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ロマン主義について

 ある問い語りで得た名言――蚕が繭の中にすっぽりと入っ〔た〕平和な状態――が生まれたのは、恐らくロマン主義の影響ではないかと僕は思っています。まず、僕の理解している史的なあらましを書くと、こんな感じです。  ――個人という概念は、近代になって発生した。さきがけとなるのは、ジャン・ジャック・ルソーの『社会契約説』で、その主張は「主権があるのは財産を有するなどの特別の資格を持つ国民ではなく、人民(国籍を有するもの全て)にである」というものだった。個人としての内なる世界の誕生、そして個人的感情の尊重と想像性の開放、これがロマン主義の影響だと思います。この思想は18世紀後期からずっと現代まで、途切れることなく続いている――  これに間違いがあれば、ご指摘ください。また、この影響下にある(であろうと思われる)作家について、著名な作家としては村上春樹についての質問が最近あがったと思います。くだんの言表にある「繭」は、そこでは「卵」であり、僕の表現では「箱」であり、いずれにせよそれは、ひとつの小さな世界であろうと思うのですが、さて、ここからが質問です。  (1)このような「観念の共同」は忌まわしきものなのでしょうか。  (2)忌まわしいならば、この共同幻想から独立するためにどうすれば良いのでしょうか。  (3)この幻想とともに暮らすならば、どう生きれば良いのでしょうか。

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回答No.21

冨山房百科文庫の『ロマン派文学論』の「解題」で、訳者の山本定祐は、従来の「ロマン主義」に対する見方、「無限なるものへの憧れ」という規定が、かならずしも正確なものではない、としています。 「そこからただちに夢見心地のうちに遠い世界に憧れたり、月の光を浴びた森の孤独を愛する通俗的ロマンチシズムが導き出されたのは、主として後期ロマン派の毒素に犯された感傷主義によるもので、これが長くロマン主義一般を蔽うことになる」(xi「解題」) 確かにシュレーゲル自身も、「(※文学作品における人物や個々の事件など)はすべて…より高いもの、無限なるものへの暗示にすぎない」(『文学についての会話』)とも言っている。けれどもこの「無限なるもの」というのは「隠されたもの」としての憧れの対象である、その「無限なるもの」と「有限なる存在」との失われた結びつきを取りもどそうというのが、シュレーゲル文学論の要である、と。 シュレーゲル自身はこのような言い方をしています。 「無限なるものの意識は構成されなければならない――反対物を破壊することによって」 「無限なるものという意識は存在する。ただ有限なるものという幻想が破壊されさえすれば、それはあらわれる」(『哲学的修業時代』第一部) この「有限なるものという幻想」の破壊、すなわち「自己破壊」が「イロニー」であるというのです。 シュレーゲルは「イロニーは永遠のパレクバーゼ Parekbase である」という。このパレクバーゼというのは「作品〔古代アテネの喜劇〕の途中で、合唱隊によって詩人の名前で民衆にむかって語りかけるものである。実際それは作品の完全な中断であり、破棄である」(『ヨーロッパ文学の歴史』) たとえば、幻想とは何かを説明しようとすれば、それこそ「月の光を浴びた森」といった「幻想的」とわたしたちに感じられるものを持ってくる、というやり方が考えられます。けれども、シュレーゲルがいうのは、劇の進行中に、合唱隊が詩人の代弁者として観客に語りかけるという方法で説明するのです。 作者がいきなり語りかけることによって、それまで感情移入していた観客は、卒然として「これは作者のいる虚構なんだ」ということに気がつく。つまりは、観客は、自分の目の前の世界を相対化する、という視点を獲得するわけです。いったんそういう目で見てしまえば、劇の外側に広がる世界が、虚構ではない、これを見ている自分が劇の登場人物ではないという保証はいったいどこにあるのだろう。いやいや、この世界は劇とはちがう、虚構などではない。だが、劇とちがうという根拠はいったいどこに? 単に、自分がそう思っているだけではないのか。ある日、合唱隊が出てきて、作者の言葉で突然話し出さないという根拠はないぞ……、というふうに、この世界の「外」に意識は向かう。こうして「無限なるものの意識は構成」されていくわけです。 通常アイロニーと呼ばれるものは、皮肉な物言いを指します。けれども、そういう言葉遣いだけのものを、シュレーゲルは「修辞学的なイロニー」「個別的なイロニー的言辞」として、本来のイロニーとは本質的に別の次元に属するものであり、「哲学がイロニーの本来の故郷である」(「リュツェーウム断片」42)。そうして西欧哲学の原点ともいえるソクラテスの「イロニー」に言及していきます。 「ソクラテスのイロニーは、徹頭徹尾本能的でありながら、しかも徹頭徹尾考え抜かれた偽装の唯一のものである。それを装うことも、つい表に出してしまう、二つながら不可能である。それを所有していない者にとっては、いくらあからさまに打明けられても依然として謎である。それを欺瞞だとみなす者以外の人たちを、それはけっして欺くことはない。世間全体をばかにするという結構ないたずらを楽しんだり、自分たちも当てつけられているのだと感じて不機嫌になる者以外の人たちを、それは、けっして欺くことはない。 そこでは、すべてが戯れであり、同時にすべてがまじめである。すべてが無邪気にあけっぴろげであり、同時にすべてが深く偽装されている。それは、人生に処する感覚と学問的精神の結合から、完璧な自然哲学と完璧な芸術哲学の出会いから生ずる。それは、絶対的なものと制約を受けたものとの、あるいは完全なる伝達の不可能性と不可欠性との、解決不可能な相克の感情をふくんでおり、かつまたそのような感情を呼びおこす。 それは、文学上のあらゆる自由のうちで最も自由なものである。それによって、われわれは自分自身を超えることができるからである。…」(「リュツェーウム断片」108) ソクラテスは対話相手に無知を「偽装」します。自分は答えを知っていると思っている相手に対して、あいづちを打ちながらも、相手の依拠するところをひとつずつ崩していき、最後には、自分の考える正しいと思うところへと誘導していきます。これは一種の演劇、つまり、文学の助けを借りてなされていくのです。 だったら最初から大切なことをぱーんと言っちゃえばいいじゃないか、何を迂遠な、意地の悪いことをしているんだ、という見方も、しようと思えばできる。だけど、それをしない。だから産婆術なんですね。そうして、イロニーというのは、eironeia つまり「産婆術」からきている。 行為遂行言語というのがありますよね。 たとえば、「わたしはあなたと結婚する」と言うこと自体が、「結婚する」という行為にあたる。 けれども逆に、言葉にしてしまえば、内容が変質するような種類の言葉もあると思うんです。たとえば、「あなたを愛している」とか「あなたを信頼している」とかという言葉です。 もし相手を愛していたり、信頼していたりしてるんだったら、何も言う必要がないわけです。ただ黙って行為してればいいだけの話だ。だけど、それを言葉にして相手に告げることによって、「あなたを愛している(ところのわたしを愛してほしい)」という要求であるとか、もっとひどいのになると「先生はな、おまえを信頼してるぞ(だからそれを裏切るような真似をするんじゃないぞ)」という恫喝という行為として遂行されているケースが少なくない。「完全なる伝達」が「不可欠」であればあるほど、言語はそれを「不可能」にしてしまう、と言えるのではないか。 そうして、それを可能にするのが、「文学」―といっても、これは狭い意味ではなく、広義で不定型なものなんですが―なんじゃないか、と思うわけです。 > 僕をはじめ、多くの回答者は、それを教えて欲しいと思っているように考えます。 そうですね。わたしもそれを知りたいと思います。知っているのなら、ほんとにどれだけうれしいか。 でもね、その答えは、答えとして言葉に出された時点で、ちがうものに変質してしまうのではないか、とも思うんです。 ああ、これがシュレーゲルのいう「イロニー」なんだ、とわたしが思ったのは、こんな「エクリチュール」です。 何年か前に、秋田で実の娘と、その友だちを殺したとされる女性のことが、ずいぶん話題になったことがあります。その人が高校を卒業したときに送られた寄せ書きを、テレビで見たことがありました。言葉の暴力、という表現はありきたりですけれど、文字通り、殴りつけられるような言葉が、これでもか、これでもかと書き連ねられていた。けれど、そのなかに、小さな字で、ふたつだけ「お元気で」とあったんです。 それこそ、合唱隊の声で作者に呼びかけられたような気がしました。これを見ている「わたし」だったら、どうしていただろう。もしかしたら、その女性のなかに、そんな罵声を引き出すようなものがあったのかもしれない。言葉巧みに、もっと彼女をえぐるような言葉を書かなかったとは言えないのです。 それを書いた子たちが、どんな思いでその言葉を書いたか、わかりません。ごくありきたりな、建前でしかなかったのかもしれない。けれど、その子たちの意図を超えて、その言葉には、わたしを立ち止まらせるものがありました。 子供を殺すなんて言語道断だ、とか、彼女こそいじめの被害者なのだ、とかという「物語」のなかで、自分はどうなんだ、と、はっと気づかせるような。 この言葉は、その人には届いたかもしれないし、届かなかったかもしれません。わたしにはそのことはわかりません。けれども、人が、節度を持って人に相対することの大切さ、みたいに言葉にしちゃったら全然ダメになっていく「何ものか」が、その小さな言葉にはあったように思います。 おそらく、言葉は、そういうかたちで使うものなんじゃないか、って、そのときに思いました。いままで自分はずいぶんいろんなことを書いてきたけれど、その「お元気で」以上の言葉を書いたことがあっただろうか、って。 もうひとつ。その昔、新聞で詩人のアーサー・ビナードが、原爆のことを書いていたのを読んだことがあるんです(あやふやな記憶ですが)。 栗原貞子の原爆詩「生ましめんかな」を読んで、感動したビナードが、それを訳そうと思った。すると、すでに先行訳があって、Let us be midwives と訳してあったんだそうです。産婆さんになろう、だなんて、なんて即物的な訳だろう、と最初は思ったのですが、やがてそういうことなんだ、と、逆に、その詩を深いところで理解できたように思った、とあった。 わたしもこれを読んだとき、そういうもんかな、ぐらいに思ってたんですが、どこかに引っかかってたんでしょう。このイロニーが産婆術に語源を持つというのを読んだとき、思い出しました。 産婆になら、なれるんじゃないか。イロニーさえ、忘れずにいたら。世界を見、世界を見る自分を省みる視点さえ忘れずにいたら。だから、わたしたち、みんな産婆になりましょう。いや、わたしは本気でそう思ってるんです。 長くなりましたが、何かひとつでも参考になれば幸いです。

ri_rong
質問者

お礼

>何かひとつでも参考になれば  なるほど、何かひとつでも、ですか。何かひとつでも、無駄があるとは思えないご回答だったと思います。ありがとうございます。そうですね。産婆術ですか。(3)への回答としては、まったく相応しいお話だったと思いました。ソクラテスのような語りは――僕にそれができるかどうか、それはまったく自信がないですが、おはなしに関して言えば、納得です。  他のご回答の履歴を少し読ませていただきましたが、どうやらご回答者様の、ひとつの姿勢のような感じですね。何かひとつでも――いつも、どの回答にも、ご回答者様のその姿勢が見える。そう、僕には読める。何かひとつでも――これは、名言だなと思いました。  僕は産婆さんにはなれそうもないですが、何かひとつでも――ひとつくらいなら、これなら、僕にもできそうです。

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回答No.15

 No.1&4&6&8&9&10&13です。  ☆☆ (No.13) おあとがよろしいようで 一たん締めましょう。  ☆ これは 夢遊病者のごとく使ったのでしょうか。あぁ そう言えば くびを何とかと言われていましたからねぇ。《筆を擱く》の意味でした。あらためて えっへっへ。  今回は 次の日本人論にささやかな反論です。  ★★ (No.8お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  僕は「ロマン主義」なんて、その根っこは、日本人にわかりっこないと思っているんです。カンダタのように、いつも外から糸が下りてくるのを見上げている。本気で内から考えたことがない。  違うか? と思うんですね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ドイツ・ロマン主義については 社会思想史家の水田洋の本を引っ張り出して来て見ると どうも草の根スサノヲ市民の生活に基礎を置き そこからすべての文化のいとなみないし社会活動を表現していこうという運動であるそうで――《井戸端会議》?―― ただし結局のところ 徹底し得ずに挫折したと言います。幻想の世界に走るか 封建勢力の支配体制に屈したかだとか。  これは措いて 日本人についてそれでも内発的な構想力を持ち得るという見解です。  (1) 古代日本の国家には 采女(うねめ)という制度がありました。スサノヲ圏なる地方ごとに 美しい女性を朝廷(アマテラス圏)に差し出すというものです。  すでに許婚がいた場合には 悲劇が起きました。たとえば 陸奥の国・安積の里(現・郡山市)の春姫の物語が伝えられています。召し上げられたあと かのじょは その朝廷から逃げ帰ったのだけれど その許婚の男は すでに死を選んでいたということを知って かのじょも後を追ったという話です。  ○ 春姫:http://f32.aaa.livedoor.jp/~basyou/basyo/sub1028.htm  ☆ これが――つまりこのような人間の信頼関係があれば―― 構想力に直結するのではないかと考えます。  (2) 観念の共同が猛威をふるっているときにも そのことをさりげなく伝えようと――あるいは後世に遺そうと――する表現が存在すると見られます。  ▲ (オホハツセワカタケのすめらみこと〔雄略天皇〕 万葉集 巻一・1番歌)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   籠(こ)もよ み籠持ち              堀串(ふくし)もよ み堀串持ち          この丘に 菜摘(つ)ます児(こ)            家聞かな 名告(の)らさね            そらみつ 大和の国は             おしなべて われこそ居れ            しきなべて われこそ座(ま)せ           われにこそは 告らめ             家をも名をも                  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このうたは 《本来 春の野遊びの若菜摘みの歌が 雄略物語にとり入れられた一首》で《その際 〔中ほどの三句が〕 挿入された》(中西進:万葉集  全訳注原文付 (一))と解説されます。このとき もしそうだとしたら それは 若菜つむスサノヲらの生活圏の間にというか その上部に 三句のアマテラス視点が突如つけ加えられていると知り得ます。そのように編集者らは 第一巻頭で伝えた。くにのかたちに無頓着ではなかった。  (3) 柿本人麻呂は 宮廷歌人だと言われていますが なかなかどうしてスサノヲイストぶりの表現を遺しています。  ▲ (柿本人麻呂 万葉集 巻三・235番)~~~~~~~~~~~~    おほきみは 神にしませば     天雲の いかづちの上に 廬(いほ)らせるかも  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この歌には スサノヲイストの思想もしくは信仰が現われていると考えます。《世の中の通念は 大君が神であると言っている。なるほど それゆえ 雲の上・雷の丘の上にお住まいである。そうかもね。》と。  人麻呂には神について 絶対の概念があったからではないですか。  《通念は 絶対の神と 相対の神々の世界とを混同している》と述べていませんか。人麻呂にとっては 神が《目に見えない。しかも心の目にも見えない》ことは当然のことでした。  ★ 本気で内から考えたことがない。 / 違うか? と思うんですね。  ☆ 違う。違うと言いたい。ですね。  ★ (No.13補足欄) S≠Aだというのがふつうだと思うんですが、S=Aになると未分化世界ですよね・・・  ☆ ここで《 S = A 》だと言ったのは A たとえば平等なり人間性なりの概念によってにしろ S たとえば貧困のもたらす感情とともに起動したやはり平等の概念によってにしろ そこから全体として《 S = A 》の状態に持って行こう・つまりその目的を実現させようという運動のことを言おうとしました。舌足らずでした。  ★ (No.13補足欄) マルクス:αβが一枚の紙に書かれているというのが、葛藤の理由になるでしょうね。  ☆ これは (β)の文章では 宗教・国家・制度のほかに  ○ 非思考なる信仰が 人間の自己形成をもたらす。  ☆ といった命題が抜けていると思います。

ri_rong
質問者

補足

 春姫の虜になりそうでした。ご回答をありがとうございます。  しかしですねぇ、これは一般に対する特殊の例ですよ。「その許婚の男は すでに死を選んでいたということを知って かのじょも後を追った」――そんな女性が、そうざらに居てはたまりません。  采女という制度は認めましょう。悪くないはなしです。でも、あとを追う――などとは、そんなひどい結末は(しかも、ぶっきらぼうにそれを例に出して)あってはならない話です。あんまりじゃないですか。それに、ちょっと変ですよ。これは、僕だけの意見じゃないはずです。  なんで、誰も彼女に事実を教えてあげなかったんでしょうか。 >これが――つまりこのような人間の信頼関係があれば――構想力に直結する  のが、問題なのです。遮断します。彼女にちゃんと言うべきなんです。そういうのは、信頼でちょろまかしてはならない。なんだか、恋愛相談みたいなふうだけど、でも、誰も何も言わなかったら、彼女はそりゃ苦しみますよ。だんだん、状況を想像できてきました。  ブラジュロンヌさん、古代の社会は曲がってますよ。    歌のほうがまだ説得力はあります。でも(2)の歌は、挿入された句が蛇足のような気がしないでもないですが、どうでしょう。待っているのだから、早く知らせてあげたほうが良いんです。早く早くという歌に、大和の何それは、どうなんでしょうか。  朝廷なんて、所詮、他人だとモリアなら言うでしょう。  唯一、柿本人麻呂への評は頷けますね。僕はわりに好きなんですよ、人麻呂の歌は。でもちょっと、人間離れしたところのある人物ですね。  まぁ、春姫に免じて、日本にもそういう例はあるとしておきましょうか。だとすれば、No.6で頂いている回答についてです。 ○(1)歴史必然的なことだと見ますから 《忌まわしきもの》とは思いません。仮りにそうだとしても 見方でどうせよという問題ではないはづです。 ○(3)国家という二階建て構造の社会がつづいているのに すでにアマテラシテはなくなっているか あっても問題にされないとすれば それは世界全面幻想だと認識します。どうすることも出来ません。あきらめるしかありません。皇室は ついに苗字を持たないまま 千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔の生すまで永続するでしょう。インタムライスムの時代となって 人間の自由・自由な社会生活をと願うのですが その必要はなくなるということのようです。  (1)については個人の問題だ(として受け止める)という回答が多いのですが、唯一ブラジュロンヌさんだけが、「歴史必然的なこと」として突き放しています。そして、(3)についてはどうも、他の回答をみますと、皆さん、なかなかのアマテラスぶりだと思うのですが、如何でしょうか。

noname#91067
noname#91067
回答No.14

>個人としての内なる世界の誕生、そして個人的感情の尊重と想像性の 開放、これがロマン主義の影響だと思います。この思想は18世紀後期か らずっと現代まで、途切れることなく続いている―― というようにロマンは確かな原因から結果を導く(可能的事態の想定に より対応策を考える)「演繹」と、現象から出発して根拠へと遡る(現 象が成立する原因存在を探る)「超越論的演繹」を配置させて語る。 要約すると『長編(遊戯)』 ロマン主義の真理はアラン風にいうと「悲観主義」いくらでも長くする ことが出来るでしょうが、リアルは偏見や公理、感情に左右され考察さ れることもなく「あるがまま」な現象の短編となり、リアルに意義を唱 えたり強制(矯正)することは出来ず、人間に許されることは経験則や 予知能力によって確立を変動させることと、意志でもって楽観してしま うことだけになってしまう、かもしれない。 悲観ロマン主義でも楽観リアル主義でも、外界からの作用は元は同一の 自然で、同一の作用を受けながらも対応が異なるのは個々の感受性の違 いに拠って、に帰着してしまう。 >(1)このような「観念の共同」は忌まわしきものなのでしょうか。 >(2)忌まわしいならば、この共同幻想から独立するためにどうすれば良   いのでしょうか。 忌まわしいかどうか・・・適応能力次第かと思います。 >(3)この幻想とともに暮らすならば、どう生きれば良いのでしょうか。 妥協する・・・(自信全くなし)。

ri_rong
質問者

お礼

>忌まわしいかどうか・・・適応能力次第かと思います。  ううむ。やはり、個人の問題ですということでしょうか。ご回答をありがとうございます。なかなか、口をすべらせる回答がありません。ひそかに、密かにですが、そんなの物書きどものたわ言だ――という反逆的なご意見を期待していた自分がいたりします。  某理論に従えば、miko-desiさんも立派なアマテラシストなんですね。   >悲観ロマン主義でも楽観リアル主義でも  という表現には、なるほどなと思いました。でも、こころのなかでは、悲観を捨てきれず、楽観を警戒されているのではないでしょうか。仮にその確率を、変えるだけのことだとしても、だからこそ「在り得るのでは」という期待感が芽生える。柔らかな双葉から真っ直ぐな茎が伸び、何か底知れない大輪の花を咲かせるのではないか。そんな期待感です。だからこそ、 >妥協する・・・  どうでしょうか。

回答No.13

 No.1&4&6&8&9&10です。  誰がエラスムスでモアでモーフィアスか ネオかトリニティか なかなか面白そうな第二段階ないし第三幕に入ってきたようです。  ▲ (舘野真治:孤独救う小さな愛に希望)~~~~~~~~~~~~~     現代の普遍的な心象風景が描かれている。  社会学者で東工大教授の橋爪大三郎は《登場人物同士のコミュニケーション不全》に着目する。主人公の若い女性《青豆》と青年《天吾》の二人をはじめとする登場人物たちは 様々な場面で互いに連絡が取れない状態に陥る。隔てられた個人の感覚が象徴的に描かれることで     読者は《私たちのことをわかってくれている》と安心する。だから    読まれる。  (《村上春樹『1Q84』なぜ読まれる?》:舘野=文化部員 日経2009・07・11文化欄)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《小説の構造もそうした解釈を誘う。〈現実〉と〈もう一つの現実〉の間を行き来する〈井戸〉などの設定は村上の過去の作品にもしばしば見られたが・・・》(舘野)とつづいています。  この場合の繭は――あっ この作品はまだわたしは読んでいません―― どうなんでしょう。龍宮城と現実のふるさととを同時に見とおせる眼鏡なんでしょうか。いつでも好きな時に龍宮城へあそびに行けるお得な回数券なんでしょうか。  ところが 若い国でありつつも今ではつねに自国内で世界選手権を闘っているようなアメリカでは  ★ (No.10お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  恵まれた暮らしにうつつを抜かす現代人の精神世界は、いかに制度に囚われ、縛られていることか。その奴隷の世界から魂を救済し、永遠の楽園へと誘うのが救世主ネオである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という《救世主物語》を求め 《ユートピア》に走る。こういう違いが出てきているというところでしょうか。    その昔 《ひとはひとに対して狼である》と聞いて その一面だけでは納得し得なかったですね。けれどもここから出発して みなが自然権を放棄せざるを得ないと帰結しこれを レヰ゛アタンに託すと言います。完全に託すゆえ 怪物なのでしょうか。  ★ つまり、表象(言語)と表象されるものとを、常に同一の状態に置こうとする傾向(中世的な言語感覚)があって  ☆ いわば自然=S 社会文化=Aとするとき この  ○ 西欧の人びとは アマテラス公民もスサノヲ市民も いづれも一人ひとりが 《 S = A 》といった統合構造を内面に持っているのでしょうか。  ○ ならば比べて わが日本人は 個人も社会総体も 《 A - S 》というような分離して連関する構造をふつうのことと思っているのでしょうか。あるいはそんなことは意識していないと言うべきでしょうか。  ☆ どうなんでしょう。アメリカ人は S によるにしろ A によるにしろ どちらによるにしても 他の一方をも同時に引っ張って思考も行動もするということなのでしょうか。  必ずしも観念論であるわけでもなく むしろ 《 end; fin 》という終わりを意味する言葉が目的をも表わすように 目的論に立って考えるのでしょうか。ゆえに 救世主物語。怪物レヰ゛アタンなる国家。  ちなみに 例の『1Q84』では 国家ないし権力のことを  ○ 空気さなぎ  ☆ と呼んでいると聞きました。(毎日新聞の記事で読んだはづです。切り取りをしておかなかった)。繭とつながりました。か? 分かりませんが たぶん どうしても人びとを寄せる政治をやらせてくれと頼まれてこの拝み倒しに止むを得ずゆづる場合には おそらく指導体制は軟体動物になるのでしょう。  ヰキぺに《 1Q84 》は現われていますが 空気さなぎは 作品の中の小説作品の題名であるようです。それ以上はまだ分かりません。  要するに 国家という二階建て構造は 社会という人びとの生活共同のために・その共同性の自覚や確立のために いちどは必要だったのだと考えられます。(必要悪だという議論も よく聞きました)。道がつながれ鉄道が敷かれることは 人びと皆の夢だったのかも知れません。  ◆ (マルクス:ヘーゲル国法論批判) ~~~~~~~~~~~~~~  (α) へーゲルは国家から出発して人間を主体化された国家たらしめるが 民主制は人間から出発して国家を客体化された人間たらしめる。  (β) 宗教が人間を創るのではなく 人間が宗教を創るのであったように 体制が国民を創るのではなく 国民が体制を創るのである。  民主制と他のすべての国家形態との間柄は キリスト教の他のすべての宗教との間柄のようなものである。  キリスト教は勝義の宗教 宗教の本質であり 神化された人間が一つの特殊な宗教としてあるあり方である。同様に 民主制はあらゆる国家体制の本質であり 社会化された人間が一つの特殊な国家体制としてあるあり方であり それと他の国家体制との間柄は 類とそれのもろもろの種との間柄のようなものである。ただしかし 民主制においては類がそれ自身 実存するものとして現われる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (β)以下は 組織宗教と個人の信仰とを混ぜこぜにしていると考えます。(α)は 国家の時代が 前向きに隆盛になる段階とやがて後ろ向きに揚棄されていく段階とを見ようとしていると考えます。  そのときコミュニスムは 例の《 S (言葉・理論)= A (その表象・青写真)》という統合構造としての内面(主観)が共同化されようとしたのだとも見ることができるようです。――《類がそれ自身 実存するものとして現われる》。《 S (言葉・理論)》というのは 《社会や国家》を自分たちの欲するように作り変えたいという欲求(つまりスサノヲ感性)と捉えればよいかと思います。その探究の成果として理論を得たのだと。  他方とにもかくにもわが日本人は ホンネとタテマエとの使い分けが得意ですから 単純な救世主物語やユートピア伝説には《やられ》ません。――これは 《現実主義》なんですかね?  とりとめがなくなって来ました。おあとがよろしいようで 一たん締めましょう。

ri_rong
質問者

お礼

 ご回答ありがとうございます。まず、お礼です。後に、補足をいたします。 >とりとめがなくなって来ました。おあとがよろしいようで 一たん締めましょう。  いや、まだですよ。  No.12に貴重な意見を頂いています。僕は、返事をすぐに書きました。あとは、よろしくないはずです。覚えておられますか、いちばん最初の投稿の時、僕はブラジュロンヌさんに「すぐに返事を書いた」のを。投稿から頂く恩を捨てて、交換に変えたのです。「まだ」という意思表示をするとき、僕は、すぐに返事を返します。恩でつなぐ関係は健全でしょう。けれど、交換でしか確かめられないこともあるんです。アイロニーとは、そういう事だと僕は思っています。  それに、もうひとり回答を欲しい方がいる。待ってみます。  

ri_rong
質問者

補足

>☆ いわば自然=S 社会文化=Aとするとき   S≠Aだというのがふつうだと思うんですが、S=Aになると未分化世界ですよね。自然というのはやっかいですから、頑丈な家を建ててSから身を守る。日本の家屋は、風通しが良すぎるような気がしませんか。しかもアメリカ人って、家に拘らない気がするんですよねぇ。  まあ他人(アメリカン)事よりも、マルクスのはなしに向かいましょう。 ========================= ◆ (マルクス:ヘーゲル国法論批判) ~~~~~~~~~~~~~~  (α) へーゲルは国家から出発して人間を主体化された国家たらしめるが 民主制は人間から出発して国家を客体化された人間たらしめる。  (β) 宗教が人間を創るのではなく 人間が宗教を創るのであったように 体制が国民を創るのではなく 国民が体制を創るのである。 =========================  αβが一枚の紙に書かれているというのが、葛藤の理由になるでしょうね。別な回答にも宛てたんですが、もしもこの二つの言表が別々の紙(タブロー)に書かれていたら、どうでしょうか。どちらも、意味が開かれているために、なんのこっちゃという感じで、答えが定まらない。  (α)人間は主体化された国家(1)=国家は客体化された人間(2)  (β)制度が人間を創る(3)≠人間が制度を創る(4)  ふたつの同語反復がひとつになると、(4)国家が制度を創るというふうに結び付く。各々は別な体系を持つ言表であるはずが、同一のタブローに描かれる――ということからひとつの言表が生まれる。 >他方とにもかくにもわが日本人は ホンネとタテマエとの使い分けが得意ですから 単純な救世主物語やユートピア伝説には《やられ》ません。――これは 《現実主義》なんですかね?  どうでしょう。僕が思うのは、二項対立として言表に内在するふたつの体系を使い分けるという仕方に慣れているんでしょうね。引き受けたほうが、現実なんです。でも、その現実は常に真実とは限らない。  ところで、対偶を語るという手法が小説とか詩にはあると思います。色でいうなら、補色ですね。文学なんてほとんど知りませんから、なんとも言えないんですけど、待っていれば答えももらえよう――というものです。

回答No.12

自分よりおそらく詳しいであろう人に回答をするときの、なんともいえない、気まずい思いを抱いております(笑)。すでにご承知の箇所も多いかと思いますが、それがすべてではないことを願いつつ書いていきます。 まず > 蚕が繭の中にすっぽりと入っ〔た〕平和な状態 の「繭」について。 ロマン主義とは何かをいうとき、よく引用されるのが、初期ロマン派の中心的人物であるシュレーゲルのこの文章です。ちょっと長いんですが、重要な箇所なので。 読みやすさを考えて、手元の翻訳書にはない改行をしています。 「ロマン主義文学は発展的普遍文学である。その使命は、単に引き離されたあらゆる文学ジャンルをふたたび合一し、文学を哲学および修辞学と結びあわせるにとどまらない。さらに韻文と散文、独創性と批評、人為文学(Kunstpoesie)と自然文学(Naturpoesie)を混ぜあわせ溶かしあわせ、文学を社交のなかへもちこんで活気あらしめ、生活と社交を文学的なものに変え、機智を文学化し、芸術のさまざまの形式をあらゆる種類の緊密な形成素材によって満たし、フモール(Humor)のはばたきによって生動せしめんとするものであり、かつまたそうすべき使命を帯びている。ロマン主義文学は、さらにいくつもの体系をそのなかにふくんでいる最も大いなる芸術体系から始まって、夢想する子どもがその素朴な歌とともに洩らす溜息やくちづけに至るまで、文学的でさえあるならばあらゆるものを包括している。…… ロマン主義文学だけが、叙事詩とおなじように周囲の世界全体の鏡となることができる。時代の似姿となることができる。だがまたとりわけロマン主義文学は、いかなる実在的関心にも観念的関心にもとらわれず、文学的反省の翼に乗って、描写された対象と描写する主体との中間に漂い、この反省を次々に累乗して合せ鏡のなかにならぶ無限の像のように重ねてゆくこともできる。…… 他の種類の文学はすでに完成していて、したがって残るくまなく分析することができる。ロマン主義文学はまだ生成の途上にある。それどころか、永遠にただ生成しつづけていて、けっして完成することがないというのが、ロマン主義文学に固有の性質なのである。したがっていかなる理論によっても分析しつくすことはできない。予見的批評のみが、その理想型の特性描写をあえて企てることが許されるであろう。ロマン主義文学のみがひとり無限であり、ひとり自由である。そして詩人の恣意はいかなる法則をもわが身に甘んじて受けることはないというのが、その第一の法則である。ロマン主義文学はジャンルを超えたジャンルであって、いわば文学そのものであると言うことのできるただ一つの文学である。ある意味ではすべての文学はロマン〔主義〕的romantischであり、あるいはあるべきであるからである。」(「アテネーウム断片116」『ロマン派文学論』所収 山本定祐訳 冨山房百科文庫) 質問者さんは > この思想は18世紀後期からずっと現代まで、途切れることなく続いている―― と書いておられますが、そうして事実、文学の面では、象徴主義やシュルレアリスムとかたちを変えながら受け継がれていくわけですが、「ロマン主義思想」そのものは、19世紀も後半になると、ほとんどかえりみられることもない時期を迎える。そののち、フランスのポストモダン系の思想家であるフィリップ・ラクー=ラバルトやジャン=リュック・ナンシーによって、初期ロマン派が再評価、というか、ポストモダン的文芸批評の先駆者として、あらためて位置づけられるようになったというふうに、わたしは理解しています。 [116]のなかでシュレーゲルは、「ロマン主義文学」というのは、詩や散文、批評から、子供が歌とともにもらすため息までをも含むものだという。これはつまり、個々の作品が「ロマン主義文学」を構成するのではなく、逆に、「ロマン主義文学」というのは、個々の作品の背後にある集合的な想像作用である、とまとめることができるかと思います(質問者さんは「観念の共同」という言い方をなさっておられますが、わたしとしては仲正昌樹による「集合的な想像作用」という言葉の方が、より適切ではないかと思っています)。 だからこそ、「周囲の世界全体の鏡」にも、「時代の似姿」にも「合せ鏡のなかにならぶ無限の像」にもなるし、「永遠にただ生成しつづけていて、けっして完成することがない」。 つまり、ここにあっては個々の作品の読解は、無から作品を創造する神のような作者の意図をできるだけ正確に解読するものではなく、その作品の背後にある、絶え間なく進行している「ロマン主義文学」の一部として、読んでいくことになります。異なる作品と作品のあいだに、潜在的な関係を見いだし、インターテクストを発見していく、ということです。 質問者さんが「繭」と言っておられるのは、個々の作品ではなく、おびただしい糸によって統合されることによってできあがった集合的想像作用のテクストであるとするなら、「蚕」にあたるのは、その「繭」がこれからどのように展開していくのか、糸と糸のあいだの結び目を探していく「読み手」と言えるでしょう。この「蚕」は、一方で、繭からは独立しつつも、作品と作品のあいだをつなぐことによって、繭に対する創造的な役割も担っている。 さて、ご質問に答えられるかどうか、定かではないのですが、とりあえずの思いつきなど。 (1)「忌まわしい」かどうか。 それはその人によるかと思います。「集合的な想像作用」というのは、あるのかないのか、本当のところはわからない、あると証明できるわけではないものですから、そんなものはない、と無視することもできるだろうし(これは(2)の回答)、逆に「作用している」と前提し、積極的に繭作りに参加していくこともできるでしょう。繭に合わせて、自分の側を変えていくことも可能でしょう。 (3)「[53] 一つの体系をもつことも、いかなる体系ももたないことも、精神にとってはひとしく致命的である。したがっておそらくはこの二つを結合するよう決心しなければならないであろう。」 それが、生成を続ける、閉じられていない「繭」なんかじゃないか、と思います。 ちょっと時間がなくなってきたので、雑な書き方をしますが、シュレーゲルがアイロニーということを言っているのは質問者さんもご存じでしょう。「アイロニー」をきっちりと定義すること自体、非アイロニカルなことで、なかなかむずかしいのですが、「一つの体系」を手に入れた、という思い込み、逆に、自分はあらゆる体系から自由であると思い込み、そういうものから少し距離を取って、ずらす。そのことによって、わたしたちは「繭」とともに生きていけるのではないでしょうか(雑な結論で申し訳ありません)。

ri_rong
質問者

お礼

 ずっと待っていれば、回答をいただけるのではないかと思っていました。  ありがとうございます。    まず、そうですね。19世紀末期の戦争の時代を通じて途切れたようになり、けれどその頃に森鴎外によって日本は、初めてその洗礼を受けたのでした。村上春樹さんは、総合小説なんて言っておられるようですが、当時でいえば正岡子規などがたぶん、シュレーゲルと同じような思想で新文学を目指していたと思います。  福沢諭吉さんはじめ、鴎外にせよ、夏目漱石にせよ、明治の人たちは海外のものを日本へ紹介する(要するに翻訳ですよね)ということで、その後の日本を作った人たちです。けれどもそういった紹介は、一部の選ばれた人たちの「責務」として、あくまで翻訳であるべきだったのだと――作家の水村美苗さんは仰っていますね。  巷には、小さな鴎外や小さな漱石がたくさん生まれ、もはや翻訳ではなく、「そのもの」に手づかみで触れる――といった仕方で異国を知る時代です。僕たちは、はたして繭を紡げるのでしょうか。言葉の持つ意味は、はたしてあるのでしょうか。僕をはじめ、多くの回答者は、それを教えて欲しいと思っているように考えます。物事には、まっすぐに向き合わなければならないという道徳があり、曲がった見方はすべきないという倫理があり、それゆえ不器用でも、一生懸命、正直に汗をかいて生きています。  アイロニーって何でしょうか。

回答No.11

No.2 & No.7です 映画「マトリックス」には、問題点が隠されています。 「二つの世界」を繋いだ途端に、そこには「一つ」の世界しか存在しえなくなる。 アーキテクトや預言者が組み入れたのは「選択枝」、すなわち「右のドア【または】左のドア」 であって、 「右のドア【かつ】左のドア」 ではない。 http://zoro.sub.jp/matrix_reloaded.htm マトリックスの世界がプログラマブルなコンピュータの世界であるなら、【かつ】を組み入れることはたやすいはず。 選択肢の度に世界の複製をつくり、「両方」を実行させればいいだけだろうに。。。 十数年前に、トランスピュータというチップ上で、既にOCCAMという並列処理言語が動いていたというのに。。。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF http://ja.wikipedia.org/wiki/Occam やはり、メモリチップ(人間の脳相当)の物理的な限界が、リロードするだけの逐次処理しか許しえなかったのかもしれない。。。

ri_rong
質問者

お礼

>アーキテクトや預言者が組み入れたのは「選択枝」、すなわち「右のドア【または】左のドア」であって、「右のドア【かつ】左のドア」ではない。  そうですね。ご回答をありがとうございます。実はじねんさんの場合、きっとそう言うだろうなという予感はありました。 >メモリチップ(人間の脳相当)の物理的な限界が  違いますって。単に表現方法が、中世から進化してないだけです。  さて、ついでの質問ですが、もうひとつの制度、言葉についてです。情報処理でいうタブロー法ではなく、タブローについてです。ところで、江戸川乱歩の有名な小説に『押絵と旅する男』というのがあるんですが、そのなかで、  ――兄は押絵の娘に恋こがれたあまり、魔性の遠目がねの力を借りて、自分のからだを押絵の娘と同じくらいの大きさに縮めて、ソッと押絵の世界へ忍び込んだのではあるまいかということでした。  ・http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/novel/edogawaranpo.html  というくだりがあるんですが、どうでしょう。  じねんさんでも、そんなふうに思うことってありますか?

回答No.10

 No.1&4&6&8&9です。  ★ (No.6お礼欄)『マトリックス』・・・実に寓意に満ちた映画で、登場人物の名前はもちろんですが、物語の進行もまた、ここでの対話の行方に関係があるのかもしれません。  ☆ 何やらこの寓喩が踊り出すかのようですが とにかくまづ映画の筋を追いました。それは  ▲ NeMe: The Matrix: Morpheus in Exile by Joanne Morra and Marquard Smith  http://www.neme.org/main/340/the-matrix-morpheus-in-exile  ☆ をふと読み出してみて 途中まで来て これは全部を読まない前にでもひとことお伝えすることがあると考えました。  たぶん次の文章の内容は 映画の筋と――もしくはモーフィアスが唱えているような世界の捉え方と――どこか違っているのだと考えます。ふるさともしくはシオンの位置づけで違っているように思います。その点をまづ先に諮っておくとよいと考えた結果です。  ◆ (アウグスティヌス:三位一体論) ~~~~~~~~~~~~  さて 自分自身によって 神を観想し神に密接に結合されるほど清められると思っている人がいる。そのような人を汚すのは とりわけ〔* 人間の精神を あたかも 神そのものと思いこみ 理性による経験思考を絶対の力とするような〕高ぶりそのものである。  ・・・  しかし 不遜な人にとって また このゆえに木(* =十字架)の船に乗るのを恥じる人にとって 遠くから海を越えて存在する故国を〔* 理性による推論によって〕望み見ることが 何の役に立つであろうか。  逆に あの不遜な人がそれで運ばれるのを軽蔑する木の船に乗って(* =つまりは 信仰によって)祖国に行く謙遜な人にとっては このように遠くから祖国を見ないことがどうして不都合であろうか。  (第4巻第15章 中沢宣夫訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たしかに《痴愚神礼讃》の様相を帯びています。  言いかえると 一人ひとりが小文字のキリストです。  言いかえると 井戸端会議の歩みです。  水嵩を増していくことが 《共同幻想からの自由を得たその自由を 実現する近道》だと考えます。そのような人びとは すでにそのみづからとしての卵が割れてしまっています。ひそかに再生が始まっています。  なぜなら 非思考において無根拠は 絶対だからです。そういう意味で逃げ場がなくなっている人間の顔が少しづつ上を向いて来て歩き始めるのだと見ます。  経験現実としてのアマテラシテは いわば人工の特異点だと捉えられます。因果関係から自由だというふうに作られた特異点であって 容易に崩れるのではないでしょうか。  その《作られた》ということのしるし・もしくはその人造特異点であることを蔽い守るものが 《蚕にとっての繭》のことだと考えられます。  人びとに傘を差し出し雨宿りに軒を提供する《あたたかそうなまぼろし》だと考えますが 千五百年もつづくと ほんとうに何かある。これはじんるいにとっての最大の不思議であると唱える向きもあることでしょう。  ワ゛ーチュアル・リアリティと相性がよくてシンクロするでしょうか?

ri_rong
質問者

お礼

>ワ゛ーチュアル・リアリティと相性がよくてシンクロするでしょうか?  むしろ、これが現代アメリカ人の考える人間の精神世界だと思います。あるいは、救世主物語。内と外の区別がつかないとは、こういう例だというつもりで挙げています。  あらすじとしては――恵まれた暮らしにうつつを抜かす現代人の精神世界は、いかに制度に囚われ、縛られていることか。その奴隷の世界から魂を救済し、永遠の楽園へと誘うのが救世主ネオである。  『ユートピア』じゃないか? と思うわけですよ。  モーフィアスは、そのかたちを提供する役柄です。言ってみれば、痴愚神であるエラスムス、あるいはモアになるのでしょう。西欧ではすでに、『マトリクス』を中世末期に考えているんです。No.11に良い回答をもらっていますが、「二つの世界を繋いだ途端に、そこには一つの世界しか存在しえなくなる」わけです。つまり、表象(言語)と表象されるものとを、常に同一の状態に置こうとする傾向(中世的な言語感覚)があって、それに対して無警戒なんですね。  たぶん、実際に映画をご覧になると、なんだかずいぶん薄っぺらい感じがするなぁと思われる。    さて、「繭」はいったい何なのでしょうか。

回答No.9

 No.1&4&6&8です。  いくつか課題をもらっていますが No.6補足欄に書き込まれた疑問――《リーダー》論――についてとりあえず反応します。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   リーダーというのは、その人の向くほうへ組織を向ける役割の人です。ですから、能力とか指導力なんてものが無いリーダーは、原理的にあり得ないわけです。そうではなく、リーダーが下位組織を指導し、組織のポテンシャルを決定します。リーダーを肯定するには、そういう階級社会が必要なんです。でも、日本にはそういう制度がありません。  制度の無いなかでは、絶対にリーダーは生まれないものです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 後鳥羽上皇だったか アマテラシテが権威の上に権力を持とうとしましたね。  それはお愛嬌としても 明治維新には天皇が草莽の志士というスサノヲ市民たちによってさえかつがれました。つまりただちにここからわたしの言いたいことは   ○ 全体として指導体制は機能しているのではないか  ☆ です。誰の誰べえという特定のひとりの指導者という存在じたいはどうであれ とにかく指導力というものも発揮されているでしょうし 権力体制は分散していてたとえタライ回しのようであっても 互いに支え合ってなのかどうか いづれかの形で出来ているのではないでしょうか。  天皇にしても 神聖にして不可侵でした。戦争中の要所要所では実際には発言をしていたとも聞いています。統帥権が奪われたにしても 阿吽の呼吸と言うのでしょうか 文人と軍人 あるいは陸軍内部においても大本営と現地部隊その他その他および 天皇といったような布陣において それぞれがうまく支え合い暗黙の了解のもとに行動していたとは考えられませんか?  戦後は 軍隊を棄てたことを前提として あとは 官僚による指導体制であるのかどうか。そしておそらく報道媒体もとうぜんの如く一枚咬んで 指導力を全体としてみればどうにかこうにか締切りいっぱいには発揮してきたのではないでしょうか。  天皇は 現在ではまちがいなく純粋権威としてのアマテラシテであるはづです。しかも そのことだけに終わるとも見られません。  わたしが野次馬根性を出して覗こうとしていることは やはりむしろ当然のごとく上手に利用されているのではないかというものです。《民主的で開かれた皇室》 この一種の制度のあり方は その広報活動が為されることをも含めて 二階建て体制の保守に寄与しているでしょうし まぎれもなく指導力の発揮されたすがたであるように見えます。  どこからか誰によるのか分かりませんが 指導力はありますし 制度も絶妙につくられており機能しているとしか思えません。  中央官僚は地方自治体に対して ともかくどうにかしてでも言うことを聞かせて来たのだと考えます。制度があり指導体制ができています。いました。  集団指導体制という言い方は まちがいでしょうね。  ★ リーダー不在  ☆ という名の・あるいはそういう見てくれをしたしかも指導体制なのではないかと憶測します。それは いぢわるく見れば 要するに自分たちの――めづらしく流出入の自由な社会階層のあいだで流動的な――お二階という楽園の保守 この目的のためには一たん緩急あれば互いに結束しておのれを無にして指導し合うのではないですか。  それで間に合わなければ スサノヲ階からよさそうな人材を釣りあげて来て使うでしょう。そういう動きには敏感だし長けているのでしょう。――もうその手は通用しないようですが。  そのほかの課題は まだです。  ところで Morpheus がなぜ  ★ 痴愚の意  ☆ になるのか不思議です。《かたち》が原義のようですが?

ri_rong
質問者

お礼

 面白いなぁ。打てば響くとはこのことですね。  明治までの天皇は、間違いなきリーダーだったと思うんですね。錦旗に依らずとも、天皇の向く方向が日本の進路だった。それが現在でもそうだと仰る? >天皇は 現在ではまちがいなく純粋権威としてのアマテラシテであるはづです  本当でしょうか。だとしたら、胸を撫で下ろせる気がします。  自分で答えるのもなんですけど、(2)の回答として、ひとつはリーダーを手に入れる――というふうに思っていたからです。そのリーダーは、戦乱の世界へと誘うかもしれません。けれど、相手が見えるというのは、ひとつの独立の形態だろうと思いました。 ===============================  ところで Morpheus がなぜ  ★ 痴愚の意  ☆ になるのか不思議です。《かたち》が原義のようですが? ===============================  ああ、これはエラスムスが『痴愚神礼賛』の序文に、主人公モリア(Moria)の名前をトーマス・モア(More)から思い付いたと書いているんですが、モアはこの後に『ユートピア』を仕上げますよね。人間本来のかたちを取り戻す役柄だから、モーフィアスを痴愚神だと呼んだのです。

回答No.8

 No.1&4&6です。  No.6をおぎないます。二点です。  《ロマン主義》は どうもわたしの感覚では 現代では  ○ 相対主義および独我論  ☆ という思潮であるように思うところがあります。  ○ 相対主義――に関しましては 絶対観として無神論なら無神論をきちんと心得ているなら 大丈夫なのですが そのあとの独我論からの影響でしょうか 何もおかまいなしにまったくメリハリ無しののっぺらぼう史観に立つといった傾向です。  ○ 独我論――については みづからは送信するという交通を保つけれども 受信は聞き流すというかたちの鎖国政策として捉えています。  ☆ もしそういう傾向や思潮に焦点を当てているのだとすれば ここで国家の問題を直接に出すのは 議論をむやみに拡張しているきらいがあるように思いました。国家論とは離して ひとつの主題になると思います。  (それもこれも ロマン主義という用語には まだピンと来るものがないというわたしの情況がわざわいしているようです)。  ☆☆ (No.6)「観念の共同」は・・・歴史必然的なことだと見ますから 《忌まわしきもの》とは思いません。  ☆ と述べましたが ひとつに そのような観念の共同が人びとに覆いかぶさってくるというのは 忌まわしきことです。たとえ《和を以って貴しと為す》というように内容が間違いでないものでも 上からつまり目薬を差すわけではないのですから 二階から合唱の指揮を振られてもそれほど気持ちのいいものではありません。(慣れっこになっているとは思います)。  もうひとつに この共同化されるという観念は もともと《王の徳をあまねく行きわたらせるという感化政策》のもとに出て来たと見ます。つまりやはり二階からのはたらきかけです。一階つまり平屋建ての社会にあっては 徳性はおのづと人びとに伝わります。  つまりは 或る日或る時どうしても我れは 神のごとくに如何なるものの下にも立つまいと決意した人間がいたわけで かれはそれはそれは人間的になるよう努力します。もうこれ以上は人間的になれないと思って周りを見渡すと 誰もそのような人間性というものに関心がない。  そこでかれは最初の誓いを保持したまま 人間や社会に《イリ》するのを方向転換して 人びとを《ヨセ(寄せ)》することに専念する。その手段が 《王化の徳・王の徳の感化》であり そのような《観念のあまねわり》(あまねく行きわたらせる)だと見ます。武力は第二の手段だと見ます。  この観念の繭という核の傘政策は 人間論からすれば 忌まわしき事態です。人間の自由の違反です。――ただし 社会という視点をとれば 《ヨセ》つまり通俗的に言って《依らしむべし 知らしむべからず》の政策は 自然やひとに《ヨリ》つく傾向を持った人びとを導くための短兵急なやり方であって ふつうの歴史知性である《イリ》としても その導き方を時間をかけておこなうはづだと考えれば 五十歩百歩だとも言えます。  特に 外国が攻めてくるといった非常時には 《ヨセ》の行き方が用いられる場合があります。それでも人殺しはしないという非戦論を採る《イリ》思想の一系譜というのは どうでしょう ありますかね?  ということで 社会という視点に立てば 人間の自由論からして忌まわしきことでも これをただちに元に戻すということが どうも出来なかったようですということではないでしょうか? 国家は存続しました。観念の共同は 一般にアマテラシテ(象徴であり 権威と言えば分かりやすいでしょうか)のもとに確固たる地盤を築いたのではないでしょうか。  そこで忘れてならない基本的な歴史事例は のちにアマテラス二階族を形成する人びとに対して かれらが《おれたちに任せてくれ。このくにの人びとを寄せさせてくれ》と拝みに拝んで ふつうのイリ知性たちに話を持ち込んだとき 後者の人間たちは前者の人たちに《くにゆづり》としたということです。根負けしました。一方では《神だなに据えた》のでしょうが 他方では《思う存分好きなように経営能力を発揮したまえ》と言って任せました。  その後月日は経って いえいえ千五百年経ったのでしょうか 《くにゆづり》した側は――つまり一般スサノヲ市民らは―― 総じておとなしくして来ました。《ゆづった》のですから そうそうは《返せ》とも言えません。そういういきさつで 現在に到っていると見ます。  その国家の問題とそしてロマン主義の現代版とのふたつの主題は 重なっているはづであるとともに 後者をそれとして主題決めして扱う道もあると考えました。  その道に従うなら 《蚕にとっての繭》は たしかに《個人という概念》――つまりは 《だれもが互いに相対的な存在であり ひとのことは基本的に言って分からないものだという前提に立って互いに交通する》のっぺらぼうのもやもや史観――が当てはまるように思えます。  おぎないでした。

ri_rong
質問者

お礼

 ご回答ありがとうございます。いつも、ピンと来ることをお書きになりますね。 >それもこれも ロマン主義という用語には まだピンと来るものがないというわたしの情況がわざわいしているようです。  ふつうはピンと来ないものだと思うんです。amaguappaさんは、ときどき良い事を言うと思いますが、先にお書きになった「日本人の自我というのは自然と未分化ですから、わたしの考えでは、西洋の原罪を適用するわけにはいきません」というのは、まさにその通りだと僕も思います。  それを自分の意見として書くならば、まず、地理的なものからです。  核爆弾に限らず、黒船にせよ、元寇にせよ、日本を大きく揺さぶるものは常に箱の外からやってきたわけです。まわりを海に囲まれた日本は、箱の内側から何かを変えようとした経験がない。いつも、選んではいないのです。  大陸はそうじゃない。大陸には逃げ場がない。外の世界なんてどこにも無いということが、細胞レベルにまで染み込んでいると思うんですね。だから、原罪は認めざるを得ないのです。西洋的なロマン主義は、箱の内を描く世界です。けれど、外があると思っている世界の住人と、外はないと思っている住人では、内に対する心構えが違います。内の世界なんて言ったって、日本人には、建前にしか映らないはずなんですよ。そして、日本と同じような成り立ちを持つ国がアメリカです。彼らの場合は、攻め込まれたことがないものだから、箱の仕切りそのものがわからない。  内なのか、外なのかという感覚がない。  僕は「ロマン主義」なんて、その根っこは、日本人にわかりっこないと思っているんです。カンダタのように、いつも外から糸が下りてくるのを見上げている。本気で内から考えたことがない。  違うか? と思うんですね。

回答No.7

>>> No.1のお礼欄から ロマン主義は、その後の世界を彩る思想としてここでは扱っていますが、(2)で言われる抵抗が無くなったにもかかわらず、どこか割り切れないところ、何かすっきりしない気持ち、口を開けた虚無のようなものがあり、そういうのが引き金となって、大きな戦争を再び起こし、あるいは村上春樹は小説を書き続ける――こういう現代までの漠然とした流れを、うまくまとめられないままに「ロマン主義」という言葉でくくっているわけです。 <<< >>>No.2のお礼欄から 実体のないものには共同幻想は生まれないのかということ (中略) この時代に「個」を前提とした視点に立たない生き方は、果たしてできるものでしょうか。  できるとしたら、どのようにすれば良いか。  これが、質問です。じねんさんは、どうやって生きますか? <<< 端的に言えば、(いや、「個人的に言えば、かつ、周囲との関係から言えば」) 「生きている【または】生かされている」のどちらか?といった二分法でもって選択して生存しているわけではない! ですね。 「生きていて【かつ】生かされていて」の両方にて生存していると考えています。 【かつ】といったとき、集合論・論理的にはNo.1の添付図の「概念A」と「概念B」が交わった狭い範囲のごとく誤解するかも知れませんが、そうではなく、強いて言うなら顔マークの書いてあるところの「どこでも」になります。かといって、「実体のないもの」ではなく、「実体のあるもの」の中を移動しつつ、移動されつつ、生存しているといった感覚ですね。 あらゆるものに「反発」するのでもなく、あらゆるものを「迎合」するのでもなく、といったところです。 いや、もっと端的に言えば「しばられずに」でしょうか? どちらかを無理矢理選択しようとすると「何かすっきりしない気持ち、口を開けた虚無のようなもの」に縛られてしまうように思います。 (幻想的な)共同体が、まさに「幻想的」なのは、「常に変化する境界概念」を共同体が有しているからだと思っています。それは、共同体概念が規定するわけでもなく、個人が規定するわけでもない。両者の相互的な関与で動的に動いている。いわば「境界概念」と「共同体内部」と「外部」とが同時成立的なように、「個」と(微妙に揺れ動き、ぼやけている)「境界概念」と「全体」とが同時成立的なわけです。 私は、私個人でありながら、全体でもある(全体から切り離されては存在し得ない)。。。そんな感覚でしょうか? 。。。と、答えになっていないかもしれませんね(笑)

ri_rong
質問者

お礼

>「生きている【または】生かされている」のどちらか?といった二分法でもって選択して生存しているわけではない!  おお、青年の叫び――ですね。ご回答、ありがとうございます。  どうやら、あなたもモーフィアスの船に乗る人物のようです。 >いや、もっと端的に言えば「しばられずに」でしょうか?  No.6のお礼欄に、映画について書きました。どう思われますか。

回答No.6

 No.1&4です。  ri_rong さん 百年に一度かどうか どうでしょうねぇ。五輪のごとく四年に一度ほどのただしずいぶん久しぶりに開かれる哲学オリンピックなる一大行事であるか。それともルネサンス以来かあるいは六七二年(壬申)の乱以来でしょうか 国家が問われたり人間の内面構造が問われたりの国を挙げての催しになりましょうか。どうでしょうか。まぁ へへっとつけ加えておきますが。  ★☆ 個人の《概念》がとっくに生まれており いまや大手を振って歩いている。  ☆ 青春を謳歌したあと 脂がのってきているのでしょうか。それともすでに腐りかけては どこからか栄養補給が施されてじゅうぶんに生き延びているというべきなのでしょうか。  そうだったんですか。それなら 村上春樹にもつながります。  昔は――たとえば大橋巨泉というタレントがいました―― 個人主義ということを 一部ではよく聞きました。けっきょくいわゆる集団主義(この中身もはっきりしませんが)と対立関係にあって 相互に補完するような思潮なのではないかと考えられました。《個人》はいなかったのです。出る杭は打たれるし 寄らば大樹の陰でした。  ということは 理論上は この《個人》もしくは《わたし》というおのおのがおのおのにとって大事な存在のことを知っていたということです。  ですから 《概念》としてこの《個人ないしわたし》に究極において対立するのは はっきり言えば天皇(ないし天皇制)だったと思います。アマテラシテですね。  アマ・・・まで言えば 回りのひとの顔がこわばりました。身内の者でも黙ってしまいます。いい顔をしません。ところがいまでは 《ひとは誰でも 万世一系として今ある》とか《アマテラスとスサノヲとは実の姉と弟である》という文章を表わすことができるところまで来ているようです。隔世の感があると いまわが人生で初めてこの言葉を使っておきます。  それでもさいわいなことにと言いましょうか まだなおこのアマテラシテに関しましては 禁忌となっているところがあるのではないでしょうか。だとすれば 蚕にとっての繭は 文学作品においても社会制度としてもさまざまに展開される《〈個人〉の概念》のほうではなく(もしくは それでもあるとともに) やはり個人の社会的に特異な現象としてのアマテラシテのほうにあるかも知れない。  しかもこれは 的をひとつに特定して言っているわけではありません。あくまで国家という社会形態とそこにおける観念をめぐっての生活共同――この現実についての問題です。現にアマテラシテは このいまの《個人という概念》になって来ている部分もあるということを考え合わせるというふうになって来ている。  でもたぶん 天皇というアマテラシテなる存在は 自然人でもありますから それが禁忌でありつづけるならその限りで いまの国家という社会形態は 人間にとって自然のふつうの居心地のよいかたちなのではないことを表わすでしょう。《概念としての個人》が人びとにとってのアマテラシテ(象徴)として全面的に居心地のよいものだと共同主観されたのなら ひょっとすると ひょっとするかも知れません。もうそれに代わるアマテラシテはないとなり このアマテラシテを要らないという要求も出て来なくなるかも知れません。  幻想の共同が 幻想だとは思われなくなるという事態。村上春樹が次々と出て来て 次々とどこまでも繭を紡いで行って 人びとの不安を癒し 相対的なのっぺらぼうの世界にも彩りを添える役目を引き受ける。  もしアマテラシテとしてのローマ法王は屁でもないということでしたら そちらの世界は絶望的かも知れません。蜘蛛のほうで amaguppa さんから  ▲ 西洋人の自我にとっては、原罪は屁のようなものか、あるいは何か機能するとしても、 / 日本人の自我というのは自然と未分化ですから、わたしの考えでは、西洋の原罪を適用するわけにはいきません。  ☆ と言われてしまいました。意味の確定に努力が必要ですが 醒めた見方のようです。そう言えばたしかに国家元首としてのアマテラシテは 多くの国で任期を持った短期的な存在のあり方になっています。  ★ (1)このような「観念の共同」は忌まわしきものなのでしょうか。  ☆ 歴史必然的なことだと見ますから 《忌まわしきもの》とは思いません。仮りにそうだとしても 見方でどうせよという問題ではないはづです。  ★ (3)この幻想とともに暮らすならば、どう生きれば良いのでしょうか。  ☆ 国家という二階建て構造の社会がつづいているのに すでにアマテラシテはなくなっているか あっても問題にされないとすれば それは世界全面幻想だと認識します。どうすることも出来ません。あきらめるしかありません。  皇室は ついに苗字を持たないまま 千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔の生すまで永続するでしょう。インタムライスムの時代となって 人間の自由・自由な社会生活をと願うのですが その必要はなくなるということのようです。

ri_rong
質問者

お礼

 やってくれましたねぇ。いやはや、ともかくご回答ありがとうございます。  まさに渾身の筆です。放ってくれました。  しばらく前の映画で、『マトリックス』という題のものが流行りました。ブラジュロンヌさんと、キアヌ・リーブスの組み合わせは前衛的過ぎるかもしれませんが、あの映画に出てくるモーフィアス(痴愚の意)について、実はこっそり対話を続けています。  かの映画は、現象と独立した概念の世界を描いたものだと思いますが、その世界はねずみ色に荒廃し、用意された繭のなかで制度が個人を飼っている映像がありました。モーフィアスは制度の目をかいくぐって、船を操る船長の名前ですが、どうもその船長がブラジュロンヌさんにだぶって見えます。  実に寓意に満ちた映画で、登場人物の名前はもちろんですが、物語の進行もまた、ここでの対話の行方に関係があるのかもしれません。  案外、littlekissさんが空を飛ぶかもしれません。がんばれ、ネオ!

ri_rong
質問者

補足

 前々から思っていたのですが、一点のみ、疑問があります。 >ですから 《概念》としてこの《個人ないしわたし》に究極において対立するのは はっきり言えば天皇(ないし天皇制)だったと思います。アマテラシテですね。アマ・・・まで言えば 回りのひとの顔がこわばりました。  「苔」と「生す」に絡むのですが、天皇は象徴です。リーダーではありません。  この点について、はっきりさせておきたいと思います。明治憲法が廃止されて無くなったものが二つあります。ひとつは軍隊、そしてもうひとつはリーダーです。前者はさかんに議論されますが、後者はあまり議論にならない。むしろ、無くなっていることに気付いていない(ような気がします)。  先日の選挙でも、総裁や自民党執行部のリーダーシップなどという言葉が報道されましたが、気付いていないなと書いたのは、まるで彼らが、日本にもリーダーがいると信じているような、そんな感じがしたからです。まさか、代表者のことをリーダーと呼んでいるのでしょうか。  戦争に負けたあと、天皇はその役割から外されました。代わりに、日本ではリーダー不在でも人々が困らないように、官僚制度が発達しました。役務という役割上の階級によって、滞りなく業務が遂行される制度です。そのため、リーダーを要する制度は整えられなかった。  リーダーというのは、その人の向くほうへ組織を向ける役割の人です。ですから、能力とか指導力なんてものが無いリーダーは、原理的にあり得ないわけです。そうではなく、リーダーが下位組織を指導し、組織のポテンシャルを決定します。リーダーを肯定するには、そういう階級社会が必要なんです。でも、日本にはそういう制度がありません。  制度の無いなかでは、絶対にリーダーは生まれないものです。

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