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《日本人は集団主義的》という通説は誤り!?
次のような研究成果が明らかにされています。 明証にもとづくご見解・ご議論をさらに広い視野から得られればさいわいに思います。 ▲ 「日本人は集団主義的」という通説は誤り http://www.u-tokyo.ac.jp/public/public01_200930_j.html ・高野陽太郎:『「集団主義」という錯覚 ― 日本人論の思い違いとその由来』 2008 §1 心理学的研究 「世界で最も個人主義的だ」と言われてきたアメリカ人と、「世界で最も集団主義的だ」と言われてきた日本人を比較した研究を集めた。 ・集団主義・個人主義の程度を測定するための調査研究が11件。 ・自分の意見を曲げて集団の意見に従うという「同調行動」に関する実験研究が(高野自身の研究も含めて)5件。 ・自分の利益を犠牲にしてでも集団に献身するという「協力行動」に関する実験研究が6件。 これら計22件の研究の結果をみると ・通説に反して、「日本人とアメリカ人とのあいだには明確な差はない」という結果を報告していた研究が16件、 ・通説とは正反対に、「アメリカ人の方が日本人より集団主義的」という結果を報告していた研究が5件もあった。 ・一方、通説どおり「日本人はアメリカ人より集団主義的」という結果を報告していた研究は、わずか1件(調査研究)しかなかった。 § 2 言語学的研究 日本人論は、日本語の特性に注目して、「日本人の自己は、個として確立しておらず、自分が属する内集団と一体化している」と主張してきた。 これに対して、2人の言語学者(筑波大学の廣瀬幸生教授、カリフォルニア大学の長谷川葉子教授)による共同研究は、日本語の特性が「他者とは明確に切り離された自己」の存在を示していることを明らかにした。 たとえば、「私は寒い」という文の中の心理述語「寒い」は、話し手の心理状態を表すために用いられるが、同じ内集団に属する他者の心理状態を表すために用いることはできない。たとえば、「母は寒い」とは言えない。 日本語は、内集団の中でも自己と他者を明確に区別する特性を備えているのである。 §3 教育学的研究 学校での「いじめ」は、「異質なものを排除しようとする集団主義的な日本社会に特有の現象」と評されることが多かった。 ところが、近年の実証的な研究を通覧したところ、アメリカでも「いじめ」は発生しており、発生率も日本より低いとは言えないことが明らかになった。学校での発砲事件も、「いじめ」への報復として起きたケースが多いのではないかと推定されている。 「いじめ」が原因となる自殺も、欧米諸国の多くで報告されている。したがって、日本の学校での「いじめ」は、「日本人の集団主義」の証拠と見なすことはできないことになる。 §4 経済学的研究 経済の分野でも、「日本人は集団主義的だ」と言われてきた。個々の日本人は企業の中で団結し(「日本的経営」論)、企業は「系列」の中で団結し、すべての企業は政府のもとに団結している(「日本株式会社」論)、と言われてきた。 しかし、そうした議論は専らエピソードやイメージに頼っており、実証的なデータが示されることはなかった。全体像をより正確に反映する経済統計や、経済統計にもとづく実証的な研究を調べた結果、経済の分野での「日本人の集団主義」説は事実とはそぐわないことがはっきりした。 ・小池和男の研究は、「日本的経営」論で言われてきた「終身雇用」や「年功賃金」が事実ではない、あるいは、欧米諸国とのあいだに明確な差異がないことを明らかにした。 ・三輪芳朗とマーク・ラムザイヤーの共同研究は、「系列」にはまったく実体がなかったことを明らかにした。 ・「日本株式会社」論についても、三輪とラムザイヤーによる実証研究は、日本政府の「産業政策」が日本の高度経済成長にはほとんど実質的な貢献をしなかったことを示した。 ・また、国内産業を保護するために政府が設定する関税率を比較したところ、歴史的にみると、日本よりアメリカの方がずっと高かったことも判明した。 §5 エピソード 日本人論は、個別のエピソードを主な論拠としてきた。 そこで、エピソードは日本人論の通説を支持しているのかどうかを検討するために、新聞や雑誌に掲載された集団主義・個人主義に関連するエピソードを調べた。その結果、「集団主義的な日本人」という通説に一致するエピソードと同様に、「個人主義的な日本人」や「集団主義的なアメリカ人」を表すエピソードも多数見つかることがわかった。 このことは、エピソードについても、公平に調べてみれば、日米間にはっきりとした違いは見られないことを物語っている。 日本人論において通説に合致したエピソードばかりが取り上げられてきた理由は、自説に合致した事実ばかりに注意が向く「確証バイアス」という思考のバイアスではないかと推定される。 §6 過去の日本人 日本人は、「アメリカによる占領の結果、アメリカナイズされて個人主義的になった」というわけではないことも明らかになった。文献調査の結果、戦前も、開国前も、日本人が個人主義的に行動した事例は数多く見出すことができたのである。 たとえば、生徒が学校側と対決する「学校紛擾(ふんじょう)」と呼ばれる事件。明治初期に西洋式の学制が定まるのとほぼ時を同じくして発生し、ある教育雑誌には、明治期だけでも255件の学校紛擾が報告されている。こうした事件は、「和を尊重するタテ社会的な集団主義」という従来のイメージとは全く相容れないものである。 §7 オリエンタリズムとしての「日本人 = 集団主義」説 欧米人、とくにアメリカ人は、自らを形容するために、ポジティヴな意味で「個人主義」というレッテルを使うことが多い。異文化に属する日本人に出遭ったとき、その「個人主義」の対極にある「集団主義」というネガティヴなレッテルを天下り的に貼りつけたのではないかと推定される。すなわち、「日本人 = 集団主義」説は、オリエンタリズムの一種として成立したと考えることができる。 §8 「日本人 = 集団主義」説が広まった理由 この通説は、戦後間もない時期に出版された、アメリカの人類学者ルース・ベネディクトの著書『菊と刀』によって世間に広まったと言われている。この時期、「日本人は集団主義的だ」という主張に接したひとびとは、戦時中に日本人がとった、見まがいようのない集団主義的な行動を脳裡に甦らせ、この主張に頷いたのであろう。 しかし、歴史的な状況をみると、昭和初期から第二次世界大戦終結までの時期、日本人は強大な外敵の脅威にさらされていた。外部からの脅威に対抗するために、団結を強めて集団主義的に行動しようとする傾向は、日本人にかぎらず、人間集団に見られる一般的な傾向である。「世界で最も個人主義的」と言われてきたアメリカ人もその例外ではない。第二次世界大戦中の言論統制や敵国からの移民の強制収容、冷戦下の赤狩りといった歴史的事実がそれを物語っている。 §9 ステレオタイプ文化論 しかし、ステレオタイプ的な文化論の危険性は、日米間だけにとどまるものではない。グローバル化が進展する現代の世界では、異なる文化が接触する機会は飛躍的に増大している。それとともに、異なる文化(たとえば、欧米文化にとっての「イスラム」)を異質化する文化ステレオタイプの危険性も増大していると考えなければならない。 文化ステレオタイプについて認識を深めることは、現代の世界にとって重要な課題であると思われる。 今回の研究は、集団主義・個人主義の日米比較という具体的な事例の分析を通じて、「文化差」の認識に潜在するさまざまな歪みとその危険性を明らかにする結果になった。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ (あ) 家族のように集団としてあることが自然本性そのままのすがたである場合や (い) 事業をおこなうとき人びとの知恵とチカラをあつめまとめてそのように《集団志向》――言いかえると 《分業かつ同時に協業》なる形態――において行動する場合や (う) あるいは単純に野球のようにチームプレイをふつうとするならやはり集団志向になる場合が考えられます。果たしてそのとき 個人はそこに埋没してしまうのでしょうか? (え) あるいは逆に戦時社会にあっては 集団主義をすでに超えて統一的かつ統制的な全体主義となりますが その事例も 別に日本人ひとりの特徴だとは考えられないということもあります。 日本人とその社会が 《集団志向》を持ち得るのとは別に 《集団主義》であると見るのは まったくの偏見ではないだろうか? ご教示ください。
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お礼を二つありがとうございました。それを二つ統合しつつ投稿したいと思います。舌足らずになるかもしれませんが、方向性は先に投稿した方が良いと思いました。 まず話の方向性としては、「日本は集団主義ではない」というと質問の表題ではあるのですが、どうも次のようなことになってきているようです。 ・日本=集団主義的=感受性、 ・欧米=個人主義的=原則、 しかしここで「集団主義」という言葉を使い続けるかが微妙です。 「集団主義=個人主義に比べて劣っている」という見解は、トリアンディス、クラーク、東大の研究の三つに共通していますが、あまりにも使い勝手が悪すぎる。それよりは新しい概念を用意してしまった方が、分かりやすいでしょう。 つまり、話の方向性としては次のようなことになります。 (1)日本社会が原始的だというトリアンディスやクラークの指摘は認める。 (2)しかし原始性を「集団主義=劣っている」とする議論は認められない。個人主義とは違う進化の系統なのだ。 (3)原始性を「新しい切り口=概念」から再評価したい。 どうでしょうか? で、その概念ですが、ご提案の起点はパスカルということになりそうです。 中身の検討は、もう少し私に時間がないとできないので、お待ちください。しかし原始社会には、原始の良さがあるというのは、そうかもしれないと思います。ただし、これがパスカルによって明らかになるのかどうかは、まだよく考えてみないとわかりません。 話を先に進めるにあたって、この名称は差し当たり、「情感の共同体」としてはどうでしょうか。そちらのお礼欄には「情感の共同性社会」とありましたが、「共同体」でもよいかなと思うのです。このように名称を取り決めておいて、その中身を今後、議論していくという風にしたいと私は思うのですが。 その一方で、アマテラスの話は、よくわかりません。神道でしょうが、そこまで広げると、わけが分からないことになってきます。日本は古来からナントカだったという本質主義に話がいってしまうのではないかという心配があります。 いや、わけが分からないというよりは、私には手に負えないと表現した方が、謙虚でしょうか。それでこの話はちょっと待ってもらいたい、というところです。パスカルの方をやった上で、さらにそこへ話をつなげられるか考えた方がいいでしょう。 どうでしょうか。 松下電器の話は、なるほどね、過酷なんですね。運動会までやるとなると、私は困るかもなあ。この事例は上の議論の中では、情感の共同体の良い点として捉えようと思っていたんですが、そうはいかないことになりそうでしょうか? >これについても 《中間にある(?)真理》のほうへ振り子を戻せたらいいと思って言うのですが 国として・つまりわれらが生活社会として 国が政策を打てないのなら 福利厚生からさらには余剰人員をも会社でかかえるという言わば失業対策をもおこなっていくのだと――人びとが暗黙のうちに――取り決めあったのかも知れません。何せ 情感の共同性が発達しているぢゃないですか。 それはそう思います。 >このように無難なかたちに結論づけると わたしのほうが穏健主義になったでしょうか? さて、私は自分が急進的なことを言っているという自覚がないみたいですよ(笑)。まずいことを言いましたか? 次の箇所はちょっと反論があります。 >考えてみれば 不況でただちに従業員をレイオーフしたり解雇したりできるということは 失業保険などの社会保障でまさに《集団主義的》に社会をいとなんで行くといった考え方でもあると思われます。どっちもどっちなのかも知れません。EU の中でドイツ人だって とどのつまりは他国を援助するようになって集団主義的に振る舞うのではないかとも。 ご見解の方向性はさておき、せっかく「集団主義」について、一般的な理解を超えて、トリアンディスとかクラークを踏まえて議論を積み重ねているのですから、反論させてください。先の投稿に書いたことですが、クラークの定義は大雑把に言って、 ・集団主義ー即物的なつながり ・個人主義-思念的なつながり ということであるようです。EUなど、この理屈に従えば、国も何もかも違う集団が結びついているのですから、何をやったとしても、まさに個人主義の成果なのでしょう。 しかしご指摘のように、EUの事例のいくつかは、集団主義か個人主義かという区分そのものが機能不全に陥っている例とは言えるのかもしれません。もはや個人主義の名を借りつつ、実態は集団で動いているわけですから。 >和魂洋才で切り抜けられないか。 うーん。このボールは私には、今の時点ではどう扱ったらいいのか分かりません。具体的なイメージができないところがあるからです。これをやると松下電器になるんじゃないでしょうか。どうでしょうか。 むしろ和魂和才を考えようというところじゃないですか。和魂和才を主張するために新しい概念を考えてみようと、ボールを返したいところですね。
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再び説明をなさるという事は、期待を込めて、私の誤解を解こうという事でしょうね。それは買いかぶりです。やはり、私には無理のようです。???が三回以上続いて、頭が狂いました。オカルトと違うのかもしれませんが、やはり私には分かりません。分からないという事をどう伝えたらいいのかさえ、分かりません。一生懸命説明をしてくださったのに悪いのですが、まあ、無理はしない事にしたいと思います。気を悪くせず、気長にお願いします。 私の方は用事があって、投稿を一度お休みにさせていただく事になります。ですので、この問いについては、一度ここまでとさせてください。何か思いついたら投稿を再びするかもしれませんが。では。
お礼
了解しました。 言うまでもなく すべて自由ですので。 とりあえずここまでつきあってくださってありがとうございました。 また心機一転と行きたいところです。 この今回の新説にかんしては 過去に難なく受け容れられたものですから 説明が少なかったのは ほんとうです。 アマテラスお二階さんもスサノヲ市民社会もそしてその二階建て構造というのも 通俗的な言葉を用いれば 一発で多くの(十人以上の)人にここで分かってもらえました。 アース役にかんしては あなたにも一発で分かってもらえたことと思います。 また ヨリ・イリ・ヨセの三つの知性の類型については 過去では同じく物言いはほとんど無かった仮説です。 うらみ節かも知れませんが 過去の事実経過として覚え書きのごとくしるしました。
今回は、議論の仕方について投稿します。正直、スーパー歴史の記述には、ぶらじゅろんぬさんは、どうされたいのか、私にはつかみかねています。まず地ならしをしないうちに議論を新しい方向に飛ばすのは、私には何とも困ります。パスカルじゃないの?という感じです。いや、パスカルについても、私はかなり飛躍し過ぎだとは思ったのですよ。そこで既に扱いが難しいなと思っていたのです。それがパスカルも検証しないうちにスーパー歴史ですか。こうなると私には処理能力オーバーです。 しかし話している側にしてみると、大したことじゃないじゃん、くらいに思うでしょうかね。あるいは、話を先に進めたいという気持ちかもしれません。いやいや、検証することは山のようにありますよ。これがおいしい御馳走だと思うのですがねえ。どこが面白いと感じるかで、ぶらじゅろんぬさんと私は違うようですね。 次に、どちらにせよ、スーパー歴史は私には無理です。スーパー歴史全般をバカにしているな?と言われると、そうなのでしょう。これは私の限界と思っていただいた方がいいかもしれません。ムー大陸とか、オカルトとか、と同列にしか思えない。私はそういうのがダメなんですね。子供の頃から拒否反応がありました。小学生の頃、一時、そういうものに嵌っていたのですが、よくよく考えてみると子供の頭ながらも、根拠がないことがわかってくる。ああ、何を時間の無駄をやったんだろうと反省しました。新興宗教に騙されたのと同じような感覚です。以来、そういうものを目にするだけで、ストレスなのです。 話している側にしてみると、楽しいことなので、全然、想像がつかないと思います。しかし目にするだけでストレスという人もいるのです。喩えていうと、受動喫煙させられているようなものです。吸っている本人は楽しいでしょうが、吸わされている側は、ストレスフルでその場を逃げ出したいという気持ちになります。そういうわけで、私は及び腰です。 どういたしましょうか。どうしてもというのであれば、お礼を述べて、私はここで降りさせていただくのがいいと思います。スーパー歴史の話を私と続けるのは得策ではありません。誰か別を見つけていただいた方がいいでしょう。私は根拠はどこかと言いだすでしょう。しかしスーパー歴史は、そういう問題でもないのでしょう。想像をめぐらすと面白いという話であって、面白くないと思う人は、どうぞスルーしてください、というところなのでしょう。残念ながら、私は後者なんですね。そしてこの話をはじめると、時間の無駄だなあと思ってイライラしてくるのは目に見えています。 今回の問いについては、すでにある程度、考えるきっかけは得ましたし、それはそれで有益でした。今後発展させて、何かの形にできたら有益な試みかもしれないと、ちょっと胸がときめきました。ウェブ上で共同作業ができたら、これはこれで、私には新しい試みです。とはいえ、こういう形で終わりというのも、ウェブの議論らしくていいかもしれません。それに私は私で、別にスレッドを立てる自由を有していますので、ここで拘泥するよりは、スマートに終わらせる方がいいでしょう。 とはいえ、議論は相手があることですので、私が一方的に降りると宣言するのもどうかと思いますので、まずはお伺いを立ててみます。今は所用で忙しくなりますので、私は時間が空きます。少しお考えになってみてください。
お礼
そうですね。ご意志を尊重します。 まづはご回答をありがとうございます。 ヨセなるスーパー歴史知性について もう一度だけ説明します。 イリなるふつうの歴史知性が誕生し 世界の内に自然本性そのままのすがたで入った。そして生きる。 というとき そのあとを追ってのごとく ヨセ超知性が生まれます。 どのようにか? けっきょくイリ知性が 人間ないし《わたし》について 時間的で有限な存在だと自覚したわけですが その有限な自然本性にあっても 普遍性を追究し誰にとっても妥当性のある理念や規範を得るに到った。〔と思った〕。 このとき話を簡単にして言うとすれば イリ知性は 人間を超えたところに《神》を捉えた。しかるにヨセ超知性は みづからが《神》になった。あるいは少なくとも《神の代理》を自認した。 こういう図式です。 決してオカルトでも何でもありません。 つまりは次の三つの要素要因の内の第三 《ヨセなる超歴史知性》とは 王権神授説のもとの王なりあるいは神のこの世における代理人を任じるローマ教会の法王なりのことを言っています。それに準じて政府首相等のことです。 繊細の精神:情感の共同性・・・・・・・・・・・・・・・・家族風 幾何学の精神:規範の意識(その対立と協働)・・《個人》の集まり ヨセなる超歴史知性:統治・支配・・・・・・・・・・・・・《権力》の問題
先の投稿とは別で面白いことがあったので投稿してみます。(これを書いている間にお礼が来ましたが)連投という形になりますし、話も少し横にそれますが、ぶらじゅろんぬさんなら混乱せず、整理して考えてくれると思い、投稿します。 さっき、関口宏の「サンデーモーニング」という番組を見て、そのコーナーで関連しそうなことがあったので、書いておきます。番組は会社の経営理念を紹介していました。 国際ブリタニカ百科事典でも、集団主義は「経営の特質」だと定義されています。この意味では良い事例だと思って、ふと考えてしまいました。 番組では松下電器が「会社は人なり」を信条に、社員の解雇を避け、運動会をしたり、旅行をしたりした往年の姿が映し出されました。その上で、新入社員の八割がこれに類似するような?終身雇用を望んでいる、と結論されていました。 こうした経営理念においては、社員=労働力とは考えません。社員は会社という家族の一員なのです。そして社員は会社のためにプライベートを捧げないとなりません。「捧げる」? いや、そんな発想ではないでしょう。苦楽をともにし、家族みたいになるのであって、喜ばしいことなのでしょう。そして年上は敬われ、給与は高い。年功序列というやつですが、これも家族みたいですね。家の中で、兄や、老人は無条件に敬われる。それと同じ発想で、年長者は給料と身分が高い。 気になったのは、この延長線上にある「終身雇用」を八割が望んでいるとされていると結論されたことです。そして番組の風潮だと、この制度が廃れ、変わっていかざるを得ないという現実は哀しいことであるかの様でした。 こうしてみると、日本はかつて、集団主義であり、これからも集団主義でいたいが、変化を求められて混乱が生じているということの様です。「過渡期」と表現されていましたが、まだ「過渡期」なのかい、と思いました。そして望ましいものが、外来的な刺激によって終わってしまうというのであれば、これはすなわち、日本は個人主義に移行するほどに社会が成熟していないのだが、外からの影響で無理矢理、移行させられるのだ、ということになります(何か漱石の文明開化の話みたいですねえ)。 この「サンデーモーニング」が懐古的であって、時代遅れのノスタルジーに取りつかれているという見方もできるでしょう。しかし私は松下電器の事例を持ち出されると、説得力があるように思いました。東大の論文より、具体的です。それにどういうアンケートなのか分かりませんが、新入社員の八割が終身雇用を望むとあるのです。細かい分析をしていくと、集団主義を望んでいるわけではなく、身分の安定を望んでいるというだけなのかもしれない。しかし、身分の安定が終身雇用に結びつくという発想は、やはり集団的だと言わざるを得ない。こうしてみると、日本は集団主義であり、依然としてそうだということになりそうですね・・・実際、転職しない方が給与が高いというデータもあります。 もっとも、上記について異論があっても、私自身は構わないです。そういう見方もあるよ、という紹介にすぎませんので。 それより今後の議論に役に立つかなとと思ったのは、とあるコメンテーターが、これは国が福利厚生をしっかりせず、会社に投げていたのも要因だろうと指摘していました。つまり先のトリアンディスを思い出すと、社会が成熟していないので、集団主義にならざるを得ないという説と合致します。「社会的寛容さ→社会保障の充実の度合い」を考えると、社会の枠組みが個人主義的かどうかを判定できるのではないかなどとも思います。 まあアメリカもセイフティネットがしっかりしているわけではありませんが…日本はちょっとひどいでしょう。スタンドプレーをして集団を外れてしまうと、福利厚生などがまずいことになってしまう社会であるとは思います。こういう比較軸を考えていくというのも、今後の議論の展開で役に立つと思うのですが、どうでしょうか。 先の投稿のお礼欄は今読みました。今すぐは反応できないかもしれませんが、話が噛み合っているようで嬉しいと思いました。先に感想をお伝えしておきます。
お礼
むつかしいですね。理論を扱うほうがうんとやさしい。・・・ まづは ご回答をありがとうございます。 まさにその M 電器にいた友だちに こう話しかけたことがあります。(わたしは 一般に大企業のことは実地には知りません)。 外国からも研修に日本に来ていて 世界中で〔社員の〕みながファミリだというイメージがつよいよなぁと。 かれは――あらかじめ言っておきますが 決して会社に何かうらみでもあるといったことはなく マレーシャの子会社の社長までやった男ですが それでも言うには―― イメージだけ イメージだけ イメージ戦略に過ぎないよと答えました。 つまり 中にいれば《過酷》の一言だよとも。 まあ 真理は中間にある。のでしょうか。 ことほどかように ただ《集団主義》と言ってもその内実はなかなかひとことふたことでは規定しがたいものがあるかも分かりません。(わたし自身も分からないです)。 アットランダムに主題を拾いますが: ★ とあるコメンテーターが、これは国が福利厚生をしっかりせず、会社に投げていたのも要因だろうと指摘していました。つまり先のトリアンディスを思い出すと、社会が成熟していないので、集団主義にならざるを得ないという説と合致します。 ☆ これについても 《中間にある(?)真理》のほうへ振り子を戻せたらいいと思って言うのですが 国として・つまりわれらが生活社会として 国が政策を打てないのなら 福利厚生からさらには余剰人員をも会社でかかえるという言わば失業対策をもおこなっていくのだと――人びとが暗黙のうちに――取り決めあったのかも知れません。 何せ 情感の共同性が発達しているぢゃないですか。 もっとも福利厚生にしても失業対策にしても 昔から言われたことは 大企業と中小企業との格差です。 格差が大きいと言うだけではなく 不景気になれば 下請けの中小会社は 仕入れの値段をたたかれます。つまり マイナスにさえなる。 つまり《しわ寄せ》を ちょうどアース役としてのように 寄せられる役目をになう人びとも社会として決まっていた。のかも知れません。 《偉大なる情感の共同性社会》!!?? 個々の集団だけではなく 国ぜんたいが 家族であった。!!?? 《日本株式会社 Japan Inc. 》とも言われましたし。 まぁ 成長している過程にあっては みなそれでもイキイキとしていたと思います。 終身雇用制を基礎にしてもよいと捉え そのとき同時に転職もこれまたまったく自由に出来るという社会のあり方。さらには 大企業も 中小企業と同じように アース役の一端をになうことにするというあり方。 このように無難なかたちに結論づけると わたしのほうが穏健主義になったでしょうか? 世界という競争の場で 競争に勝てなくても負けないでかろうじて利益を上げていける会社を互いにそれぞれ《情感の共同性》のもとに 作り保ち続けて行く。のかどうか。 考えてみれば 不況でただちに従業員をレイオーフしたり解雇したりできるということは 失業保険などの社会保障でまさに《集団主義的》に社会をいとなんで行くといった考え方でもあると思われます。どっちもどっちなのかも知れません。EU の中でドイツ人だって とどのつまりは他国を援助するようになって集団主義的に振る舞うのではないかとも。 でも終身雇用で身分(生活基盤)が安定しているということは 仕事に精を出せる体制にあるとも言えます。技能も熟練して行くでしょう。会社が利益を減らしてでも 社内で失業保険のごとき保障をになってよいかも知れません。 単純に言って 和魂洋才で切り抜けられないか。とも考えます。 漱石は 《自己本位》という表現で 個人主義をかかげたのでしょうか。そうは言っても 漢籍やら日本社会の伝統を身につけていたその上でであるかも知れません。 いやぁ ちょっと安易にしゃべってしまったようです。
定量的な話になるか、定性的な話になるのか。結局、こうしたウェブ上で専門家でもない私たちが話すには、限界があるので自ずと、どこかに落ち着くことになるでしょう。私の今の印象だと、何を判断基準とするのが正しいのかを考えて、そこで後はご自由に事例を持ってきて個々で考えましょうということになるような気がします。 さて判断基準を模索するにあたって「集団主義」の定義を考え直すのはいいことですね。私もWikipediaを読んでみました。しかし牛歩の歩みでお願いします。どうも私は、トリアンディスとクラークは、ろくでもないことしか言っていないと思うのですよ。それを批判せずして、先には進めないでしょう。Wikipediaをまずまとめてみます。 一 ハリー・トリアンディスの説 A 集団主義 (1)定義/ 親密に結びついた人々が織りなす社会的なパターン。 (2)傾向/ みんなの考え方、感じ方、行動が同じであることを望む。 (3)背景/ 厳格さと文化的単純さの結果 (4)例/ ブラジル・インド・ロシア・日本・中国 B 個人主義 (1)定義/ 緩やかに結びついた人々が織りなす社会的なパターン。 (2)傾向/ 議論を通して立場を明確にすることを好む。 (3)背景/ 寛容さと文化的複雑性の結果 (4)例/ フランス・アメリカ合衆国・イギリス・ドイツ こうやって改めて比較すると分かるけれど、二つは同様に尊重されているわけではありません。Bの方が、社会が発達していることになる(寛容で複雑)。実際、Bは先進国で、Aは途上国で封建的でさえあります。そして次のようにも言っています。 >ある個人が個人主義的であるか集団主義的であるか、ある文化が個人主義的な文化であるか集団主義的な文化であるかは、そのバランス、割合によって決まる >トリアンディスによれば、人口比で世界の多数派は集団主義者であり、個人主義、西洋的な物の見方は少数派である ここからみると、まあ日本にも進んだ人がいるだろうが、国全体としてはそうでもないということになりそうですね。うーん。集団主義的ということは屈辱的なことのようです。先の東大の研究は、 日本もアメリカと同程度に個人主義だと主張することで、日本の文化が成熟し、先進国並になったぞ、と言っているというわけですね。 しかしそこまで目くじら立てる問題でもないような気がします。なぜというに、トリアンディスは封建的な社会と社会主義を混同して、Aの範疇を作っている。こういう枠組みの不備を見るにつけ、放っておいても廃れる説であるように思います。これを確認しておいて、次ぎにいきますか。 二 グレゴリー・クラークの説 A 人間関係社会(集団主義) (1)定義/ 人間のもともとの社会 (2)アイデンティティ/ 目にみえる場的・地縁的なグループ (3)特性/ 感性主義 (4)例/ 日本 B 原則関係社会(個人主義) (1)定義/ 原則や抽象的なものが必要とされる社会 (2)アイデンティティ/思念、階級、職業、哲学、血縁 (3)特性/ 知性主義 (4)例/ インド・イスラム諸国・中国・欧米・韓国 ありゃりゃりゃ。先のトリアンディスと重ねると分かるけれど、何にせよ、AはBに劣ると言っている様です。というのも次のようにある。 >人間関係社会は合理的になると原則的現実主義たとえば高度成長時代の日本の会社を生み つまりAはうまくいけば、Bになれるかもよ、と言っているんですね。 感受性の洗練のところだけ拾って、喜んでしまってはならなそうですよ。 基本的にはトリアンディスとクラークの立ち位置は変わらない。しかし時間軸を入れたことが、若干の改良点でしょうか。「1979年の時は」という形で、枠組みに幅を持たせている。 とはいえ、こういうことをすると、本質的にAは立ち後れているのだが、時たま、Bになることもあるよ、と主張することになる。こういうのを本質主義というのだと思いますが、致命的な欠点ですね。差別を助長することにもなりかねない。まだトリアンディスの方が、下位にいたものも「成り上がれる」だけ、マシでしょうか。 さらに細かいことを言い出せば、Bに血縁を含めたのがよくわからないですね。韓国と中国のことを言っているのでしょうが、これは目に見えるものと考えて差し支えないのではないか。さらに階級。これも目に見えるんじゃないですか。座席の位置、年収、出入りする場所などから、可視的に見えます。うーん。すぱっと思念と哲学だけにすればよくわかったのですが、こういう混乱がみられると、枠組み自体の信憑性が乏しくなってきますね。変な枠組みで、日本だけを特殊化しようとしているんじゃないの?と思います。 もっともWikipediaを読んだだけですので、間違っている可能性はありますけれど。ここまでダメな研究が説得力を持つはずがない。 さて、ここまで確認して、パスカルの話を考えましょうか。クラークはそんな高尚なことを言っているんでしょうかねえ。かなり好意的に読んであげていませんか。正直、ちょっとまだ分かりません。 >☆ ここで 例のパスカルのふたつの精神を想い起こしました。 これのみでは、飛躍に思います。それこそ「以心伝心」を求められていることになってしまいます。感受性が鈍いとか揶揄されても結構ですが、私にはそれは無理だとご承知おきください。 むしろクラークの見解の問題点や利点を指摘してもらった上で、それをなぜパスカルに結びつける必要があるのかをおっしゃっていただけないでしょうか。そのための叩き台としても、今回の投稿が役に立つかもしれません。 私から見ると、まず、トリアンディスとクラークが、社会の発展の度合いを考えるにあたって、集団主義<個人主義としていることを批判し、二つを等しく尊重するべきだと論じた上で、枠組みを再構築する必要があると思うのですけれどね。その再構築の際にパスカルが役に立つのかもしれませんが、どうでしょうね。少し気が早いのではないでしょうか。 なお、私はちょっと所用があって、ここ数日、投稿が遅れるかもしれません。
お礼
ご回答をありがとうございます。 よくまとめてくださいました。 トリアンディスは 何も考えずにスルーしてしまいました。なるほどきちんとまとめて捉えるなら よく分かります。訪問者の方々にためにもよかったと思います。 クラーク説にかんして まづかんたんに確認しておけることは: ★ B〔原則関係社会(個人主義)〕に血縁を含めたのがよくわからないですね。 ☆ とわたしも思いました。(触れてもいます)。 ★ とはいえ、こういうことをすると、本質的にA〔人間関係社会(集団主義)〕は立ち後れているのだが、時たま、Bになることもあるよ、と主張することになる。 ☆ これを逆手に取りたい。というのが わたしの視座でした。パスカルも出しました。 《B 原則関係社会(個人主義) (1)定義/ 原則や抽象的なものが必要とされる社会》は 《A 人間関係社会(集団主義)(1)定義/ 人間のもともとの社会》という基礎の上にきづかれているのだと。 《情感の共同性のごとき人間関係を基礎とした社会》の上に 《幾何学の精神にものを言わせて 原則や抽象概念をすすんで好みその原則ないし理念に個人個人がもとづこうとする社会》が言わば乗っかっている。 つまり この論点をそのまま進めますが こうです。 言葉には スサノヲ人間語とそしてこれを洗練させたアマテラス人格語およびアマテラス科学語とがある。 スサノヲは自由児です。感性がその領域いっぱいに広がっています。ただし じつは理性も自由に飛躍し得ます。 特にはこの理性を重用しえてものごとの抽象化一般化をおこないさらにその抽象概念において理想概念といった理念をも取り出して来る。そのようにして世界についての認識をおこなえばアマテラス科学語が出来上がります。これを 人間関係ないしその倫理に当てはめれば アマテラス人格語が探究されて行きます。 A 人間関係社会(集団主義):人と社会との基礎としてスサノヲ人間語 B 原則関係社会(個人主義):スサノヲ語の上に花を咲かせようとした アマテラス人格語およびアマテラス科学語 すなわち アマテラス語は 花実であるかも分かりませんが スサノヲ語は 根でありその土壌です。 ちなみに 国家という社会形態は 二階建て構造であり 一階がスサノヲ市民社会であり 二階はアマテラス公民圏です。 ★ ~~~~ >人間関係社会は合理的になると原則的現実主義たとえば高度成長時代の日本の会社を生み つまりAはうまくいけば、Bになれるかもよ、と言っているんですね。 感受性の洗練のところだけ拾って、喜んでしまってはならなそうですよ。 ~~~~~~ ☆ つまりパスカル≒ぶらじゅろんぬの仮説によれば スサノヲ人間語社会なる A が その状態を保ったまま――つまりは 共同体社会を維持したまま―― アマテラス科学語による高度先進社会なる B を実現したなら これにまさる社会のあり方はない。とまで言えると思うのです。そういうふうに逆手に取ることができますまいか。 ★ 基本的にはトリアンディスとクラークの立ち位置は変わらない。しかし時間軸を入れたことが、若干の改良点でしょうか。「1979年の時は」という形で、枠組みに幅を持たせている。 ☆ でしょうね。その昔このグレゴリー・クラークはよくテレビにも出ていました。いまでは なつかしい。たしか父親がオーストラリアの経済学者で 例の産業の第一次から第三次までの分類制をつくったのだとか。 ★ さらに階級。これも目に見えるんじゃないですか。座席の位置、年収、出入りする場所などから、可視的に見えます。 ☆ これは スルーするのではなく うまく反応しえないでいます。アマテラス普遍語をあやつろうとする社会において 階級は特徴的なようでもあります。 ★ 変な枠組みで、日本だけを特殊化しようとしているんじゃないの?と思います。 ☆ これも逆手に取りたいところです。むしろスサノヲ人間語の市民社会――歴史のかまど――を削除しないでいるとすれば その日本社会は特殊といえばそうなのでしょうが むしろ普遍類型である。とさえ堂々と言えるのではないか? 手前味噌すぎますか? ★ なぜパスカルに結びつける必要があるのかをおっしゃっていただけないでしょうか ☆ 繊細の精神と幾何学の精神とを 同等に捉えている。ゆえです。そしてもっと言えば 繊細の精神のほうが 基礎や土壌を成している。とも考えます。幾何学の精神は その基礎を見失ったら ダメでしょう。糸の切れた凧みたいに。 ★ ~~~ 私から見ると、まず、トリアンディスとクラークが、社会の発展の度合いを考えるにあたって、集団主義<個人主義としていることを批判し、二つを等しく尊重するべきだと論じた上で、枠組みを再構築する必要があると思うのですけれどね。その再構築の際にパスカルが役に立つのかもしれませんが、どうでしょうね。 ~~~~~ ☆ だいたい その線に沿って応答し得たかと思うのですが 果たしてどうでしょう。 なかなかおもしろいものですね 対話というのは。
>やっとふところの深さが垣間見られる文章を書くようになりましたね。へっへっへ。 おやおや、それはそれは(笑)。「やっと」と言われると、何となく、ムッとはきますが、まあいいでしょう。私としては、今回は第三者なので、話の仕方に気を遣わないでよいというのが楽です。とはいえ、私の目指す方向性は、「満足な豚」ですので、基本的にはあなたとは違うかもしれません。私としては、お友達のAさんくらい、まったりやるのが理想です。私にはそうはできないなあ。 私の批判は、(1)(2)が異論あり、(3)(4)(5)が同意という感じでいいでしょうか。しかし税金もらっている東大なら、頑張ってもらいたいですよね。いや、私がどうも意地悪人間なのかもしれません。とは言え、(3)(4)(5)がダメなだけで、中身に乏しいと言われるでしょう。 >集団主義」の定義が書いていないので、基準そのものが曖昧。 ~~~~~~ ☆ わたしはすでに二度引用していますが 今回も引きます。 ▲ 自分の意見を曲げて集団の意見に従うという「同調行動」 ▲ 自分の利益を犠牲にしてでも集団に献身するという「協力行動」 ブリタニカ国際百科をみると、概ねそれなんですよね。しかしこの程度の定義なら、完全に集団主義ではない国というのはない、ということにしかならないでしょう。そして、どちらかと言えば集団主義的、どちらかと言えば個人主義的という大雑把なことしか言えないのではないことになります。私がやるなら、判定基準は従来◯◯だとか、××にあったということを明らかにし、その各条項について反論を試みますね。こういうことができていないので、議論の枠組みがまずいのです。 >★ むしろ販売方法の形態で特殊な事例(資生堂など)を分析する必要がある。 ☆ このご指摘に呼応して何かを述べるチカラがあるかと言えば 残念ながら とぼしい。保留せざるを得ません。その代わりと言うには まだ粗い議論ですが 小池和男の研究は評判がよいと聞いています。 うーん。まあ正直、微妙ですね。報酬制度とインセンティブを問題にしているようですが、ファイルを読んだ限り、どう検証しているのか、よくわからないです。方向性は何とでも素人でも言えますが、学者は検証しないと。 >もしこの件でくわしい説明が出来るとおっしゃるようでしたら この側面に特化してみなさんのためにも ご披露してもらえればよいとは思います。 オリエンタリズムの話は、逃げるみたいですが、特に展開する気はないです。バカな研究だなあと思って、それで終わりです。というのも調べればすぐ分かることですから。 >☆ けっきょくわたしの問題意識についてもうひとつ言えることは 外国での生活感覚をとおしたものごとの知識は皆無にひとしいという点です。 んー。これは何ともなあ。他人の国際交流経験を聞いても、旅行記としては面白いかもしれませんが、学問とは違うでしょう。そういう事例もあるね、というだけです。 ただ私の実感として、日本はやはり集団主義的だと思いますよ。みんながしているから、お前もしろ、という理屈が一番、力を持つように思います。しかし「集団」の示す射程が、次第にバラバラになってきています。ある人はA町のことでしょうし、ある人はB大学のことかもしれない。また別の人は先進国を想定しているかもしれない。しかし想定している「集団」がバラけているので、ある程度個性というものが出てきているなあとは思います。 もっとも、誰かがしているから、という発想は、海外においても皆無ではないでしょう。程度の問題を厳密に判定する方法をまず考えないとならないように思いますね。これをまず、ご一緒に考えてみるのはどうでしょうか?
お礼
★ もっとも、誰かがしているから、という発想は、海外においても皆無ではないでしょう。程度の問題を厳密に判定する方法をまず考えないとならないように思いますね。これをまず、ご一緒に考えてみるのはどうでしょうか? ☆ これはもとより望むところです。ただしわたしは どちらかと言うと 定量的な探究よりは定性的なそれのほうに向いているようで 統計学とかに積極的に疎いです。 ご回答をありがとうございます。 いまごろですが ヰキぺを見てみました。 ● (ヰキぺ:集団主義) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%86%E5%9B%A3%E4%B8%BB%E7%BE%A9 そこで次のような視点に出会いました。 ● (同上) ~~~~ § 1 文化の型として 1.1 日本人の民族性として グレゴリー・クラークは『ユニークな日本人』で、 インド・イスラム諸国・中国・欧米・韓国を「原則関係社会」 日本を「人間関係社会」と把握し、 現代の世界においては、日本人社会で働いている心理・考え方を世界のなかで独特なものであるという理解を提示する。 原則関係社会を 個人主義的な社会、 人間関係社会を 集団主義的な社会であるとし ・・・(中略)・・・ 原則関係社会は洗練された知性主義を醸し出し、 人間関係社会は洗練された感性主義を醸し出すという。 ~~~~~~~~~~ ☆ ここで 例のパスカルのふたつの精神を想い起こしました。 ◆ (パスカル:幾何学の精神と繊細の精神) ~~~~ 幾何学の精神( l'esprit de géométrie )と繊細の精神( l'esprit de finesse )との違い。 前者においては 原理は手でさわれるように明らかであるが しかし通常の使用からは離れている。したがって そのほうへはあたまを向けにくい。慣れていないからである。しかし少しでもそのほうへあたまを向ければ 原理はくまなく見える。それで 歪みきった精神の持ち主ででもないかぎり 見のがすことがほとんど不可能なほどに粒の粗いそれら原理に基づいて 推理を誤ることはない。 ところが繊細の精神においては 原理は通常使用されており 皆の目の前にある。あたまを向けるまでもないし 無理をする必要もない。ただ問題は よい目を持つことであり そのかわり これこそはよくなければならない。というのは このほうの原理はきわめて微妙であり 多数なので 何も見のがさないということがほとんど不可能なくらいだからである。 (パンセ 前田陽一・由木康訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ したがってクラーク説と一緒に わたしが勝手に強引にまとめるなら: (α) 繊細の精神⇒情感の共同性 《人間関係社会》:集団主義的な社会 《洗練された感性主義を醸し出す》 日本 (β) 幾何学の精神⇒意識の対立と統合(弁証法的展開) 《原則関係社会》:個人主義的な社会 《洗練された知性主義を醸し出す》 インド・イスラム諸国・中国・欧米・韓国 ☆ このようになります。でしょうか? ●(クラーク説) ~~~~ 人間関係社会のアイデンティティは目にみえる場的・地縁的なグループであり、 原則関係社会のアイデンティティは抽象的なグループ、たとえば、「私は○○人である」というような考え、階級、職業、たとえば「女性解放運動」などといった哲学、血縁などである。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ これについては ややあいまいですが 次の指摘などは パスカル説の応用と親和的であると見られます。 ●(同上) ~~~~ 人間関係社会は 合理的になると原則的現実主義たとえば高度成長時代の日本の会社を生み、 非合理になると教条的感情主義たとえば日本の軍国主義や派閥主義を生む、 原則関係社会は 合理的になると現実的原則主義たとえば社会科学を生み、 非合理になると感情的教条主義たとえば宗教的・政治的狂信を生む、 最も合理的、コモン・センス(common sense)に至った場合は、人間関係社会と原則関係社会の傾きを自由に行き来でき、偏りがなくなるとする。 人間関係社会は"場"に対する敏感さから文化を生み、 原則関係社会は"抽象的なもの・原則"に対する敏感さから文化を生むという特徴がある。 ~~~~~~~~~ さらになおヰキぺの解説はつづきます。 中断して考えるにですが 前々から思っていたことは けっきょく《集団主義》という切り口がどうもあまりこのましくない。といった単純なことだったかも分かりません。 ほかの要素・要因と合わせて社会や人間の行動を捉えて分析したりまとめたりするなら 人文科学に寄ったかたちの社会学的探究を成し得る。 そのあらましを把握したり その――横からながら――展望を哲学として成し得るのではないか。こんなところだったのだと思います。 これではまだまだ序の口に足踏みしていることになりますが ですからこのような視座をとるならば たとえば ■ 日本社会の「以心伝心、腹芸、沈黙は金」社会 ■ 「日本人は思った事を口にしない」という欧米人からのクレーム なる問題もそのまま無理なく扱える。こう思われます。 極論してよいならば 《以心伝心》によっても 《原則をめぐる意識の対立と互いの止揚》の過程で到達する結論や社会的情況の一新すらをも達成することができる。 というふうに たとえ集団主義と個人主義との思惟=かつ行為の形式が違っていても おこなっていることは それほど変わらない。 ですから このような例においてさえ言えるとするなら 《集団主義》という切り口を突出させて世界を分析するという手法は どこか つまらない。その探究の質が薄いような感じになってしまう。という非論理的な見方をしたくなります。 途中半端ですが 一たんボールはコートに入ったと見なしまして・・・ご見解をお聞きしましょう。
- jhonxx
- ベストアンサー率45% (51/112)
・集団主義とか集団志向の定義が問題です。どのように定義しても曖昧さが残ります。国民の何パーセント以上の行動があれば、「集団主義的」とするのかは不明。100人のうち50人が集団行動を好めば、集団主義的と言えなくもないが、そうではないとも言いうる。集団行動もさまざまであり、その定義は不可能。 ・集団主義かどうかを研究する意味がどこにあるのか。だからどうなのか、ということです。研究のための研究のような気がします。 日本人が集団主義的であろうとなかろうと、学校などで団体行動を重視することに変わりがありません。いろんな場面で、集団が生じた時に、すぐに、「この集団の責任者は誰か」が問題にされます。団体でなければ受理されな手続があり、個人の資格では通用しない場面が多々あります。日本では団体のツアーはさかんです。日本では職場での宴会を断ると嫌われます。これらが、外国よりも多いか少ないかを数値化すること難しい。仮に、集団主義的であるかないかを数値化しても、数字には必ず限定と限界があるので、それほど意味のない数字になってしまう。 日本人が集団主義的でないとしても、さまざまな場面で団体行動を重視するので、それに対応する必要があります。たとえば、団体行動を重視することは日本の社会で生きて行くうえで必要になります。 ルース・ベネディクトは、アメリカが敗戦後の日本の占領政策をとるうえで、重要な貢献をしています。戦争中の日本人の行動に集団主義的なものがあったのは事実ですが、それがすべてではない。そうではない行動をとった人もいる。どちらが多いかという調査は不可能。あらゆる人間行動は歴史的、政治的、社会的な制約があり、これらが変われば、行動も変わります。当時の日本人の行動がアメリカ人の考え方から見ると理解できない部分があり、それをルース・ベネディクトが書き、それは役に立ったようです。 この種の論争は面白いが、実益のない議論。評論家や学者はこれをメシの種にするのでしょうが。 日本人が集団主義的であるかないかを「学問的に」判定する意味はないでしょう。
お礼
じょんくすさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ということは 世間で自分たちのことを《集団主義的》だと言っていても それは 意味のないことを言っている。ということでしょうか? たとえば この場合の心理学的研究によると 他の人びととの協調を 自分の意見よりも 優先させるかとか 自分の利益を犠牲にしてもやはり人びととの協調を大事にするかとか そういった考えおよび実際の行動を問う質問で 日本人はアメリカ人とくらべて 大差ないという結果が出た。 こういうことは 意味がないでしょうか? ★ 日本人が集団主義的でないとしても、さまざまな場面で団体行動を重視するので、それに対応する必要があります。 ☆ なぜそうなのですか? ★ たとえば、団体行動を重視することは日本の社会で生きて行くうえで必要になります。 ☆ なぜでしょう? 将来この傾向ないしナラワシは 変わるかも分かりません。 それに もし上の研究成果に意義があるとすれば そのような人びとのクセは 必ずしも日本人だけの特徴ではなく やはりアメリカ人とのあいだで 大差ないという結果なわけです。 さらに検証する意味はあるのではないでしょうか? そんな問い求めです。
今回は、面白いですね。他人の研究なので、バシバシと批判できます。それが楽です。まず異なる文化でも、類似する点があると指摘するのは意味があると思いますし、方向性としては、反対ではないです。 が、何か読んだ感じは、酷い研究ですねえ。東大もこの程度なのかなあ。以下、気に入らない点を列挙していきます。 (1)本当に研究する意味、ある? このデータから言えるのは、相対的に見て日本だけが集団主義的ではないという話だけ。絶対的な話ではない。そのくらい、データを取らないでも言える。偏見に満ちた文献の論拠を攻撃すればいいだけである。なんでこんな手間をかけたんだろう? (2)定義がないよー 「集団主義」の定義が書いていないので、基準そのものが曖昧。 (3)言語学的研究だって? 言語学的研究と言うけれど、主語を省略する文例はどう看做すのだろう。「私は寒い」ではなく、普通は「寒い」ではないか。こうなってくると主体と客体の区別が消滅してしまっている。したがって、この箇所は、事例の価値がない。 (4)この程度で経済学的研究? 経済学的研究は、比較の仕方がまずおかしい。そもそも企業の形態がアメリカを手本にしているし、外資系が入ってきているのだから、類似していて当然ではないか。別項目には次のようにある。 >日本人は、「アメリカによる占領の結果、アメリカナイズされて個人主義的になった」というわけではないことも明らかになった。 じゃあ、江戸時代でも分析したのか? どうもそうではないらしい。そして江戸時代など持ち出しても、現代の日米間の話をするにあたってはさしたる意味もないだろう。よって、ここには比較の仕方に工夫が何もない。むしろ販売方法の形態で特殊な事例(資生堂など)を分析する必要がある。集団的事例があるとまず認めた上で、それ論じて反論しないと、研究もへったくれもないだろう。 (5)基礎ができていない 一般的な「オリエンタリズム」は、このような意味合いでは使わない。この用語は、もともと東洋研究を広くさす。ここでいう「オリエンタリズム」は特にサイードの中近東に関する議論を踏まえ、さらに時代も、場所も異なる日本に関して応用的に使用しているのである。しかしオリエンタリズムとは、サイードが作った用語ではないし、概念でもないのだから、一言、断りを入れるべきである。普通に字義的に読んだら、この箇所は意味が全く通じない。仮に比較文化の分野の論文であれば、零点にされるくらいのミスであり、比較文化のジャンルに問題提起しようとするのなら、あまりにも議論の手続きが杜撰である(学部生が書いた?)。 (1)は私の感想だとしてさておいても、(2)と(5)のミスは研究能力に対して疑念を感じさせる。さらに(3)と(4)は酷すぎる。誰でもちょっと考えれば分かるだろう。資金だけ獲得して、最後に帳尻合わせをしたのじゃないかと言われても仕方ないほどの杜撰さ。というわけで、私はこの研究を全く信用できません。方向性はいいけれど、論証がしっかりしていないと、学術研究としては全く意味がない。 さて、ぶらじゅろんぬさんの問題提起ですが、ちょっとわからないところがあるので、補足してくれませんか。まず、この微妙な研究をどう位置づけているのですか。そして集団志向と集団主義はどう違うのでしょう。 >ですが いまは《日本人は 集団主義的だ》という評判がむしろ日本人のあいだに抜きがたい《常識》になっているのではないでしょうか? つまりもしそうだとしたら いろんな分野でさまざまな側面において その評判の検証をしておきたい。これが 質問者の意図です。《行動の表面》の問題も 問い求めてみる。という意味です。 この一節を見て推測する限り、ぶらじゅろんぬさんは、概ね賛成、もうちょっと議論を精密にしてやろうというところでしょうか。とすると私は、この研究を下敷きにしてもしょうがないんじゃないの?くらいに思っていました。 こういうスタンスでは元も子もないと言われると、私はまたも引き下がる他ないのですが、面白そうなので投稿させていただきました。私のつまらない話でも、受け止めて面白くしてくださるよう、お願いします。
お礼
ご回答をありがとうございます。 一に二にも ★ ~~~~ (1)本当に研究する意味、ある? このデータから言えるのは、相対的に見て日本だけが集団主義的ではないという話だけ。 ~~~~~~ ☆ これでじゅうぶんである。という受け取りです 質問者としては。 ★ ~~~~ (2)定義がないよー 「集団主義」の定義が書いていないので、基準そのものが曖昧。 ~~~~~~ ☆ わたしはすでに二度引用していますが 今回も引きます。 ▲ 自分の意見を曲げて集団の意見に従うという「同調行動」 ▲ 自分の利益を犠牲にしてでも集団に献身するという「協力行動」 このように・しかも日本人に対しては あまり新鮮味を感じませんが 何よりもアメリカ人に対して問うており さらには それについてイエスつまり《ある》と答えているところが おどろきだと思いました。 言いかえると このふたつの問いの内容が 或る種の定義になってもいる。と見て差し支えないでしょう。 ★ ~~~~ (3)言語学的研究だって? ・・・(省略しました)・・・この箇所は、事例の価値がない。 ~~~~~~ ☆ この件では わたしも大幅に舌足らずだと考えますので さらに説明を聞くか あるいはさらに研究を続行して欲しい。とは思います。 ★ (4)この程度で経済学的研究? ☆ 確かにこの要約だけでは 要点をつかみ得たとは言いにくいところです。みとめます。 ★ むしろ販売方法の形態で特殊な事例(資生堂など)を分析する必要がある。 ☆ このご指摘に呼応して何かを述べるチカラがあるかと言えば 残念ながら とぼしい。保留せざるを得ません。 その代わりと言うには まだ粗い議論ですが 小池和男の研究は評判がよいと聞いています。 次の紹介文は 学生が書いており 読み取りづらいかも分かりませんが 要は 日本がほかの国といちじるしくかけ離れているといった見方は おかしいということだと思われます。 集団志向や集団主義を問題にするよりは 雇用や労働については 一般に《身につける技能 つまりこの技能も一般的なものであるからには 仕事力というべきもの》がどうであるかの観点から捉えることが大事だと言っているようです。日本は 長期的視点を大切にしているといったこと。 ● (小池和男:『日本の雇用システム』 1994) ~~~~~ http://www.arsvi.com/b1990/9412kk.htm コメント 日本の労働慣習は現在の不況からの合理化によって大きく変わってきている。特に外資系の企業の移転や海外からの直接投資などによるコーポレートガバナンスの普及が、日本独自の終身雇用、年功序列賃金などを排除を進めている、 しかし、この本では単に終身雇用が非効率であるなしの議論ではなく、労働者の技能をどう形成していくか? その技能を効率的に労働に結びつけるためにはどうすればいいか? という疑問についての答えを提示すべきだと考えている。 この技能形成に関しての労働者のインセンティブに関して、また労働者に対する企業のインセンティブ構造などを紹介されており、労働を考えるいいきっかけになった。 ~~~~~~~~~ ★ ~~~ (5)基礎ができていない ・・・ここでいう「オリエンタリズム」は特にサイードの中近東に関する議論を踏まえ、さらに時代も、場所も異なる日本に関して応用的に使用しているのである。・・・ ~~~~~~ ☆ まぁ 焦点は 日本が他の国にくらべて 世間で言われるほど《集団主義的》かどうかですから それなりに読み取ればよいのではないかとは まづ思います。 と言いながら その《まづ》のあとを ここで継ぐには それほど素養の自信もなく これまた質問者としての問題提起としては企画だおれですが 回答者さんも もしこの件でくわしい説明が出来るとおっしゃるようでしたら この側面に特化してみなさんのためにも ご披露してもらえればよいとは思います。 回答No.1のお礼欄に書いたわたしの文章を引いて論じ進めようとなさったわけですが まづ引用文のさらにつづきも ここにかかげてみます。 ☆☆(No.1お礼欄) ~~~~ ぎゃくに言うなら この《行動の表面》での心理的な問題なら 何の無理もなく憶測も寄せつけずに――もし《評判》どおりなら――日本人は アメリカ人よりも 《同調行動や協力行動》において 顕著な特徴を示すはずだとなります。そうではなかったというのが 実験研究の結果です。 このような結果には 《得がある》のではないでしょうか? 日米のあいだに 《それほどの開きがあるわけではない》という結果ではなく そうではなく《互いに同じ程度である》という結果なのです。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ この点が わたしにはおもしろかった。あとの分野については さらにくわしい研究成果を知りたい。こんなかたちです。(小池和男の研究は 読んでいませんが その書評なり成果の援用なりには接して来ましたので そのかぎりで信頼しています)。 ★ この一節を見て推測する限り、ぶらじゅろんぬさんは、概ね賛成、もうちょっと議論を精密にしてやろうというところでしょうか。とすると私は、この研究を下敷きにしてもしょうがないんじゃないの?くらいに思っていました。 ☆ けっきょくわたしの問題意識についてもうひとつ言えることは 外国での生活感覚をとおしたものごとの知識は皆無にひとしいという点です。(旅行は それも一回 ありますが 生活経験はありません)。ですから単純に ☆☆(趣旨説明欄) 明証にもとづくご見解・ご議論をさらに広い視野から得られればさいわいに思います。 と書きました。《明証》というのは そういう意味になります。 じつは ほかに言語〔とそれをとおしての発想や思想のあり方〕をめぐる質問をいま挙げていますが 単純に言って 得たい回答のひとつの要素は 《言葉や外国事情についての生活感覚における知識》があります。 バイリングアリストにたずねたいと言えば はっきりしましょうか。 でも 日本と外国との比較対照は 誰もがぶつかって来た主題であるとも言えるでしょうから広くみなさんから見解をつのって 今後の方向なりとも見つけ出せればよいかも知れません。 ★ そして集団志向と集団主義はどう違うのでしょう。 ☆ 集団主義ともなれば おそらく 自己を見失うほどに他者ないし集団の意向にしたがうといった実際が見られるのではないでしょうか? ですから 回答No.2さんの ■ 日本社会の「以心伝心、腹芸、沈黙は金」社会 ■ 「日本人は思った事を口にしない」という欧米人からのクレーム というような主題は じつは集団主義とは微妙にずれている。別の課題であろうとは考えます。 いまはそういったところを軽く触れて お茶を濁すことになるかも知れません。 やっとふところの深さが垣間見られる文章を書くようになりましたね。へっへっへ。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
それは朗報ですね。 20年間の海外コンサル生活から国内復帰して、日本社会の 「以心伝心、腹芸、沈黙は金」社会への逆カルチャーショックに 苦しむ私にとって。 それにしても、たった22例の論文ですか? そんな数が統計的意味を持つとは、初めて知りました。 原典によると、「日本人の集団主義の研究に特化した論文を 厳選したので正確だ」と主張されているが、そもそも日本人が 集団主義的だというのは通説&実感されている中で、今さら 研究する学問的意義は、「そうではない」という反論以外にな いと思われます。 ちなみに研究がどうあれ、外国人と日本人をビジネス相手と している私は、頭のスイッチを切り替えて対応しています (論文がどうあれ関係ない切実な問題です)。 早く、「日本人は思った事を口にしない」という欧米人からの クレームが来なくなるよう祈っております。
お礼
★ それは朗報ですね。 ☆ というご見解が表明されているからには すなおにわたしもその方向においてよろこびたいと まづは思います。 ご回答をありがとうございます。 実際問題としては まだまだ腑に落ちないといったところでしょうか。 細かくなったりしますが いくつか反応します。 ★ それにしても、たった22例の論文ですか? ☆ いえ。22件の実験研究だそうです。一件ごとに何人のアンケートがなされたのか分かりませんが そしてNo.1の方も触れておられますが 《心理学的な研究》というのは 得てして《表面》をなでるかたちに終わりがちです。そうなのですが それにもかかわらず たとえばこの心理学的研究についても質問者が留意したのは アメリカ人の答えたその中身です。 つまり問いの内容は 次のふたつがあることに注目します。 ▲ 自分の意見を曲げて集団の意見に従うという「同調行動」 ▲ 自分の利益を犠牲にしてでも集団に献身するという「協力行動」 すなわち人数の点でどれだけ有意なことになるか分かりませんが それにしても アメリカ人が 日本人より少ないということがなかったわけです。両国のあいだで同じくらいの数のイエスが このふたつの《同調と協力との行動》について現われているというところです。 アメリカ人が 《自分の意見を曲げて集団の意見に従う》か? にイエスと言っているのですよ。それはたとえ社会の中の一部分の人たちでしかないとしても 日本人と同じくらいの数であるという結果です。 《自分の利益を犠牲にしてでも集団に献身する》か? イエスなのですよ。 ですから いちばん無難な受け止め方は なるほど日本人は集団志向がつよい けれどもそれと同じ程度にアメリカ人も そうである。ならば 決して日本人が特殊だとは言えない。言ってはならない。――こういった落としどころではないでしょうか? ★ 日本社会の「以心伝心、腹芸、沈黙は金」社会 ★ 「日本人は思った事を口にしない」という欧米人からのクレーム ☆ これらは 《集団主義》という問題と直結していましょうか? たとえば《以心伝心》なら――確かに日本人どうしのあいだでなのでしょうが―― 《思ったことを 口にしないかたちで 伝えあっている》。つまりは 一般に自己表現というコトは どの国の人であっても そのかたちこそ違っていても 同じくおこなっている。と見るべきでしょう。 そしてこのことは 日本人というひとつの集団にとって特徴的な現象ですが それは 特殊に特別に取り立てられるまでには集団主義と直接には関係していないかも知れません。 《腹芸》も同じことでしょう。 ということは 《沈黙は金》 これさえも同じことでしょう。何がしか――よいわるいは別として クウキとして――すでに伝えようとはしているわけです。 クウキが その情況において意志疎通にとって有力にはたらくという事象は 集団の問題と直結しているように見えます。集団としての――そのボスの――意向が 伝達されるわけですから。 けれども 考えてみれば 集団は どの国にもあるわけです。アメリカ人も 集団として行動することが ふつうに あります。そのとき《以心伝心》という手段を使うか それとも《思っていることをそのまま口に出して言う》という手段を良しとして使うか。このような手段の違いであって 集団として行動するという集団志向は どちらもまったく変わらない。こう考えるべきでしょう。 どうでしょう? ★ 「日本人は思った事を口にしない」という欧米人からのクレーム ☆ このように《自己表現》の仕方が 言語によって違っているという問題は ちょうどいま別に取り上げております。 欧米人の物差しが 普遍的なものだとも必ずしも見ることは出来ないかも知れません。 時間をかけてじっくりとマジワリを重ね もう以心伝心で互いに自己表現をし合えるほどになることをとうとび第一に実践する。という方法だって じんるいにとって普遍的なコミュニケーションのあり方なのかも知れないぢゃないですか。
まったく同意見です。 「アメリカ個人主義」というのは「ある社会の人格として認められた段階の上で個人的自由が認められている」という概念が拡大解釈された結果だと思います。つまり社会人格として認められていない人の間のなかでは日本人とあまり大差は無いのではないかと思われます。また近年の場合は昔とは変わっていますから昔は個人主義の傾向がアメリカはあったのかもしれませんが今変わっていてもなにもおかしくはありません。むしろ有り得る話です。 考えてみてくださいよ。個人主義と集団主義の違いは『対比』ですつまりA集団とB集団を比べれば絶対的にどちらかは個人主義的傾向どちらかが集団主義的傾向とい事なるわけですよ。つまり対比するから集団的か個人的かとかいう話になってるだけで幾らでも変化しますよ
お礼
そうですね。《関係性》と《個人としての主体性ないし独立性》とは 互いに両立しうる。といった見方でしょうか? ご回答をありがとうございます。 《関係性》は ★ 社会の人格 / 社会人格 ☆ というところでしょうか。 ゆえに集団志向をかたちづくっていたとしても 個人が忘れてしまわれたわけではなく 集団による統制を目指しているというものでもない。ということ。 この原則を指摘してもらったようです。ありがとうございました。
- kanto-i
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日本人は保守的で、出る杭は打たれる。 打たれたくないから、同調する。 日本人は離別感を持つ教育がなされてない。 その上、家電の普及と少子化で十分な時間をかけて一体感で子供を育て続ける。 それによって、ステレオタイプに対しての強化子が増大する。 集団主義とか個人主義のあり方の違いまで出さなければ 人間の行動の表面だけ追いかけるなら、仮にも社会と営むと言う点では そんなに違いが出る訳ではない。 行動の表面を他者と比較することに意味が無いという意味では、論文が成立するように思います。 人と比べて何の得がある。 ということです。
お礼
かんと-いさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。 集団主義か否かという総論と さまざまな分野や側面がありましょうからそのような各論とに分けられるものなら まづ総論として かんと-いさんのご見解は いかがなりましょう? 人間論のようなものとしてでもです。 提示された事柄に即してくわしく見てまいります。 ★ ~~~ (あ) 日本人は保守的で、出る杭は打たれる。 (い) 打たれたくないから、同調する。 ~~~~~~ ☆ これは 以前取り上げた質問でも回答者から出された視点でした。 ほかの国の人びとも《保守的》であるか または保守的な人びとも部分的にいるわけで しかも《出る杭は打たれる》というのも 同じくあるそうです。 ○ “出る杭は打たれる”(”A nail that sticks out will get hammered down.” ○ “The tall poppy syndrome.(お花畑で、高いひなげしの花はつみとられてしまう)”) ただし アメリカでは《金になると見られる出る杭》は 叩かれず 伸ばそうとするのだそうです。 したがって 日本とほかの国々とでは けっきょく程度問題だということになりませんか? 日本だけを変なかたちで取り立てて捉えるのは 有効な議論ではないように思われます。 もう一点。 (あ)であるから (い)が帰結するとは 一概に言えないと考えます。 《出る杭を打つ》側に《同調する》かどうかは 一概に決めつけられないと思われます。 クウキにしたがって仮りに同調したとしても それが本心かどうかは まだ決まっていません。 クウキという情況の中でそのクウキに同調しないという KY も現われて来ました。 KY は 何も保守的なことを嫌っているかと言えば そういう問題としてではないと思われます。 ただただ《集団主義的》であることについては これを嫌う。それは ふつうの人間のふつうの生活態度ではないと感じている。ということだと思われませんか? ★ ~~~~~ (う) 日本人は離別感を持つ教育がなされてない。 (え) その上、家電の普及と少子化で十分な時間をかけて一体感で子供を育て続ける。 (お) それによって、ステレオタイプに対しての強化子が増大する。 ~~~~~~~ ☆ これも――ご見解をくつがえそうとしてではなく 別の視点もありうるという見方からですが―― たとえば(う)は 《わび・さび》のことを思ってみてください。 《罷宴》の思想と言いますか 適度の《離別感》はむしろ好んで欲している場合もあるようです。 決して主流派への同調が日本人の心の基調を成すとは 考えられません。 (え)の子どもの養育については どうなんでしょう? 親との《一体感》を持つことが 日本人にとって質的な特徴をかたちづくっているか? これはよく分かりません。(そうかも知れないですし しかもほかの国の場合とどう違うかが分からないという意味です)。 (お)の《ステレオタイプ》とその《強化子》についても どうでしょう。どの国でも一定程度は そういう要素があるように思うのですが 日本人に特徴的でしょうか? 次のご判断では これまで物言いとして言って来た点が・すなわち どの国でも似たり寄ったりではないかという点が 触れられています。 ★ ~~~~~~ (か) 集団主義とか個人主義のあり方の違いまで出さなければ 人間の行動の表面だけ追いかけるなら、仮にも社会と営むと言う点では そんなに違いが出る訳ではない。 ~~~~~~~ ☆ 確かになるほど 《個人主義》という観点からも いろんな見方を示して行けるとよいかも知れません。 ★ ~~~~~ (き) 行動の表面を他者と比較することに意味が無いという意味では、論文が成立するように思います。 (く) 人と比べて何の得がある。 ということです。 ~~~~~~~ ☆ そうですね。ここに関しては もう少し詳しいお話を聞いてみないと確かなことは言えないように思います。つまり そのおっしゃった《論文》の一端をでも提示してもらって このスレのために大事なところをおぎなってもらえるとありがたいかなとは思います。 そうですね。《行動の表面》という問題で少し弁明をするなら: ▲ 自分の意見を曲げて集団の意見に従うという「同調行動」 ▲ 自分の利益を犠牲にしてでも集団に献身するという「協力行動」 これらがアンケート程度の《実験研究》だとしても取り上げられています。《心理学的な》側面だというのですが 確かに《行動の表面》の問題ではあります。 ですが いまは《日本人は 集団主義的だ》という評判がむしろ日本人のあいだに抜きがたい《常識》になっているのではないでしょうか? つまりもしそうだとしたら いろんな分野でさまざまな側面において その評判の検証をしておきたい。これが 質問者の意図です。《行動の表面》の問題も 問い求めてみる。という意味です。 ぎゃくに言うなら この《行動の表面》での心理的な問題なら 何の無理もなく憶測も寄せつけずに――もし《評判》どおりなら――日本人は アメリカ人よりも 《同調行動や協力行動》において 顕著な特徴を示すはずだとなります。そうではなかったというのが 実験研究の結果です。 このような結果には 《得がある》のではないでしょうか? 日米のあいだに 《それほどの開きがあるわけではない》という結果ではなく そうではなく《互いに同じ程度である》という結果なのです。 かんと-いさんのご見解をくつがえすのではなく ちょうど双方の真ん中に綱引きの中心を寄り戻せたかとは思っています。
お礼
ご回答をありがとうございます。 いやぁ この主題や論点では 収拾がつかなくなって来ました。 たとえば検索していると 次のような議論に出くわしました。長いですが: ■ (社畜を製造する「去勢」教育) ~~~~~ http://hutoukou2ch.web.fc2.com/collectivism31.html ――佐高信×宮本政於『官僚に告ぐ!』より 「去勢教育」の悲劇的成果 宮本 日本が民主主義国家でないという証明はとても簡単です。国民に選ばれていない人、つまり官僚たちが中心になって立法や政策にかかわっている。本来、国民の代表である政治家は蚊帳の外です。これだけ見ても日本には民主主義が浸透していないといえる。それに官僚の側からすれば民主主義なんて育ってもらっては困るんですよ。 僕は、今の日本を「去勢社会」だと見ていますが、心理的に去勢された国民のままでいることが、官僚から見た理想的人間像なのです。なぜ「去勢社会」と呼ぶか。それは日本の教育を見ているとよく理解できます。例えば、教育現場で何事にも挑戦する子どもたちを育てていこうとはしていませんね。国民一人ひとりが自由でかつ秩序を保っていれば、お役所はいらなくなる。一方お役所は、挑戦心が旺盛な国民はいつか組織の調和を乱すに違いないと考える。そうすると「個人」を大切にする考え方はむしろ邪魔なものになってくる。そこで、教育方針の基本として国民一人ひとりを心理的に去勢する方向に持っていった。 精神分析の観点からいえば「個を確立」させないような教育が「去勢教育」です。そうはいっても、ある程度までは「個」は育ってくれなくては困ります。まったく「個」が育たないと幼児性ばかり際だってしまい、官僚からすれば負担になってしまいますから。だからお上の言うことをよく聞く従順なしもべ、いや羊といったほうがいいかな、この程度ぐらいにまでは「個」が育ってもかまわないのです。 比喩ですが、官僚は「日本国家が外貨を稼ぐために、きみたち、羊毛だけはたくさん生産してくれ。でも羊飼いに逆らうような行動は取るなよ、囲いの中でおとなしく草を食べていればいいのだ」と国民に注文をつけているようなものです。 ~~~~~~~~~~ つまり 情感の共同体と言い 家族風の集団ないし社会をかたちづくっていると言った途端に こんなふうな別の議論もあると知ることになります。 焦点が拡散しますし 求心的な議論をすすめるのは きわめてむつかしいような気がして来ました。 とりあえずは 夕食のあとにまで保留して考えたいと思いました。 ★ 「集団主義=個人主義に比べて劣っている」という見解は、トリアンディス、クラーク、東大の研究の三つに共通していますが、あまりにも使い勝手が悪すぎる。それよりは新しい概念を用意してしまった方が、分かりやすいでしょう。 ☆ 了解しました。 ★ ~~~~ つまり、話の方向性としては次のようなことになります。 (1)日本社会が原始的だというトリアンディスやクラークの指摘は認める。 (2)しかし原始性を「集団主義=劣っている」とする議論は認められない。個人主義とは違う進化の系統なのだ。 (3)原始性を「新しい切り口=概念」から再評価したい。 どうでしょうか? ~~~~~~~ ☆ 原始的・原初的・基礎的。あるいは 自然本性にそのままもとづく社会=すなわち 情感の共同体。 この情感の共同性なる基礎の上に 倫理と学問との《原則》をさらに立てるようになる。自然本性のうちの理性なる能力を伸ばした結果である。 たとえば もしけんかをしたとしても 共同情感の人間関係の中にあって そのけんかを適当なところで切り上げる。という社会の秩序の形成の仕方と そして必ずしもそうではなく たとえば《仁義礼智信》なるわざわざ・ていねいに抽象化した理論を共有することによって秩序を保ち続けようとする流儀とが考えられます。 あるいは単純に 殺生戒を立てたり なんぢころすなかれと法律(律法)を持ち出したりする原則主義。 理性をはたらかせて原則を立てる場合も そこまで行かずに共同情感のもとに秩序形成する場合も 基本的には自然本性のうちの《意志》が中軸となっている。その意味で 原始的な共同体が 先進的な原則社会にただちに劣るとは言えない。 アマテラスは 《ひかり》ですから 理性のほうです。どちらかと言えば 原則を打ち立てる場合です。 自然本性そのままの――あやまつのがつねだという場合の――共同情感は スサノヲと呼びます。 スサノヲ人間語は あやまち得る言語習慣であり アマテラス人格語およびアマテラス科学語は タテマエとしてあやまち得べからざる余所行きの言葉です。 ★ 松下電器の話は、なるほどね、過酷なんですね。 ☆ 家族風の要素がないとまでは受け取らないほうがよいとは思います。 ★ この事例は上の議論の中では、情感の共同体の良い点として捉えようと思っていたんですが、そうはいかないことになりそうでしょうか? ☆ よいところは残す。とすれば よいと考えます。 穏健・急進は ことばのあやです。 ★ しかしご指摘のように、EUの事例のいくつかは、集団主義か個人主義かという区分そのものが機能不全に陥っている例とは言えるのかもしれません。もはや個人主義の名を借りつつ、実態は集団で動いているわけですから。 ☆ そうだと思いますよ。 ★ むしろ和魂和才を考えようというところじゃないですか。 ☆ 考えてみれば もう才能と言いますか知識や技術にかんしては 和洋の区別は必ずしも必要ではないということかも知れません。言ってみれば 世界才能になるのではないか。つまり和魂世界才のようになるかと。 岩盤はそれほど堅いものではないようですが 鉱脈がどこまでも延びているようですし 山も見通しが・つまり見晴しが いまのところわたしには芳しくありません。時間をください。
補足
お礼欄のあとでしたためます。 やはり持論を持ち出します。 ○ 《イリなる歴史知性》の誕生 ~~~~~~ -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム 0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界への入り(世界内存在) +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:《ヨリ》を束ね 《イリ》をも 社会力学上(政治的に) 寄せる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ヨリ→イリ→ヨセの歴史的な順序を想定しています。 《イリ》が ふつうの知性です。人間は時間的存在だと自覚した人です。アマテラス普遍語を潜在的な能力としてそなえたスサノヲ人間語の世界です。 《ヨセ》なる言わばスーパー歴史知性は したがってそのスサノヲ市民がアマテラス普遍語の能力を開発しさらには そのアマテラス普遍理論によっておのれをそして世界を治めようとする思惟かつ行為の形式を言います。必然的にと言うべきでしょうか このヨセ人間は ヨリ人間やイリ人間までをも統治したいと欲したし そのように行動した。と見ます。 おおむね 情感の共同性のもとに生きるのが イリ知性であり スサノヲ市民です。 そこから抜き出た知性が ヨセなる超歴史知性であり 一般に世界のどこでもアマテラス公民として 統治者とその階層を形成しています。 単純な連想として考えてよいとすれば ヨセ超歴史知性は ヨリ原始心性のシャーマニスム+イリ歴史知性として成り立ったように思われます。 これを アマアガリと呼びます。イリ知性とヨリ心性とは そのヨセ超知性らに《くにゆづり》をおこないました。 日本よりほかのところでは チカラづくでその二階に登ったのかも知れません。 したがって ひとつに イリ知性の情感の共同体は 《始原の歴史社会》と言うとよいかも知れません。《原始的な社会》は ヨリ原始心性のものだと考えられます。 始原の生活共同をきづいた基礎社会において 家族風の情感の共同体を 全体としても個々の集団としても かたちづくっているというとき ヨセなる超知性のウゴキをも容れて捉えるなら おそらく《下からの築き上げ(ボトムアップ)》と《上からのお仕着せ・押しつけ(トップダウン)》との両面があると見られます。 ボトムアップの側面では 人びとは一定の情感を共有して《家族》のようです。 トップダウンの側面では――つねにそうだとも見る必要はないのでしょうが―― しばしば《家畜》のごとき状態だと揶揄される場合があります。 このように捉えてみました。 なお始原の基礎社会にあってイリ知性は すでに時間的存在であること――ひとは死すべき存在なること――を自覚したからには 或る程度において《個人》であり得ています。《わたし》と《わたしたち》との区別は 行ない得ています。 要すれば すでに現代において 《情感の共同体》そのものとして存在する純粋な社会はない。ということのようです。 言いかえると どの社会でも《アマテラス規範》なる原則を持ち得ていますし それとは別の視点としてさらには このアマテラス普遍語による上からの《人びとをヨセル》という統治の形式が しばしば折り重なって来ていると見られます。 すなわち みっつの要素要因があります。 繊細の精神:情感の共同性・・・・・・・・・・・・・・・・家族風 幾何学の精神:規範の意識(その対立と協働)・・《個人》の集まり ヨセなる超歴史知性:統治・支配・・・・・・・・・・・・・《権力》の問題 なお《権力》の問題として 情感の共同体では 必ずしも意識の対立しあう規範社会におけるような・原則にもとづく統治形式がよわいとすれば それは いわゆるクウキの醸成といったかたちで執行されるようです。 といったところです。とりあえずここまでです。