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《個人》の概念ないし繭は 物象化の現実に向き合うところから生まれたか

 《個人》というのは 《わたしがわたしである》ときの事態を指してその一人ひとりの存在のことを言うとのみ思っていました。  その後 この個人が《概念》でもあると聞き それは 相対主義と独我論にかかわっているのかなと思いました。つまり   ○ ひとつには 何事をも相対性のもとに捉える見方に立ち   ○ その上で みづからの考えを送信することはおこなうが他者からの意見を受信することはないがしろにするという変形鎖国政策を採る。  ○ ゆえにそこでは 《個人》はあたかもみづからが城壁をめぐらして独りで暮らすかのごとき存在として 君臨している。  ☆ これはなぜか?   いわゆる《物象化》の理論を噛み合わせると 分かりやすいかも知れないとこのたび考えました。こうです。  以前に つぎの問いをしたことがあります。まづそれを掲げます。  ☆☆ 【Q:物象化論の現在は いかに?】 ~~~~~~~~~~~  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4268347.html  ヰキぺディアで《物象化》を参照したら むつかしいものですね。  まづ 最初の定義として こうあります。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  商品経済においては、  社会的分業に基づく人間相互の関係が私的な商品交換を通して取り結ばれるので、  個々人の労働は直接的には社会的なものではなく私的なものとなり、  労働の社会的性格は商品の交換価値として現われる。  労働と労働の関係が商品と商品の関係として現われる。  この機構をマルクスは物象化と呼んだ。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E8%B1%A1%E5%8C%96 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たとえば日本人は 原理原則を信用せず杓子定規では動かないので 資本の論理というようなものについても 物神としてのごとく崇拝するものではないと思っておりました。  人間相互の関係は 《社会的分業に基づく》かぎり 《私的な商品交換を通して取り結ばれる》という情況に入るけれども それでもそれは 社会生活全体のそれぞれの一面なのであって とうぜん互いに結ばれていると思っていました。  ぎゃくに言えば 物象化という現象に対して人びとは もっといい加減である。あるいは そのような資本の論理には いやいやながら 従っているだけであり 回り回ってその《労働が社会的なもの》でもあることを思っている側面を持つだろうと。  現在の情況として《物象化》は 果たしてどうなのでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 結論としてですが  ○ 《個人という概念》をあたかも繭のごとくひとがかぶるのは 現実の物象化に対する防御であって その意味では 繭というより楯であるかもしれない。  ☆ 批判しつつさらに解明をしてください。

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  • old_sho
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回答No.30

閉じられる前に、bragelonneさん的課題に、一寸だけ掠る為に、少し復習を書いてみます。 No.24の最後の bragelonne>乱暴に言ってしまえば の内の半分については、同意したいと思うのですが、そこまで行き着くのが大変、と言うか、無理です。 政治ー経済関係を簡単に云ってみますと、経済学の成立史を見ても明らかのように、歴史上純粋経済過程というものは、経済学者の頭の中にしか存在しなかった。或る時期、政治からの干渉が少なければ少ないほどうまくいくのだ、と言う「経済理論」がもてはやされたました。ところがそれでさえ実は、或る階級・或る一味にとって有利になるものとして、持ち上げられたのでしたね。数々の失敗を糧に、政治が、漸く暴れ馬=経済を乗りこなすようになった、と思うと、すぐ足をすくわれる。経済とは、ミクロに見てそうであるのと同じく、マクロ的に見ても、「人間的な、あまりに人間的な」事象なのですね。 この間に、物象化論を挟んで無理に云うなら、 bragelonne>そこで働かせた人間の意志も じつは 物象化に沿った内容でしかなかった。 となってしまいます。 廣松渉的物象化論の見解では、本人にとって自由意志と思っていても、実は物象化した一連の過程に在るものであったりするのです。 では、その廣松渉的物象化論は「決定論」なのか? 勿論、そうではないのですね。そんな話は無駄話であって、ある段階まで掘り下げられた時、そこからの捉え返しとして、物象と化していると見える、と云っているのです。本人にとっては自由意志、他人から見ればロボット、という見解ではないのですね。本人が掘り下げることによっても、自分の行為は自由意志だと思っていたのに、そうとは云えないな、と捉え返すことができる。単に見方を変えるではなく、或る地点までの下降が必要なのですね。そこが「疎外論」と決定的に異なる点ではないかと思うのです。「疎外論」は上からの目線で、他人をロボットだと見る、そのように思うのですが。 では、そんな地点が必ず在ると云えるのか、という問いが生まれるかもしれません。それは問いが間違っていると思うのです。或る過程が、物象的連鎖に見得る、と主張するだけであって、すべての過程がそうであると言った主張ではない。 と言うことで、 bragelonne>物象化の作用に対して …ただの反作用としてだけではなく 云々を、一般的に論ずるとすると、ホリエモンの例で少し触れましたように、上向に転じる得る地点に立った時、何等かの見通しが立つかもしれない、と言えるだけではないか?  我々の目前に与えられた過程を捉え返した所にしか、答えはない。 ??単純すぎる復習で、自分でも苦笑い、という所です。社会科学系の論者が登場するまでのつなぎにもならないでしょう。羞ずかしい次第ですが、悪しからず。

bragelonne
質問者

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 old_sho さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  少しわたしなりに分かったように感じています。  ★ では、その廣松渉的物象化論は「決定論」なのか? 勿論、そうではないのですね。  ☆ ここですね。強引に解釈するなら こうです。つまり  ○ われわれはまさにいま――政治革命を経ての・つまりはコミュニスト政党の一党独裁による経済体制を無用とするなら どうしても資本主義の行きつくところまでこの経済制度におつき合いして行かねばならないだろうとき そのいま―― 物象化の現象から自由ではない。その影響をまぬかれることはない。しかも  ○ しかも そのことを見守ることに注意を怠らないし できることは――この現象の思うつぼのことであるとしても 考えられる妥当性を持った対策で出来ることは――おこなっていく。  ○ たぶんこのときわれわれは 物象化がわれわれの心を占領しているようであるが 逆の見方もできるのではないか。わづかに見方をするというだけに過ぎないが それは   ○ それは この物象化の進む姿をわれわれの心の中におさめていてやっているということだ。――さあ 物象化よ 気の済むまで暴れてみよ われわれはどこまでもついて行ってやる。おまえが終焉を迎えるときまで見届けてやろう。  ○ それと どうもこのわれわれの心は 繭や楯というものを欲したり作ったりするのでもなくて そうではなく 物象化なるお客さんに対して 或る種の仕方で歓迎し 心の縁側にまでは上げてもてなしている。のではないか。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そんな話(=決定論)は無駄話であって、ある段階まで掘り下げられた時、そこからの捉え返しとして、物象と化していると見える、と云っているのです。本人にとっては自由意志、他人から見ればロボット、という見解ではないのですね。本人が掘り下げることによっても、自分の行為は自由意志だと思っていたのに、そうとは云えないな、と捉え返すことができる。単に見方を変えるではなく、或る地点までの下降が必要なのですね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしの見立ては 下降も上向の旅も明らかにしていませんが 案外 同じ軌道を進んでいるかに思われます。  どうも能天気の頭は 何事も楽しむに限ると思いこんでいるようです。  物象化の真っただ中できちんと認識するために下降するということが重要であるようなのですが 今回はど素人のよさをむしろ主張するかのように 現実から逃げない ただこれだけであたかも足元直下の問題点を掘り下げそこへ下降していったかのような効果があるかに思えて来ました。どうなんですかねぇ。

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  • ri_rong
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回答No.22

 お礼をありがとうございます。  なるほど、ピコですか。引用されたところはたぶん、オラティオの八節だと思うんですが、どうでしょうか。原文と英文の該当する部分を見てみたいと思います。  ――We have given you, O Adam, no visage proper to yourself, nor endowment properly your own, in order that whatever place, whatever form, whatever gifts you may, with remeditation, select, these same you may have and possess through your own judgement and decision. The nature of all other creatures is defined and restricted within laws which We have laid down; 〔you, by contrast, impeded by no such restrictions, may, by your own free will〕, to whose custody We have assigned you, trace for yourself the lineaments of your own nature.I have placed you at the very center of the world, so that from that vantage point you may with greater ease glance round about you on all that the world contains.We have made you a creature neither of heaven nor of earth, neither mortal nor immortal, in order that you may, as the free and proud shaper of your own being, fashion yourself in the form you may prefer. It will be in your power to descend to the lower, brutish forms of life; you will be able, through your own decision, to rise again to the superior orders whose life is divine.  なるほど、「自由意志」と書いてある。では原文はどうでしょうか?  ――Igitur hominem accepit indiscretae opus imaginis atque in mundi positum meditullio sic est alloquutus: «Nec certam sedem, nec propriam faciem, nec munus ullum peculiare tibi dedimus, o Adam, ut quam sedem, quam faciem, quae munera tute optaveris, ea, pro voto, pro tua sententia, habeas et possideas. Definita caeteris natura intra praescriptas a nobis leges cohercetur. Tu, nullis angustiis cohercitus, pro tuo arbitrio, in cuius manu te posui, tibi illam prefinies. Medium te mundi posui, ut circumspiceres inde comodius quicquid est in mundo. Nec te celestem neque terrenum, neque mortalem neque immortalem fecimus, ut tui ipsius quasi arbitrarius honorariusque plastes et fictor, in quam/132v/ malueris tute formam effingas. Poteris in inferiora quae sunt bruta degenerare; poteris in superiora quae sunt divina ex tui animi sententia regenerari».  はて、自由意志はどこにあるでしょうか。  arbitrium(判断)のことでしょうか。  ブラジュロンヌさん、これはちょっとフライングじゃないかと思うのですが、ま、良しとして。つまりはその、「高等遊民」は確かに無関係とは思いません。ピコの想定しているのは、個々の魂です。そして、世界霊魂がある。前にも書きましたが、「他者を否定する自己」のことです。あるいは、この世を満たすアイテール。そういうものを想定している。  だからこそ、生も不死もないものとして――というふうに語るのです。  こんな感じですが、どうでしょうか。

bragelonne
質問者

補足

 ri_rong さん ご回答をありがとうございます。  《自由意志》については 次のご回答のほうで考えてみました。  こちらでは 次のご見解についてです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (α) つまりはその、「高等遊民」は確かに無関係とは思いません。  (β) ピコの想定しているのは、個々の魂です。そして、世界霊魂がある。前にも書きましたが、「他者を否定する自己」のことです。あるいは、この世を満たすアイテール。そういうものを想定している。  (γ) だからこそ、生も不死もないものとして――というふうに語るのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 正直に申して 分からないのです。   ★ (β):「他者を否定する自己」  ☆ についてです。先回のご回答から引きます。  ★★ (No.16) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  けれども、生まれながらもその自立を果たしていない者がいる。    自己を、他者の否定形で定義する人たちです。  努力と訓練をすれば誰だって、自己を保ちながらも、わたしとあなたのあいだを埋めることはできる。「そうしたい」と願うことによって、その実現はできる。けれども、「そうしたい」と思うことは、教養と同じで、逆説的に自己を規定することになるでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そしてここで  ★ (β):ピコの想定しているのは、個々の魂です。  ☆ は 一般的ですから 分かるはずですが なおここに  ★ (β):世界霊魂 / この世を満たすアイテール  ☆ も現われて来ている。  一気に憶測を進めるならば  ★ (γ) だからこそ、生も不死もないものとして  ☆ を参考にすると こうなるのでしょうか?  ○ 高等遊民とは すでに世の中にあるのだけれども この世の中の仕組みやその裏表についてわざと意志によって知らんふりをして過ごそうと企んでいるひとである。  ○ どういうわけか見事にそのたくらみが 実現している時期があり しかもその実現の仕方は いかにも自然なかたちにおいて成されている。  ★★ 自立を果たしていない  ☆ のならば 定義のこのような解釈になるのですが どうでしょう?  ▲ さまよえる子羊  ☆ とは重なるところもあるのでしょうか。微妙に違うようにも映ります。子羊のばあいは さまようあいだに何かを問い求めていると言うべきでしょうか。高等遊民のばあいは 問い求めを見事に難なく中断しているのでしょうか。  * 《世界霊魂》というのは ヘーゲルではないでしょうから よく分かりません。アウグスティヌスにはないと思うのですが どうでしょうかねぇ。  * ううーん。わたしのちからは ここまでです。

回答No.21

「概念」は「抱くもの」です。 無限という概念を、数学的に見た場合厳密に「実無限」と「可能無限」という二つの方向性に分離します。 このことは、「既に語られている」ので、「概念」はお持ちのはずです。 ※数学的な「無限」には単位がないため、様々な単位系に用いることができ、少なくとも「場とか力」とかに適応可能なことは当然のことなのですが。。。 そういったことは、横に置いておいても、 bragelonne様の立場から見た場合には >>> No.20補足欄(お礼欄は未記入)  ○ 無限は この経験世界を超えたところに想定するもの(これは場でも力でもよいはづです)です。  ○ 言いかえると 無限は あるか無いか 分かりません。きちんと規定すれば その有無も場であるか力であるか何かもかにかも 人間にとって分かるか分からないかが分からないのです。 <<< といった「言葉・記号」で表しうるでしょう。 すなわち、「無限」という言葉・記号に対して、「すでに」bragelonneさんは「語っておられる」 このことは、「無限」という言葉・記号に対して「上記のような概念」(そうして、そういった概念の向こう側への想い)を既に持っておられるということです。 私の言うところの「概念」は、知的に取り扱うことが可能であり、「言葉・記号」になっていなくても、「抱くことが可能なもの」です。他者との認識のすりあわせにおいて、言葉・記号で表すことが「可能な範疇」に入ります。すなわち、他者と「交換可能なもの」です。 しかし、そういった(言葉・記号が張り付いても・張り付かなくても)何らかの「概念」は、「その向こう側」(形而上学的な側)への思いがあって初めて主体に認識されうるものです。 「思い」は、そういった「概念」を貫き通す方向を向いています。 「概念」を失って「思い」のみがある人々は、抱ききれない思いを扱いきれず、言葉に出来ないもどかしさゆえに、その「思い」を代弁してくれるようなものにすがりつきたくなるものです。 たとえば、それが「神概念」でしょう。 「概念」は、人の(知的な)思惟にて「交換可能」なものです。 取りまとめうるものです。 しかし、その「概念」を貫いている「思い」、「その思い」は「言葉で表すことが不可能であり、少なくとも知的には扱い得ないもの」です。強いて言うならば「いわゆる情」や「意志」も関与しているでしょうが、「いわゆる情」や「意志」のみが関与しているものではありません。「言葉・記号」にした途端に「交換可能なもの」に成り下がってしまうようなものです。 私の言うところの「思い・想い」は、おそらく、bragelonneさんの仰る「心の伸び」が相当すると思われます。 そういった視点で見るならば、 >>>  ☆ ならば  ★ 確認不可能、認識不可能  ☆ という規定も 厳密に言えば まちがいです。  ○ ただし 《無限》だとか《絶対》だとかといった言葉で言い続けるのではなく 親しみを込めて やがて まづ擬人化をひとは始めます。つまり 《無限の主体 / 絶対の存在 / 絶対者》などです。  ○ ところが これらは 有るか無いか 分かりません。分かるかも知れないかたちで 分からないと表現する仮りの想定物です。  ○ ここで 人びとは 《無限の主体はいる》か《絶対者はいない》かという表現の仕方で捉えるようになる。  ○ さらに都合のよい言葉を当てた。つまりどの民族の言語にも見られる《かみ》という言葉です。  ○ だから 《神はいる》か《神はいない》か このどちらかに分かれるようになった。 <<< は、bragelonneさんが持つ「神概念」と、その概念に対する人びとの「思い」を想像した(概念化した)ことに他ならない。 すなわち、一つの「説明可能性」であり、言葉で概念化されているため、交換可能なもの(概念)です。 bragelonneさんは、「無限」という概念と「神概念」とを結びつけようとした。 求めたいものの途中に「無限」という概念が「たまたま」横たわっていただけなのかも知れない。。。 そういったような視点から、 >>>  ○ 《個人という概念》をあたかも繭のごとくひとがかぶるのは 現実の物象化に対する防御であって その意味では 繭というより楯であるかもしれない。 <<< を、見直してみるのも一つの手法になりうるかも知れません。。。

bragelonne
質問者

補足

 ばかやろうと言いたくなりますね。説明し切れない自分に向かって。  1. 1,2,3・・・と続いて 限りなく継起する可能無限は 無限ではありません。  2. この経験世界に属するものであり 属し続けます。なぜなら 数量ないし順序が決まるというのは 表象しうることを意味するからです。  3. 人間が――知覚も然ることながら――想像力において象(かたち)に表わし得るものは 経験思考であり経験世界の中にあります。  4. 《無限》は この経験世界を超えたところに 人間が仮りに想定するものです。  5. 《無限》なり《絶対》なりあるいは《神》なり《無神》なりという人間の言葉で仮りに表わしているのなら その言葉が――想定の限りでは あくまで 代理表現であるゆえ しるしであり続けますが―― その言葉として何らかの表象につながることは ありますし つねにそうです。つまり一つの概念として扱われるようになることは とうぜんです。そうでなければ しるしでさえありません。  6. このしるし(つまり記号ですね)が仮りにほかの人間の言葉と同じように ただ単なる概念であるとだけ捉えられてしまいそのようにのみ扱われているとしましょう。だからその概念の向こうにあるもの――という意味はいわゆる内包するものにせよ外延として引き出されるものにせよ より一層その概念の核心に迫るもの――をも引き起こすというのも 実際です。そのことは事実です。しかもそれが ひとことで言えば《観念の神》です。  7. これは  ▲ 文字はころし 霊は生かす。  ☆ という命題として指摘されています。《霊》は無限のことです。この霊を人間のことばとして代理するしるしが 《文字》です。文字にはとうぜん 概念のことが含まれます。《神》という文字を 概念として受け取りその向こう側にさらに気の利いた概念があるだろうと忖度するそのような人間の習性を言っているのでしょう。  8. つまりこれが ひとが覆いとしてかぶる《シャッポ・繭・楯》のことです。あるいはむしろ《まじない・呪文》と言ったほうがよいのではないか。  9. ところが 《霊は生かす》のです。これらすべて想像の産物でありやがて移ろい行き朽ち果てる経験世界に属するものだということを思うとき そのとき心はふと伸びているのです。この非思考の志向性の現われが 《霊は生かす》と言われた信仰なのです。  10. その《霊・神・絶対・無限》は 有るか無いか それが分かるか分からないかが分からないところのものです。ひとが勝手に想定しておくものです。というよりは 心の伸びが経験現実であるゆえ そういった想定なのだとあと付けして説明するものです。  11. その余のことは すべて人間のお遊びに属します。形而上学がどうのこうの言うのも あるいは形而上学で概念をどう扱おうがこう扱おうが あとは一切お遊びです。お遊びだと分かっているぶんにはまだだいじょうぶでしょうが その《文字》つまりしるしを その向こう側に秘めたものがあるからと言って 《無限なる霊》と勘違いするなら あぶないという問題です。  12. ほんとうの(つまり想定どおりの)《霊》であるなら その扱いは柔軟です。表象しえず雲をつかむような話に終始するのが ふつうです。それが その場合 ほんとうなのです。――ところが 思いこみとして固定してしまうなら それは 勘違いとしての霊です。つまり単なる概念ないし観念の神です。いわば死んだ骸骨を 後生大事に抱いているようなものです。  ★ 「概念」は「抱くもの」です。  ☆ もへちまもありません。  《かみ・神》という文字は 無限ではないと言ったでしょう!!  この《無限》じたいの説明そのものについて批判をくわえるか さもなければその説明をわたしは採らない要らないと言って去るか どちらかひとつにしなさい。  ★ (お礼欄は未記入)  ☆ この記入は不要だよ。

回答No.20

>>>  無限論――無限とわたしとの関係――から見れば   ○ 境界はどうでもよい。  ☆ この仮説にも変更の必要は生じません。 <<< いえ、「私の視点からすれば」それは内部矛盾を孕んでおられます。 無限という概念に二者択一、すなわち相容れない二つの方向性(確認不可能、認識不可能)を見て取るとき、「まさにそのとき」(水滴が水面を意識する瞬間)、両者の間に生じた「無限」という(境界)概念、そうして同時に発生しうる概念を超える「繋がり」が「ある」といえます。 もし、そこに「どうでもいい」という(境界)概念を見て取られるのなら、 1,そうして、私の言うところの「(境界)概念が生じる」を肯定的に扱われるのであれば、「どうでもいい」という曖昧さを孕んだ透明なガラスのような境界になるかも知れません。 2.そうして、私の言うところの「(境界)概念が生じる」を否定的に扱われるのであれば、「どうでもいい」(けれど、同意せざるものは排除したい)という厳密さを孕んだ透明なダイヤのような境界になるかも知れません。 3.そうして、私の言うところの「(境界)概念が生じる」を肯定・否定のどちらも「あり」として扱われるのであれば、「どうでもいい」という概念は、まさにゴータマ・ブッダの思想への方向性を向いているになるでしょう。 さて、bragelonnes様は、まさに「あいまいさ」をなくすことで「私と同じ方向」を向きうるかのごとく、錯覚されました。 その時、 >>> 何にも分かっていなかったのですね。 <<< と仰った。 (私は、揚げ足取りが嫌いな方ですが、今回のみお許し下さい) これは、対象(いや主語)が明記されていないために bragelonnesさんが自らに向かって放った言葉なのか bragelonnesさんが、私に向かって放った言葉なのか bragelonnesさんが、自らと私との両方に向かって放った言葉なのか 「あいまいに」するためにわざと主語を抜いたのか どのような「思い・想い」があったにせよ、そういった概念にて二人の立場は境されているといえるでしょう。 繭の概念を自らに見る人は、実在するにしても実在しないにしても「その向こう側」へと飛び立とうとするでしょう。 しかしながら、繭の概念を他者に覆い被せようとする人は、それが他者にとって綿菓子なのか、鎖なのかが判らないまま「おーい。いまのは何に見えた?」と問い続けねばならないでしょう。 そしてそれが「繭」とか「盾」とかに見えたと聞くまで(すなわち、同一方向を向くまで)を目標にするならば、永遠・無限に続くことでしょう。 「共通する基盤がある」と仮説を立てて、「全体」を切りきざんでスタートしようとするならば、どこかで食い違わなければならない。 なぜなら、それこそが、自身と他者との差異に他ならないからでしょう。 逆に、「全体」からスタートすれば、相互の見解が異なることは織り込み済みですから、「共通する部分はないかな?」と探っていく程度で済むわけです。 実を言えば私は、ナンシーの記述に「似た部分」と「異なる部分」を見つけて安心しています。 私にとって、ナンシーの記述はあまりにも複雑・怪奇です。しかしながら、根本的には「全体」からのスタート(そうして「個体」からの同時スタート)です。 個人的には、 境界を不問に付せる程度に全体と一体化しているとき、既に「死んでいる」状態だと考えています。

bragelonne
質問者

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 わたしの説明が行き届かなかったと言えばそういうことになりますが じねんさんは 《無限》について 根本的な誤解があります。  ★ 無限という概念に二者択一、すなわち相容れない二つの方向性(確認不可能、認識不可能)を見て取るとき  ☆ いいですか。  ○ 無限は この経験世界を超えたところに想定するもの(これは場でも力でもよいはづです)です。  ○ 言いかえると 無限は あるか無いか 分かりません。きちんと規定すれば その有無も場であるか力であるか何かもかにかも 人間にとって分かるか分からないかが分からないのです。  ☆ ならば  ★ 確認不可能、認識不可能  ☆ という規定も 厳密に言えば まちがいです。  ○ ただし 《無限》だとか《絶対》だとかといった言葉で言い続けるのではなく 親しみを込めて やがて まづ擬人化をひとは始めます。つまり 《無限の主体 / 絶対の存在 / 絶対者》などです。  ○ ところが これらは 有るか無いか 分かりません。分かるかも知れないかたちで 分からないと表現する仮りの想定物です。  ○ ここで 人びとは 《無限の主体はいる》か《絶対者はいない》かという表現の仕方で捉えるようになる。  ○ さらに都合のよい言葉を当てた。つまりどの民族の言語にも見られる《かみ》という言葉です。  ○ だから 《神はいる》か《神はいない》か このどちらかに分かれるようになった。  ☆ こういう捉え方です。したがって  ★ 境界  ☆ など どうでもよいと帰結されます。この帰結以外にあり得ません。  境界が問題になるのは この経験世界におけるものごとの認識にかんしてです。    くどいように言えば  ○ 有神論と無神論とは 言わば双子です。無限論にかんする互いに同等のふたつの見方です。  ○ この無限論は いっさいが表現の問題です。仮りの表現であり しるしとして言っているだけです。  ○ 《かみ》という言葉そのものが 神でもなければ無限でもないわけです。かみ・神という文字が無限でもなければ kami という発音が 無限でもありません。  ○ いっさいは 仮りに想定したという大前提のもとに表現が繰り広げられている世界です。  ○ わづかに 人間の側には想定したところの無限にむけて心の伸びがある。経験現実として起きる。このゆえに 神という言葉は消えないのです。  ○ 神はいないと言っていても 神は無限を代理する言葉として消えないのです。つまり無神論も 無限をもちろん想定しているのです。《神》で想定し代理するのがいやだから 《無神》で想定し代理させただけです。

  • old_sho
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回答No.19

「物象化論の現在」という見出しですので、どのような話の展開があるか、前問ともに読ませていただきました。応答は、専ら「非」社会科学的観点の方々の様ですね。私も偉そうな口を利ける者ではないのですが、「物象化」の使い方が、一寸違うなあ。「経済の論理」を「物象化」と言う訳ではないのじゃないか。という見地から。 wikipediaからのKazhikさんの記述された「定義」の「物象化」からもズレているし、その前にKazhikさんの記述も、その個所で引用されているマルクス『資本論』の文章からも微妙にズレていますね。あわせて、オリジナルのマルクスの意想からみると、「特殊bragelonne的」物象化と呼ぶべきではないか、と思います。只、批判的な観点は、「方向」としては同じ向きであろうとは思います。 人の「こころ」がどれだけ経済の論理に侵食されているか、という課題設定をするとしても、いったいどんな事態を「浸食」と見るのか?課題とされるべき事象そのものは、数えだしたらそれだけで憂鬱な気分になる量があります。bragelonneさんは、そのうちで「疎外」「物象化」と呼ぶいくつかの事例を挙げて居られます。それらが考察の対象とされるべきということに異論はありません。しかし、それらは「疎外」「物象化」という概念を必要とするのでしょうか。「毒入り餃子であっても バレなければよいから売る」のは、犯罪行為です。 さて、ここから、「物象化」と「繭」に関して私の思うことです。 物象化的規整は、経済に関しては、人の深い所に入り込んでしまっていて、ニュースに載る類いの事象の分析には、長い連鎖を辿らねばなりません。それは勿論、疎かにできるということではありませんが、「物象化」と「繭」に関してなら、日々目の前に現れている問題が有るではないか?と思うのです。「特殊bragelonne的物象化」から離れますし、廣松渉の名を挙げて居られますから、事改めて言い出すほどのことではないでしょう。我々は、膨大な情報を処理する過程で、人々の営為を「物象」として扱うのに、如何に巧みになってきたことか! 「繭」あるいは「楯」と表現されて居られますが、それを「個人」の成立と同じに見ようとされるのですから、「人格」概念と不可分ですね。私は、「人格」の内に防衛機能も含まれるものだと思っていますので、「個」となるからと言って、「感動もしなくなる」方向に向うとは言えない、と思います。というか、「感動もしなくな」ったかに見える人にも、そこに至る経過はあり、……、当たり前か!。  ――アーまた、朝からゴミ出ししたか!?

bragelonne
質問者

お礼

 おぎないます。  ★ wikipediaからのKazhikさんの記述された「定義」  ☆ ここがよく分かりませんでした。  ★ Kazhikさん  ☆ が分からないのです。  論旨の理解に特には差しつかえないと見てお応えしました。

bragelonne
質問者

補足

 old_sho さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  今回のご回答は 物象化の現象にかんしてその人間の側に焦点を当ててみるならばあたかも懐深い領域があってその場(奥の院)を垣間見させるはづだといったところでしょうか? その示唆として答えていただいたでしょうか?  ★ 「繭」あるいは「楯」と表現されて居られますが、それを「個人」の成立と同じに見ようとされるのですから、「人格」概念と不可分ですね。  ☆ たぶん――わたしの傾きを加えれば―― 《人格》をとおして《個人》という概念を捉えるなら その(つまり《個人》という概念ないし観念の)浮動性が分かる。こうおっしゃっているようにも受け取りました。  この《人格》というのは むつかしいことではなくて わたしが趣旨説明で述べたような  ☆☆ 《わたしがわたしである》ときの事態 / 一人ひとりの存在のこと  ☆ として捉えればよいのではないでしょうか?    そう捉えたなら 次のご見解も理解が容易になるようにわたしには思えました。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  物象化的規整は、経済に関しては、人の深い所に入り込んでしまっていて、ニュースに載る類いの事象の分析には、長い連鎖を辿らねばなりません。   * ( bragelonne 註):深く侵入しているが それと同時に ひとの   心も懐深くなって対応しているとも言えるのではないかと。それが《わた   しがわたしである》という人格の存在つまりその動態である。  それは勿論、疎かにできるということではありませんが、「物象化」と「繭」に関してなら、日々目の前に現れている問題が有るではないか?と思うのです。   * ( br. 註):だとすれば ここで一気に飛躍して それは《繭》   ではなく 《楯》でも必ずしもなく 単に《懐の深さ》つまりあるいは   《ひとのこころは大海である》という現実を知るのみであって 心配す   ることもないと。  「特殊bragelonne的物象化」から離れますし、廣松渉の名を挙げて居られますから、事改めて言い出すほどのことではないでしょう。我々は、膨大な情報を処理する過程で、人々の営為を「物象」として扱うのに、如何に巧みになってきたことか!   * ( br. :次に引用の外であらためて勝手ながら注釈をほどこします)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 註釈と言っても すでに  ★ 我々は、膨大な情報を処理する過程で、人々の営為を「物象」として扱うのに、如何に巧みになってきたことか!  ☆ でことは足りていますね。 【Q:物象化論の現在は いかに?】への応答で書いたことですが  ○ かつて《エコノミック・アニマル》と呼ばれても 日本人は経済活動に邁進しました。  ○ つくっても作っても需要に追いつかない情況にあって 三食のほかは・もしくは三食を削ってでも 経済というモノの動きにつき従って生活していました。  ○ 絵に画いたような物象化の情況ですが それでもこの物象化の事態を人びとは たのしんでいたと言うべきでしょう。    さてそれでは 需要が必ずしも増えない情況にあっては どうか。  ○ 楽しむわけには行かないけれども ぎゃくに悲しみ悩むという心の動きは死んでおらず その限りでやはり物象化には 或る種の免疫があると言えるか。  ○ そのように懐の深い事態が 一人ひとりに《人格》なる存在をとおして起こっているか。  ○ それとも 人格はそっちのけにせざるを得ないのであって・実際そうであって ただわづかに《個人》という観念の繭を持ち出すことができて これが 物象化に対してはその猛威から自分たちを守る《楯》になっていると言うべきか。  ○ 人格ないし《わたし》は 個別の存在を言いつつ その存在にとって共通の普遍性をもほのめかしているでしょうか?   ○ そうだとすれば 《個人》は より一層 個別性を強調しているでしょうか?   ○ あるいは けっきょくひとは何らつながりのないばらばらの存在であると言わざるを得ないということを強調しているでしょうか?  さて  ★ 「特殊bragelonne的物象化」  ☆ をも含めて全体として 現状と展望は どういう情況だと考えられるでしょう?

回答No.18

一神教ではなく、一神論として見た場合の「主観共同化」的な「一つの回答」は、スピノザの汎神論によって為されたと思います。 さて、昨日の朝、書きかけの文章を分断した後半部分を少し修正して載せます。 原本をお読みいただくのが早いのですが、下記は、取り違えがあります。 >>>  ★ 『「単数」かつ「複数」』  ★ 『共に』が存在に付加されるわけではなく、『共-存在において存在をなしているのが【共に】なのだ』  ☆ これはやはり当たり前です。次のようです。  ☆☆ 【Q:それでは ブッダのさとりとは何だったのか】~~~~~~~    ?http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5151054.html?  みづからの存在が社会的に孤独であってその意味で独立していると捉えているが それでいて他者の存在と孤独関係をもかたちづくりその社会的な関係性としても存在するわれわれ人間――このような人は 空の覚りとともに 大悲の実践を はからずしておこなう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ <<< (ナンシーの本は読み下すのが大変ですが、部分的に意訳してみます) 1.ナンシーの「複数にして単数の存在」では、まず、「存在」を人間に限定してはいません。 2.もっといえば、「神」が存在するならば「神」をも含み、逆に言えば「神」が存在しないなら「神」は含まないと言っているようです。 3. >>>「複数にして単数の存在」p.74-75 存在は、その複数で単数のものに先-在〔先-実存〕するわけではない。きわめて厳密にいって、それは絶対的に【先在】せず、先在するものは何もない。実存するものが実存するのである。 <<< これはビッグ・バンや一神教的な「創造神」という概念からしても、すぐにでも否定できそうに思えます。しかしながら「創造神」との関連については、p.50からまとまって記述され、さらに何カ所かで何度か触れられています。(難しく書かれているので理解するのが困難なのですが、要するに、よくある「ビッグ・バンの前は何があって、ビッグ・バンは何が起こしたの?」とか「創造神は何からできたの?」といった問いに対しても無矛盾に答えるような説明になっているようです) 4.p.124-127付近では、集合と共同-存在とを区別しようとしています。スピノザの神概念は「集合」としての概念であり、ナンシーのそれは(関連性を含んで)「共同-存在」として捉えるべきものといったことを書いているようです。 5. >>>「複数にして単数の存在」p.77から これは、集団的な権力におけるのと同じことである。権力は集団のメンバーたちに対して外圧的であるわけでも、彼らの各々に内在的であるわけでもなく、集団性そのもののうちに存するのである。それゆえ、最初の審級において存在があり、次いで〈共に〉の付加があるのではなく、存在の核心に〈共に〉があるのである。この点に関して、少なくとも哲学的論述の順序を逆にすることが絶対的に必要である。(後略) <<< 6.p.126から >>> 「同じ時/同じ場所」は、そう呼ぶならば諸「主体」が、この空間-時間を「分有」(パルタージュ)することを想定している-しかし「分配」(パルタージュ)という外的な意味においてではない。彼らはこれを【互いに】分有(パルタージュ)しなければならず、(後略) <<< 私が、「境界」という概念を持ち出すとき、一つの喩えを用いることがあります。 === 一つの池があり、雨粒が水面を叩くときに各々の丸い波紋が広がっていく。。。 水滴が池の水と正に一体化したとき、両者の境界が消え去ると同時に、波紋が生まれる。そうして、幻想的な境界は広がっていく。。。 相互の波紋は交錯した部分では干渉しながらも、形を崩すことなくそれぞれに広がっていき、やがて消えていく。。。 水滴は、その池の水からきたのかも知れないし、さらに大きな水の循環からきたのかも知れない。。。 池にとって、水滴として存在しうるのは、まさに、水面を打つ時のみではなく、その波紋としての揺らぎにもある。。。さらに、その波紋を形作る池の水の一部ともなっている。。。 === といったようなお話です。

bragelonne
質問者

補足

 存在論の基礎――こういった主題がどちらからともなく持たれたときわたしの提出してきた理論に関する限りで 今回のご説明は これまでの内容から進展は見られませんでした。  無限論――無限とわたしとの関係――から見れば   ○ 境界はどうでもよい。  ☆ この仮説にも変更の必要は生じません。  ★ 「創造神」という概念  ☆ (1) 無限を《ある》と読み《神》という代理表現で呼ぶ。(2) この神について物語にして表現し説明する場合がある。(3) ひとつとして すべてのものの創造主として描くものがある。経験世界を超えているのだから 辻つまは合っている。  (4)つまりは この《創造神》というのは 説明の手段であって その文字どおりの意味が 事実であったりさらには主観真実でさえあったりするものではない。  (5) 《「創造神」という概念》が独り歩きすることを警戒しなければいけない。それは《神は死んだ》と表現されたときの《神》のことである。ただし もともと死んでいると言って指摘するべきであった。  要するに(5)は この質問の趣旨にも合っていて ひとが世の中に生きることがつらいとき 思わず手を出してのようにつかもうとする観念の繭です。  ただし聖書に出る《避けどころ》というのは そういう辛い時に 自分は独りではないぞという確認のことです。独立性(≒《単数》)と同時に関係性(≒《複数》)としても存在するわれに還ることです。神が観念となって雨を避ける傘となってくれるというのとは違います。  観念やその繭またそれとしての楯ではないから またそのような観念とその社会心理的な共同などからいっさい自由であるから 神が無限者であることをとおして避けどころとなると表現します。  表象し得ぬ神を出すのは 観念など人間の想像物つまり偶像にはいっさい依らないということを裏返しにして表現した形式であるに過ぎません。いわしの頭でも何でもありません。  スピノザは こういう表象し得ぬ神を抱いていると言ってもいいのではないでしょうか?  それにしても じねんさん わたしがいつも率直であるそのままに言いますが 後退したものですね。高橋尚子もずるずると失速することもありましたからねぇ。  * 観念あるいは精神あるいは形而上学なら 神と直結でもしていると思いなしておられる。表彰し得ぬだけではなく 有るとも無いとも分かるか分からないかが分からない領域なのですよ 神は。  精神やその想像物は 心の眼に見えます。神は心の眼にも見えません。わづかに指先で触れられたかのように知覚が動いたと思うときはあるかも知れませんが それでもこの《身体および精神》を超えています。精神も 経験世界に属しているのですよ。

回答No.17

申し訳ないですが、 >>> ☆★ 主観の共同化  ☆ は いくつかの次元があります。  (あ) (1)の世界観をめぐる全体的な前提事項についてそれを共同主観( common sense )とすること。  (い) (α)の信仰について 無限があるとする有神論と ないとする無神論とが 具体的な形態として(そしてこの二つの形態のみとして)現われるということ。互いに対等であること。を共同主観化すること。――これは同意を得られましたね。  (う) (γ)の世界現象一般についての取扱いは 見解が分かれるところです。という共同主観化。これが当たり前ではない一部の人びとがいるかも知れない。  (え) (β)の公理と(γ)の《事実認定および主観判断をあつめての共同自治》とのあいだに もしかするとやはり共同主観化しうる《基本的な原則》があるかも知れない。という次元。 <<< での、すでに(い)の段階で、躓いておられることに気づいておられないようです。 >>> (ア) ★ 一神教を「信じる」  ☆ きちんと規定しようと思えば この表現は自己矛盾です。  ○ 《一神教》は 一般に集団として活動する宗教のその形態かその教義のあり方かを言うでしょうから 《考える》の対象であって 《信じる》の対象ではありません。 <<< いえいえ、(形態にしても、教義のあり方にしても)「○○教」という概念自体は、「信じる・信じない」のどちらかを要請する名称です。 単に考えるだけの対象にするためには、「○○論」とか「○○主義」、あるいはもっと端的に「○○仮説」や「○○解釈」とかいった命名になるでしょう。 キリスト教やイスラム教も、一神論キリスト解釈とか一神論イスラム解釈とかすれば、非常に受け入れやすかったのですが。。。残念です。 さて、 >>>  (イ) ★ 前提2.それぞれの立場からの複数の視点は、共通する主題(概念)の ≫向こう側≪ に対し、極端な場合、反対方向を向いている。  ☆ この《向こう側》という概念があいまいです。 <<< わざと「曖昧」にしています。いや、そうする必要があるからこそ、曖昧にしているともいえます。それは、次の記述と関連します。(さらに、図示しておきます) >>> ただ単に(γ)の経験現実の裏側や隠れた部分を言うのか それとも(α)の神のことにまで言い及ぶのか。  (α)であれば 互いに《反対方向を向く》ことはないでしょう。もしくは反対方向を向いていても 何も問題はありません。無神論と有神論との対等性。 <<< この部分、誤解されておられるようです。 >>> ただ単に(γ)の経験現実の裏側や隠れた部分 <<< のみであれば、サリーとアンの課題と同レベルで扱えます。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5086033.html 「蜘蛛の糸」の回答No.15を参照ください。 直接的には http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E3%81%AE%E7%90%86%E8%AB%96 です。 しかしながら、 (α)の神のことにまで言い及ぶとき、すなわち「神」という文字・概念に対するとき、まさに、 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5086033.html 「蜘蛛の糸」の回答No.22に記述した過去の日記の内容になりえます。 「○○の」といった視点の違い(仰るところの「主観真実」に相当)が、方向性の差異につながるでしょう。 >>>  いわゆる《無宗教》だとか《無信仰》だとか 訳の分からないあいまいな表現でしかおのれの立ち場を表わし得ない場合は そのあいまいさ自体が 問題なのです。反対方向を向いていなくて 同じ方向を向いていてさえ 問題なのです。 <<< いいえ、曖昧さが問題なのではなく、「同じ方向」を向きうると思っていること自体が問題になると思います。 「あなた」と「わたし」(の「主観真実」)が、「全く完全に同一」にはなれないのと同じように、「同一概念」を通して見ようとする先は、「視点」(中心点)が微妙にずれるため、全く「同一方向」ではありえないのです。 特に、対象が神概念といったような「形而上学的存在」であれば、「概念」が言葉による定義にて明確化すればするほど(正確には、明確化されたかのように錯覚すればするほど)、ピントが合って「さも同一方向を向いている」かのごとく錯覚しているのですが、まったく「異なった方向」を向いてしまいうることが起こりえます。 「主観共同化」は、個人的な用語では、知的には【概念】の「共有」ないし「共有可能性」といった言葉に該当するでしょう。情的には【概念】の「共感」ないし「共感可能性」といった言葉に該当するでしょう。 ここで、「知的・情的」とあげましたが、両者ともに共有ないし共感しうる【概念】(言語化されていなくても可)であるならば、それは「切り出して取り扱われることが可能なもの」とし、そういったレベルで「知的思考の対象物」と考えています。 それら【概念】(知的思考の対象物)を通してしか、思考・思索が出来ない以上、それら【概念】こそが境界となりうるものです。ただし、思索する当人と、思索対象(存在してもしなくても可)との間に立ち現れれる「もの」でしかない。。。 それを「繭」とみなしてしまうには、その【概念】の先に「繭」と関連する何かを見ようとしているからでしょう。 。。。と、 「複数にして単数の存在」(ジャン=リュック ナンシー)の「単数・複数」の誤解に言及するつもりだったのですが、今回は、ここまでと致します。

bragelonne
質問者

お礼

 何にも分かっていなかったのですね。    なかなかしゃれた大団円でしたね。  

  • ri_rong
  • ベストアンサー率56% (30/53)
回答No.16

 どうでしょうと言われて、放ったままにしてました。花火があったり、演奏会があったりと、考えをまとめるだけの時間が取れなかったのです。すいません。まあ、前の投稿の補足でしかないですが。  さて、高等遊民というのも、個人というのも、言わば思い込みではないですか。ここでいう思い込みを、ヘーゲルにならって「観念の疎外」と呼んでみると、概ね現代人の疎外感は、この範疇にあるんだろうと僕は思います。ある人(個人)とある人(個人)のあいだに横たわった空白地帯を、「公共」と呼ぶならば、人(個人)は公共の海のなかで漂っているようなものです。  この「公共」だって、思い込みのひとつです。  なぜなら、実際にはその海に漂うゴミを誰でも拾うことができるからです。金儲けを志す者にとって、労働あるいは報酬と呼ばれるものは、わたしの仕事とあなたの仕事という物と物との相関性には存在しない。実際には、物と物とのあいだにすべてが漂っているのです。  マルクスの考えた疎外は、物と物との相関性にあるわけです。物象化とはそういうことです。そしてその相関性に対する称号として、師であるヘーゲルの「思い込み」を与えず、「神の法則」を与えたところで、しくじったのだと思います。  人間は近代人であれば、誰もが例外なく個人としての自立をしているものだと思ったんでしょう。  けれども、生まれながらもその自立を果たしていない者がいる。自己を、他者の否定形で定義する人たちです。努力と訓練をすれば誰だって、自己を保ちながらも、わたしとあなたのあいだを埋めることはできる。「そうしたい」と願うことによって、その実現はできる。けれども、「そうしたい」と思うことは、教養と同じで、逆説的に自己を規定することになるでしょう。  そうではなく、努力などせずとも、もとから自己がない人がいる。  ストレスに弱く、四十歳近くまで大した仕事もしていない漱石のもとに、どうしてあれだけの門弟たちが集まったのか。想像ですが、漱石は、物という固体ではなく液体みたいな人だったからだろうと思います。何より名前が語っているでしょう? 漱石という、故事を間違えて命名したその名に相応しい人だったと思います。そして、そういう人にとっての「疎外」は、未知のものです。よくわからない、けれども何かこころを揺さぶるもの――これっていったい何だ?――こういう感覚だろうと思います。  だから漱石は、『こころ』のような作品が描けたんだと思います。空っぽのこころ――あれは、ふつうの人間には書けない代物だと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 7月30日(木)しるします。  ★ 個人  ☆ はたとえば次のような宣言をきっかけにして 現われてくると捉えられないですか?  ▲ (ピコ・デッラ・ミランドラ) ~~~~~~~~~~~~~~  《汝はいかなる制約によっても抑制されないで わたしが汝をその手中においた自由意志にしたがって自己を決定するのだ。  わたしは世界の真中に汝をおいた。それは世界の中にあるすべてのものをそこからいっそう容易に考察するためである。  わたしは汝を天のものとも地のものとも 死すべきものとも 不死なるものとも造らなかった。それは汝が自由で名誉ある造り主また形成者のように 自分が選んだどのような形にでも汝自身を造りだすためである。汝は堕ちて獣の世界である低次のものとなることも 神的なものである高次のものに自分の心の判断により再生されることもできる》。  (『人間の尊厳についての演説』――金子晴勇よりの孫引き)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この《自由意志》をめぐる議論は アダムとエワのときからの命題だと言えるはづですが この十五世紀にようやく省みられたとするなら そこからあらためて《個人》は出発したと考えられます。  しかもこのように《個人》史を捉えるならば たとえば マキャヱ゛ッリが なんでしたか 《運命は女神だから そのように扱えば 人間の思うように変えられる》とか何とか言ったのではなかったですか?   あるいは先日のデュルフェ『アストレ』の女主人公アストレの気ままな振る舞いは――へそ曲がり風ですが―― やはり個人の出現にかかわっているとも採れます。  これらの材料だけからどういうことが言えるか。  1. 《観念の神》の体制のもとで 《個人》という概念が反乱を起こし さらにこの《個人》の観念化あるいは神格化へと移ったのかどうか。  2. アストレの事例に見られるような心の恣意性〔としての個人〕は 有史以来ひとにつきものである。いつでもどこでも およそ誰にでもその契機はあると捉えられる。  ○ 《高等遊民》をどこにどのように位置づければよいのか。  (字数制限です)。

bragelonne
質問者

補足

 ri_rong さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  今年は花火も各地でしけてる情況だとか聞いていました。数少ない経験のようですよ。  今回のご投稿内容に接して まづ課題が分かりました。いくつかの主題としてあるようです。  A. 疎外と物象化 いづれも概念内容を明らかにすること   A-1. 物象化とは 旧ホリエモンの思想ではないのか。すなわち     金で買えないものはない。女の心も買える。   A-2. 人間のこころ(その思惟の形式)が 経済活動の論理そのも    のと化すことではないのか。   A-3. 疎外の場合は まだひとは物象化が嫌だと思っている。ただ    し心は自分のものなのに 生きていくためには経済的な条件が先に立    つゆえに 売り渡してしまっている。でも悩みとして心も生きている。   A-4. 分業ゆえに消費者は 餃子に毒が入っているかどうか分    からない。生産と流通と販売そして消費とが分業されていて 生活の    共同性および安全が 遠いところへ外化(疎外)してしまった。   A-5. 毒入り餃子であっても バレなければよいから売るというの    は心と経済的な物象とが結合してしまっている。物象化なり。  B. 漱石の問題   B-1. 則天去私の問題:自然と社会性(文化)との対立・相克ある    いは融合   B-2. 日本問題:西欧と日本との自然観や文化観における相違。    あるいは煩瑣ながら 自然と文化との総合にかんしての相違。   B-3. この漱石問題は ( A )の疎外および物象化とそれぞれ入り    組んで広く大きい問題を呈している。特に日本人の問題である。   B-4. No.10リトルキッスさんの提出されたM.ヱ―バーの課題もか    かわっている。つまり日本人は 昔ながらの《呪術の園》(ヨリの原    始心性)が残っていると言われる。したがってその《呪術からの解放》    という西欧近代の課題をいまも引きずっている。  ☆ 今回はもう詳しく述べる空白と余裕とが少なくなりました。  ★ だから漱石は、『こころ』のような作品が描けたんだと思います。空っぽのこころ――あれは、ふつうの人間には書けない代物だと思います。  ☆ この漱石についてひとことです。『こころ』は何とも分からない扱いにくい作品です。ただし強引に例外としましょう。じゅうぶんに上の(B)の問題を考えていましたよ。次のような一編の詩にもその主題は出ていると思いますよ。  ○ ルウソではありませんが 自然から社会への移行という事情。  ○ 社会性ないし文化は 東西のあいだで差があるようだの事情。  ▲ (漱石:英詩) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~       Dawn of Creation  Heaven in her grief said: " Wilt thou kiss me once more ere we part ?"  " Yes dear," replied Earth." A thousand kisses, if they cure thee of thy grief."  They slept a while, souls united in each other's embrace.  They were one ; no Heaven and no Earth yet,  When lo ! there came Thunder to lash them out of slumber.  It was in the dawn of creation, and they have never met since.  Now they live wide apart:  And though the pale moon never tires to send her silent message with her melancholy light,  Though all the stars wink and beckon night after night,  Though all the tears fall mute and fresh to crystallise her sorrow on every blade,  They have never met since.  Alas ! Earth is beset with too many sins to meet her.    August 15, 1903  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ じねんさんとのやり取りが いま扱う主題としては目途が立ってきたので このいまの課題は大きいですが 船出するのかも知れません。

回答No.15

 新しい外来語をめぐってその定着の度合いを問題とされているようです。  いえそんなことを問題にはしておりません。  唯、個人や個ということばでの、ご質問に少しく答えにくいということです。  私はこのような質問をするものではないので、どういうタームが妥当かということも、考える思いは起りません。

bragelonne
質問者

お礼

 ぢゃあ そこまでのご投稿と見なします。

回答No.14

 ★ 欧米語の翻訳語  ☆ だから悪い 漢語だからどう 漢語以前の日本語だからよいという見方は ただちに従うわけにはいきません。  ○投稿:私もそのようなことを申し上げていません。唯、日本人の心性というものがあるとすれば、その中での定着した意味はどんなものかを思っています。  ○ ブッディスム関係の用語  ☆ はインド語か漢語です。インド語は インドヨーロッパ語族の一つですから 欧米語とは親戚の言葉です。  外来語・借用語を一概に嫌うわけにもまいりません。  ○投稿:嫌ってもいません。  ○ 個人  ☆ という言葉が はっきりと一つの重要な観念となっているのだそうです。《権利》だとか《プライワ゛シ》だとか《個性》だとか《自由》だとかと同じように あたかも黄門の印籠のごとくあって欲しいというようなものなのだそうです。  おまえがいくらやさしくしても わたしの歯が痛むことについては分かるまい。同じようにおれもおまえの歯痛については全然わからん。だから ひとはそれぞれ互いにひとのことが分かり合えぬ《個人》であればいいのだ。  だから自分がその中に入り込む繭でもあれば ひとや世間の風当たりに対して楯ともなるのだそうです。  ○投稿:仰せの意味や日本語用法であれば、無論、他の言葉にもおきかえられますね。  これと《物象化》という現象とどうかかわるのか。これを問うています。  あるいは 要するに《わたしがわたしである》こととどうかかわると見ればよいのか。です。  ○投稿:回答欄の中に書いておきました。個、個人って人の意識と創造界という世界がを見せ、そして見る、映像のフィルムの一つの大きな模様ですね。それを通して無垢の意識が意識と世界を映し出しています。

bragelonne
質問者

補足

 新しい外来語をめぐってその定着の度合いを問題とされているようです。  ★ 唯、日本人の心性というものがあるとすれば、その中での定着した意味はどんなものかを思っています。  ☆ おっしゃるとおりだということが基本ですが 反面で新しい言葉もやがて定着していくかも知れません。  別の見方をすれば 新着の外来語については これはどうも定着しそうにないなぁとか ここをその意味の核に捉えれば案外 通用するかも知れぬとか 大いにあげつらって行けば その篩にかけられて よいものは残るでしょう。  ですから一縷の可能性つまり日本語として定着する可能性をかすかに残して扱っていくと わたしたちの文章には幅が出てくるのではないでしょうか。  ★ ○投稿:嫌ってもいません。  ☆ ということでしたら そうなりますね。  ただし  ★ ○投稿:仰せの意味や日本語用法であれば、無論、他の言葉にもおきかえられますね。  ☆ とおっしゃるのでしたら 大いにその代替案を提出して行かれるのがよいでしょう。  そのとき 《個人》なら個人という言葉こそが好きなのだという人びとにとっては その代替案に対して どうもちがうなぁとか いやそれはいいではないですか なるほどそれに代えますとか そんな反応が現われると思います。――後者なら 双方にとって万々歳でしょう。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ○投稿:回答欄の中に書いておきました。個、個人って人の意識と創造界という世界がを見せ、そして見る、映像のフィルムの一つの大きな模様ですね。それを通して無垢の意識が意識と世界を映し出しています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これはですね。そうおっしゃる気持ちは分からないでもないですが  (1) 質問者としては 《物象化》の問題と絡めて欲しい。  (2) 世界の姿とそれを貫く視点とその視像 ここに社会経済的な物象化の現象も入っていると思います。それとの兼ねあいや如何に? だと思います。  (3) もし意識においてその意識じたいも透明になって世界がそのまま映っているとすれば その境地からは いまの《個人という繭の中のもやもや人生》なる境遇とのあいだに どのように橋をかけることができるか? こういう問いにもなるでしょう。    日本人は いわゆる我利我利亡者の状態からは自由な思潮の中にあって ホリエモンが否定されたように物象化の影響は比較的少ないと思われるのですが その影響は別様に現われているのかも知れません。無気力・無感動・人生のっぺらぼう史観などなどとして現われているかも知れません。橋をかけてあげてください。

回答No.13

 bragelonneさん。  或いは意識や個体存在とかの言葉、タームも、bragelonneさんの頭にかすった、かすっているのでしょうかね。  個人って、他のいろんな言葉と同じに、欧米語の翻訳語なんでしょう?  社会思想や法学、その他外表的インテレクチュアル界のことばって質bragelonneさんのここの質問に合うのでしょうかね。  私たちも個や個人として初めて存在(意識)を持っていますね。  意識を持つこと、存在することが可能であるかのように思わされていますね。  そしていろんなものが、そういうものとして、(他人やそのたのものの意識がどういう状態かを別にして)存在しているかのように思わされていますね。  個とか個人っていうのを意識(ではなく)状態であると感じてこないでしょうか。  繭ですか、盾ですか。そういう機能も時には働く側面もあるでしょうね。  私は個も個人も、創造とともに持たされてきている、意識の通過のフィルムだと存じておりますが。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。  ★ 欧米語の翻訳語  ☆ だから悪い 漢語だからどう 漢語以前の日本語だからよいという見方は ただちに従うわけにはいきません。  ○ ブッディスム関係の用語  ☆ はインド語か漢語です。インド語は インドヨーロッパ語族の一つですから 欧米語とは親戚の言葉です。  外来語・借用語を一概に嫌うわけにもまいりません。  ○ 個人  ☆ という言葉が はっきりと一つの重要な観念となっているのだそうです。《権利》だとか《プライワ゛シ》だとか《個性》だとか《自由》だとかと同じように あたかも黄門の印籠のごとくあって欲しいというようなものなのだそうです。  おまえがいくらやさしくしても わたしの歯が痛むことについては分かるまい。同じようにおれもおまえの歯痛については全然わからん。だから ひとはそれぞれ互いにひとのことが分かり合えぬ《個人》であればいいのだ。  だから自分がその中に入り込む繭でもあれば ひとや世間の風当たりに対して楯ともなるのだそうです。  これと《物象化》という現象とどうかかわるのか。これを問うています。  あるいは 要するに《わたしがわたしである》こととどうかかわると見ればよいのか。です。