました > しかしわれわれの意思は、需要とか願望とか愛好とか、その他様々の関心の形式を以って主観的要因を導入し、相反する要因を比較してその優劣を決め、当の不決断の状態を逃れようとする。こうして信念あるいは実践的確信が成立する。  「 相反する要因を比較してその優劣を決め」というところが、愚生には少し疑問が残るところではございますが、  「 当の不決断の状態を逃れようとする。こうして信念あるいは実践的確信が成立する。」という状況は、確かに存在しているものと考えております。 > このような信念はすべて、純理論的判断の前では殆ど根拠の無いものであるが、同時に、われわれの知性を懐疑あるいは不決断の不快から救出してくれる。  仰られますように、ひとは、”懐疑”・”虚無”状態では耐えられませんものね。 > 逆に言えば、われわれの実際生活に於ける行動は、判断にあまり遅滞を許さぬがゆえに、そのような判断が真とともに偽という性格を担うことを忍ばざるを得ないのである。  「判断の遅滞」を許してくれないのは、愚生も身にしみて分かっております(笑)。それが、こういった状況を産んでいくのかも知れませんね。 > なんちゃって。  そんなそんな、ご謙遜を申されなくても。愚生にはとても参考となる回答でございました。  重ねて、厚くお礼申し上げます。  

回答No.10

お礼欄、拝見しました。 > もし一般大衆も、その主張の結果からもたらされた“反省”なるものをすれば、少しは改善の方向にむかっていくと信じている次第でございます。少しは自己を省みてもいいとは思うのですが… うーん、こんなふうに問題を立ててしまうと、あとはもう「一般大衆」をいかに啓蒙していくか、という方向しかなくなっちゃうかな、と思うんです。啓蒙なんてものがもう全然ダメってことは、アドルノが『啓蒙の弁証法』で言っちゃってる。(http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4587534.html) なんというか、一般大衆と科学者、あるいは知識人という二項対立のさせ方というのは、とても簡単でわかりやすいけれど、ほとんど役には立たないだろうと思っています。二項対立させて、「敵」を明確化させる人は、かならずその「敵」とおなじことを気づかずにやってしまうことになる(たとえば「一般大衆は深く考えることをせず、安易にレッテル貼りしてわかった気になる」と、個々の人にちゃんと向き合うこともなく安易に「一般大衆」とレッテル貼りするようなインチキ知識人の例を考えてみてください。あるいは人に「多様性を認めよ」と強制する人だとか、「静かにしろ」という怒鳴り声とか、「自己決定しろ」という命令だとか、「隠し事はイヤよ」といってこっそりダンナの携帯チェックする奥さんとか、こんな例ならいくらでも出てきます)。反省は相手に求めるものではありません。相手に求めた時点で、その人は哲学的な意味での「反省」とは無縁の場に身を置くことになります。 問題はつねに、自分に何ができるか、ということです。 たとえば研究者が具体的な問題として仮説を立て、実験、検証を重ねていることが、それ以外の人にとっては自分とは無縁の「おとぎばなし」としてしか聞こえないのなら、その隙間を埋めるような「物語」を呈示する、などして。 とにかく、対話の回路を作っていく。 変な言い方なんですが、わかってくれるはずだと思うから、わからない相手に腹も立ってくるんです。土台、具体的な問題として向き合っている人と「地球に優しくしなきゃいけないから、エコバッグ買おう」と言っている人が、わかりあえるはずがないんじゃないでしょうか。むしろわかりあえないことを前提に、共有できる地平を対話を通じて築いていくしかないんじゃないでしょうか。一方通行の啓蒙ではなく。 まあ、これすらも一種の「紋切り型」ではないという保証はどこにもない。けれど、紋切り型になっていないだろうか、と反省する視点がわたしの内にあるあいだは、とりあえずは人に言っても大丈夫かな、とは思っているのですけれど。 あまり役には立たないと思いますが。 少しでも参考になれば幸いです。

noname#135843
質問者

お礼

 ご回答いただきまして、どうもありがとうございました > なんというか、一般大衆と科学者、あるいは知識人という二項対立のさせ方というのは、とても簡単でわかりやすいけれど、ほとんど役には立たないだろうと思っています。  確かに、”二項対立”の議論にもっていきますと、かえって逆効果だと考えています。  因に、愚見はこうでございます。 「その大衆も、主人公として躍り出てはいますが、逆に科学者(知識人)の利用される存在にもなってしまっています(回答者様No.1 and 2をご参照くださいませ)。また、 科学者(知識人) というのも、さも”絶対的真理”かのように結論付け、大衆を煽ってはいますが、煽動してしまったが故に、逆に自分を縛りづけてしまっています(逆戻り・反省などはできずに、ただ突進していくだけの存在となります)し、特にイデオロギーに染まりやすい大衆からは”ネタ”とされてしまいます。」  つまり、「相反する(対立する)二者」というのとは少し異なっております。 > 問題はつねに、自分に何ができるか、ということです。  「自分に何ができるか」と問いますと、「必然的に自己を省みる」こともときには必要ではないかと思うのですが..... > とにかく、対話の回路を作っていく。  仰られますように、この方法しか愚生には考えられないというのが実情でございます。つまり、大賛成でございます。 > むしろわかりあえないことを前提に、共有できる地平を対話を通じて築いていくしかないんじゃないでしょうか。  とても興味深い前提を立てておられますね。こうした”前提”をも含めて、対話の回路を形成させていくのが、ある意味(一方的な独断・独善状況に陥らないためにも)、建設的にすすめられるかもしれません。 > あまり役には立たないと思いますが。  いえいえ、とても興味深い”案”を賜りまして、愚生と致しましては、ただただお礼を申し上げたいという気持ちでございます。  末尾ながら、厚くお礼申し上げます。

noname#135843
質問者

補足

 確かに、愚生の発言は、余りにも”厭世主義的”でした。  この場をお仮し、深くお詫び申し上げます。

回答No.9

まず質問者さんの拠って立っておられるところを確認させてください。 コミュニケーションを宅配便のようなモデルでとらえる考え方があります。 話し手から聞き手へ情報が小荷物のように届いていく、というイメージです。ここでは荷物の送り出しは「科学者」、小荷物は「環境問題」、受け取りはいわゆる「一般大衆」と呼ばれる人びとです。 送り主はさまざまな荷物を送り出す。ところが受け取り手に渡った小荷物は、どうやら送り主が送ったものとは似ても似つかぬものに変わってしまっていた。 したがって > こうした、当の科学者も予想だにしない極論者はナゼでてくるのでしょうか? というご質問に関しては ・「環境問題」というのは腐りやすい、取り扱いに極めて注意を要する物件であるがゆえに、送り出す側は入念な配慮をしなければならない。 もしくは ・宅配業者たるメディアに何らか問題があるために、荷物に他のものが紛れ込んだ結果として変質した。従って宅配業者の管理を徹底すべきである。 という回答が導かれます。 けれども、コミュニケーションはこの宅配便モデルではとらえられない、という見方もあります。では、いったいどのようなものがコミュニケーションなのか、これに関しては、さまざまな研究がなされていますが、今日では情報の「意味」は受け手が受けとった時点で生じる、とする考え方が中心ではないかと思います。 (※社会学的な見地からはhttp://www.socius.jp/lec/10.htmlなどが大変わかりやすくまとまっています)。 上記のようなご質問が質問者さんから出されたのは、コミュニケーションのいわば起点である受け手の側で、どうしてこのようなコードエラーが起こってしまったのか、という問題意識であるとわたしは受けとりました。 ですから以下の回答はそのような観点に立ったものであることを、まずご確認ください。 多くの人は、環境問題ばかりでなく、さまざまな問題に関してさまざまな「意見」を持っていると思います。新聞の投書欄やテレビの街頭インタビュー、ネットでのブログの発信など、さまざまなかたちでなされています。ところがそれぞれに「自分の頭で考えた」かのように語られるこうした「意見」は、あきれるほどいくつかの類型にそのまま沿ったものです。 これはどうしてか。 小学校のころから先生は、何かあると「自分の意見を言いましょう」と言うので、学校空間では比較的要領よく立ち回っていたわたしなど、本で読んだり、両親が話していたりしたことを、さも「自分の意見」であるかのような顔をして発表し、あとで自分の意見でもなんでもないのに、とひそかに後ろめたく思っていたものでした。 ところが、のちに現代思想を知るようになって、あらかじめ「自分の意見」などという何ものかがどこかにあって、それを言葉に当てはめて出力しているのではなく、所詮借り物でしかない言葉を模倣し、そのいくつかを組み合わせることで、あたかも「自分の意見」であるかのように誤認しているということを知ります。ああ、自分だけではなかったのだ、という安心感が、どうもわたしと現代思想の関係の根っこにはあるようです(笑)。 さて、意見というかたちで発表される言葉は、必然的に一種の紋切り型に陥ってしまいます。そもそも言葉自体が借り物なのですから当然といえば当然なのですが、カジュアルに語られる言葉よりも、なおさら紋切り型の度合いが強い。地球温暖化に関しても、せいぜい五つか六つの見解にすっぽりと収まるのではないのでしょうか。 ふだん、テレビやネット、新聞のニュースや、あるいは雑談、世間話から仕入れてきた言葉をいくつか組み合わせて、わたしたちは「自分の意見」を作っていく。けれども、そんな言葉はすでに制度化されたものですから、ちっとも血が通っていないわけです。ちょうどゴジラか何かの着ぐるみを身にまとっているように、「自分のもの」のような気がしない。 言葉の意味の変遷というのは、現実の方がこのような制度化された意味体系では間に合わなくなって、言葉があとからそれを追いかけるという形で変わっていきます。 「地球温暖化」という言葉にしても、「地球」という、本来ならわたしたちには大きすぎて、はっきりと概念化できない大きなものごとを、「温暖化」という言葉と組み合わせる、一種の換喩的表現を用いることによって、とらえやすいイメージとして呈示しているわけです。 この「地球」という言葉と「温暖化」という言葉の組み合わせが出てきたとき、多くの人はたちどころにそのイメージを理解し、新鮮な感動を覚え、多くの共感を持ってきたと思います。けれども言葉は人口に膾炙されるごとに、制度化され硬直していきます。ちょうど「椅子の脚」というメタファーが、今日、メタファーですらなくなっているように。そこで硬直した表現に飽き足らなく思う気持ちが出てくる。 そこにまた新しい仮説が登場する。それは科学者にとっては、従来の仮説では間に合わなくなった現実を理解するための仮説です。当然ながら、厳密な検証作業と実験が要請されていきます。ところがそれが「言葉」でしかない人びとにとっては、制度化された言葉を揺るがし、風通しの良いものとして受けとめられる。 そこではより奇抜な意匠が好まれるでしょうし、かつまた、たちどころに古くなる。 おそらく昔から人はそうしてきたのでしょうが、以前との相違点として、現代ではかつてないほど多くの人が、「書かれたもの」にさらされ、同時に「自分の意見」を「書かれたもの」として産出する機会に(良くも悪くも)恵まれている、ということかと思います。 おそらくその「書かれたもの」の洪水は、旧来型の書き手や科学者にも影響を及ぼさずにはおかないだろう。そのとき、いわゆる「知」であるとか「科学」であるとかはどのように変質していくのでしょうね。

noname#135843
質問者

お礼

 ご回答いただきまして、どうもありがとうございました。 > まず質問者さんの拠って立っておられるところを確認させてください。  はい、こちらの方向性でお願い申し上げます。社会的な見地からのご意見、厚くお礼申し上げます。 > ところがそれぞれに「自分の頭で考えた」かのように語られるこうした「意見」は、あきれるほどいくつかの類型にそのまま沿ったものです。  まさしく仰るとおりかと存じます。 >「地球温暖化」という言葉にしても、(字数制限上、以降は省略させていただきました)  確かに、今では、“「水戸黄門」の葵のご門”のようになっているかと思われます。単純化することにより、分かりやすくはなっているのですが、実際はそう単純なものでもなく…..   さらには、「制度化され硬直していきます。」全くそのとおりかと考えております。 > おそらく昔から人はそうしてきたのでしょうが、以前との相違点として、現代ではかつてないほど多くの人が、  19世紀以前、“意見をするということ”すら、思いつきもしなかった大衆が、今では、主役に踊り出ているというのが実状かと推察しております。そして、その大衆も、科学者(知識人)の稼ぎ所(利用される存在)となってしまっているというのも事実かと考えております。 > おそらくその「書かれたもの」の洪水は、旧来型の書き手や科学者にも影響を及ぼさずにはおかないだろう。  既に、お互いが利用し合っているように見受けられますが、いかがでしょうか? 現実は、必ずしも“事実”を伝えているとは限らず、仮説の一人歩きが、まかり通ってしまうと考えております。 もちろん、そこには責任者なるひと(もしくはその覚悟を持ったひと)はいないのですが….. > そのとき、いわゆる「知」であるとか「科学」であるとかはどのように変質していくのでしょうね。  愚見でございますが、もし一般大衆も、その主張の結果からもたらされた“反省”なるものをすれば、少しは改善の方向にむかっていくと信じている次第でございます。少しは自己を省みてもいいとは思うのですが…..  ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。

  • pupurpu
  • ベストアンサー率15% (29/192)
回答No.8

問題は何でしょうか? 温暖化なり、異常気象で何が起こるのでしょうか? 人が住みにくい世界に地球をしてしまうというのであれば、  予想はあくまで予想ですので、大事なのは現実に熱中症でなくなる方が多く発生するとか、台風など自然災害が増えて、死者が増えるとか、 つまり、現実の被害に対処することが重要で、  予想があたろうがはずれようが、そんなことよりも現実の被害に具体的に対処するほうが重要だと思います  そこから考えると、予想は現実以前の空想でありますから  現実の対処のほうが重要であった、  世迷い言などは、あまり重要ではないということでしょうか  いろんな予想がありますが、そんなことより、事故や災害に対して  実行可能な対処策を教えてもらうほうがはるかに有益であり  ごみの分別など 現実にやってることのほうが 大事であって  そこから考えると、予想は、言葉遊びであまり意味がないと思います、  あなたが温暖化の災害などに真剣に考えるなら、今回の台風などで救援に行ったのかどうかが重要ではないでしょうか?  そのような現実実行のない議論は、予想も含めて、言葉遊びの範疇でしかないのではないでしょうか、  温暖化に対して、できる事を情報で流してもらいたいですね、  どこか真剣さがないように思えるのは、なぜでしょうか?  予想はどちらでもいいです、  問題は現実の対処法ではないでしょうか?  科学の中でもおかしい人がいますから、極論者はいます  この世界には精神病があるように、その予備軍の人は多くいますよ  はっきりいって、夏の暑さ昔と違うというのは、肌で感じますね  そう簡単に治らない重大な問題なんでしょう  人が地球を壊してしまったという認識は必要でしょうね、

noname#135843
質問者

お礼

 ご回答いただきまして、どうもありがとうございました。 > つまり、現実の被害に対処することが重要で、予想があたろうがはずれようが、そんなことよりも現実の被害に具体的に対処するほうが重要だと思います  確かに仰りたいことは分かります。今後被害が続くもしくは拡大するという前提が成立するならば、全くその通りかと存じます。 > 世迷い言などは、あまり重要ではないということでしょうか  重要でないというよりも、“意見の硬直化”さらには“科学者(知識人)の煽り”が好ましくないといっているだけでございます。むしろ、多くの意見・考えを話し合う方が重要と考えています。 > そこから考えると、予想は、言葉遊びであまり意味がないと思います、  あなたが温暖化の災害などに真剣に考えるなら、今回の台風などで救援に行ったのかどうかが重要ではないでしょうか?  すみません。ここは“哲学”のカテゴリーで、様々な意見交換は受け入れられるべきかと思っているのですが…..  温暖化の災害というよりも、まず温暖化、寒冷化が起こるのは本当なのか? そしてそれを実際に証明(実証)できるのでしょうか? ということでございます。  もし、実用面からしますと、“環境学・エコロジー”の方をお読みいただいた方がよろしいかと存じます。 > 温暖化に対して、できる事を情報で流してもらいたいですね、どこか真剣さがないように思えるのは、なぜでしょうか?  そもそも、愚生自体“温暖化(寒冷化もそうでございます)”なるものは仮説に過ぎないと考えておりますので、そうなってしまうのだと思われます。 > 問題は現実の対処法ではないでしょうか?  確かに仰るとおりかと存じます。 > はっきりいって、夏の暑さ昔と違うというのは、肌で感じますね  そう簡単に治らない重大な問題なんでしょう  人が地球を壊してしまったという認識は必要でしょうね、  一度、反対意見である“寒冷化”の意見もご参照くださいませ。 http://news.biglobe.ne.jp/social/544/jc_090411_5440637411.html

回答No.7

Hidocchi様 非線形性に関連する立ち入った内容について、お答えしにくかったであろうにもかかわらず、詳細にご教示いただき、ありがとうございました。 最近、養蜂関連で、ミツバチが大量に消える事件と科学的考察をまとめた本が出版されていますが、かなり複雑な背景が絡み合っているようで、ご専門にされておられた環境ホルモンなる考えも考察対象になっているようでした。(手持ちの金が少なく、本屋でざっくりと立ち読みさせていただいた程度なので、語尾が不明瞭になってしまいます。申し訳ございません)。 === ハチはなぜ大量死したのか (単行本) ローワン・ジェイコブセン (著), 中里 京子 (翻訳) 出版社: 文藝春秋 (2009/1/27) ISBN-10: 4163710302 ISBN-13: 978-4163710303 発売日: 2009/1/27 === 環境ホルモン問題にしても、ミツバチ問題にしても、温暖化問題にしても、(その背景に複雑なネットワーク構造が関与している場合に、)合原氏が引き合いに出しておられるところの非線形性(http://www.env.go.jp/chemi/end/2001report/pdf_j/aihara_j.pdf)が関与していると考えて差し支えないのであれば、いったん一方向へ振れ始めたならば、逆方向へ振り戻すことは非常に困難であろうことが容易に想像され得ます。 温暖化「論争」にしても、ひとりひとりの物事の判断だけであっても、多少なりとも多義図形的な評価(すなわち、非線形な判定)が関与しているのであり、それらが更に複雑なネットワークを構成するわけですから、非線形的な(部分的には過剰な)反応・対応にて揺れ動くのも当然といえば当然なことだろうと思われます。 そのようなこと(事象にしても、反応にしても非線形だということ)をも加味しながら、「どの程度の非線形性」で「どのような非線形性」かを「科学者」が明らかにしていくのであれば、もう少し冷静に考えることが出来るのではないだろうか?と思ったりします。

noname#135843
質問者

お礼

ご回答いただきまして、どうもありがとうございました。 > 非線形性に関連する立ち入った内容について、お答えしにくかったであろうにもかかわらず、詳細にご教示いただき、ありがとうございました。  いえいえ、全く気にしておりません。こちらこそむしろ、お役に立てて、光栄と思っております。ただ、“Hidocchi=女の敵”というレッテルが貼られてしまう可能性があったため、言葉を濁しただけでございます。 また何かございましたら、ご遠慮なくご返信くださいませ。 >ローワン・ジェイコブセン (著), 中里 京子 (翻訳)「ハチはなぜ大量死したのか」  愚生の方でも少し調べてみたのですが、全く“不可解な現象”で、驚きました。コロニー内で社会性が崩壊しまった(女王蜂を残して、いなくなってしまうなんて!)のかと思っていたのですが、種々の見解があるようで、様々なファクターが関連しているように見受けられました。確かにこれも“非線形性”の問題かと思われます。 > 逆方向へ振り戻すことは非常に困難であろうことが容易に想像され得ます。  “温暖化”の考えを受けて、アンチテーゼと致しまして、“寒冷化”なる意見が登場してきました。 ここら辺のいきさつはどういったものになるのでしょうか? 単なる既存の考え方に対する行き過ぎの防波堤的役割としてなのでしょうか。それとも反抗心からなのでしょうか? > 非線形的な(部分的には過剰な)反応・対応にて揺れ動くのも当然といえば当然なことだろうと思われます。  確かに、仰るとおりかと存じます。 > 「どの程度の非線形性」で「どのような非線形性」かを「科学者」が明らかにしていくのであれば、もう少し冷静に考えることが出来るのではないだろうか?と思ったりします。  No.1 and 2の回答者様が述べておられましたように、科学者(知識人)の現状もあり、またその現状(研究費をもらってくることです)をさらに向上させる(?)ために、イデオロギー等に染まりやすい人達を煽っていることも事実かと思います。ただ、煽られた方々が、「(非線形的に)様々な見解・要因を調べてきた。自分の判断でこう決断したのだから、一切の悔いはない」と思っていただければいいのですが…..  ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。

noname#117439
noname#117439
回答No.5

生活実感にある通り「気象変動」なら起きていますよ。 その前提で、 暖かくなっているかどうかは「わからない」で、いいんじゃないですか。

noname#135843
質問者

お礼

 ご回答いただきまして、どうもありがとうございました。 > 暖かくなっているかどうかは「わからない」で、いいんじゃないですか。  全くの正論かと考えております。  以下の日経新聞の記事をみていただきたのですが、 https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_23c/spiraldragon/E697A5E7B58C_2009_2_2_5.jpg (これをクリック致しますと。拡大されます)  現時点では、? とうことになろうかと考えられます。  ですが、以下の回答者様(k_jinen様)にご質問させていただいたように、”温暖化”なるものを”規定事実”として、進めてしまった場合(実際、”規定事実”化してしまっている人達も少なからずいます)、不測の事態に陥りはしないかという点でございます。なお、実際”規定事実”化してしまっている現象は、このOKwaveの”社会”→”社会問題”→”自然環境問題”をご覧頂けますと、お分かりなろうかと存じます。  そして、この”規定事実”なるものが(あくまで”仮説の段階”に関わらずです)、近い将来例えば10年後に”寒冷化”なるものがやってきたとき、食料不足等の甚大な被害を被ろうかと予想されます。その際、これら”規定事実”と決めつけている科学者達はどのような責任を負うつもりなのでしょうか? ということでございます。  もし、愚生の意見がおかしいとお思いの場合、もしくはさらなるご意見等がございましたら、ご返答の程頂戴できれば幸いでございます。

回答No.4

ひところのゴタゴタに比べると、温暖化論争もwikiにてまとめられる程度の時期になってきたようですね。 地球温暖化に対する懐疑論 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%90%83%E6%B8%A9%E6%9A%96%E5%8C%96%E3%81%AB%E5%AF%BE%E3%81%99%E3%82%8B%E6%87%90%E7%96%91%E8%AB%96 地球温暖化に関する論争 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%90%83%E6%B8%A9%E6%9A%96%E5%8C%96%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E8%AB%96%E4%BA%89 (科学者を含めて)人間が把握可能な事象が「全て」ではあり得ないことは当然のことです。 どこまでを信頼する・できるかどうかは、受け手の判断能力にも依存します。 上記のウィキペディアからのリンクを含めて、「どこまでが事実で、どこからが仮定で、どこからが信頼区間○○%の推論なのか?」を、十分に理解しうる人はどの程度いることでしょう。 もし、そういった「事実・仮定・推論」の記述・解釈にて、誤った情報を「意図的に」流すことが行われたなら、それは「科学者」とは呼ばれず「詐欺師」と呼ばれることでしょう。 また、「意図的でない」場合も含め、誤った情報が一人歩きするのを放置するのは「科学者」とは言えないでしょう。だからこそ、上記ウィキペディアにてまとめられる程度の論争が起こったとも言えます。 それだけのことだと思います。

noname#135843
質問者

お礼

 ご回答いただきまして、どうもありがとうございました。 > (科学者を含めて)人間が把握可能な事象が「全て」ではあり得ないことは当然のことです。  仰る通りかと存じます。 > 上記のウィキペディアからのリンクを含めて、「どこまでが事実で、どこからが仮定で、どこからが信頼区間○○%の推論なのか?」を、十分に理解しうる人はどの程度いることでしょう。  恐らく、いないと思われます。一部の”予言者(?)”なる人を除けば、でございますが(笑)  愚生が思うに、「環境問題」につきましては、とても”イデオロギー”的要素が多分に含まれているかと思われます。  従いまして、愚生の懸念するところを以下に列記してございます。 (1)”環境論者(温暖化肯定論者が多数かと察せられます)”をも、自分の主張の中に取り込み、さらにはそれを煽っている現象が見られること (2)さらには、”環境税推進派”もしくは”排出権取引採択論者”なる人がいること。  1番目に関しましては、「悪魔に魂を売ったもの」と考えてもよろしいかと存じます。また、2番目につきましては、愚見を、以下のサイトに述べております。 http://dell-support.okwave.jp/qa5247212.html   もし排出権取引なるものが実施されれば(G20ではその方向に進んでいるように見受けられます;以下のサイトをご覧下さいませ)、当然のことながら、”寒冷化”がやってきますと、バブルの崩壊がやってきます。 http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20090907AT3S0501X05092009.html  そうなれば、恐らく今までもそうであったように(例えば、住専問題のように)、 ・(NPO等に)天下りしている元官僚の批判 ・またその天下り官僚なる人がいくらの退職金をもらったか等の、聞きたくもない報道が一斉に流れるものと推察しております。  現時点では、確かに”わからない”のですが、”分かったふり”をして持論を述べている研究者には、やはり、その社会的影響度から鑑みて、それ相当の責任があろうかと思うのです。  もしよろしければ、ご意見の程頂戴いただれば幸いです。ただ、k_jinen様におかれましては、お父様のご体調がよろしくないとお聞きしておりますので、差し支えのない程度で結構でございます。  長文、ご一読いただきましてどうもありがとうございました。

noname#160321
noname#160321
回答No.3

科学者でさえ目立ちたいだけで何の証拠もない「理論」(科学者の場合「仮説」という逃げ道がある)を挙げて新聞やポピュラーサイエンス、経済誌にいっぱい「論文」(本当は論文じゃなくてただの解説)を書いて編集者からお金を引き出したいと思って居る人はたくさん居ます。 外れたら「あれは仮説に基づく議論だから」としゃあしゃあと言ってのける人がいます。 科学者でない人はどうでしょう、上記のポピュラーサイエンス誌や経済誌に専門家の「振り」をしてお金を稼ぐ人、NPO、NGOを作って企業からお金を集める「詐欺師」、幾らでも居ますよ。 自分の狭い知識から「人類の滅亡絵巻」を紡ぎ出して騒ぎ立てる人は別に今に限った事ではありません。 地球の公転軌道がハレー彗星の軌道と交叉する時、ハレー彗星の尾の中にシアン化水素が観測されたからと言って、酸素ボンベを大量に売りつけた十九世紀の詐欺師とあまり変わりません。 詐欺師の後ろにはどの時代にも中途半端な「知識人」がたくさん居るのです。 それから、科学者の話でないなら、タイトルは「科学者って?」はやめて下さいな。

noname#135843
質問者

お礼

 ご回答いただきましてありがとうございました。 > 詐欺師の後ろにはどの時代にも中途半端な「知識人」がたくさん居るのです。  確かに仰るとおりかと思います。 > それから、科学者の話でないなら、タイトルは「科学者って?」はやめて下さいな。  愚生と致しましては全くその気はございません。  一応、今まで”環境”に関連したテーマにて研究を続けては来ました(今では、聞かれなくなってしまった「環境ホルモン」なるものです。今では、某大学の客員準教授なるところについていますが(涙))。そして、その後始末等において、もしくは産業界に苦しみを与えた経験から申し上げまして、反省の念があるからでございます。  つまり、全くその結果もたらした影響を鑑みずにいらるとは、余りにも情けない話ではないでしょうか。    

  • g-space
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回答No.2

 どれも違いますね。  科学者は、科学の方法に則って行えば、誰でも同じような結果(データ)が得られる実験や観測を「科学的合理性」があるものとして受け入れます。データの「解釈」は違う可能性があり、時に正反対の結論を得て、論争になったり、後年の実験や観測などによって決着が着けられたりすることになります。とはいえ、これもまた「科学的合理性」に基づいて導かれる結論やその結果としての論争であり、一定のルールに従っています。すぐに決着が着けられないのは、データ不足(と、時には視点不足)のためです。  一方、科学的な「成果」や「論争」を社会がどう受け止めるかは、科学者自身を巻き込むこともある社会的利害関係や様々な信条・信念などによって、個人や集団でまちまちです。どう受け止めるかは、「科学的合理性」とは異なる、人間であるが故の「社会的合理性」によって決まってきます。この場合には、往々にして、自分の信条や信念に有利な「科学的データや考察」のみを意図的に採用して議論を進め、不利になるような「科学的データや考察」は無視するという、およそ「科学的合理性」とは相容れない態度が取られます。  「科学的合理性」を放棄した「見せかけの科学的議論」は、当然のことながら「科学のルール」に従う科学者には想定し難いものです。 >当の科学者も予想だにしない極論者 が出てくる理由としては、まあ、こんなところでしょうか。

noname#135843
質問者

お礼

 ご回答いただきまして、どうもありがとうございました。 > どれも違いますね。  了解致しました。 > 一定のルールに従っています。すぐに決着が着けられないのは、データ不足(と、時には視点不足)のためです。  少し、ご質問させてくださいませ。  例えば、”天動説”から”地動説”、さらには”ニュートン力学”から”相対性理論”への展開という、科学史上重要な発展が見られました。これも同じ理由からでしょうか?  つまり、本当に合理的・理性的見地からそれがなされるのでしょうかということでございます?  愚生が思うに、科学が発展を遂げるにあたり、ある一定の”既存科学者集団(往々にして、その科学界の重鎮的存在)”がそれらの進歩を妨げることはなかったでしょうか? 実際、アインシュタインも、1927年のソルベー会議にて、(確かエーレンフェストだったかと記憶しています)、彼からアインシュタインが「君は相対性理論に反対した多くの敵対者がやったのと全く同じように、現在の量子物理学者を敵対視しているのではないのか」と諭されたことがございます。  さらに申し上げますと、科学の発展していくプロセスに於いて、最も重要な意味を持つのは、”客観性”や”合理性”といった美辞麗句ではなく、ある”科学者集団”による、”信条”.”信念”みたいなものだと思うのですが.....  いかがでしょうか? > 「科学的合理性」を放棄した「見せかけの科学的議論」は、当然のことながら「科学のルール」に従う科学者には想定し難いものです。  確かに、科学者とはかけ離れ、言葉自体が一人歩きしていく様は、科学者の想像を逸脱したものと察せられます。  ですが、ここでまたご質問させてくださいませ。  これらの”一人歩き”現象は、科学者にとって、全く無関係なのものなのでしょうか?さらには、その末路にいたる結果(結果がよければ構わないのですが)に対しては、全く責任無しとしても、いいものなのでしょうか?