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アートディレクタは人格が物象(お金)化しているか?
- アートディレクターが実際に行わなければならない業務の詳細について指摘されている。
- アートディレクターの佐野氏に対する批判が厳しい。
- 資本主義の申し子である資本主義市場経済において、人格の物象化が起こるのではないかという議論が提示されている。
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しょうもない事を言えば法人格という制度があるので、《人格の物象化》《物象の人格化》はたやすく起きるし起こせる。でも佐野氏の件はだいぶ違う気がします。《人格の物象化》とか《物象の人格化》以前の、言ってしまえばひどく世俗的でくだらないところで事態が成立してしまったと思います。 >▲ 【五輪エンブレム撤回】佐野氏 賠償金回避か ~~~~~ 東スポWeb 9月3日(木)5時58分配信 は自分も読みましたが、この少し前に「佐野氏はどうしてこんなに叩かれるのか」みたいな趣旨の記事がネットにありました。適宜抜粋します(以下、「それ」と呼びます)。 それによると佐野氏はいわば、オリジナリティーなきオリジナリティーを目指していた、という事です。佐野氏は若い頃に、コラージュ物に衝撃を受け、アーティストを目指したとあります。作品の個々の素材が全て、なんらオリジナリティーのないその辺のパクリだとしても、全体としては独創的なアートになっている。そういうコラボ物です。 自分はアーティストではありませんが、そういう方法論があって良いのは理解できます。しかしそれによると佐野氏の不味かった点は、首尾一貫性がなかった事です。彼は要件(注文)ごとに作風を変えるのが得意だった。それによると、そういうのは最も発注しにくいアートディレクターだそうです。つまり個性がないので、要件にふさわしいかどうか事前に判断できない。逆に言えば、オリジナリティーは少なくともとも見えにくい。コラージュ手法を採用するので、なおさらという事になります。 要件ごとに作風を変えられるのは、もしかすると凄い才能なのかも知れない。ただ問題は「佐野氏はぱくった素材へのリスペクトも、自分の仕事に対するリスペクトも皆無だ」という点です。だから叩かれるし、コラージュとしての独創性も見えない。だから次のように言われます。 >「そもそも彼はデザインが嫌いなのだろう。個人ブログから盗用したパンや空港の画像は、自力で何とかできたはず。彼は職人ではなく商売人。名声を高めて金儲けするアーティストセレブを目指していたのではないか」(純丘氏) しかし上記は勝手な評価だ。もし彼がアートディレクターとしてちゃんとしてれば、何とかなったはずだ。トートバックの件しかり、個人ブログから盗用したパンや空港の画像の件しかり。 彼はアートディレクターではなく、若かりし頃思ったようにそのままアーティストを目指すべきだったと思う。たぶんディレクターには向いてない。 >「彼はイラストレーターだ。アートディレクターは権利関係から予算、納期、イメージ管理まで行う。それができないのだから名乗ってはダメ。彼は事務所を構えているが、騒動になっても窓口は顧問弁護士ではなく奥さん。STAP問題の小保方晴子さんですら、すぐに弁護士を付けた。ある意味、佐野氏は小保方さん以下ですよ」 「若い頃に受けたコラージュ物からの衝撃」をもっと大事にすべきだったと思う。 これらは全て、「素材へのリスペクトも、自分の仕事に対するリスペクトも皆無」という点につながると思う。前回のエンブレム公募では、世界中の有名な7つのデザイン賞のどれかに入賞した事が参加資格だったが、佐野氏はそれらを総ナメにしていた。それなりに才能はあったはずなのだから。要件ごとに作風を変えられるという特殊技能故に。 最後に余り話題になってませんが、IOCが佐野氏のデザインに、調査の末お墨付きを与えたのはじつは大問題ですよ。まさかこんなにボロボロになるとは、思ってもみなかったのかも知れないが。確かに昭和時代なら大丈夫だったかも知れない。 みんなネットで「素材へのリスペクトも、自分の仕事に対するリスペクトも皆無」という事を、知ってしまったからだと思う。
お礼
そうですね。ううーん。 まづは ご回答をありがとうございます。 そうですね。 真っ先におことわりのようなことがあってそれは ここでわたしは 《アートディレクター》なる用語を純丘曜彰氏の言うきちんとした仕事をする人としては用いなかったことです。 ぎゃくに何も《監督・管理・経営》をいっさいせずに 仕事の受注とスタッフへの割り振りと出来上がったものを届けることだけを マネーゲームのようなマーケットの中で淡々とこなして行くといった姿として言っていました。これは 純丘曜彰氏の発言をいいだけ引用していますので しっかりとおことわりしておくべきでした。すみません。 《何もしないディレクター。アートにかんする商品の発注から生産の完了までの工程を機械のごとく指示はしつつこなして行く立会人のような》。 まるで《キャピタルなる神》につかえる司祭のごとくおごそかにクライアントとの交渉およびスタッフへの割り振りを淡々とこなして行くといったイメージです。 そう捉えると あんがいご見解と合うところも出て来ます。: ★ オリジナリティーなきオリジナリティーを目指していた ☆ つまり 《キャピタル神に仕える司祭》としては もはや《オリジナリティ》といった概念すらなくなっている。それが キャピタルなる神です。その神の心です。 ★ 佐野氏の不味かった点は、首尾一貫性がなかった事です。彼は要件(注文)ごとに作風を変えるのが得意だった。 ☆ これが キャピタル神の聖書のおしえるところだと思われます。 ★ 要件ごとに作風を変えられるのは、もしかすると凄い才能なのかも知れない。ただ問題は「佐野氏はぱくった素材へのリスペクトも、自分の仕事に対するリスペクトも皆無だ」という点です。 ☆ これは どう捉えるべきでしょう。 けっきょく身の周りの人たちだけではなく 世の中の人間みんなが 《キャピタル神の信徒》であったなら 何の問題もなかった。《リスペクト》などは持ってはいけないというのが そのオシヘですから。《リスペクト》なる言葉は 辞書という辞書から削除すべしということなのでしょう。 ★ 最後に余り話題になってませんが、IOCが佐野氏のデザインに、調査の末お墨付きを与えたのはじつは大問題ですよ。 ☆ IOC は 《物神崇拝》の徒だったのでしょうか。