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物象化論の現在は いかに?
ヰキぺディアで《物象化》を参照したら むつかしいものですね。 まづ 最初の定義として こうあります。 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 商品経済においては、 社会的分業に基づく人間相互の関係が私的な商品交換を通して取り結ばれるので、 個々人の労働は直接的には社会的なものではなく私的なものとなり、 労働の社会的性格は商品の交換価値として現われる。 労働と労働の関係が商品と商品の関係として現われる。 この機構をマルクスは物象化と呼んだ。 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E8%B1%A1%E5%8C%96) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たとえば日本人は 原理原則を信用せず 杓子定規では動かないので 資本の論理というようなものについても 物神としてのごとく 崇拝するものではないと思っておりました。 人間相互の関係は 《社会的分業に基づく》かぎり 《私的な商品交換を通して取り結ばれる》という情況に入るけれども それは 社会生活全体の一面なのであって それだけではないと思っていました。 もっと いい加減である。あるいは そのような資本の論理には いやいやながら 従っているだけであり その《労働が社会的なもの》でもあることを思っている側面を持つと。 現在の情況として 《物象化》は 当たっているのでしょうか? ご教授をお願いいたします。
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>たとえ生産物や仕事が 《私的な商品・私的な労働》となったとしても >その労働の内容としての商品の使用価値は 《社会的な中身》を持つと言えるのではないでしょうか。 それって、 ・直接的には私的、間接的には社会的 という意味ですよね? でも、質問文は以下のとおり。 >個々人の労働は「直接的には」社会的なものではなく私的なものとなり、.... これは、 ・直接的には私的なもの。間接的には ...... 明記はされていないけど、ニュアンスとしては社会的な側面もありうる。 という意味ですよね? ※社会的な側面が全く無いなら、わざわざ「直接的には」と書かないであろうから、こういう意味にとります。 ですから、 >たとえ生産物や仕事が 《私的な商品・私的な労働》となったとしても >その労働の内容としての商品の使用価値は 《社会的な中身》を持つと言えるのではないでしょうか。 と言われても、(「直接的には」を読み落としたための誤読なのでは?)と感じるだけです。 マルクス自身も、 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E8%B1%A1%E5%8C%96 によれば、 社会的労働時間は、これらの商品のなかにいわばただ潜在的に実在しているのであって、 それらの商品の交換過程ではじめてその姿をあらわすのである。 出発点となるのは、共同労働としての個人の労働ではなくて、 逆に私的個人の特殊な労働、交換過程ではじめてそれらの本来の性格を 放棄することによって、一般的社会的労働という実を示す となっていて、間接的には社会的な中身があることは肯定しています。 >現在の情況として 《物象化》は 当たっているのでしょうか? 「違う」といいきるのは、ものすごく困難でしょう。 理由: ・情けは人のためならず(自分のためなり) が正しいとすると、すべての行為が私的行動になってしまう。これを否定する必要があるため。 たとえば、 自分自身が死刑になる、ところがギロチン台が故障した。ほっておけば死刑延期。 でも、自分には故障原因がわかっているし、修理もできる。では、修理するか? (修理すれば自分も死刑になるのを忘れずに。) これくらいの極端な場合で「修理する」と答えてはじめて、 《物象化》は当たっていないことなり、そうでなければ、《物象化》は、おおむね当たっている、としか言い様がないでしょう。 注意 これは、「社会的行為」の否定ではありません。そこを間違えないでください。 「社会的行為にみえることであっても、私的行為として説明できる」 これを否定できない限り、《物象化》 は当たっていることになる、という意味です。 ※この手の動機の説明方法は複数あって、たとえば、 人間は、「他人の役にたちたい」という願望がある。 という説明もアリで、おそらくこれも正しいし、物象化の説明も正しいでしょう。 だからこそ、物象化にイチャモンをつけるなら、「絶対に私的とはいえない行為」を是とするという反例を要求します。 反例は探せばあると思いますが、例外と片付けてかまわない程度の反例しか無いと思います。 > 人間相互の関係は ....《私的...》という情況に入るけれども > それは 社会生活全体の一面なのであって それだけではない だから、それだけではないのは、わかりきったことであって、 それだけではない、 イコール、 それが大部分 と同じなのです。 つまり、「おおむね正しいが例外がある」と言ったのと同じ。 数学の定理じゃあるまいし、例外がある程度では否定したうちに入らないでしょう。 反論したいなら、 >それだけではない ではなくて、 >それ(物象化)のほうがむしろ例外 と主張するしかないでしょう。 >たとえば日本人は... 大いに異議ありです。 むしろ、日本人が、最も「物象化」の原理どおりでは? 理由は単純。 日本人の別称(蔑称)は「エコノミックアニマル」であって、これってどう考えても、 資本の論理に忠実な思考をすると世界中から思われているからこんな名前がつくとしか思えません。
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- qsxdrfvgyh
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ご期待に応えられないのが残念ですが、物象化論は、全く分からないのです。おそらく、マルクス経済学なのでしょうね。ただ、テーマや主旨は理解できたと思います。 結局は、こう言うことだと思います。社会のほぼ全員が消費者で、生産者(労働者)は、その半分くらいに過ぎず、多数の消費者の多様な需要に応じるため、必ずしも自分がしたいわけでもないのに、ミスマッチの職種でも我慢してそれなりに勤務させられている状況があり、その時、効率的にするため細分化・特化された狭い範囲だけ任されて、経済社会に参加する状況を命名すると、「物象化」(対価を得るため分業を集約し最終的に商品やサービスと言う形・物に擬制すること)と言えるのではないかということでしょう。 資源の一種である労働を最終的に財貨・サービスに擬制する見方として、ある程度は分かります。では、市場性のない家事の場合、已むを得ずしていて、ある意味、労働の一種であるものの、対価を求めないので、物象化されているとは言わないでしょう。ところが、介護の家事だと対価性が出て、物象化してしまいます。では、嫌々しているのでしょうか。そんな人には、来てもらいたくありません。物象化を疎外だけで捉えると誤りで使命や慈愛と共に考察する必要もありそうです。介護労働者がやらされていただけという場合でも、そこに何かを見つけ出せている人々もいると思いたいです。そうでない人達は、虐待とかをするようになるのでしょう。現場は色々と複雑な様相を呈していそうです。
お礼
qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。 初めから 同じ方向を向いているようですので 特別に もうお応えを細かく述べることは致しません。 たぶん本来なら 人は 一般に 弱者を いたわると思われます。《割りに合わなくても》 そうします。そのいたわりの介護や援助に《対価性》をつけるというのは――まづは いい悪いを別にして―― 物象化の現象が優位に立ったことだと捉えられます。 つまり わたしたちの頭の中は 採算性だとかの計算がはたらきます。ふつうに また 正当にもだろうと思います。 わたしは マルクス主義であったことはありませんが 暴力による政治革命や信教の自由の蹂躙などに 絶対反対を唱えておいて 考え方として 悪くないという部分がよくあります。 1.各人が 分業し細分化された仕事に やむを得ず 就かなければならない場合もある。その職種に 自分の能力を合わせ 職種の社会的な必要性がある限りで そこから 生活の糧を得る。 2.ここから 《人間的な労働》のあり方を目指す。 3.《各人は能力に応じて働き 労働に応じて受け取る》という原則 4. さらに 《能力に応じて働き 欲望に応じて消費する》といった原則 などを考えているようです。わたしの筆は その先には もう伸びません。残念ながら。
- qsxdrfvgyh
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>そうですね。きわめて抽象的と言えばそうですが 要するに われわれ人間が 仕事をするというとき あくせく働かなければならない情況のことだと思われます。あくせく働いても 大して何か充実感もないというような状態が 一般的であり ふつうのことになっている情況。・・・人間が仕事をするのではなく 仕事が 人間を 動かしているという情況。人間のおこなう経済行為が モノとモノとの交換過程の流れに 従属してしまった状態。 なるほど。分かりました。「物」だけに焦点があるのではなく、労働者の自己疎外をテーマにしているようですね。組織や制度の(使い捨ての)歯車的に扱われて労働に喜びがなく、刑務所の労役のような人生において、飲食と生殖中心の動物的な状況に追い込まれて、それすら満たされない時、秋葉原通り魔のように反社会的分子に変質していくと言う自己喪失のことを背景としているのではないかと推察しました。 ただ、僕の場合、自己疎外という用語に少し抵抗があります。主体・自己と言う抽象的な実体を立てる見方・認識に対する抵抗です。縁起関係にある自己として見ているので、所与の制度を脱するとか、疎外を解消できるとか、自己実現だけ可能な社会とかの幻想を持てません。残念ながら、制度や組織は微調整できても、根本的には変わりません。しかし、労苦の中に小さな喜びも無くは無いと思います。創意工夫の発見、何らかの達成感、意思決定過程における重要な役割、企業の社会貢献とその担い手など、必ずしも自己疎外一色と言うわけではないと考えます。また、労働時間以外(余暇等)はゼロではなく、旅行や趣味や自分らしい生き方の時間にできると思います。人間は、経済だけの存在ではないと思います。もっと多面的に考察すべきかと思いました。
補足
qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。 じつは この質問の方向性(志向性)は qsxdrfvgyhさんの今回おっしゃる内容なんです。 ★ 創意工夫の発見、何らかの達成感、意思決定過程における重要な役割、企業の社会貢献とその担い手など、必ずしも自己疎外一色と言うわけではないと考えます。 ☆ 質問趣旨にも 述べていますが ほかに たとえば ☆☆ (No.2補足欄) ここで 人間の か弱き主観を 持ち出します。モノをめぐっての経済生活の上で 疎外の状態を受け容れ なおかつ 物象化した行為関係に入った段階で この資本主義を どう見るか。どう取り扱うか。どうあしらうか。そういう主観のあり方です。(自己満足であっても いいという想定です)。 ☆ ただし ここで 物象化という問題は 疎外を超えたものだという見解もあるようなのです。 前回 わたしは そのことに触れ得なかったようですが たとえば こうです。疎外というのは 野菜の品質について 自分が 農業を放棄して 製造なり営業なりの仕事に専念するようになった時点で 疎外されたわけです。直接には 問えない。責任をもって 品質の管理をできない。つまり 疎外されています。 それに対して 物象化というのは まづ 野菜の栽培じたいが 社会ないし世界全体の生産の様式の中において すべて その経済活動の体系の中に 雁字搦めのごとく 組み込まれていることを指します。いつだったか テレビで モンサントという会社が 大豆などの遺伝子組み換えの技術を 独占して その限りで 世界中の農業ないしその食品を 牛耳ろうしている動きがあると聞きました。だとすると 疎外の情況を超えて 生産・流通・販売のすべての段階にわたって モノが動くというその事態を中心にして 人も動くという情況が 現われないとも限りません。(遺伝子組み換えには 危険も生じるとのこと)。 たしか 広松渉が言っていたことは そのような物象化があるとすれば その物象化のごとくに 人の頭が・その思考が 働くようになる。そして そのことが 当たり前になって 人は 何も 不思議に思わなくなる。そういう情況が 現われないとも限らないということだったのではないでしょうか。 したがって 逆に 言ってみると その情況というのは ★ 縁起関係にある自己 ☆ そのものだとも考えられて来ます。中身が変わっていくとも言えるでしょうし しかも 依然として 世の中は 縁起=相互の作用と依存の関係にあると言っていることも出来ます。 その後 しばらく追究していなかったものですから 現在 この物象化論は どうなっているのかと思って 質問しています。どうなんですかねぇ。
- qsxdrfvgyh
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「物象化」という聞き慣れない言葉に戸惑ってしまいますが、少しだけ考察してみましたので、記述させていただきます。 たとえば、最近、野菜が売れず、値崩れしているようです。生産過剰と言うよりも、消費縮小と言う分析結果らしいです。価格決定メカニズムとしては、市場経済ですから、需要と供給のバランスで決まると考えられています。日用品等の諸物価高騰と景気減速局面で誰もが生活防衛に必死であると考えられます。ここまで、見てきて、「物象化」って、何ら重要な日常言語でも専門用語(ターム)にもなっていません。必要ないのではないかと思われます。人気が無く、常用されていないのです。 なぜか。空理だからではないでしょうか。農作物として市場において社会的な評価を受ける時、他の生産物やサービスと直接比較されるわけではなく、その農産物の需給状況によるだけです。その農産物に化ける源泉は、農業労働、土地の便益、設備・機械類の減価償却分、肥料・燃料・用水等、技術・熟練度、天候であり、労働が商品に物象化するという単純化モデルの出てくる幕は何処にも無い様に思うのです。観光農園の場合は、○○狩という体験に価値が付き、農園直営レストランの場合は、材料費が安いので商品と言うよりもサービスメインの対価です。この場合も、「物象化」と言うのでしょうか。単純過ぎると思うのです。使い道のない言葉になっていると思います。
お礼
qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。 そうですね。きわめて抽象的と言えばそうですが 要するに われわれ人間が 仕事をするというとき あくせく働かなければならない情況のことだと思われます。あくせく働いても 大して何か充実感もないというような状態が 一般的であり ふつうのことになっている情況。・・・ 石油の値段が高騰して 漁師たちが 仕事をつづけていけないという情況 この事例が わかりやすいのではないでしょうか。人間が仕事をするのではなく 仕事が 人間を 動かしているという情況。人間のおこなう経済行為が モノとモノとの交換過程の流れに 従属してしまった状態。今回の漁師の休業の場合は そのような物象の流れに従わざるを得ず 仕事ができないという内容の事例ですけれど。 たぶん 野菜の値崩れの場合も 大きく構造的な物象化の過程に位置していると思われます。生活がやっていける程度に 物象化しているなら それほど 気にならないでしょうし なくても済むかと思います。 勤勉資本主義とガリ勉資本主義とを分けましたが 最先端――と言っても 何が最先端なのか よく分かりませんが――の金融業界ですとか ICT業界などでは モノの流れのほうに 人は 合わせなければならないでしょうし 人は むしろ 動かされているかも知れません。 ですが 中小企業は そのような物象化した大企業の動きについて行かなければならないでしょうし そのとき 同じく 物象化してくるのではないでしょうか。 かつての高度成長経済の時代には たしかに《エコノミックアニマル》と呼ばれたわけですが その時は むしろ 需要が増えて生産が追いつかないくらいであるなら 楽しくおもしろがって 人びとは 《物象化されていた》かも知れません。 この先 グローバリゼーションが どういう形で どの程度まで グローバル化していくのか 分かりませんが 世界が隅々まで緊密につながって資本主義化したときには この物象化は どういうかたちになって現われるのでしょう。競争というものが どういうかたちになっているのか。などなどと 考えが向かいます。 範囲が広いとは思いました。
まあ当たっているだろうね。ある種構造というのは中心軸が生まれるものです。その中心がおろそかになると全てが崩れると感じる場合それは神と感じるものと似ているように思います。今にしろ資本主義という事自体物的な存在が神とりえるといえると思いますね、ただの契約にしろある種物的な価値があると思います。ただ物的となるとマルクスの時代と比べれば大分物的なかちが広がっているように感じます。なのでそれを大きくまとめて外界の価値という事にします。外界の価値というのはある種中心軸になりそれをなんとかしようと日々まい進しています。もし外界以外に企業が提供できるものがあるのか?と考えるとまず無理だと思いますね、内界を提供することはほぼ無理だと思います。
お礼
TENNTENNSEVENOKさん ご回答をありがとうございます。 少々細かく 伺ってまいります。 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 社会的分業に基づく人間相互の関係が私的な商品交換を通して取り結ばれるので、 個々人の労働は直接的には社会的なものではなく私的なものとなり、 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《分業》は そもそも 分担しつつ 社会的に協業するものですよね。であれば たとえ生産物や仕事が 《私的な商品・私的な労働》となったとしても その労働の内容としての商品の使用価値は 《社会的な中身》を持つと言えるのではないでしょうか。 そういう側面は そうであるかどうかにかかわらず 交換価値の側面こそが 商品の関係をつらぬくのはもちろんのこと 人間相互の関係をも 性格づけるし 動かしているということでしょうか。 そのとき 日本人は きわめて いい加減であって つまりあるいは鈍感であって そのように 人と人との関係が モノとモノとの関係と同じようになるということを 意に介さないところがありはしませんか。 たぶん 疎外感は感じていると思いますが われは物象と化せりと思うほどには 資本主義に没頭することはないように思うのですが いかがでしょうか。 ★ 外界の価値 ☆ これは どうなんでしょう。《中心軸》となり しかも 最先端にあって 人びとを引っ張っていく交換価値の純粋概念のようなものでしょうか。資本なんでしょうが 人びとを物象化すると同時に 別の側面では あたかも 信徒にとっての神のごとく 人を癒し 人と人との間を和解させる力としても はたらくということなのでしょうか。 ★ 内界 ☆ これは ふつうの意味で 内面の価値 内面の豊かさのことを言っているでしょうか。 ★ 内界を提供することはほぼ無理だと思います。 ☆ 内面については おのおの 配慮せよという意味になるでしょうか。 よく分かったわけでもないのですが 食いさがりました。 ありがとうございました。
補足
masa2211さん ご回答をありがとうございます。 結論は いくらかの部分をなお保留しつつですが 導かれた推論にかんしましては すなおにご所説に従って読みました。 そもそも 大きい課題ですので 行き先の見当がつかないまま発進したところがあります。もう一つには そこかしこに 舌足らずの表現が出て来るだろうなとも覚悟しました。 質問趣旨を まづ先に さらに補います。 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 1.社会的な分業が形作られてからは 自給自足の生活は はっきりと 例外であり これを いまは 取り上げない。 2.言いかえると 品物の安全や品質にかんして 他人に任せる部分を持つ。分業=つまり協業 としての信頼関係=つまり疎外を前提にした信頼関係が ふつうの状態となる。 2.この分業社会が――機械・エネルギー・交通通信の利用をとおして―― 大量生産⇒商品の廉価化⇒大量消費の様相を呈してくると 人間の信頼関係(嫌いだが つきあうを含めよ)は 事業上の約束にかかわる信用関係が 突出するようになり 信用は 貨幣の力がその代理を成す。 3.この情況では 誰もが その経済生活は 前提として すでに モノをめぐる行為関係に 多かれ少なかれ 染まってくる。つまり 広く 物象化する。 4.マルクスやほかの人の見解はどうであるか知りませんが ここで 人間の か弱き主観を 持ち出します。モノをめぐっての経済生活の上で 疎外の状態を受け容れ なおかつ 物象化した行為関係に入った段階で この資本主義を どう見るか。どう取り扱うか。どうあしらうか。そういう主観のあり方です。(自己満足であっても いいという想定です)。 5.この前書きにもとづいて 質問の趣旨説明や同じくNo.1への返答での趣旨説明が 出て来ます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ いただいたご回答の中から 課題を取りだして いまの質問は ● 日本人は 《エコノミック・アニマル》か? ☆ というお題にするとよいかも知れないと思いました。 そうして わたしの関心のあり方に 焦点を寄せて来ますと 次のようなそれぞれ 二つの要素がある場合を 想定しています。それについて さらにご見解を示していただければありがたいと存じます。 ○ 資本主義は ふつうの勤勉とそれの自己目的化としてのガリ勉とがあるのではないか。 ○ 勤勉資本主義も――それが そもそも 人間の生活の基礎となっていると思いますが―― 大前提としては 疎外と物象化の影響を受けており そのような前提領域での《私的・公的(社会的) / 直接的・間接的 / 基調・例外 》の区分は あるけれども 〔その前提領域としては〕問わない。 ○ 言いかえると それらの対立する二項の区分は あくまで 主観的にどうであるかにかかわる。かかわらせる。かかわらせて 問うてみる。 ☆ したがって 寄せていただいたご回答内容との微妙な違いを補いますが ○ ★《物象化にイチャモンをつける》のではなく そうではなく――なぜなら 現在は その物象化の大海を泳いで進むほかないゆえ そうではなく―― どうあしらうかの主観を問うています。 ○ ★《直接的には私的となった労働や商品にも 間接的には社会的な中身がある》という意味での《直接・間接》や《私的・社会的》ではなく それらをまとめて受け取った上で 果たして きみたちは どう思って 経済活動をしているのか / エコノミックアニマルにならざるを得ないということだろうか。そのように 資本物神さまは 問うておられるのではないか。 すでに触れましたように わたしの舌足らずな文章に対しては いただいたようなご批判が 妥当であると思います。あらためて どうでしょう。やはり ★ むしろ、日本人が、最も「物象化」の原理どおりでは? ☆ とお考えでしょうか。 * 《物象化論の現在は いかに?》という課題からは 《〈主観〉の問題》は 小さな議論であるかも知れません。それなのに 題目を変更するのかとお叱りを受けるかと思います。その場合 むろん 基本の議論に戻してくださっても いいと思います。