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江戸時代の階層

江戸時代の階層についてちょっとお聞きしたいです。 遊女や遊女上がり、そして幇間は下層階級に属しているのでしょうか。 また、玄人筋はどんな人を指しているのでしょうか。 お時間のある方、ご回答いただければ幸いです。

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回答No.1

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>遊女や遊女上がり、そして幇間は下層階級に属しているのでしょうか。 その通りです。 「下賎(げせん)」とか「賎民(せんみん)」「遊民(ゆうみん)」などと呼ばれ、士農工商のどこにも属さない人々でした。 ただし、最下位は、「非人(ひにん)」「穢多(えた)」でしたので、それよりは上位でした。 また、芝居小屋の役者や歌舞伎役者(後述します)なども、「下賎」の部類に入りました。 >>また、玄人筋はどんな人を指しているのでしょうか。 現役の「遊女」や「芸者」などを指しました。 (よもやま話) 歌舞伎について: (1)まず、出雲阿国(いずものおくに)には、出雲で生まれ出雲大社の「巫女(みこ)」となり、文禄年間(1592~)に出雲大社勧進(かんじん=修繕費などを集める)のため諸国を回り始めました。 (2)しかし、多聞院英俊(たもんいんひでとし=奈良興福寺多聞院の院主)の「多聞院日記」に天正10年(1582)5月、 「加賀国八歳十一歳の童が春日大社で『ややこ踊り』を行った」 という記録が残されており、加賀という八歳の子どもと国(阿国のことを指す)という十一歳の子どもの二人を指すものだ、というのが「通説」になっています。しかし、ただ単に、加賀国生まれの八歳と十一歳の二人の子どもを指しているという意見もあります。 (3)この時に踊った「ややこ踊り」は、幼い子どもの踊りであった、従って、天正10年の踊りは「歌舞伎」ではない。と、いうことで「否定」されています。 (4)その後、慶長5年(1600)に、西洞院時慶(にしのとういん ときよし)の日記「時慶卿記」7月1日に、 「近衛殿のお屋敷で、晩まで出雲のややこ踊りがあった。一人はクニという踊り子であった」 と、あり、この頃、すでに阿国の名前が知られるようになったことが窺われます。 (5)阿国が「正式」に登場するのは、慶長8年(1603)5月初旬に、京都の四条河原に小屋を造り・・・と、言っても数本の「杭(くい=柱)を地面に打ち込み、「筵(むしろ)」を屋根代わりにかけただけで、阿国が男装をし夫の(夫ではないという説もある)名古屋山三郎(なごや さんざぶろう)が女装をして、茶屋遊びに通う伊達男(だておとこ=阿国)と、茶屋の女の役(=名古屋山三郎)で踊りながら寸劇を見せた。これが大変な人気となり、これを、当時の都人は「傾く」(かぶく=常識から外れている。突拍子もない)と言うようになり、「かぶく」から次第に「かぶき」と呼ばれるようになり、後に「歌舞伎」という漢字が当てられるようになりました。この年を歌舞伎の始まりとされています。 (6)この時、阿国の結った「髷(まげ)」が「若衆髷(わかしゅまげ)として有名になり、京都、大阪、そして、江戸でも、女性の間で大流行しました。 (7)慶長12年(1607)に、千代田城で歌舞伎を演じた後、阿国の消息は途絶えたとも言われていますし、慶長17年(1612)4月に、再び、京都の御所で歌舞伎が披露されたが、その歌舞伎にも阿国が出演していた。とも言われていますが、晩年は、まったくの「謎(なぞ)」となってしまいました。 ※江戸時代、江戸城とは呼ばず、正式には「千代田城」またの名を「舞鶴城(ぶかくじょう)」と呼び、庶民は、ただ単に「お城」と呼んでいました。大阪城とか名古屋城などと区別するために後世の書物などには「江戸城」と出てきますが、「千代田城」が正しいです。 (8)旧暦4月15日、または、太陽暦4月15日を「阿国忌(き)」とされて、阿国の命日といわれていますが、消息が途絶えたのに、なぜ、4月15日かは、私にも分からないところです。 (9)元禄年間(1688~)になると、歌舞伎も様式が確立し、公許(こうきょ=おおやけに認められた)の劇場は、中村座、市村座、山村座、森田座の四件で庶民の芸能娯楽として大流行になり、また、流行の発信地ともなりました。 ただし、正徳4年(1714)1月に起きた「絵島・生島事件(えじま・いくしま事件)」で山村座は取り潰されました。 (10)興行時間は、明け六ツ(午前6時)~夕七ツ(午後4時)が取り決められていました。 (11)宝暦5年(1708)に、歌舞伎役者は「非人」か「平民」かの「伺い書」が幕府に出され、「非人」は町家に住むことができませんでしたが、(「非人」「穢多」についての詳しいことは、WebサイトのWikipedia等でご確認ください。)すでに歌舞伎役者は町家に住む者もいて、幕府は、 「商売をするならば平民として町家に住んでも良い」 との裁決を下しました。 (12)そこで、歌舞伎役者は表向きとして油屋とか炭屋などの商売を妻などにやらせました。 (13)この時、これらの商売の店の屋号として「音羽屋」とか「成駒屋」等々を付けました。 (14)元禄時代などの世情が安定してくると、歌舞伎などがもてはやされて、通な人が出てきて、歌舞伎を観覧している時、名場面になると、「いよっ、音羽屋!」とか「成駒屋!」と掛け声をかけるようになり、今日まで続いています。