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《個人》の概念ないし繭は 物象化の現実に向き合うところから生まれたか
《個人》というのは 《わたしがわたしである》ときの事態を指してその一人ひとりの存在のことを言うとのみ思っていました。 その後 この個人が《概念》でもあると聞き それは 相対主義と独我論にかかわっているのかなと思いました。つまり ○ ひとつには 何事をも相対性のもとに捉える見方に立ち ○ その上で みづからの考えを送信することはおこなうが他者からの意見を受信することはないがしろにするという変形鎖国政策を採る。 ○ ゆえにそこでは 《個人》はあたかもみづからが城壁をめぐらして独りで暮らすかのごとき存在として 君臨している。 ☆ これはなぜか? いわゆる《物象化》の理論を噛み合わせると 分かりやすいかも知れないとこのたび考えました。こうです。 以前に つぎの問いをしたことがあります。まづそれを掲げます。 ☆☆ 【Q:物象化論の現在は いかに?】 ~~~~~~~~~~~ http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4268347.html ヰキぺディアで《物象化》を参照したら むつかしいものですね。 まづ 最初の定義として こうあります。 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 商品経済においては、 社会的分業に基づく人間相互の関係が私的な商品交換を通して取り結ばれるので、 個々人の労働は直接的には社会的なものではなく私的なものとなり、 労働の社会的性格は商品の交換価値として現われる。 労働と労働の関係が商品と商品の関係として現われる。 この機構をマルクスは物象化と呼んだ。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E8%B1%A1%E5%8C%96 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たとえば日本人は 原理原則を信用せず杓子定規では動かないので 資本の論理というようなものについても 物神としてのごとく崇拝するものではないと思っておりました。 人間相互の関係は 《社会的分業に基づく》かぎり 《私的な商品交換を通して取り結ばれる》という情況に入るけれども それでもそれは 社会生活全体のそれぞれの一面なのであって とうぜん互いに結ばれていると思っていました。 ぎゃくに言えば 物象化という現象に対して人びとは もっといい加減である。あるいは そのような資本の論理には いやいやながら 従っているだけであり 回り回ってその《労働が社会的なもの》でもあることを思っている側面を持つだろうと。 現在の情況として《物象化》は 果たしてどうなのでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 結論としてですが ○ 《個人という概念》をあたかも繭のごとくひとがかぶるのは 現実の物象化に対する防御であって その意味では 繭というより楯であるかもしれない。 ☆ 批判しつつさらに解明をしてください。
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閉じられる前に、bragelonneさん的課題に、一寸だけ掠る為に、少し復習を書いてみます。 No.24の最後の bragelonne>乱暴に言ってしまえば の内の半分については、同意したいと思うのですが、そこまで行き着くのが大変、と言うか、無理です。 政治ー経済関係を簡単に云ってみますと、経済学の成立史を見ても明らかのように、歴史上純粋経済過程というものは、経済学者の頭の中にしか存在しなかった。或る時期、政治からの干渉が少なければ少ないほどうまくいくのだ、と言う「経済理論」がもてはやされたました。ところがそれでさえ実は、或る階級・或る一味にとって有利になるものとして、持ち上げられたのでしたね。数々の失敗を糧に、政治が、漸く暴れ馬=経済を乗りこなすようになった、と思うと、すぐ足をすくわれる。経済とは、ミクロに見てそうであるのと同じく、マクロ的に見ても、「人間的な、あまりに人間的な」事象なのですね。 この間に、物象化論を挟んで無理に云うなら、 bragelonne>そこで働かせた人間の意志も じつは 物象化に沿った内容でしかなかった。 となってしまいます。 廣松渉的物象化論の見解では、本人にとって自由意志と思っていても、実は物象化した一連の過程に在るものであったりするのです。 では、その廣松渉的物象化論は「決定論」なのか? 勿論、そうではないのですね。そんな話は無駄話であって、ある段階まで掘り下げられた時、そこからの捉え返しとして、物象と化していると見える、と云っているのです。本人にとっては自由意志、他人から見ればロボット、という見解ではないのですね。本人が掘り下げることによっても、自分の行為は自由意志だと思っていたのに、そうとは云えないな、と捉え返すことができる。単に見方を変えるではなく、或る地点までの下降が必要なのですね。そこが「疎外論」と決定的に異なる点ではないかと思うのです。「疎外論」は上からの目線で、他人をロボットだと見る、そのように思うのですが。 では、そんな地点が必ず在ると云えるのか、という問いが生まれるかもしれません。それは問いが間違っていると思うのです。或る過程が、物象的連鎖に見得る、と主張するだけであって、すべての過程がそうであると言った主張ではない。 と言うことで、 bragelonne>物象化の作用に対して …ただの反作用としてだけではなく 云々を、一般的に論ずるとすると、ホリエモンの例で少し触れましたように、上向に転じる得る地点に立った時、何等かの見通しが立つかもしれない、と言えるだけではないか? 我々の目前に与えられた過程を捉え返した所にしか、答えはない。 ??単純すぎる復習で、自分でも苦笑い、という所です。社会科学系の論者が登場するまでのつなぎにもならないでしょう。羞ずかしい次第ですが、悪しからず。
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- 来生 自然(@k_jinen)
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>>> わたしの述べていることは むろん主観ですが 共同性をもつことがらがほとんどです。さらにこの主観の共同化にまい進してまいります。 <<< なぜ、「共同化」を求めるのでしょうか? a.私が「賛同」しかねる部分を「訂正」するつもりでしょうか? b.それとも、私が「賛同」しかねる原因を探って、私の考えを「正そう」と思っておられるのでしょうか? c.あるいは、双方が歩み寄れる視点を模索しようとするのでしょうか? 「この主観の共同化」と仰る以上、それは、bの立場だと理解いたしますが、そのように捉えてよろしいのでしょうか? >>> ★ ヨブ記を結論から紐解くのか、それとも「今・まさにここ」として先が不明というヨブの立場から紐解くのか ☆ (α)原則とその応用として とうぜんふたつの視点から扱います。これも当たり前です。 <<< では、「どちらが正しいか?」といった質問だった場合、どう答えるでしょうか? 「(α)原則とその応用として」 と述べられている以上、「(α)原則」を重んじられるのではないでしょうか? まさに、その直後で、bragelonneさんが「片方向のみの視点」に依拠しようとしておられます。 私が一神教を「信じる」のであれば、「どちらも、それぞれにとって、それぞれに正しく、【どちらか】を選択することは不可能。矛盾し対立するとしても【どちらも】正しいと言わざるを得ない」と答えるでしょう。 前提1.あらゆる可能性を顧慮し、論理的な思考を極め、その極限において、それでもなお、矛盾する、あるいは、対立しうる複数の視点が共存する。 前提2.それぞれの立場からの複数の視点は、共通する主題(概念)の向こう側に対し、極端な場合、反対方向を向いている。 前提3.その方向性は、それぞれの立場ごとにある情(想い・思い)と関連しており、切り離すことは出来ない。 そういったとき、 「どちらかが正しい」という選択が可能な場合、【どちらか】の一方のみの観点から、他方を否定することは不可能です。 そういったとき、いや、まさに、そういった前提条件に限定される場合のみ、相矛盾しうるかもしれない【どちらも】を共に正しいとせざるを得ない。 ヨブ記のヨブの立場と神の立場、旧約と新約聖書、ゴータマ・ブッダの立場とスッタニパータを伝承してきた人々、そのスッタニパータに代表される書物を介して、それぞれの「思い」の向こう側を記述しようとした人々。。。この場合、時間的に「先」のものが「後」のものよりも「正しい」という基準すら、正当性に欠ける場合が生じることでしょう。 片方から見た場合、「繭」をかぶっているかのごとく見え、他方から見た場合、「盾」の背後に隠れているかのごとくみえる。 さらには、「神の視点・俯瞰する視点」から見るならば、そのような「繭・盾」は不要かのごとくみえる。 そういった各々の視点について、さらなる「神の視点・俯瞰する視点」から見るのではなく、まさに、「同時並列的に」そういった人々の視点の高さから見るとき、それぞれを共に正しいということが可能かどうか? それを「あえて可能」という立場に立つということです。 bragelonneさんの仰る 再度確認したく存じます。「この主観の共同化」は、私の思っている所と、同じくしうるのでしょうか?
お礼
ただ単に(γ)の経験現実の裏側や隠れた部分を言うのか それとも(α)の神のことにまで言い及ぶのか。 (α)であれば 互いに《反対方向を向く》ことはないでしょう。もしくは反対方向を向いていても 何も問題はありません。無神論と有神論との対等性。 いわゆる《無宗教》だとか《無信仰》だとか 訳の分からないあいまいな表現でしかおのれの立ち場を表わし得ない場合は そのあいまいさ自体が 問題なのです。反対方向を向いていなくて 同じ方向を向いていてさえ 問題なのです。 (ウ) ★ ヨブ記のヨブの立場と神の立場 ☆ 《神の立場》というのは ほんとうにはありません。 ○ あるのは 《ヨブとかれの神――この〈かれの〉というところも大事ですね――の関係(つまり信仰)》について じねんさんなりわたしなりの主観真実だけです。 ○ ★《旧約と新約聖書》 ☆ これについても 《旧約》なら旧約という《立ち場》だとかその《真意》だとかがあるというのは まちがいです。そのように言うひとの主観真実があるだけです。 ○ ★《ゴータマ・ブッダの立場とスッタニパータを伝承してきた人々、そのスッタニパータに代表される書物を介して、それぞれの「思い」の向こう側を記述しようとした人々》 ☆ 結局のところは 一般にすべてをひっくるめておのれの主観真実を述べるまでなのです。 (エ) ★《「神の視点・俯瞰する視点」》 ☆ 人間の主観真実としての《俯瞰する視点》はありますが 《神の視点》というそれとしての存在があるわけではありません。あるかないか分かりません。 (オ) ★《「神の視点・俯瞰する視点」から見るならば、そのような「繭・盾」は不要かのごとくみえる。》 ☆ 違います。人間としてのわたし bragelonne が考えて 繭は要らないと述べています。ただし阿片さえ入り用な待った無しの情況はあるようだとも述べています。 つまりこれは (β)の公理に近い(γ)の世界観にかんする基本原則に属すものだというひとつの見解です。これは井戸端会議をつうじて共同化は必要だ/不要だと決めていけばよいでしょう。 じねんさんの問いの仕方に対して直截の応答ではなかったでしょうが だいたいお答えできたかと思います。 夜明けでしょうか?
補足
じねんさん――お早うございます。ご回答をありがとうございます―― あなたは おもしろい人だ。楽しい人です。 もうここまで来ると ひとによっては われわれは二人で掛け合い漫才をしているのではないかと勘繰ることになるかも知れないとさえ思われて来ます。つまり八百長ではないかという疑いです。――以前ほかのひととのやり取りでわたしは疑いをかけられた経験があるものですから そういったところまで気がまわってしまいます。 さて 吹き寄せるごみはそれくらいにして じねんさんもそうとう核心の部分に迫りますね。逆に言うと そこまで熱心に真理をあえぎ求めてでも尋究しておいでなら もうお分かりのこととも推し測られます。 わたしの考えを率直に述べてまいります。 1. 世の中には およそ三つのことがらがあります。 (α) 無限=絶対: 分かるか分からないかが分からないから その ように想定しておくものです。 / これと《わたし》との関係は 非思考の信仰です。 (β) 公理: ひとは自由だと――論証なしに――受けとめられてい ますが この《自由》は公理です。 / これについては すでに人 は経験合理性にもとづく思考において扱います。 (γ) 現象: 自然現象および社会行為です。 / これは ひとが実 証し論証するものとして扱います。言いかえるとその妥当性を競い ます。 (ω)〔さらにつけ加えるなら〕主観真実(こころ・気持ち・理屈): (α)に対しては非思考において受けとめている。(β・γ)に対 しては 感性および理性において―― 一般には経験思考において ――認識し一人ひとりみづからの判断において好き嫌いを決めまた その妥当性を評価する。 2. したがって (γ)の世界現象については (ω)の主観においておのおのが認識し判断を持つので そこに食い違いが生じます。 つまり互いにその真実を述べ合ってより妥当性のある認識や判断に――けっきょくは 半永久的に――到ろうとして生きます。つまり 共生ですね。 3. (α)の信仰にかんしては 《良心・信教の自由》という公理(β)のもとにあります。いわゆる伝道としての表現も自由であり これを批判するのも拒絶するのもまったく自由であります。 4. この自由は たぶん (α)の信仰=非思考が 無根拠にもとづくところから来ていると思われますが それは 余分としましょう。 5. ですから ☆★ 主観の共同化 ☆ は いくつかの次元があります。 (あ) (1)の世界観をめぐる全体的な前提事項についてそれを共同主観( common sense )とすること。 (い) (α)の信仰について 無限があるとする有神論と ないとする無神論とが 具体的な形態として(そしてこの二つの形態のみとして)現われるということ。互いに対等であること。を共同主観化すること。――これは同意を得られましたね。 (う) (γ)の世界現象一般についての取扱いは 見解が分かれるところです。という共同主観化。これが当たり前ではない一部の人びとがいるかも知れない。 (え) (β)の公理と(γ)の《事実認定および主観判断をあつめての共同自治》とのあいだに もしかするとやはり共同主観化しうる《基本的な原則》があるかも知れない。という次元。 6. ここでわたしは じねんさんに向けて (あ)から(う)までは無論ですが (え)のありうべき基本原則についての主観共同化をも画策しようとしています。 7. ちなみにひとの言うこと為すことはみな たぶらかしであると知るべきです。わたしはかなり成功しましたでしょ? 8. ですからまづ じねんさんの提出された( a / b / c )の分類では それらが何を扱うかその次元(あ~え)によってわたしの答えは違います。 9. (γ)の社会行為としての政策にかんして 定額給付金の是非・いくらにするかをめぐって じねんさんとわたしとで意見が違っても何も問題はないはづです。つまりこの種の事柄は いまは 扱いません。 10. 具体的に共同化――つまりわたしによるたぶらかし――が必要だと思うことがらを示します。 (ア) ★ 一神教を「信じる」 ☆ きちんと規定しようと思えば この表現は自己矛盾です。 ○ 《一神教》は 一般に集団として活動する宗教のその形態かその教義のあり方かを言うでしょうから 《考える》の対象であって 《信じる》の対象ではありません。 (イ) ★ 前提2.それぞれの立場からの複数の視点は、共通する主題(概念)の ≫向こう側≪ に対し、極端な場合、反対方向を向いている。 ☆ この《向こう側》という概念があいまいです。
- 来生 自然(@k_jinen)
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bragelonne様 逆説的な質問に対し、答えにくい所、お答えいただき、ありがとうございました。 ご指摘の1から6までは、賛同いたします。 7ですが、哲学的に「存在」ではなく「存在論」というとき、前提を限定することはあり得ません。「可能無限」と「実無限」の両方の立場を顧慮すべき所に思惟を重ねていくのが哲学でしょう。 その証拠に、先般購入いたしました === 複数にして単数の存在 (単行本) ジャン=リュック ナンシー (著), Jean‐Luc Nancy (原著), 加藤 恵介 (翻訳) 出版社: 松籟社 (2005/03) ISBN-10: 487984229X ISBN-13: 978-4879842299 発売日: 2005/03 === http://shoraisha.com/modules/tinyd2/index.php?id=3 では、まさに私の(現状での)考えとほぼ一致する視点『「単数」かつ「複数」』という(一見矛盾するような)量子力学での(存在としての)「粒子」であり(存在確率としての)「波」であるに相当しうる概念形成を模索しているようです。 >>> 上記文献の「訳者解説」からの抜粋(p.338、括弧類の記述を少し変えています。[]内の表記は原文の頁/訳本の頁のようです) この表題が意味することとは『【存在】は、区別なく、【かつ】区別された仕方で、同時に単数かつ複数である』[ESP48/73]ことである。『「存在」は、その名が指し示しているように見えるような、単なる単数形としては、前提可能ですらない。その単数は、その存在自体において複数なのである』[78/120]。(中略)『共に』が存在に付加されるわけではなく、『共-存在において存在をなしているのが【共に】なのだ』からである[50/77]。(後略) <<< ※この本は、表題のbragelonne様の疑問に関連すると思われます。 その点(存在-存在論)を除きまして、7から11までの思索につきましては、私の思索にほぼ合致いたします。 ※哲学的な用語では「志向性」と呼ぶらしいのですが、個人的には「○○への想い」とか「情的な方向性」とかいった言葉を使うことにしています。 12以降は、賛同可能な所と不可能な所が混在しています。主として賛同不可能なところは、どうしても一方的な見解としてしか受け取りようのない箇所であり、おそらくそのところはbragelonne様の信仰と関係する部分に重なっているようです。 一神教、たとえばキリスト教では、「アルパからオメガまで」といった表現に認められるように、神の視点では、「(時空を超えた)結論をも知っている(全知)」でしょうから、ヨブ記もそういった視点にて捉えうる(すなわち、ヨブ記の最後を「知っている」)という立場で、処理されることでしょう。 しかしながら、ユングは牧師の子でありながらヨブのような人々を治療し相談相手となる立場に、あえて立とうとしています。ヨブの苦しみが無限に続くのか、それとも終わりがあるのかすら「不明」でしかない「ヨブ」の立場に(あえて)立って記述しています。 ヨブ記を結論から紐解くのか、それとも「今・まさにここ」として先が不明というヨブの立場から紐解くのか、 >>> 14. ヨブは 人間にとって信仰の何たるかを知るために試練をきわめました。それだけのことです。 <<< とのbragelonneさんの見解は、まさに結論から紐解かれていると受け止めさせていただきました。このことは、No.5での補足欄(お礼欄の記載無し)での記述からも伺えるところではありましたが、再確認できました。 23から25および27については、ほぼ賛同いたします。
補足
k_jinen さん ご回答をありがとうございます。 そうですね。 わたしの述べていることは むろん主観ですが 共同性をもつことがらがほとんどです。さらにこの主観の共同化にまい進してまいります。 ☆☆ (No.5補足欄)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ひとことで言えば ○(α) ものごとは終わりから始める。 ☆ この方針です。しかもじつは細かく言えば ○ 実際には 終えたところから始める。のであり ○ あるいはまた 現実の生は――という意味は(α)原則の応用ということですが―― じつにわれわれは歴史を《夜》から始める。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 考えてみれば 当たり前のことを言っています。 ★ ヨブ記を結論から紐解くのか、それとも「今・まさにここ」として先が不明というヨブの立場から紐解くのか ☆ (α)原則とその応用として とうぜんふたつの視点から扱います。これも当たり前です。 けれどもヨブが 経験的な思惟や行為のもんだいから自由な信仰の立ち場にある。しかも試練は つらく きびしさを極めている。ヨブはむろんわびしい。とうとうこのわびしさが錆びついてしまったのです。 わび・さびの行きついたところで 神にも見はなされた。見捨てられたところで見捨てられていなかったのです。 この結果としての(α)原則は――イエスの出現により裏打ちされて―― すでに現実の指針としていいのです。そうなった上はやがてイエスを出す必要はなくなっていくでしょう。 人間の存在について ★ 『「単数」かつ「複数」』 ★ 『共に』が存在に付加されるわけではなく、『共-存在において存在をなしているのが【共に】なのだ』 ☆ これはやはり当たり前です。次のようです。 ☆☆ 【Q:それでは ブッダのさとりとは何だったのか】~~~~~~~ http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5151054.html みづからの存在が社会的に孤独であってその意味で独立していると捉えているが それでいて他者の存在と孤独関係をもかたちづくりその社会的な関係性としても存在するわれわれ人間――このような人は 空の覚りとともに 大悲の実践を はからずしておこなう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ただし次の見方は微妙なのです。 ★ 神の視点では、「(時空を超えた)結論をも知っている(全知)」でしょうから、 ☆ 思惟ないし知のもんだいではないのです 信仰はです。自分勝手に神にならないようにしましょう。わたしたちは 木(=十字架)の船に乗って道のついた彼岸まで渡りいくのみです。ただし道(=真理=生命)は見えていませんから 経験知のほかには 羅針盤はありません。これが無限と向かい合って得られる結論――(α)原則とその応用――なのです。 ★☆ ユングの四位一体の神 ☆ にかんしては ヰキぺにもないようで次の要約紹介をかかげておきます。 ▲ (ユングにおける宗教的倫理の可能性 :宮下 聡子)~~~~~~ http://www.l.u-tokyo.ac.jp/cgi-bin/thesis.cgi?mode=2&id=456 本稿はユングにおける宗教的倫理の可能性を探る試みである。宗教的倫理とは、神と人間との関係が何らかの形で顧慮された人間のあり方を指す。ユングの宗教的倫理がどのようなものであり、そこにどういう意義を見出し得るかを考察することが本稿の狙いである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ なぜばかばかしいと言わないのかと思いませんか。
- littlekiss
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こんばんは、bragelonneさん。 ************************************************************************************ littlekiss さんは 元気じるしの旗を立てて街や職場を歩いていらっしゃるというくらいでしょうから なんのそのでしょうけれど いったいどうなんでしょうね? といった質問です。 ★ ピシャ!っと手を叩かれ ☆ ても 箸は目当ての肉をつかんで離さなかった。 ************************************************************************************ ええ、まあ、職場でもよく「ほんま、元気やなー」とことばをもらいます。自己の体調管理には気をつけるようにはこころがけてはいます。とはいっても、早寝早起きかときかれればそれがそうでもなく、ここのところ少し徹夜で仕事を片づけていましたから朝起きるのが辛い辛い。先週は寝不足で少々へばってました。昼休憩で食事をとったあとからは椅子に座り事務仕事する手が止まる。あーあかん、眠気が襲ってきて仕事にならんとばかり席を立ち、外の雑用片づけに体動かし走り回ってましたね。外の空気吸うと、なんか知らんけどシャキッと目が覚めるんです。月末は、事務仕事山盛り待ってますからこの土日の休みでしっかと寝て睡眠確保。急速(休息)充電完了。(^_-)-☆ 人間の三大欲求 持続不可能性と生活世界「人間的基盤」 http://www.geocities.co.jp/WallStreet/7734/study/061208/sutudy061208-1.htm
お礼
littlekiss さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 なれなれしく元気じるしだのと言って澄みませんでした。無思慮でした。でも ★ 急速(休息)充電完了。(^_-)-☆ ☆ とはうらやましい♪ ★ 持続不可能性と生活世界「人間的基盤」――環境社会思想へのコミュニケーション・アプローチ―― ☆ 見つけてくださってありがとう。 ▲ コミュニケーション論を軸にどのように組み立てることができるか ☆ この取り組み方は参考になるのではないでしょうか。ま 井戸端会議と言っているということで 手前味噌にもなりますが。 ここでの玉に瑕は 骨格を箇条書きにして示しているという点でしょうね。 その大筋の議論はたとえば次のようです。 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 近代の大規模な市場システム・行政システムの様式が社会病理と関連している → 自己確証の阻害、没規範性、商品関係 → いずれも「人間化」プロセスの阻害を問題にしている。 ○ 人間化とコミュニケーション ・了解志向のコミュニケーションは統合力を形成し、人間化のプロセスを担う(ハーバーマス)。 → 了解志向のコミュニケーションは「規範」を形成し、文化的知の再生産(個人と"世界"の同一性)、社会統合(集団の同一性)、社会化(個人と集団の同一性)の獲得に深く関わっている(ハーバーマス:生活世界の再生産)。 → しかし「合意の統合力」("規範の論理"、"論拠の合理性")ではなく、「共同化の統合力」(=共感、義理、"ケアの論理")による「共同化」の統合力があって初めて、「人間化」プロセスは機能する ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうして言い忘れましたが 《物象化》を扱っており しかもM.ヱ―バーも出されているので――わたしはあまり好きではないのですが――その関連する概念を挙げておきます。 ○ 呪術からの解放 ○ 鉄の檻 ○ 《精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のもの》 ☆ こういう見方もあるようで。・・・
- 来生 自然(@k_jinen)
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No.8です 実無限と可能無限ですが、記述を逆にしておりました。 それぞれ入れ替えて読んでいただけましたら、幸いです。 http://blog.livedoor.jp/khideaki/archives/50464188.html
お礼
ヨブについてひとことおぎないます。 ヨブの主題は 次のような問いにもあります。 ▲ (ヨブ記 1:9) ヨブといえども 理由なしに(只で / いたづらに)神を畏れたりするものですか。 ☆ この《理由なしに》に注目することができます。 なぜなら 理由というのは 経験思考のもたらすものです。つまりは 《経験思考なしに》もしくは《経験思考とは無関係に》という意味だからです。 つまり 非思考=信仰を問題にしていると捉えられるのです。 この非思考の領域が 神のことですが ユングは この神が三位一体だけではなく 四位一体だと説いたのです。四つ目の位格は 悪魔です。 神はそもそも善悪を超えているのですが 人間の良心が善だとすると 神は善でないとするのはおかしくなります。人間は この神を受け容れその神との関係を信仰と言っているのですから 良心・信教の自由という公理を持ち出すとき 善でないものとの関係を公理やそのさらに基礎とするのはおかしいからです。 ところが ユングは この神に悪魔をくわえるというのです。一体というのですよ。つまり神の中で 善と悪とが一体だということになります。 善は悪 悪は善。だそうです。 このことは 可能無限の経験世界では ありうることです。善だと思っていたことが悪だったという場合です。 ところが 無限なる神においてはありえません。人間には分かり得ません。 ですからこの例のように 人間は 可能無限の世界で いろいろと《知的な飛翔》であそんでいる。こう言わざるをえません。神をもおそれず飛躍のし過ぎなのです。
- 来生 自然(@k_jinen)
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一神教の素晴らしいところは、神の外側を考えなくて良いということに尽きると思います。 いや、たとえ、神の境界よりも外側、すなわち、悪魔の側からの何らかの影響を考えたとしても、一気に神の視点まで飛び上がることで、悪魔が何をしようとも、自身がどのような災いを受けようとも、恐れるに足らないという状況にまで達することが出来ることでしょう。。。でも、本当に、そうでしょうか? ヨブ記 http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0487.html に対する答えは、一神教の立場からすれば、おそらくそのようなものになろうかと思われます。 でも、そういったこと(一気に神の視点にまで飛翔する)は、実際の所、人の人たる所以でもある「情」をも飛び越えてしまうことになるでしょう。 === ヨブへの答え (単行本) C.G. ユング (著), 林 道義 (翻訳) 出版社: みすず書房 (1988/03) ISBN-10: 4622012189 ISBN-13: 978-4622012184 発売日: 1988/03 === ユングは、一神教「内部に」とどまりながら、かつ、「ヨブ」の側(人間の側)に立ちながら、この問題を「情的に」扱っています。 実のところ、林氏の翻訳の他に、もう一冊の翻訳本があります。 === ヨブへの答え (単行本) カール・グスタフ・ユング (著), 野村 美紀子 (翻訳) 出版社: ヨルダン社 (1981/03) ISBN-10: 4842800364 ISBN-13: 978-4842800363 発売日: 1981/03 === 同じ翻訳といっても、これほどまでに内容に差がでるというのには驚きです。こちら側は翻訳時にユングの立場をさらに超えた、神の視点(神の側)に立っています。 この二冊は、読み比べるべきものだと思います。 さて、(幻想的にでも、あるいは仮想的にでも)「境界がある」と私がいうのは、まさに、《わたし》と《あなた》ないし《もの》との交換「不可能」性を言っています。 このことは、まさに「実無限」の側からの思索と同等であり、人間の思考限界を認める側に立った考え方でもあります。 そうして、このことは、自身が「もし神概念を有していたとしたら」、他者も「同様に神概念を有している」だろうという思いに繋がり、「両者の概念は、必ずしも一致する必要はなく、その概念の向こう側に、《共通する神概念》が存在しうるかも知れないし、その《共通する神概念》の向こう側に、もしかしたら神が存在しうるかも知れない」というレベルにて扱わざるを得なくなることを意味します。(存在論的な扱い) 逆説的に言えば、そうった複数の神「概念」は、まさに個々の生命体レベルにて概念的に抱きうるものだからこそ、共有可能・交換可能な「概念的存在」になりうるでしょう。このことは、人はヨブの立場から決して抜け出すことが出来ないということと同義になります。 さて、一方で、「境界概念」を神の側に預けてしまう、あるいは、「無い」という側に立つことができるのは、「可能無限」のレベルまで人が到達することが可能だと言うことを意味しています。(幻想的・仮想的な、知的な)思考レベルでは、非常にたやすいことです。 そうして、この「たやすさ」は、実は、非常に危険だということも、常に知らなくてはならないでしょう。 「想像していたこと」と「現実」とのギャップを常に体感してこそ、人は繭を一つ一つ破っていきます。 知的側面で一気に飛翔すると、可能無限と実無限の境界を飛び越えるときに、情をも飛び越えてしまい、「神の視点」で裁定を下すことも可能になることでしょう。 実のところ、そういった立場に立つと言うことは、「神をも恐れていない」ということと、同等である(すなわちヨブである人を超えてしまう)ということを意味しているでしょう。
お礼
18. 《ヨブへの答え》は林 道義 訳を読みましたが 無限論から見れば 曖昧なことしか言っていません。 19. ユングは 三位一体の神のほかに 悪魔という第四の位格を立てるのですよ。自由ですが これは マニの二元論です。悪は善 善は悪と如何様にも見なしうるというしろものです。 20. 神の物語では 人間のへそ曲がりとしての悪ないし悪魔は 人間の良心から見て合ったものを善とするとき それに反対するものを指して言うのみです。表現のしかたが おとぎ話です。 21. 悪という現象は へそ曲がりとして起きますが それは善をそこなうという現実があるのみです。悪ないし悪魔がそれとして存在するものではありません。 22. ★《知的側面で一気に飛翔すると》ということは 信仰に関してありません。 23. 初めにこころがこの世界を超えるかのように伸びたのです。この非思考におけるこころの志向性を 《われ考える》ではなく《われ まことを思う(=信じる)》と捉えたそれだけのことです。 24. この信仰を言うと それは飛躍だと見る向きも多いようですが それはぎゃくです。人びとは はじめの信仰からあたかもわざと縮こまるかのように むしろこちらのほうが《知的に飛躍》したのです。 25. ですから いまの状態から非思考の信仰を回復するとなれば 知的冒険としての最初の飛躍から逆飛躍をしなければならないと思ってしまうのです。それだけのことです。 26. 一神教あるいは多神教といった呼び方がほとんど意味をなさないことも見てとっていただけたのではないでしょうか。 27. 信仰は 非思考ゆえ つねに一元論です。 28. この一元は 《善悪の彼岸》などという継起(可能)無限の立ち場からのものではありません。単なる想定ですが――なぜなら心の伸びが要請しました(§23)―― 当然の如く 時には悪を引きずる人間の善を超えています。経験的な概念としての《有る・無い》をも超えます。 29. ですから ひとは信仰において飛躍する必要がないのです。ただ想定するだけです。ただ受け容れるのみです。こころの伸びというのは その先の無限というなぞを受け容れるという行為で成り立ちます。
補足
k_jinen さん ご回答をありがとうございます。 ですが ★☆ 可能無限を基礎にして思惟し行動する ☆ というのは 次を意味します。 ○ よくとれば無神論という真無限を想定として大前提に置く人間の存在論ですし ○ わるくとれば《飛躍はしないという飛躍を勝手につまり何の根拠もなくおこなっている》人間の存在論です。 ○ 《何の根拠もなく》というのは 《無根拠をも置かない》という意味です。 ○ 《無根拠》とは 真無限のことで 存在論が想定しうる有神論か無神論かいづれかのことです。 まづ 実無限という用語をわたしも別様に使いましたので訂正します。 ▲ (数学屋のメガネ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《実無限》というのは、無限の対象の全体性を把握して、無限が実際に存在しているとする立場だ。 《可能無限》というのは、無限を把握出来るのは、限りがないということを確認する操作が存在していることだけで、無限全体というのは認識出来ないとする立場だ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ もしこうであれば わたしの定義を別様に規定し 仮説をおぎないます。 1. 無限とは――なぜなら可能無限はほんとうには無限ではない―― 経験世界を超えているところである。 2. 無限があるかないか これは分からない。分かるか分からないかが分からない。したがって ただ上のように想定するのみである。 3. 想定にもとづく限りでは たとえば無限は 仮りに分割したとしても その部分はやはり無限である。そういう性質が 想定から推論される属性として挙げられる。 4. 人間の存在について 英雄だとかすぐれた能力を持つものを神々と言ったり あるいは その能力や性格の一つひとつを神格化して神々と呼んで神話を語ったりするときの神は むろん 無限ではありません。 5. ところが まさに無限に値する神を じんるいは捉えました。それは 無限はあるかないか分からないのですから 想定としては ある もしくは ないという仮りの表現で捉えるというものです。 6. ここから 無限論としての――互いに同等な――有神論および無神論という〔おどろくなかれ〕非思考の形態が持たれたのです。 7. これが 信仰です。可能無限のみを基礎とする存在論との違いは 経験合理性にもとづき思考をなすことはまったく同じですが わづかにその上に こころが向きを持つと捉えるところです。 8. ほとんど無きに等しいようなこの志向性が 非思考としての信仰です。 9. 無限として想定された神ないし無神は 非経験(超経験)ですが それと《わたし》との関係は・つまり信仰は こころの志向性(あるいは くせ)として経験事態です。 10. ですから 仮りに神のはたらきを《仏性》と呼ぶとすれば それは 人間のこころに宿るというふうに表現するまでに はじめの想定が及んで来ているのです。《聖霊》とも呼ばれます。 11. これらすべては 無根拠です。はっきりと想定された無根拠であり それは初めの無限の想定から来ています。 12. この有神論なり無神論なりの信仰に立てば 《境界はどうでもよい》のです。ものごとの認識評価がおこなわれ得ればよいのです。 13. したがって 信仰を基礎におく人間の存在論は はじめの想定において飛躍していますが そのあとでは いっさい飛躍はありません。これが ヨブその人です。 14. ヨブは 人間にとって信仰の何たるかを知るために試練をきわめました。それだけのことです。(ちなみにわたしは 松岡正剛を買っていません。読んだ本の中身をなぞっているだけだからです)。 15. 無限を想定せず その意味で飛躍をいっさいしないという飛躍を敢行するひとは 《神をおそれていない》ことを意味します。(無神論は 無神を想定している限りで 無限をこころに戴き神をおそれているのです)。 16. 言いかえると 繭から出ることを恐れるあまり 繭を破る破らないでためらう姿を見せれば 神もほほえんでくれるであろうと辻つまを合わせようとしているのです。 17. これを六道輪廻と言います。あるいは ばかは死んでも直らないと言います。アキレスと亀とも言いましたね。
- littlekiss
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bragelonneさん、おひさしぶりで。 今日も今日とて、ぶしょうかましております。 m( _ _ )m ども。 ☆☆ ぶっしょうか ☆ のほうで連想ははたらきませんか。 ぶっしょう(ブツ)は、みあたらないのですが… ここ注意しとかなあかんとこかと。 こことは? はい、【3.胆嚢】---[石灰化の有無、石灰化とは?]っちゅうとこです。 http://www2.biglobe.ne.jp/~msojiro/CT-kennsyuu.htm 連想はこれこのように果てしなく… ○ 《個人という概念》 ☆ がもしこの《避けどころ》であったり《楯》であったりするということは どういうことを意味しているんだろう。 コマーシャルであったかなぁ。 何かで全身をガードするみたいな。ねぇ。 ↑ ユニクロの吸湿発熱素材 「ヒートテック」 http://www.uniqlo.com/jp/corp/pressrelease/2008/11/110715_08heattech.html 【環境と都市のライフスタイル研究】 http://www.hilife.or.jp/pdf/20031.pdf 分配 テーブルの上にいくつもの皿 皿の上には料理が山ほど盛ってある おっ!食事にありつけるぞっとばかりに 勢いよくサッと前へ箸を持つ手を伸ばす すると、ピシャ!っと手を叩かれ 前へ伸ばした手をすごすごとへっこめる
お礼
littlekiss さん そういえばお見かけしませんでした。しばらくです。ご回答をありがとうございます。 けっきょく物象化と言っても ひとが機械のごとくロボットになってのように働いたり生活していくことだと思います。経済の論理がこころを支配してしまう。 でもその弊害をわかっているから ひとは《個人》なら個人という観念を持ち出してこれを核の傘のようにしてかぶる。ロボット化を免れようとしている。 ただしこの個人という着物を着たひとは 自分の意見を述べることはするけれども ひとの意見を聞くことはしない。という別の弊害が出てくる。右の耳から入ったことは左の耳から流してしまう。 なにごともあまり深くは受け取らなくなって なにごともみな平らなかたちにして受け取る。感動もしなくなる。 littlekiss さんは 元気じるしの旗を立てて街や職場を歩いていらっしゃるというくらいでしょうから なんのそのでしょうけれど いったいどうなんでしょうね? といった質問です。 ★ ピシャ!っと手を叩かれ ☆ ても 箸は目当ての肉をつかんで離さなかった。
- littlekiss
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こんにちは、bragelonneさん。 ★ みんながぼくを責めたてる ☆ のほうだったら よかったのかも知れないのに。 ↑ ああ、どっちらかといえば、そうですね。 【QNo.4278933 命が大事ならば】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4278933.html なにぶん、先に職場で雑談を交わしてましたから 近しいことへ意識がはたらきました。 (^人^)スマンー☆ おはなしひとつ、めーっけ! さて、これはどんなおはなしだろう? 「詩篇 91篇:1節~13節」 http://japanese.fgtv.com/Sermon(Japan)/pdf/1a000312.pdf
お礼
littlekiss さん ご回答をありがとうございます。 暑いですね。 ☆☆ ぶっしょうか ☆ のほうで連想ははたらきませんか。 ★ 「詩篇 91篇:1節~13節」 ☆ は ○ 避けどころ / 楯 ☆ で釣りあげましたね。参考URLのとは違う翻訳で最初の箇所を掲げます。 ▲ (詩編 91:1-5) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ いと高き神のもとに身を寄せて隠れ 全能の神の陰に宿る人よ 主に申し上げよ 「わたしの避けどころ、砦 わたしの神、依り頼む方」 と。 神はあなたを救い出してくださる 仕掛けられた罠から、陥れる言葉から。 神は羽をもってあなたを覆い 翼の下にかばってくださる。 神のまことは大盾、小盾。 夜、脅かすものをも 昼、飛んで来る矢をも、恐れることはない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ もうそのまま。ところで ○ 《個人という概念》 ☆ がもしこの《避けどころ》であったり《楯》であったりするということは どういうことを意味しているんだろう。コマーシャルであったかなぁ。何かで全身をガードするみたいな。ねぇ。
- 来生 自然(@k_jinen)
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>>> 夜の意識の排泄よろしく 灰色の哲学を垂れ流しつづけるのは だれなのか? 《避けどころ》ならすでになってあげると言われているはづだ。繭は要らない。 <<< bragelonneさんは、誰かに「《避けどころ》ならすでになってあげると言われている」としても、そうではない人々もいるわけです。 bragelonneさんにとって「繭は要らない」であっても、繭が必要なひともいるわけです。 ただし、先般記述させていただいたように「繭」という概念であれば、「その本人が食い破らねばならない」ものです。外部からどうこうするといったものではないでしょう。「盾」という概念であれば、「矛」をぶつける(与える)しかない。 「灰色の哲学」が何を意味しているのかは別として、そういったものがたとえあったとしても、その「向こう側」を見ようとする人々がいるのなら、それは「朝」へ向かっていくごとくの思索につながる。 問題は、思索している哲学が「白・灰・黒」の何れなのか?ではなく、「それを超えた向こう側」への思いでしょう。 そういった想い・思いがなければ、それはもはや「哲学」(智を「愛する」)とは呼べない。 >>> 対話は一気に飛び跳ねましたね <<< そのように感じられるのであれば、そうかもしれませんが、私は「飛び跳ねる」ことは好きではありません。 人の思索の過程にて卵から繭、繭から外へという流れがあったとすれば、卵から一気に外へ飛び出そうとすると、死んでしまうかも知れない。。。 繭は、来るべき時に、蛹から蛾へと変身する過程で必要なものです。 蛹から蛾への変身も、一気に生じるわけではない。だれも助けることが出来ない。自ら変わりゆくものです。そのために繭が必要なのです。 ただし、自ら繭を破らねば、永遠の闇の中にて死を迎えるというだけのことです。 人間の思索における繭は、一重なのか、二重なのか、あるいは十重なのか、二十重なのか、中にいる《わたし》には判らないものです。 すくなくとも「一気に飛び出そうとする」と、繭と繭との隙間に「何か」を置き忘れてくるかも知れないと思います。
補足
k_jinen さん そう来ましたか。――ご回答をありがとうございます。 ひとことで言えば ○(α) ものごとは終わりから始める。 ☆ この方針です。しかもじつは細かく言えば ○ 実際には 終えたところから始める。のであり ○ あるいはまた 現実の生は――という意味は(α)原則の応用ということですが―― じつにわれわれは歴史を《夜》から始める。 ☆ のだと考えています。 しかしながら じねんさんは 可能無限と実無限を区別しておられたにもかかわらず ここでは 可能無限という概念を基礎として考えておられる。 ★ 問題は、思索している哲学が「白・灰・黒」の何れなのか?ではなく、「それを超えた向こう側」への思いでしょう。 ☆ というときの《向こう側》が あたかもその中点を限りなく求めて進むあいまいな目標となっていませんか? ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 繭は、来るべき時に、蛹から蛾へと変身する過程で必要なものです。 蛹から蛾への変身も、一気に生じるわけではない。だれも助けることが出来ない。自ら変わりゆくものです。そのために繭が必要なのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 子どもの論理です。蛾として・大人として発言を 基本的な理論としてすべきなのです。 ぎゃくに大人の論理でいけば 避けどころも繭も ときには阿片も必要になる場合もあります。 ★ だれも助けることが出来ない。 ☆ にもかかわらず ひとは手を差し伸べずにはいられないのです。それが人間です。夜の世界にいる盗賊のあいだでも 山分けという平等の理念を知っていますし ひとが窮地に陥れば助けるでしょう。――このような《終わり=目的》からものごとは始めるものと考えます。つまり 真無限のもんだいですね。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 人の思索の過程にて卵から繭、繭から外へという流れがあったとすれば、卵から一気に外へ飛び出そうとすると、死んでしまうかも知れない。。。 ・・・ すくなくとも「一気に飛び出そうとする」と、繭と繭との隙間に「何か」を置き忘れてくるかも知れないと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ じねんさんらしいていねいさが現われていると思いますし 局面によっては大いにそのような配慮が必要になるとも思いますが 基本原則は 《ここがロードスだ》であり 或る種の大げさな言い方をすれば《命がけの跳躍》が決め手になると考えます。(これは あとで振り返れば 命がけの跳躍だったなぁと知られるのですから 心配は要りません)。 というのも さきほどは子どもの論理とおとなの論理を言いましたが じつは――考えますに―― 子どもたちは 感覚的にみづからの向きを決めるかたちとしてなら すでに大人の論理は知っているはづなのです。理屈で分からなくても おしえてやっていいのだと考えます。避けどころが必要なのは 大人でもそうなのですから とうぜんです。 繭は要らないという人間のふつうの心意気は すでに方向性(志向性)として感じているでしょう。将来到るべき境地としてその感覚をおぼえているでしょう。甘やかす必要はないと思うのですがねぇ。 ★ 向こう側 ☆ は じねんさんにも そのこころにあるのではないですか。だったら 真無限からはじめましょうよ。 夕となり 夜となったとは どこにも書いてありません。夕となり朝となるのです。 しかもわたしたちは れきしを夜から始めます。受け容れ引き受けることからです。繭をやぶるのは おっしゃるように そのひと自身だと思います。 おあとがよろしいようで。
- 来生 自然(@k_jinen)
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>>> No.2補足欄より(回答欄は記載無し) ☆ 境界はどうでもよいと考えます。現象とその認識およびみづからの評価 このことがそのつど確定していけばいいのです。それだけで生きています。いちいちこんな細かいことを議論しなければならないとしたら それこそが物象化の影響なのではないでしょうか? 朝がやがて昼を迎え夕になり またあくる朝になる。これだけです。その余の哲学はすべて灰色です。汝の精神の緑野を見よです。 (中略) ☆ 《死を境界とする》説に反対というのではないけれど 同じようなものです。けっきょくは 《死を境界とする》説をとらなければよいのですから。 どうでしょう? <<< いや、まさにそのとおりです。質問の文章が「繭と盾」といった境界概念について固執しているように書いておられたので、いつものごとく突っ込んでみただけです。 さて、「死」についても、「所有権」についても、法律にてそれぞれ「細かな規定」を云々しなければならないのは、なぜなのでしょうか? そもそも、「生と死」の境界ってどこにあるのでしょうか? 脳が死に、循環が止まり、細胞が死んでいく過程。。。 全てが死に絶えたと見えても、遺された家族にとって、現前の「眠っているような」死体があれば、声をかけることで起き出すかも知れないという感覚があったとすれば。。。 おっしゃるように境界は、そのつど決定されます。意識などしていない。いや、「あとから知る」ことの方が多いぐらいです。そうして中には「境界概念」を駆使して会社を経営して行かれる方もおられるでしょうし、空っぽの繭を暖めているのに、その境界にすら目がいかないひともおられるかも知れません。 でも、明らかに「その向こう側」という概念を常に抱き続けるだけの「境界概念」があります。 >>> 朝がやがて昼を迎え夕になり またあくる朝になる。これだけです。 <<< 朝には昼がくるであろうという「想い」があり、「昼」には「夕」が来るであろうという「想い」があり、「夕」には「あくる朝」が来るであろうという「想い」があります。 「朝・昼・夕」という概念は、個々の人にとって様々でしょう。職を失って迎える朝、試験の日の朝、子供が生まれた次の日の朝、自殺を思い留まって迎える朝。。。そのように見る人々もいることでしょう。 また、人々の想い・思いとは無関係なように無情に流れ続ける「時」。。。そのように見る人々もいることでしょう。。。 これらを、一緒くたに「朝・昼・夕」といった概念で捉えることも、また可能です。 では、どちらが正しく、どちらが誤っているのか? 普通であれば「どちらも正しい」になるのではないでしょうか? 「繭」とか「盾」とかいった境界概念も同じことではないでしょうか? ===1995.9.2の日記からの抜粋 人は、 同じ大地に根を生やした大木の幹から派生した、 個々の枝の、 さらにその先の梢の、 さらにその先の葉の、 一枚一枚に似ている。 時空の流れが、地面から上空に移動する平面のごとくある時、 その断面に存在する幹、枝、梢の切り口が、 個々の民族、 個々の家庭をしめし、 その断面に現れた葉のほんの1枚が、 この私を表す。 木々は、 季節に応じて、 その姿を、 ユングの「共時性」などという言葉すら知らないのに、 一斉に、変化させる。 あたかも、 同時代の人々が、 同様の考えを、 同時期に思い描くかのごとく、 また、同様の感受性を同時代に有するがごとくに。 同じ大地から発生したにもかかわらず、 単に、時空の一断面だけを見ているが故に、 また、ほんの少し、紅葉する時期がずれ、 花を咲かせる時期がずれ、 日に当たる時間がずれた故に、 個々に散らばる枝の断面あるいは個々の木々どうしは、 それぞれが異なる民族だと思っている。 同じ大地に根を持つものなのに.....。 戦争をしようと思えば、 相手もまた戦争をしようと思うだろうし、 奪おうと思えば、 相手もまた奪おうと思うだろう。 同じ大地から生じたということを知らずに。 私が神という存在に心を傾けるとき、 相手もまた神という存在に心を傾けるだろう。 神が我らを救い賜うと思うとき、 彼らもまた同じことを思うだろう。 実に争いの治まるところを知らない。 人は、神を信じるなら、 その神についてもっと深く考えるべきである。 たとえ、否定することになろうとも。 神について深く考えずに信仰するものは、 神に対してこれ以上ない冒涜を犯すものである。 神が人智を越えて存在するならば、 神に対して深く考えれば考えるほど、 その神はさらに奥深い存在となることは、 自明のことである。 人に考える能力を与えながら、 人の考える能力の中に自らを埋没させるなど、 神が存在し、 人智を越えて存在するならば、 決してあり得ないはずであろう。 人は、「ヨブへの答え」を、 いや、「神の御言葉」と言われるあらゆる書物を、 また、「ブッダの言葉」と言われるあらゆる書物を、 もっと深く読み解くべきである。 それら全ては、 人の思考を越えて書かれたものなどないことを、 もっと深く読み解くべきである。 書き手の思考を越えて書かれることなど、 決してないことを知るべきである。 たとえ、自動筆記が為されたとしても、 その文章が、人の理解できる文章ならば、 それは、人の思考を介して書かれた文章であることを、 知るべきである。 神が人の思考を越えているのならば.....。 ===
お礼
k_jinen さん 自慢になりますが 対話は一気に飛び跳ねましたね。たのしいですね。――ご回答をありがとうございます。 ▲ (創世記§1) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・夕べがあり、朝があった。第一の日である。 ・・・夕べがあり、朝があった。第二の日である。 ・・・(第三から第五の日も同じようである)・・・ ・・・夕べがあり、朝があった。第六の日である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ いづれの日にも《夜》は来ていません。夜をとおって朝を迎えるのですが 夜にはなっていません。――これはアウグスティヌスの請け売りです。 ただし ひとによっては 灰色になり真っ暗闇にさえなります。このような《夜》に陥ってしまったときに 死なら死を 《わたし》ならわたし 共同体なら共同体を考えても ほとんど無駄です。地(ぢ)が黒く染まってしまっているからです。 朝から昼 昼から夕 そして夕からつぎの朝を迎えてあゆみます。そういうものです。第七の日には 神と同じようにやすみをとればよいでしょう。 夜の意識の排泄よろしく 灰色の哲学を垂れ流しつづけるのは だれなのか? 《避けどころ》ならすでになってあげると言われているはづだ。繭は要らない。 おあとがよろしいようで。
補足
○ 【参考になった】を押しても 数字が出なくなっています。
- littlekiss
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こんばんは、bragelonneさん。 【QNo.165437 「冷」輻射熱とは、なんでしょうか】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa165437.html ごめん、ここ二日ばっか職場の雑談で温暖化対策のはなしをしとったせいか、 ここの質問までも建物の話のように読んでしまう。 オモイいこんだあら~♪、と、 暑さのせいか?もともとか?いつもの飛躍ご容赦を。 繭、繭、と^^に眉にツバつけ もてはやされる省エネ そこに見落としはないか? 【外張り断熱工法:報告されているデータ】 http://www.hophouse.co.jp/house_doctor_tmp27.html 【外断熱工法】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E6%96%AD%E7%86%B1%E5%B7%A5%E6%B3%95 【外断熱とは】 http://www.chubachi.co.jp/sotodan/s01.html 内断熱工法で、内部結露防止に室内の水蒸気を壁の中に入れないようにするにはどないしたら… もともと、日本家屋は通気性がええ。 木が呼吸するいうんか、寒なったら縮み、暑なったら伸びる。 【見直される伝統的木造建築】 http://homepage.mac.com/saito_sy/religion/H170124JSmokuzo.html
お礼
littlekiss さん こんばんは。ご投稿をありがとうございます。 ★ みんながぼくを責めたてる ☆ のほうだったら よかったのかも知れないのに。 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ぎゃくに言えば 物象化という現象に対して人びとは もっといい加減である。あるいは そのような資本の論理には いやいやながら 従っているだけであり 回り回ってその《労働が社会的なもの》でもあることを思っている側面を持つだろうと。 現在の情況として《物象化》は 果たしてどうなのでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この場合 いい加減が健全なのだと思っているのですが どうなのでしょうかねぇ。
補足
old_sho さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 少しわたしなりに分かったように感じています。 ★ では、その廣松渉的物象化論は「決定論」なのか? 勿論、そうではないのですね。 ☆ ここですね。強引に解釈するなら こうです。つまり ○ われわれはまさにいま――政治革命を経ての・つまりはコミュニスト政党の一党独裁による経済体制を無用とするなら どうしても資本主義の行きつくところまでこの経済制度におつき合いして行かねばならないだろうとき そのいま―― 物象化の現象から自由ではない。その影響をまぬかれることはない。しかも ○ しかも そのことを見守ることに注意を怠らないし できることは――この現象の思うつぼのことであるとしても 考えられる妥当性を持った対策で出来ることは――おこなっていく。 ○ たぶんこのときわれわれは 物象化がわれわれの心を占領しているようであるが 逆の見方もできるのではないか。わづかに見方をするというだけに過ぎないが それは ○ それは この物象化の進む姿をわれわれの心の中におさめていてやっているということだ。――さあ 物象化よ 気の済むまで暴れてみよ われわれはどこまでもついて行ってやる。おまえが終焉を迎えるときまで見届けてやろう。 ○ それと どうもこのわれわれの心は 繭や楯というものを欲したり作ったりするのでもなくて そうではなく 物象化なるお客さんに対して 或る種の仕方で歓迎し 心の縁側にまでは上げてもてなしている。のではないか。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ そんな話(=決定論)は無駄話であって、ある段階まで掘り下げられた時、そこからの捉え返しとして、物象と化していると見える、と云っているのです。本人にとっては自由意志、他人から見ればロボット、という見解ではないのですね。本人が掘り下げることによっても、自分の行為は自由意志だと思っていたのに、そうとは云えないな、と捉え返すことができる。単に見方を変えるではなく、或る地点までの下降が必要なのですね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ わたしの見立ては 下降も上向の旅も明らかにしていませんが 案外 同じ軌道を進んでいるかに思われます。 どうも能天気の頭は 何事も楽しむに限ると思いこんでいるようです。 物象化の真っただ中できちんと認識するために下降するということが重要であるようなのですが 今回はど素人のよさをむしろ主張するかのように 現実から逃げない ただこれだけであたかも足元直下の問題点を掘り下げそこへ下降していったかのような効果があるかに思えて来ました。どうなんですかねぇ。